汗ばむ陽気に懐かしい風の香りが鼻をかすめる。木漏れ日が癒しを与える夏の午後――体に馴染む懐かしい裏路地になぜか俺は今、立っている。
近所にあった懐かしい何年も前に潰れたはずの駄菓子屋に商店。
どこか違和感のある静かな世界。
現在俺は中学生になり、この町は大規模都市開発で変化した。
何年も前の風景が目の前に広がる。多分小学1年生の夏だ。たしかに肌で感じる。一昔前の素朴な香りの町が広がる。でも、なぜ中学生になった今、過去の世界にいるのだろう。夢なのだろうか――。
この時代の懐かしさに少しばかり浸る。部活や塾やテストで忙しい今と比べると、小学校に入った頃は一日の時間がもっと長かったような気がする。歳と共に一日の長さ、一か月の長さ、一年の長さが変わるというのは本当なのかもしれない。少しばかり、無邪気に走り回っていた小学生時代を思い出す。小学校は午前授業が多く、放課後の時間は無限にあったような気がする。
公園で遊び、喉が渇くと駄菓子屋のアイスやジュースを買って喉を潤していた夏。汗ばみながらもそんなこと気にせず一日中遊んでいたような気がする。近所にはたくさんの同級生がいて、いつも誰かと遊んでいた。現在中学1年生の夏休み。きっと、この世界も夏休みのような気がする。
この世界も夏真っ盛りだ。蝉の声がうるさい。でも、心地いい。
緑の隙間から溢れる木漏れ日のシャワーが心を癒す。
懐かしい駄菓子屋へ行ってみる。懐かしき「しまだ駄菓子屋」は、今は店主だったおばあちゃんが亡くなってしまい閉店した。跡継ぎもいないし、少子化もあって駄菓子屋の需要は今後見込めないと思ったのかもしれない。あの古い店を改築して利益を求めるのは正直きついだろうと誰もが思ったのは否めない。でも、残念だと皆が口を揃えて言っていた。子供からの需要はたしかにあった。しかし、コンビニができ、年と共に駄菓子屋は必要のない存在となっていた。そして、忘れ去られていった。
入道雲が広がる果てしない澄んだ青空の中、少し汗ばむ昼下がり。少し歩くと、小学校の近くに着く。今はもう建物も残っていないはずの「しまだ駄菓子屋」があった。でも、看板の文字に違和感があった。文字が一部空白となっている。
「○まだだが〇や」
看板には「し」が空白で、「まだだがや」となっている。もしかして、古いから字が消えたのかもしれない。なぜ店をやっているのだろう。もう、今はないはずなのに――。
「いらっ○ゃい」店主のおばあちゃんが出てくる。にこやかでしわくちゃの顔は愛嬌がにじむ。きっと夢だ。だって、しまだのおばあちゃんは死んだ。それは事実だ。きっと、夏の日の過去の記憶の夢の中にいるだけだ。
「大きくなったねぇ」
にこやかに話しかけられる。ここの世界の俺は、中学生なのか。体は小学生じゃないんだ。まぁ、夢ならば何でもありだ。
知っているはずなのに知らない町が存在する事実。懐かしいのに少しばかり怖い。不思議な感覚に襲われる。どこかの家の風鈴が鳴り、心地いい音と草の香りが風に運ばれてくる。テレビから聞こえるのは、高校野球の試合の声援だろうか。高校野球の中継は夏の音だ。夏の音が耳に心地いい。しまだのおばあちゃんはよくテレビを見ながら仕事をしていた。高校野球の声援は俺にとっての夏の触感。視覚聴覚味覚、全てを使って過去の夏を思い出す。
「相変わらず、〇なぞろえが豊富だな。○ばらくこの駄菓〇食べてないな。でも、今日はお金の持ち合わせがないから、また今度な」
「し」という言葉が声に出ないことに違和感を感じる。この世界では使えない言葉なのだろうか。
「そうかい」
しまだのおばあちゃんは元気そうだ。相変わらずたくさんの駄菓子が陳列されていて、ずっと口にしていない駄菓子の味を思い出す。人は味覚も体で覚えているものなのかもしれない。少し歩くと、ここの近隣住民が利用していた小さな商店があった。大手スーパーの進出により、客足が激減したのと、店主の高齢化により、閉店した。そして、最近店主は亡くなった。しかし、今日はここの商店も営業している。店主がちゃんと品出ししているのが確認できた。
「や○だ〇ょう店」
やしだ商店の看板だ。やはり、「し」という文字がない。この世界は「し」が存在しない世界なのか? 人もほとんどいない廃墟の町。寂しさと静けさが混じり合う。
違和感は「し」という文字が基本ないことだ。先程見た駄菓子にも「し」という文字は空白になっていたし、死んだはずの人がいて、生きている人には会っていない。この世界は、「死」のない世界なのかもしれない。死んだ人が生きている。でも、生きている人は存在していない――だとしたら、俺は、生きていないのか? 死んでいる――? まさかな。
「じぇい君だ!!」
そこには、小学一年生まで仲良くしていた同級生の女子が立っていた。彼女は小学一年生の時に行方不明のまま未解決事件に巻き込まれた当事者だ。未だ遺体は見つかっていない。生存報告も聞いていない。もしかして、生きているかもしれないと一抹の希望を持っている家族や友人たちを知っている。彼女の姿は中学生ではない。幼い笑顔の小学一年生の時のままだった。少しばかり気味が悪くなる。つまり彼女は死んでいるのだろうか。こんなに死んだ人間に夢とはいえ、出会ってしまうなんて――。夢ではなく、タイムリープなのか?
行方不明になった彼女の名前は石戸野奈香《いしどのなか》……。彼女は一緒に同級生と遊んでいる時に行方不明になって今も未解決事件となっている。彼女は石戸野という名字だった。下の名前で同級生からはナカと呼ばれ親しまれていた。みんなから好かれるかわいい少女だった。いじめられている様子もなかったし、外見もきれいだったので、男子からも女子からも好印象を持たれていたと思う。俺も彼女とは仲良くしていたし、よく一緒に遊んでいた。
「ナカ、今はどこにいるんだ?」
ずっと行方不明だ。親御さんも探し続けている。
「じぇい君は謎解きが得意でクラスでも勉強が良くできたよね。足も速かったね。かっこいいから女の子に人気あったよね。あなたなら、わた〇の居場〇ょを探〇てくれるんじゃないかと思って、この世界に呼んだの」
「俺を呼んだのか? これはただの夢だろ?」
「この世界はある法則で成り立っている。さて、どんな法則でしょうか? わた〇の居場〇ょを突き止めてみてよ」
「そうだな、まずこの世界ではある文字が存在していない。さっきから、その言葉を発言〇ようとしても声が出ない。さ行の2番目の文字がどこにもないんだ。〇まだだが〇や。や〇だ〇ょうてん」
「さすが、じぇい君!!」
「生きていない人が生きている世界。つまり、生の反対の〇がない世界ってことだろ」
「それは当たってる。わた〇がどこにいるか、さが〇てよね。あの日、かくれんぼを〇ていて、それから、本気で鬼ごっこになったんだよね。覚えてる?」
ナカが行方不明になった日、クラスメイト10人程度でかくれんぼをしていたんだ。そんな時、怖いおじさんがおいかけてきて、俺たちは必死に逃げた。命がけのおにごっこだった。かくれんぼを辞めて自宅に帰った。
みんな帰ったと思っていたけれど、ナカだけは帰宅していなかった。怖いおじさんというのは、近所で有名な30代くらいの男性で、竹刀を振り回して子供を追いかける要注意人物とされていた。通称竹刀おじさんと呼ばれており、警察は付近も竹刀おじさんのことも捜査をしていたようだが、有力な手掛かりが見つからなかった。失踪事件にしては年齢が低いし、誘拐か事故ではないかとずっと憶測されていた。
「ナカ、おまえは今どこにいる? みんなずっとさが〇ているんだ。今でもな」
「じぇい君のことが好きだったんだよ」
こんな時に告白されても、正直複雑だ。
「俺だって、おまえのことを好きだったよ」
人生に一度の初恋の相手に会える機会は今日が最後かもしれない。言える時に言うしかない。
「ようやく再会できたね。この世界からひとつの言葉をなく〇たのには理由があるの」
生の世界を創るためか? いや、もっと何かあるだろう。
石戸野奈香=いしどのなか
「し」のない状態にすると――いどのなか=井戸の中。
「君の名前から「○」をとると、井戸の中ってことか? あの時、かくれんぼを〇ていたば〇ょには古井戸があった。底が見えないくらい深い井戸だ。今は封鎖され、立ち入り禁〇になり、近々取り壊される」
「でも、わた○がいなくなった時、警察はあの井戸を〇らべていたよね」
「あの時点ではナカはいなかったけれど、誰かが、忘れたころに放置○たってことか」
「あの時、誘拐されて、〇ばらくしてから、放置されたんだ。みんなが忘れたころにね。ここは〇のない世界。つまり、犯人はこの世界の意味そのもののこと。あとはじぇい君に任せたよ。ちゃんと見つけてね」
死のない世界。「し」のない世界。市内? 竹刀? もしかして――やはり竹刀おじさんということか。最近は、めっきり見かけなくなった。今もあの古い戸建てに住んでいるのかどうかもわからない。
「〇ないおじさん――?」
「あの日、かくれんぼをしていて、わた○とじぇい君は一緒にいたよね。でも、その時に、〇内を持って追いかけてきて、あ○の速いじぇい君は逃げ切れたけれど、わた○はダメだった」
思い出した。ずっと封印していた記憶。みんなそれぞれ隠れ場所が違った。でも、最後までナカと一緒にいたのは俺だった。後悔と懺悔と恐怖と悲しみと罪悪感が入り混じり、小学1年生の俺は記憶を抹消した。当時子供の言う証言自体曖昧で、嘘を言っても目撃者がいるわけでもなく、放課後一緒に遊んだ一人としての立ち位置を保っていた。一緒に隠れていたこと。追いかけられて、見捨てたこと。保身に走ったことをずっと隠していた。きっとすぐ誰かがナカを見つけてくれると信じていた。きっとどこかで生きていると信じていた。信じることは、自分のための保身だったのかもしれない。
「あの日、誘拐されたのがじぇい君だったらよかったのに。なんでわた〇なんだろうね」
無表情なほほ笑みの中に憎しみが入り混じる。きっと10年近く俺を怨んでいたんだ。
鐘の音が響く。この町は子供が帰る時刻になると鐘が町中に響き渡る。
「この鐘の音が鳴りやんだら、ここから帰れなくなるよ」
無表情のナカが言う。背筋が凍る。
「わた○を探して、ちゃんと〇内おじさんのことを警察にはな〇てほしい」
「わかった。本当にごめんな。ずっと心にひっかかっていたんだ。いつかナカに謝りたいって。〇《竹》刀おじさんは〇《市》内にいて、今でも生きているんだな」
鐘の音がどんどん大きくなり耳が痛くなる。やばい。これは、帰れなくなる予感がする。
「あなたが〇ねばよかったのに。なんでわた〇なんだろう。わた○は〇のない世界で生きるよ。気持ちの整理はまだだがや。やだょう……」
凍てつく瞳。彼女のまっすぐな瞳には怨念が入り混じる。しまだだがしやの「し」を抜いた言葉は、まだだがや。やしだしょうてんの「し」を抜いた言葉はやだょう。これは、メッセージだったんだ。気持ちの整理はまだであり、やだょう=やだよう。つまり、嫌だと思っているという意味だろう。
この鐘が鳴りやんだら、もうきっとここから出ることはできない。俺が行方不明者になってしまう。そう思った俺は、そのままこの世界の古井戸に走った。どれだけ汗が流れたのだろう。今まで生きてきた中で一番全速力で走った。きっとこの先に「し」がある世界が待っている。この日はあの行方不明になった夏の日。でも、元の世界に戻るには――必死に考える。「し」を探せ。「し」のある世界に戻るには俺が所持している元の世界の「し」を探す。この世界には、元の世界のレシートの文字すらも消えている。親から聞いた俺の名付けの意味を思い出す。
ポケットに入っている手鏡。そこにハンカチに刺繍されたJを映し出す。きっと「し」のある世界につながっているはず。つまり生死が存在する世界につながるはずだ。
「「○」のある世界に戻してください!!」
鐘の音がどんどん大きくなる。耳が痛い。思わず耳をふさぐ。
鐘の音が聞こえなくなった。目を開けると――そこには見慣れた令和の町が広がっていた。俺は近々取り壊し予定の古井戸の近くにいた。もちろん、大型ショッピングセンターもあるし、大きなマンションが立ち並ぶ現代の世界だ。駄菓子屋も商店もないけれど、相変わらず夏を感じる蝉の声と木漏れ日の優しさは何年経っても変わらない。草の香りも風と共に感じる。風鈴の音が耳をかする。
その後、俺は警察に少年時代の記憶を思い出したと言い、古井戸を捜査してもらうように願った。案の定、取り壊し業者が井戸を発掘した際に人骨が発見されたということだった。そして、竹刀おじさんについても警察に話をした。竹刀おじさんは本名が石名という名字で、「いしな」を並べ替えると「しない」になることに気づいた。男の家を家宅捜索したところ、何人かの人骨が見つかり、本格的な捜査が始まったと聞いた。
俺は、ずっと過去から逃げていた。初恋の人と両想いだったにもかかわらず見捨てた俺は、怨まれていた。こんなに後味の悪い初恋はそうそうあるわけじゃない。
じぇいという名前にした由来を両親に聞いたことがあった。ある鑑定士に聞いたところ、死を連想させる「し」と逆なのがアルファベットのJだから幸運になるという理由だったらしい。きっとその言葉が救いになると――それをひらがなで名付けたとのことだ。これは偶然か必然か――。
「し」のない世界以外にも何か文字がない世界がきっと存在するのかもしれない。それが懐かしい町でも警戒はするべきだと思った夏の一日。こんな思いをするのは二度と御免だ。
古井戸の人骨はDNA鑑定の結果でナカと確定した。
その後、俺は当時の同級生と共に、墓参りに行った。彼女はきっと許してくれないだろう。
あなたが死ねばよかったのに――辛辣な言葉が胸に突き刺さる。
誰しもが自分でなく、別な誰かであってほしかったと願うのは当然だ。
でも、事実は覆すことはできない。「し」のある世界で俺は今日も生きていく。
近所にあった懐かしい何年も前に潰れたはずの駄菓子屋に商店。
どこか違和感のある静かな世界。
現在俺は中学生になり、この町は大規模都市開発で変化した。
何年も前の風景が目の前に広がる。多分小学1年生の夏だ。たしかに肌で感じる。一昔前の素朴な香りの町が広がる。でも、なぜ中学生になった今、過去の世界にいるのだろう。夢なのだろうか――。
この時代の懐かしさに少しばかり浸る。部活や塾やテストで忙しい今と比べると、小学校に入った頃は一日の時間がもっと長かったような気がする。歳と共に一日の長さ、一か月の長さ、一年の長さが変わるというのは本当なのかもしれない。少しばかり、無邪気に走り回っていた小学生時代を思い出す。小学校は午前授業が多く、放課後の時間は無限にあったような気がする。
公園で遊び、喉が渇くと駄菓子屋のアイスやジュースを買って喉を潤していた夏。汗ばみながらもそんなこと気にせず一日中遊んでいたような気がする。近所にはたくさんの同級生がいて、いつも誰かと遊んでいた。現在中学1年生の夏休み。きっと、この世界も夏休みのような気がする。
この世界も夏真っ盛りだ。蝉の声がうるさい。でも、心地いい。
緑の隙間から溢れる木漏れ日のシャワーが心を癒す。
懐かしい駄菓子屋へ行ってみる。懐かしき「しまだ駄菓子屋」は、今は店主だったおばあちゃんが亡くなってしまい閉店した。跡継ぎもいないし、少子化もあって駄菓子屋の需要は今後見込めないと思ったのかもしれない。あの古い店を改築して利益を求めるのは正直きついだろうと誰もが思ったのは否めない。でも、残念だと皆が口を揃えて言っていた。子供からの需要はたしかにあった。しかし、コンビニができ、年と共に駄菓子屋は必要のない存在となっていた。そして、忘れ去られていった。
入道雲が広がる果てしない澄んだ青空の中、少し汗ばむ昼下がり。少し歩くと、小学校の近くに着く。今はもう建物も残っていないはずの「しまだ駄菓子屋」があった。でも、看板の文字に違和感があった。文字が一部空白となっている。
「○まだだが〇や」
看板には「し」が空白で、「まだだがや」となっている。もしかして、古いから字が消えたのかもしれない。なぜ店をやっているのだろう。もう、今はないはずなのに――。
「いらっ○ゃい」店主のおばあちゃんが出てくる。にこやかでしわくちゃの顔は愛嬌がにじむ。きっと夢だ。だって、しまだのおばあちゃんは死んだ。それは事実だ。きっと、夏の日の過去の記憶の夢の中にいるだけだ。
「大きくなったねぇ」
にこやかに話しかけられる。ここの世界の俺は、中学生なのか。体は小学生じゃないんだ。まぁ、夢ならば何でもありだ。
知っているはずなのに知らない町が存在する事実。懐かしいのに少しばかり怖い。不思議な感覚に襲われる。どこかの家の風鈴が鳴り、心地いい音と草の香りが風に運ばれてくる。テレビから聞こえるのは、高校野球の試合の声援だろうか。高校野球の中継は夏の音だ。夏の音が耳に心地いい。しまだのおばあちゃんはよくテレビを見ながら仕事をしていた。高校野球の声援は俺にとっての夏の触感。視覚聴覚味覚、全てを使って過去の夏を思い出す。
「相変わらず、〇なぞろえが豊富だな。○ばらくこの駄菓〇食べてないな。でも、今日はお金の持ち合わせがないから、また今度な」
「し」という言葉が声に出ないことに違和感を感じる。この世界では使えない言葉なのだろうか。
「そうかい」
しまだのおばあちゃんは元気そうだ。相変わらずたくさんの駄菓子が陳列されていて、ずっと口にしていない駄菓子の味を思い出す。人は味覚も体で覚えているものなのかもしれない。少し歩くと、ここの近隣住民が利用していた小さな商店があった。大手スーパーの進出により、客足が激減したのと、店主の高齢化により、閉店した。そして、最近店主は亡くなった。しかし、今日はここの商店も営業している。店主がちゃんと品出ししているのが確認できた。
「や○だ〇ょう店」
やしだ商店の看板だ。やはり、「し」という文字がない。この世界は「し」が存在しない世界なのか? 人もほとんどいない廃墟の町。寂しさと静けさが混じり合う。
違和感は「し」という文字が基本ないことだ。先程見た駄菓子にも「し」という文字は空白になっていたし、死んだはずの人がいて、生きている人には会っていない。この世界は、「死」のない世界なのかもしれない。死んだ人が生きている。でも、生きている人は存在していない――だとしたら、俺は、生きていないのか? 死んでいる――? まさかな。
「じぇい君だ!!」
そこには、小学一年生まで仲良くしていた同級生の女子が立っていた。彼女は小学一年生の時に行方不明のまま未解決事件に巻き込まれた当事者だ。未だ遺体は見つかっていない。生存報告も聞いていない。もしかして、生きているかもしれないと一抹の希望を持っている家族や友人たちを知っている。彼女の姿は中学生ではない。幼い笑顔の小学一年生の時のままだった。少しばかり気味が悪くなる。つまり彼女は死んでいるのだろうか。こんなに死んだ人間に夢とはいえ、出会ってしまうなんて――。夢ではなく、タイムリープなのか?
行方不明になった彼女の名前は石戸野奈香《いしどのなか》……。彼女は一緒に同級生と遊んでいる時に行方不明になって今も未解決事件となっている。彼女は石戸野という名字だった。下の名前で同級生からはナカと呼ばれ親しまれていた。みんなから好かれるかわいい少女だった。いじめられている様子もなかったし、外見もきれいだったので、男子からも女子からも好印象を持たれていたと思う。俺も彼女とは仲良くしていたし、よく一緒に遊んでいた。
「ナカ、今はどこにいるんだ?」
ずっと行方不明だ。親御さんも探し続けている。
「じぇい君は謎解きが得意でクラスでも勉強が良くできたよね。足も速かったね。かっこいいから女の子に人気あったよね。あなたなら、わた〇の居場〇ょを探〇てくれるんじゃないかと思って、この世界に呼んだの」
「俺を呼んだのか? これはただの夢だろ?」
「この世界はある法則で成り立っている。さて、どんな法則でしょうか? わた〇の居場〇ょを突き止めてみてよ」
「そうだな、まずこの世界ではある文字が存在していない。さっきから、その言葉を発言〇ようとしても声が出ない。さ行の2番目の文字がどこにもないんだ。〇まだだが〇や。や〇だ〇ょうてん」
「さすが、じぇい君!!」
「生きていない人が生きている世界。つまり、生の反対の〇がない世界ってことだろ」
「それは当たってる。わた〇がどこにいるか、さが〇てよね。あの日、かくれんぼを〇ていて、それから、本気で鬼ごっこになったんだよね。覚えてる?」
ナカが行方不明になった日、クラスメイト10人程度でかくれんぼをしていたんだ。そんな時、怖いおじさんがおいかけてきて、俺たちは必死に逃げた。命がけのおにごっこだった。かくれんぼを辞めて自宅に帰った。
みんな帰ったと思っていたけれど、ナカだけは帰宅していなかった。怖いおじさんというのは、近所で有名な30代くらいの男性で、竹刀を振り回して子供を追いかける要注意人物とされていた。通称竹刀おじさんと呼ばれており、警察は付近も竹刀おじさんのことも捜査をしていたようだが、有力な手掛かりが見つからなかった。失踪事件にしては年齢が低いし、誘拐か事故ではないかとずっと憶測されていた。
「ナカ、おまえは今どこにいる? みんなずっとさが〇ているんだ。今でもな」
「じぇい君のことが好きだったんだよ」
こんな時に告白されても、正直複雑だ。
「俺だって、おまえのことを好きだったよ」
人生に一度の初恋の相手に会える機会は今日が最後かもしれない。言える時に言うしかない。
「ようやく再会できたね。この世界からひとつの言葉をなく〇たのには理由があるの」
生の世界を創るためか? いや、もっと何かあるだろう。
石戸野奈香=いしどのなか
「し」のない状態にすると――いどのなか=井戸の中。
「君の名前から「○」をとると、井戸の中ってことか? あの時、かくれんぼを〇ていたば〇ょには古井戸があった。底が見えないくらい深い井戸だ。今は封鎖され、立ち入り禁〇になり、近々取り壊される」
「でも、わた○がいなくなった時、警察はあの井戸を〇らべていたよね」
「あの時点ではナカはいなかったけれど、誰かが、忘れたころに放置○たってことか」
「あの時、誘拐されて、〇ばらくしてから、放置されたんだ。みんなが忘れたころにね。ここは〇のない世界。つまり、犯人はこの世界の意味そのもののこと。あとはじぇい君に任せたよ。ちゃんと見つけてね」
死のない世界。「し」のない世界。市内? 竹刀? もしかして――やはり竹刀おじさんということか。最近は、めっきり見かけなくなった。今もあの古い戸建てに住んでいるのかどうかもわからない。
「〇ないおじさん――?」
「あの日、かくれんぼをしていて、わた○とじぇい君は一緒にいたよね。でも、その時に、〇内を持って追いかけてきて、あ○の速いじぇい君は逃げ切れたけれど、わた○はダメだった」
思い出した。ずっと封印していた記憶。みんなそれぞれ隠れ場所が違った。でも、最後までナカと一緒にいたのは俺だった。後悔と懺悔と恐怖と悲しみと罪悪感が入り混じり、小学1年生の俺は記憶を抹消した。当時子供の言う証言自体曖昧で、嘘を言っても目撃者がいるわけでもなく、放課後一緒に遊んだ一人としての立ち位置を保っていた。一緒に隠れていたこと。追いかけられて、見捨てたこと。保身に走ったことをずっと隠していた。きっとすぐ誰かがナカを見つけてくれると信じていた。きっとどこかで生きていると信じていた。信じることは、自分のための保身だったのかもしれない。
「あの日、誘拐されたのがじぇい君だったらよかったのに。なんでわた〇なんだろうね」
無表情なほほ笑みの中に憎しみが入り混じる。きっと10年近く俺を怨んでいたんだ。
鐘の音が響く。この町は子供が帰る時刻になると鐘が町中に響き渡る。
「この鐘の音が鳴りやんだら、ここから帰れなくなるよ」
無表情のナカが言う。背筋が凍る。
「わた○を探して、ちゃんと〇内おじさんのことを警察にはな〇てほしい」
「わかった。本当にごめんな。ずっと心にひっかかっていたんだ。いつかナカに謝りたいって。〇《竹》刀おじさんは〇《市》内にいて、今でも生きているんだな」
鐘の音がどんどん大きくなり耳が痛くなる。やばい。これは、帰れなくなる予感がする。
「あなたが〇ねばよかったのに。なんでわた〇なんだろう。わた○は〇のない世界で生きるよ。気持ちの整理はまだだがや。やだょう……」
凍てつく瞳。彼女のまっすぐな瞳には怨念が入り混じる。しまだだがしやの「し」を抜いた言葉は、まだだがや。やしだしょうてんの「し」を抜いた言葉はやだょう。これは、メッセージだったんだ。気持ちの整理はまだであり、やだょう=やだよう。つまり、嫌だと思っているという意味だろう。
この鐘が鳴りやんだら、もうきっとここから出ることはできない。俺が行方不明者になってしまう。そう思った俺は、そのままこの世界の古井戸に走った。どれだけ汗が流れたのだろう。今まで生きてきた中で一番全速力で走った。きっとこの先に「し」がある世界が待っている。この日はあの行方不明になった夏の日。でも、元の世界に戻るには――必死に考える。「し」を探せ。「し」のある世界に戻るには俺が所持している元の世界の「し」を探す。この世界には、元の世界のレシートの文字すらも消えている。親から聞いた俺の名付けの意味を思い出す。
ポケットに入っている手鏡。そこにハンカチに刺繍されたJを映し出す。きっと「し」のある世界につながっているはず。つまり生死が存在する世界につながるはずだ。
「「○」のある世界に戻してください!!」
鐘の音がどんどん大きくなる。耳が痛い。思わず耳をふさぐ。
鐘の音が聞こえなくなった。目を開けると――そこには見慣れた令和の町が広がっていた。俺は近々取り壊し予定の古井戸の近くにいた。もちろん、大型ショッピングセンターもあるし、大きなマンションが立ち並ぶ現代の世界だ。駄菓子屋も商店もないけれど、相変わらず夏を感じる蝉の声と木漏れ日の優しさは何年経っても変わらない。草の香りも風と共に感じる。風鈴の音が耳をかする。
その後、俺は警察に少年時代の記憶を思い出したと言い、古井戸を捜査してもらうように願った。案の定、取り壊し業者が井戸を発掘した際に人骨が発見されたということだった。そして、竹刀おじさんについても警察に話をした。竹刀おじさんは本名が石名という名字で、「いしな」を並べ替えると「しない」になることに気づいた。男の家を家宅捜索したところ、何人かの人骨が見つかり、本格的な捜査が始まったと聞いた。
俺は、ずっと過去から逃げていた。初恋の人と両想いだったにもかかわらず見捨てた俺は、怨まれていた。こんなに後味の悪い初恋はそうそうあるわけじゃない。
じぇいという名前にした由来を両親に聞いたことがあった。ある鑑定士に聞いたところ、死を連想させる「し」と逆なのがアルファベットのJだから幸運になるという理由だったらしい。きっとその言葉が救いになると――それをひらがなで名付けたとのことだ。これは偶然か必然か――。
「し」のない世界以外にも何か文字がない世界がきっと存在するのかもしれない。それが懐かしい町でも警戒はするべきだと思った夏の一日。こんな思いをするのは二度と御免だ。
古井戸の人骨はDNA鑑定の結果でナカと確定した。
その後、俺は当時の同級生と共に、墓参りに行った。彼女はきっと許してくれないだろう。
あなたが死ねばよかったのに――辛辣な言葉が胸に突き刺さる。
誰しもが自分でなく、別な誰かであってほしかったと願うのは当然だ。
でも、事実は覆すことはできない。「し」のある世界で俺は今日も生きていく。