羽奏のお母さんが亡くなった、という衝撃のニュースが入ってきた次の日。
外では、雨が降っていた。
「羽奏……!」
僕は雨の中全力疾走をし、いつもより早く東屋に到着した。
「大、丈夫?」
やっぱり切ない表情で雨を見つめていた羽奏に問いかけた。
『何が?』
「……お母さんのこと」
ああ、と羽奏が納得したように見えた。
『お母さん、私に黙ってたけど病気だったみたい』
「……!」
僕と、全く同じ境遇だった。
『まあ、私のためを思って嘘をついてくれたんだから、お母さんは大好きかな』
どうしてそんなに大人の考え方ができるのだろうか。
普通、教えてくれればよかったのに、とか思わないのだろうか。
「……どうして、許せるんだ?だって、羽奏のお母さんは嘘をついていたのに」
すると羽奏はけろりとした表情でペンを走らせた。
『だってそれは私を守るための優しい嘘じゃん。優しい嘘は、嘘をつかれた側も苦しいけどさ、嘘をついた側の方がすっごく苦しいもん』
優しい嘘。
その言葉は、誰の言葉も響かなかった僕の心に、すんなり入ってきた。
母さんも、苦しみながら嘘をついていたのかもしれない。
『だから私はお母さんが大好き。わざわざ優しい嘘をついてくれてありがとうって感じ』
羽奏はにっこりと笑った。
僕もいつか、そうやって笑える日が来るかもしれない。
母さんの嘘が優しい嘘だと、心の底から理解した日には。
きっとまだそこの境地に行くのはには遠い気もするけれど。
「やっぱり羽奏は大人だなあ」
『律くんも十分大人だよ。自分の弱さを受け入れてるじゃん』
やっぱり羽奏は強い。
自分の芯を持っていて、ブレようとしない。
だから、まだ高校生なのにそこまで大人な考えができる。
「あ、羽奏モデルの絵が描けたから見せようとしてたの忘れてた」
僕はスマホを起動させ、昨日撮った写真を見せた。
すると羽奏は口を開けて驚き、いつもの倍のスピードで文字を書いた。
『すごい!天使だ!なんか希望が見えてくるね。こんな素敵な作品が私をモデルにしてくれてるなんて』
嬉しい、と言う羽奏の心の声が聞こえた気がした。
僕は嬉しくなって、握手しようと自分の利き手である左手を差し出した。
しかし羽奏は困ったような顔をしてから、ゆっくりと右手を差し出す。
左手が嫌だったのかな、と思いながら僕は右手を出して握手をした。
初めて握った同年代の女子の手は、思ったよりも小さくて、繊細だった。
それから僕らはいろんな話をした。
それはいつもよりも楽しくて、凝縮していて、二人でたくさん笑った。
こんな時間が、いつまでも続くと思っていた。
いつものように日が暮れてきて、僕と羽奏は解散することにした。
今日の羽奏は、すごく可愛かった。
いつもより幸せそうで、嬉しそうで。
やっぱり僕は、羽奏のことが好きだ。
「あのさ、羽奏っ……」
羽奏はくるりと振り返って、優しい笑みを見せた。
「……いや、なんでもない。また雨の日に」
僕は育児なしだなと思う。
想いを伝えるのは、今度でいいやと思ってしまったから。
『ばいばい』
羽奏はわざわざホワイトボードにそれだけを書いた。
いつもなら、『また雨の日に』なのに、と思いながら僕は羽奏に手を振った。
羽奏は、とても寂しそうな顔をしながら手を振り返してくれた。

家に帰ると、当たり前のように叔母さんがキッチンで料理をしていた。
「ただいま」
「おかえり、律」
決意は固めている。
母さんは僕のために『優しい嘘』をついてくれたのだから、僕はいち早く立ち直らなければならない。
「あの……」
「で?私は引っ越してきていいわけ?」
叔母さんはにやりと笑った。
口下手な僕が言いたいことを汲み取ってくれたのだから。
「……はい!」
なんで敬語、とお決まりのツッコミをしながら叔母さんはまた僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「これからよろしくね、律」
人は自分の利益のために嘘をつくものだと思っていた。
でも、大切な誰かのために嘘をつくこともあるんだ。
「よろしくお願いします、叔母さん」
「……私、まだ三十歳超えてないからね」
あははっ、と二人で笑い合った。
今までとはまた一味違った生活が始まるような、そんな気がした。

あの日からまた雨は降らず、交換ノートで会話する生活が続いた。

【新しいバイオリンを買ってくれたの!って言ってもそんなに変わってないんだけどね。また機会があれば律くんにも聞かせてあげる。
絵のコンテストはどうなったのかな?
もし、もしでいいから朗報があったらすぐに教えてね】

羽奏は、ノートの中でも元気いっぱいだった。
僕も、羽奏と一緒に思い出を紡ぎ続けた。

【もちろん。結果が出たらすぐに教えるよ。実は母方の妹、だからまあ僕の叔母さんと一緒に住むことになったんだ。
羽奏のおかげで、前を向いて歩いて行ける気がする】

一日たりとも、やめなかったノート。
しかし、一週間以上雨は降らず、会える日はなかなか訪れなかった。
そんな中訪れた休日。
僕は叔母さんと一緒に墓参りに来ていた。
「姉さん、お兄さん、律と来たよ」
叔母さんは二人が眠っているお墓に話しかける。
「律と一緒に暮らすことになったからさ、またそっちから見ててよ」
そして、「ほら律も言いな」と言われて僕はお墓の目の前に座り込んだ。
「母さん……僕のために、優しい嘘をついてくれてありがとう。最初は、誤解して苦しかったけど…………僕のためって知って、嬉しかったです」 
そして、次は。
「父さん。ごめんなさい。もっと支えなくちゃいけなかったのに。父さんに抱え込ませて。でも、今の僕は父さんを恨んでないよ。父さんの願った通り、真っ直ぐ生きるから、母さんと見ててよ」
横を向くと、叔母さんが清々しそうな笑顔をしていた。
「律も大人になったね」
「……ありがとう」
照れ屋め、と叔母さんは僕をイジる。
そして綺麗にお墓を掃除し、叔母さんの運転する車に乗った。
「ドライブでもしよっか」
そう言って叔母さんが向かったのは、近くの海浜公園。
「……よく姉さんとここに来てたんだ」
「へえ」
今なら、母さんの話を笑顔で聞けそうだ。
「青いなぁ、空が」
こうやって気丈に振る舞っているけれど、きっと叔母さんも何かを乗り越えているに違いない。
「時々服がずぶ濡れで家に帰るとさ、母さんにすごい怒られて……でも姉さんは笑ってた」
「母さんらしいじゃん。いつでも笑ってるところが」
そうだね、と叔母さんが言って僕らの会話は終わった。
この綺麗な海を、今度は羽奏と見に来たいなと僕は小さな期待を寄せる。
いつかは遊園地とかも一緒に行きたい。
でも、羽奏とならどこでも全力で楽しめる気がする。
「母さーん、父さーん……ありがとうー!」
僕が海に向かって叫ぶと、叔母さんも続いた。
「姉さーん、お兄さーん!律を守ってあげてねー!」
あははっ、とまた二人で笑った。
僕は今から、叔母さんと二人で生きていく。
それはきっと衝突もあるし、嫌になることはあるかもしれない。
だけれども、支え合わなくちゃいけない。
だってそれは家族だから。
いつかは僕も、優しい嘘をつくかもしれないけど、それまで胸を張って生きたい。
この決意を、羽奏に直接話したい。
帰り道、車に乗っていたら、空が少し重くなってきた。
「……明日は雨が降りそう」
叔母さんが憂鬱そうに呟く。
それに反して、僕の心は弾んだ。