ここはどこだ? 気づくと無機質な知らない部屋の中にいた。記憶をたどる。細い裏路地を歩いていた。そこから記憶がない。そこで誰かに不意を突かれて、何か薬品の匂いを嗅がされて――目の前が真っ暗になったんだ。

 どうやら俺の手足は自由が効かないらしい。椅子の上に座らせられて、手足は拘束されているようだ。誘拐拉致監禁というやつではないだろうか。誰か、助けてくれ――!! 心から叫ぶ。声を出してみようか。敵がいると厄介だから少しばかり様子を見る。首を左右にきょろきょろあたりを見回す。

「起きたか?」
 スマホらしきものから声がする。音声を変えているのだろうか。男性か女性かもわからない。

「助けてくれ。動けない」
 もしかして、誰かが助けてくれるかもしれない一抹の可能性にかけてみる。

「私が、あなたを監禁した。あなたの秘密を教えてくれたら、手足の拘束は解いてあげよう」
 声の主は、拉致監禁の犯人本人なのか。ボイスチェンジャーで変声しているので、年齢や性別を憶測することは難しい。窓もない部屋には薄暗い灯がともる。打ちっぱなしの生気のない部屋は真新しい印象ではない。あれから、そんなに時間が経っていなければ、まだ夜だろう。

「なぜ監禁したと思う?」
「いきなり、核心に迫る質問か。その質問、こちらが聞きたいことだ。俺に怨みがあるのか? ただの道楽か? 無差別犯罪ってやつだろ」

 動くのは口だけだ。せめて犯人と連絡が取れる今、色々聞き出しておかなければいけない。

 これはまずいな。拘束さえ解いてもらえば、あのスマホに触れることもできるし、助けを外部に求められるかもしれない。部屋を冷静になって見まわすと、まるで刑務所のようなトイレがある。手足が自由になればトイレに自由に行ける。まずは拘束を解くしかない。第一目標は手足の拘束を解いてもらうことだ。

1,拘束を解いてもらい自由に動けるようにする
2,水を手に入れる
3,食料を手に入れる

 これは生きるための3つのやるべきことだ。心に決めた時、敵が秘密を聞き出してきた。おおよそ、これが目的か。弱みを握って俺を揺さぶるつもりだろう。

「君は、人に言えない秘密を隠しているだろう? 正直に教えるんだ」
 俺にしか知りえない秘密を手に入れたいのだろうか。

「人に言えない秘密を言えば手足の拘束は解いてくれるんだな?」
「そうだ。おまえは何か隠しているだろ」

「俺のシンボルは蝶のタトゥーだ。タトゥーがあると何かと生きづらい社会だから基本は隠している」
「それは、人に言えないほどの秘密か?」
「秘密にはしているが、俺のシンボルだと内心気に入っているんだ」
「それは秘密じゃないな。おまえが秘密を暴露しなければ、ずっと自由に身動きできないぞ」

「せっかくだから少し話をしないか?」
 俺は、改めて監禁という事実に向き合う。若干パニックになった自分を抑え冷静になる。俺は、飼われた幼虫かのように相手の掌の上にいる。今時点で何も抵抗はできない。

「あぁ、かまわない」
 比較的犯人は友好的で特にペナルティーはないようだ。これは不幸中の幸いだ。

「今日を選んだのは理由があるのか?」
「あぁ、私にとっての記念日だからね」
「記念日というのは、いい意味でか?」
「どちらかというといい意味かな」
 今日のニュースを思い出す。雪が降りそうな寒そうな気温だという天気予報だった。しかし、ここは比較的暖かい。暖房が入っているのかもしれない。

 そして、ニュースの内容を思い出すが、さっぱり記憶が出てこない。トイレに行けないと思うと逆にトイレに行きたくなってしまう。これは人間の心理なのかもしれないし、思ったよりも時間が経過しているのだろうか。

「あなたは、家族がいないようだね。そして、恋人も友達もいない。元犯罪組織にいたことがある」
「なんで俺の過去のことを調べたんだ?」
「興味があったからね。この世に手に入らないものはないんだよ。情報だっ同じことだ」

 俺は、直感で相手が女性だと思う。犯罪組織にいた時に詐欺を働くときのために心理学を学んだことがあった。そして、誘導尋問も学んだ。生きていると生かせることがあるものだな。

「君は女性だな。比較的若い。20代だろうか」

「あら、やっぱり鋭いのね。あなたのことは調べているわ。全部わかっているから」

 口調は女性らしいが、声は相変わらず変声のままなので不気味さが迫る。ストーカーか? 今までこの類の被害に遭ったことはない。元彼女にもそういった性格の女性はいないはずだ。心当たりを考えるがそういう相手はいない。そして、俺のことを全部調べているとしたら、俺が犯罪組織にいたことも知っているのだろう。もしかしたら、その時の被害者だということもあるのかもしれない。

「なんで俺なんだ。拘束を解いてくれ」
 冷や汗が出る。思ったよりも手錠や足枷は冷たく固く自由に動かすことすらできない。

「私がこのままあなたの拘束を解かなければ、あなたは身動きできずこのまま死んでしまう。私次第であなたの運命が決まるのよね。あなたの悶え苦しむ姿がもっと見たいのよ」

 なんて発言だ。声の主は考え方が歪んでいるようだな。

「焦らしプレイはあとで、二人でゆっくりしようじゃないか」
 提案がてら相手をなだめる。

「そんな素敵な顔で言われたら、もっと拘束したくなっちゃうわ」
 危険な香りの女のようだ。しかし、俺のことを嫌っているというより今を楽しんでいるという感じが近いと思う。

「ひとつ、秘密を教えよう。そうしたら拘束を解いてほしい」

「何を話してくれるのかしらね?」

「老人ホームの施設長をしているんだが、高齢者に対していじめる行為を職員がやっている。俺は見て見ぬふりをしている」
 仕方がない。言いたくないことを言ってみる。これは事実だ。

「そうじゃないわよね。あなた自身が実際にいじめているんでしょ?」
「入居者から情報を抜いて、詐欺仲間に情報を流している」
「それだけ?」
「実際に暴力的な行動をしているのではないの? 私は人が苦しむ姿を見るのが好きだからその気持ちがわからなくはないけれど」
 実にサディスティックな意見を持つ女は今、俺の一番の敵となっている。

「……」
「黙ってしまうならば、手足の拘束を解くことはできないわ」
「多少……言う事を聞かない入居者には叩くこともあったかもしれない」
「ちゃんと言わないと、私はしばらく不在にするわよ」
「わかった。俺が悪かった。俺は暴力を振るっていた」
「無差別に?」
「認知症の者には少し冷たい態度だったかもしれない」
「認めるの? 認知症の入居者に暴力したことを」
「……」

 沈黙が続くことは俺にとって有利な状況にはならない。俺は焦る。手足の自由がないということは何もできないことだと。食事や排せつ、水分摂取もこの先どうなってしまうのか。とりあえずこの誰もいない部屋から抜けるために認めるしかないということを。

「あなたに言われるともう少し焦らしたくなるけれど、今回は手枷足枷は外してあげるわ。飲料水と引き換えに詐欺仲間の情報を教えてもらうわよ」

 少しすると、自動で手枷足枷が外れる。俺は晴れて自由になる。ずいぶんハイテクなシステムらしい。金持ちというのは本当か。遠隔で全て操作できるらしい。ということは水を運び入れるのも遠隔システムだろうか。いや、誰かが持ってくることを祈り、俺は次の秘密を語る。抜け道が何かわかるかもしれない。

 そして、スマホにかけよるが、同じ姿勢でいたせいかしびれて力が入らず、体がすぐに動かない。ようやく声が聞こえるスマホの元にたどり着く。スマホの充電は満タンだが、アプリがほとんど入っていない。わざと外部と通話ができないようにしているようだ。入っているのは一方的な声が聞こえるアプリのみらしい。そして、この部屋にたくさん仕掛けられた昆虫の目のような監視カメラが俺のことを見つめている。改めて誰もいないけれど監視されているという虚しい恐怖が襲う。まるでとらわれた動物か虫のように俺は脅えていた。

「水が欲しければ、もっと秘密にしている情報をちょうだい」

 すると、ガラスのような壁の向こうに声の主が現れた。思った以上に美しい容姿を纏う。手足が長く背が高い長髪黒髪の女性はモデルのように細い体つきだ。そして、案の定ガラスのように冷たい瞳で見下す。

「あなた、いい男ね。殺すのはもったいないわ」
 不敵な微笑みを浮かべた女は赤を纏う。真紅の唇が不気味さを醸し出す。きれいに塗られた真紅のマニュキュアの艶すらも不気味に感じる。これは、被害者だからだろうか。でも、あの人間に今命を左右されている。そして、なにやら秘密を暴こうとしているらしい。表情のないきれいな顔立ちが、余計不気味にしか感じない。拉致監禁の犯人であるならば、どんなに美しくともそれ以上の感情を持つことはない。

「あなた、昔、犯罪組織で、このように拉致監禁したことはなかった?」
「あったかもしれない。でも、もう覚えていない」
「それは本当?」
「本当だ」

 たしかに悪い組織の末端として働いていたときに、そのような事件に関わったことはあったかもしれないが、関りは間接的なことのほうが多かった。そして、俺は社会に出るときに、当時の記憶を消去されてしまった。だから、全く思い出せない。

「記憶を消してしまったの?」
「そうだ。抜けるときに記憶を消されて解放された」
 舐めるように俺を見る女は、表情もなく残念という言葉を発する。

「でも、今、情報を流している組織のことを教えてくれるわよね」
「仕方ない。ちょっとしたサブビジネスがひとつ減るだけだ。命には代えられない」

「あなたが少年だった時に、私を助けたことを忘れてしまった?」
「覚えていない」

 記憶を消された俺には思い出すことは不可能だ。幼少期に犯罪組織に入っていた俺は、子供だと警戒されないという理由で下働きをさせられていた。詐欺や泥棒も子供がやったほうが警戒されないということが理由らしい。そもそも、親が犯罪組織に入っていて、生まれた時からそこで働かされていたと言ったほうがいいかもしれない。だから、親が死んでまともに就職しようとしたときに、記憶を消され解き放たれた。犯罪組織にいたという事実のみは記憶に残っている。

「あなたの夢を知っているわ。お金持ちになって、毎日仕事をしないでのんびり暮らすことでしょ」

「まぁ、そうだな。俺には資産も貯金もないに等しい。ゼロからの生活だ」

「私は使いきれないほどのお金を親から遺産相続しているの。私のそばにいればお金に困ることはないわ。私があなたのねがいをかなえてあげるわ

「金を俺にくれるのか?」

「ここの建物内で生活するのならば、一生困らない生活をさせてあげると言っているのよ。好きな食べ物を出すし、働かなくてもいい。何でも買ってあげる」

「自由に外に行けたりするのだろうな?」

「それはだめ。一生私とここで暮らすの。建物の中ならばいいけれど、脱走したら殺すわよ」

「それじゃ自由がない。まるで虫かごの昆虫じゃないか」

「もし、外の世界に戻る選択をするのならば、あなたが個人情報を流していたこと、虐待をしていること、あなたの少年時代の悪事を通報するわ」

「それならば監禁の事実を通報するぞ」

「この世には立ち入ることができない世界がある。警察も我が家には干渉できないの」

「そんなはずはない」

「実際に、私がどんなことをしても事件として扱われていないのはなぜだと思う?」

 女は笑いながら、狂気じみた声を上げる。

「もしかして、少年時代の俺に惹かれて、俺のことを探していたのか?」

 表情はないが、視線を逸らす。

「さぁ、開放されたい? 一生ここで何不自由なくくらしたい?」

 たしかに、身寄りがなく資産も何もない俺は、低賃金で働いている。このまま生活が続けば苦しくなることは間違いない。遊びに使う金もなく、豪華な食べ物を食べる機会はない。どんなに頑張ってもお金に困るという底辺の生活だ。だから、個人情報を流していた。しかし、ここにいれば、おいしいものも食べ放題。そして、仕事をして大変な思いをしなくてもいい。働いてもどうせ底辺なんだ。

 俺は、笑顔で答える。

「じゃあ、ここで君と生活するよ」

 俺は、とてもとてもその言葉を後悔した。彼女が俺の目の前で変化した姿に絶句したからだ。目の前にいた美しい女は俺の目の前でじわりじわりと変化して、巨大な人ではない《《あるもの》》に変化した。

 女のまわりには糸が張りめぐらされる。糸は、交差して複雑な模様を描いていた。女の体は黒々とした昆虫のようなものに変化する。

 彼女は人間ではなく巨大な蜘蛛女だったらしい。そんな馬鹿なことがあるはずないのだが、目の前に起こった事実を否定できるはずもない。俺の体に糸が巻き付く。まるでとらわれた蝶のようだ。

「あなたは10年前の今日、私を助けてくれた。でも、時間が過ぎて大人になったら、冷たい性格になってしまったのね」

 俺は、もしかして蜘蛛を助けたことがあったのだろうか? 巨大な蜘蛛女は人ではないものであり、俺の力でどうすることもできない相手だ。俺は、蜘蛛を助けたことで蜘蛛の糸に救われるどころか、拘束されてしまうことになってしまった。蜘蛛助けなんてするもんじゃないと心底後悔していた。

 しかし、もしかしたら、竜宮城みたいな蜘蛛屋敷でもてなしてくれるかもしれないといい方向に考える。その途端、気が遠くなり、俺の意識は途切れてしまう。

 意識が戻ると、手も足も髪の毛もなくなっていた。人間としての皮膚も見当たらない。お気に入りのタトゥーの《《蝶そのもの》》になっていた。色も模様もそのものだ。どうやら本物の蝶になってしまったらしい。蜘蛛に捕らわれてはいるが、極上のもてなしをされる蝶。ここは立派なお屋敷で、美味しい食べ物があふれている。

 蜘蛛の粉が俺に降りかかる。鱗粉のような感じだ。粉を浴びると、人間でいるよりも少し気が楽になっていた。きっと俺は蝶になるべき人間だったんだと納得していた。目の前の美しい女と見つめあう。

 忘れていた記憶が蘇る。《《俺は蝶だったのだ》》。蝶の悪の組織から外れ、一時的に人間になったのだ。なぜ、人間になれたのかも思い出す。目の前の蜘蛛を助けたからだ。蜘蛛が恩返しで、人間にしてくれた。その時、蝶だった記憶を消されたのだ。束の間の人間としての生活は案外大変だった。素の姿に戻ったのは、人間としての行いが悪かったから。それは、人間から蝶に戻る時。二度と人間にはなれないという事実。それを蜘蛛女は丁寧に教えてくれる。

 極上の蜘蛛屋敷で一緒に暮らすのも悪くないのかもしれない。彼女は俺のことを大変気に入っているらしく、とても優しく包み込んでくれる。俺は、蜘蛛の巣で彼女に守られて生きていく。彼女に依存することも悪くはない。人間ではなくなった俺は、自由だとかそういう概念はもうなくなっていた。