雨が降った。
僕は弾む気持ちを抑えながら、この前のように東屋に向かう。 
羽奏は、前と同じ格好をしていた。
「羽奏」
羽奏は僕が声をかけると、まるで花が咲いたかのような美しい笑顔を見せた。
『久しぶりー!雨全然降らなかったね』
「そうだな」
あれ以来叔母さんが僕の家にたびたび来るせいで、地味に叔母さんの口調がうつっている気がする。
「あ、羽奏な頼みがあるんだけど、いい?」
『なに?』
羽奏は可愛らしい笑みをこちらに見せてくる。
「この前相談した、絵のコンテスト、あるじゃん?」
『あー、言ってたね』
「それのモデルに、なってほしいな、って思って。羽奏が」
羽奏はホワイトボードの文字を消す手を止めた。
そして、少し怯えたような目でこちらを見てくる。
ー私で、いいの?
言っていないはずなのに、聞こえた気がした、羽奏の心の声。
「得意分野とかなかったんだけど、この前羽奏を描いた時にすごく納得いって」
羽奏を描いていると、心が弾んだ。
軽い気持ちで、筆を動かすことができる。
「だから、羽奏にモデルになって欲しいんだ」
『いいよ』
小さな字だった。
自信がなさそうだった。
「羽奏がいいんだ。ありがとう」
そして僕のデッサンは始まった。
今日は断られたらやめるつもりだったが、スケッチブックを持って来ている。
「もう少し、左、左……そこ!」
透明の傘を持った羽奏は、まるで空から降りて来た天使のように美しかった。
「右手を上げて……オッケー!」
羽奏は何も言わずに僕の指示に従ってくれた。
嫌なのな、と思っていたが始まったら楽しそうにやってくれている。
僕は撮影許可を取り、いろんな角度から羽奏の写真を撮った。
『律くん恥ずかしいよ』
と途中に言われたがどうにか説得して写真撮影に成功した。
これでもう、大丈夫だ。
「ありがとう、羽奏」
すると羽奏は、両腕を伸ばし、気持ちよさそうな顔をした。
『ありがとう、律くん。モデルなんて初めてだったけどすごく楽しかった』
「そっか。じゃあまた頼もうかな」
僕が冗談混じりでそう言うと、羽奏は一瞬切ない顔をして、また笑顔に戻った。
『そうだね。私はずっと待ってるから』
なぜかその『待ってる』には他の深い意味が含まれている気がして、僕は何も言えなかった。
そこからまた他愛もない話をしながら盛り上がり、日が暮れて来たので解散した。

家に帰っても、叔母さんはいなかった。
今日は帰りが遅かったから、先に帰ったのだろう。
代わりに机の上に書き置きのメモと肉じゃがが置かれてあった。

[親がいないからって帰ってくるの遅くならないこと。
私は忙しいから家に戻るけど、いつでも連絡してくれていいからね]

肉じゃがを電子レンジで温めて食べると、母さんが作ったものと同じ味がした。
久しぶりに食べる、優しい味が染み込んだ、ちょっと甘めの肉じゃが。
そうだ、母さんは、ばあちゃんに肉じゃがを教わったと言っていた。
きっと叔母さんもばあちゃんに教わったのだろう。
肉じゃがが美味しい。
たったそれだけのことだったけれど、なぜか僕の目からは涙が溢れ出てきて止まらなかった。
僕の好きな食べ物は、母さんの作る肉じゃがだ。だから、母さんが死んだ後、怖くて肉じゃがを食べることができなかった。
ああ、叔母さんもこんなに美味しい肉じゃがを作ることができるのか。
その日の夜は、特に何をすることもなく、そのままリビングで寝た。

起きてカーテンを開くと、真っ青すぎる空が広がっていた。
「……晴れ、か」
でも今日は、学校に行く気になれない。 
とてつもなく、羽奏のデッサンをしたい気分だった。
今日は休みます、すみません。それだけを学校側に伝え、僕は自分の部屋に篭る。
昨日撮った写真を参考にしながら、ゆっくりの輪郭を描き進めていく。
羽奏は少しそれほど差は高くはない。身体の線は細く、足が長い。そして髪が肩に当たっている。
スケッチブックの中にいる女性が、徐々に羽奏に近づいていく。
傘を持たせていたけれど、そのデザインはやめた。
もちろん、モデルは羽奏だ。
しかし、透明な傘を持ってはいないし、公園の東屋にあるわけではない。
大体の形が描き終わったら、絵の具で色を乗せていく。
雨が降っているから、淡い雰囲気の色を。
気がついたら昼になっていたので僕は昼ごはんを食べようと部屋を出た。
と、その時。
「え!な、なんであんたがここにいるのよ」
「叔母さん……サボっただけだけど」
玄関のドアが開いた音なんて、全く聞こえなかった。
「学校サボったの?もー、姉さんが聞いたら凹むじゃん」
「ちょっと絵を描いててさ、部活の」
僕は正直に話した。
叔母さんは大袈裟にため息をつく。
「仕方ない。今日は許してあげる」
ありがとう、と言いながら僕はキッチンへと向かった。
最近やけに家が綺麗だと思っていたけれど、叔母さんが掃除しに来てくれてたなんて。
「……掃除、してくれてるんですか?」
「なんで敬語?私は暇だからさ、ここにきて掃除してるだけ」
一応、叔母さんはデザイナーをやっている。
詳しくはないが、女子高生に人気のブランドの専属デザイナーらしい。
「叔母さん最近仕事どうですか?」
「んー?いつも通りだよ。ゆるい仕事だから」
叔母さんはのんびりあくびをしている。
そして食パンとスクランブルエッグでサンドイッチを作ってくれた。
「今日は特別だからね。次からはちゃんと学校に行くこと」
「はぁい」
言葉遣いや容姿は違うけれど、母さんと叔母さんはとてもよく似ている。
僕はサンドイッチを口に頬張りながら言った。
「昨日の肉じゃが美味しかった。母さんの味に似てて」
「……そっか。まあ姉さんも私もお母さんから教わってたからね」
叔母さんは一瞬寂しげな笑みを見せながらもこっくりと頷く。
「姉さん、私とご飯に行くとさ、律はこうだああだうるさくて。料理するの好きだね、って言ったの。そしたら」
サンドイッチを食べる手が止まる。
「料理するのが好きなんじゃなくて、律の笑顔を見るのが好きなんだーって語ってきてさ。律は愛され者だね」
僕は静かに首を振った。
母さんは、ずっと僕に隠しごとをしていたのに。
それなのに、愛されていたなんて、思いたいけれど、思えない。
「律……私、こっちに引っ越してきていいかな」
叔母さんはとても気まずそうに言った。
「律が私ん家に来るより、抵抗感もないかな、って。まあぶっちゃけ言って毎日からの面倒だからさぁ」
「……叔母さんは、母さんと約束しただけで、そこまでできるんですか?」
前に僕の家に来た時、叔母さんは「母さんと約束したから」僕を引き取りたいと言った。
でもそんな一つの約束を守るためだけに、自分が引っ越すことまで考えるだろうか。
「うーん……姉さんたちに代わって律を守りたいってのは、私のエゴなのかな?」
叔母さんは、いつもちょっとだけ大人だ。
いつまでも子どもな考えな僕よりも、ずっと。
「……エゴじゃ、ないと思います。でも、引っ越しの件はもう少しだけ待ってください」
すると叔母さんは、僕の頭をわしゃわしゃっと撫でた。
「だからなんで敬語なのよ?いいよ。いつまでも待つ。ここはあんたにとって姉さんたちと過ごした幸せな場所だもんね」
「…………ありがとう」
声ちっちゃ!と叔母さんは笑い転げる。
この人と生活したら、このモヤモヤした感じも晴れるかもしれない、と思った。

結局叔母さんは僕の家に泊まることになった。
元々母さんが使っていた部屋を案内し、僕は自分の部屋に戻る。
そしてまだ途中だった絵を仕上げた。
今日のように、青く青く澄んだ空。その下でたった今、飛び立とうとしている天使。
「羽奏の“わ”は“羽”だもんな」
納得の行く出来になって、僕はいい気分でスマホを起動させ、写真を撮った。
今度、羽奏に会った時に見せよう。
そして無意識内にネットニュースを開いた。
高速道路で事故が起きた、無差別殺傷事件の犯人が捕まった、など僕には関係ないニュースが並ぶ中、僕の手は止まった。

ー世界的オペラ歌手である夕凪優羽花さんがフランスで亡くなるー

「……え?」
僕は迷わずニュースをタップした。

ーフランスで公演を行なっていた世界的オペラ歌手、夕凪優羽花さんが現地で亡くなったことが分かりました。
死因は不明で、世界中が悲しみに包まれていますー

嘘だと思って、いろんなサイトを見たけれど偽ニュースではなかった。
羽奏は、大丈夫だろうか。