「このか、なんかあったの?」

病室に入るなり、おばあちゃんはそう言った。
笑顔を作っていたつもりだったのに、その言葉にすぐに顔が歪んでしまった。
おばあちゃんはいつだってお見通しだ。

「・・・人に、ひどい事を言っちゃったの。」

一番嫌なのは自分だ。自分が嫌いだ。
触れられたくない事だと、私が踏み込んでいい事じゃないと分かっているのに、
自分の感情に任せて、当てつけであんなことを言ってしまった。
最低だ、汚い、なんで。なんで私はこんなに弱いんだ。

ドアの横で俯いたまま立っている私を、
おばあちゃんはじーっと私を見つめて。そして。

「このか。」

名前を、呼んでくれる。


「このか。」
「こっちおいで。」


おばあちゃんがもう一度私の名前を呼ぶ。
その声は優しくて。また涙がこぼれそうになる。

そう言って手招きをして、私を椅子に座らせる。
おばあちゃんは頬をゆるめて、私の手に毛糸を握らせる。

「もう寒いからねえ。一緒に手袋でも編もうか。」
「・・・うん。」
「色は何色がいい?」
「・・・茶色がいい。」
「茶色ねえ。糸あったかしら。」

おばあちゃんは何も聞かない。
何も聞かないまま、私にここに居る理由をくれる。

「みんな別々の人間なんだから、分かり合えるわけないのよ。」

「でもそれでも相手の事を理解したいから、話すし、喧嘩もする。
おばあちゃんは、名前を呼ぶのがその一歩目だと思ってるんだよ。」

そう言っておばあちゃんは優しく笑う。
おばあちゃんの大好きな顔はシワシワで、きっとそれはたくさん笑ったから。

「このか。」

愛おしそうに、私の名前を呼ぶ。

涙が溢れて、止まらなくなった。
そんな私をおばあちゃんは抱きしめる。
おばあちゃんの手は私よりも小さくて、シワシワだ。

「いいんだよ。人を傷つける事も、傷つけられることも必要なことなんだ。
そうしなきゃ分からない事が絶対にある。でもこれだけは覚えておいて。」

「大切な人には大切だと伝えなきゃ。大好きな人には大好きだと伝えなきゃ。
自分の中の溢れるあったかい気持ちを、どうか色んな人に分けてあげて。」

あと、とおばあちゃんは付け加える。

「おばあちゃんは、このかの事が大好きよ。」

その言葉に、我慢できなくなってしまった。

おばあちゃんの腕の中で子供のように泣く。
こうやって泣くのなんて何年ぶりだろう。
困った子だねえ、なんておばあちゃんは笑いながら
私の頭を撫でていてくてれていた。




「このかちゃん、久しぶり。」

私を見て眩しそうに目を細めるチヅさん。
中々予定が合わず会えていなかった私たちは、
久しぶりに顔を合わせていた。

いつもの場所で、いつものようにジュースを飲む。
すっかり寒くなってしまったから、カルピスはしばらくお休みだ。

・・・覚悟を、決めたのだ。
知らないふりはやっぱり出来ない。私には向いてない。
自分の全部でぶつかろう。傷ついたっていい。その先に掴めるものが、絶対にあるのだ。

「チヅさん。」
「なーに?」
「・・・本当は、覚えているんでしょう?」

ゆっくり瞬きをして、チヅさんは窓の外を眺める。
外は見るからに寒そうだ。早く夏にならないかな、なんて早すぎる事を考える。

「覚えているって?」
「真木さんのこと。」

私の問いかけに、チヅさんは答えない。
俯いたまま、口を結んでいる。

真木さんは自分の記憶だけ消えたと言っていた。
けれどそれど嘘だ。真木さんもきっと気づいている。

「・・・どうして、そう思うの?」

チヅさんの声は怖いくらいに平坦だった。
その表情を見ることは出来なくて。

チヅさんと真木さんが病室で再会した日。
彼女の顔には明らかに困惑が浮かんでいた。初対面の人に見せる表情じゃない、
真木さんに関して何らかの記憶があるのは明白だ。
私の知らない真木さんを、私の知らないチヅさんが見ていた。

それだけじゃない。

「チヅさん、真木さんが来るときいつも席順を考えてますよね。」

私の言葉に彼女が短く息を吸ったのが分かった。

4人の時、一番入り口側のイスに座るのが真木先輩。
おばあちゃんの真横に大体いるのが私。私がそこにいなければ、
チヅさんが自然とそこに、真木さんの右隣りに座る。

真木さんの席は大抵そこに固定。チヅさんがそう促すからだ。
ずっとそう。私が気づいた時にはずっとそうだった。

そうすれば、真木さんに左隣から話しかける人はいなくなるのだ。

「真木さんの左耳が、聞こえずらいからですよね。」

平坦な声から想像していた無表情がそこにはなく、チヅさんは小さく唇を噛んでいた。
その表情には動揺が浮かんでいて、そして、泣きそうにも見えた。

記憶が本当にないのなら、真木さんの耳の事だって知らないはずだ。
でもチヅさんは気遣っていた。この前山田さんと話した時も、私が気づくより先に
いつだって真木さんをフォローしていた。

でも、正直こんなのたまたまかもしれない。勘ぐりすぎかもしれない。こじつけかもしれない。
私は別に賢くないし、感情や仕草に敏感な訳じゃない。
だから、これでチヅさんが話してくれなかったらもうそこで終わりだ。
それでもいいと思っていた。かさぶたをはがすのは、やっぱり、怖い。

きっとみんな怖い。傷つきたくない。痛いことも苦しいことも嫌なのだ。当たり前だ。
けれど、それでも話してくれるなら、昔の傷を見せてくれるのなら。

私はやっぱり寄り添いたいのだ、抱きしめてあげたいのだ。

だから、チヅさん。

「・・・19歳のうちに、やりたかったの。」

そんな、泣きそうな顔しないで。



ため息とともに、チヅさんの口から本音がこぼれた。
震える声で、ゆっくりゆっくりと話し始める。

「聞いたと思うけど、私は本当のお父さんの記憶がないの。小さい頃に離婚しちゃったから。
・・・新しい人は、好きじゃなかった。」

好きじゃなかった、彼女はそうやって表現したけどその表情はとても苦しそう。
父と呼ぶのではなく、新しい人、と表現するのにもチヅさんの葛藤が感じられる。

「4人での生活は息苦しかった。私の話なんて誰も聞いてくれなくて、無視されて、
外食にも連れていってもらえなかった。菓子パンと一緒にお留守番。」

茶化すようにチヅさんは笑ったけど、
幼いチヅさんにとってそれがどれだけ切なく苦痛だっただろう。

「中学生になってからはテーブルでご飯を食べてたら怒られるようになった。けど部屋でモノを食べる事はお行儀が悪いって
怒られて、だから時間をずらして、部屋の隅っこで食べてた。早く食べなきゃって、それだけ考えて。」

「毎日が苦痛で、死にたくて、どうしてお母さんは私の事を守ってくれないの?って。」

結局離婚が決まって、祖父母の家で暮らすことが決まった。
息苦しさから解放されて、それからの生活は本当に穏やかだったという。

大好きなおばあちゃんと、無口だけど優しいおじいちゃんと、少しだけ不安定だけどでも以前の温かさを取り戻した母親と。
穏やかで幸せな生活を送っていた。そこに本当に嘘は無かった。当時真木さんに話した気持ちにも、嘘は無かった。

・・・けれど。

「不意にね、襲ってくるの。不安だったり、嫌なことがあったり、あと寝る前とかに。
どうしてもね、心が辛くなって、ああ、死にたいなって。」

今は幸せなはずなのに、もう過去の事なのに、
定期的にやってくるその気持ちは、チヅさんの心を蝕んでいく。

「そんなこと思いたくない、泣きたくもない。前向きに大切な人たちの事を大切にして生きていきたいのに、それが出来ないの。当たり前の幸せをかみしめて生きていきたいのに、気づけば一人で膝を抱え込んで、泣いてしまう。」

「このままじゃ生きていけないと思った。心のどこかで死にたい気持ちを抱えながら、
自分で命を絶つことを考えながらこれからずっと生きていくなんて考えられなかった。」

・・・だから。

「19歳のうちに、やろうとおもった。成功してしまったらそれまでだし、それでいいと思った。・・・でも、でもね。
もし。失敗したら。」

深く息を吸い込んでから、チヅさんは顔を挙げた。
まっすぐに私の方を見て、少しだけ微笑む。

「失敗したら、生きるって決めたの。重い後遺症が残っても、なんでこんな事をって家族の泣き顔を見ても、病院に入院させられても。絶対に生きていく、生きてやるって。決めたの。」

チヅさんはきっと不器用だ。
不器用なりに一生懸命考えて、悩んで、出した答えが、これだった。

「もちろん正しい選択だとは言えない。自分でも分かってる。・・・でも。」

「私本当に、後悔はしてないの。これから先、生きていくことに必要なことだった。
雄太の事は、どっちに転んでも巻き込みたくなかったの。だから、忘れたことにした。
会ったらきっとそんなフリも出来ないから、絶対に泣いてしまうから。会う事もしなかった。」

でこぼこな嘘。
真木さんだって、チヅさんの記憶喪失の真偽を疑っていない訳がないだろう。
でも、彼はそれを信じるしかない。だってもしチヅさんが記憶を本当は失っていないのなら?
それなのに真木さんと会う事を拒んでいるのだ。嘘をついてまで彼の顔を見たくないという事だ。
そんなの、そんなの。

「認めたくないでしょ。気づいてても、気づかないふりしたいでしょ。」
「・・・そこまでわかってて、記憶喪失のフリをしてるんですね。」
「そうだよ。酷い奴でしょ?」

自嘲的にチヅさんが笑うから、
私はゆっくり首を振る。

勝手だ、自己中だ。
でも、それがチヅさんの優しなのも、分かる。

「・・・分かってるの、酷い事をしたって、しているって。」

少しの沈黙の後、チヅさんは震える声でそう呟く。
でもね、と彼女は俯いて。

「私は彼を、自由にしてあげたかった。」

震えた声の語尾が消えかかった。
チヅさんは俯いたままで、その表情はもう見えない。けれどその肩は震えていた。

みんなみんな不器用だ。
それぞれ色んな事情を抱えて、たくさん考えて、生きる道を決めていく。
大切なものも、大切なものの守り方も、人それぞれだ。

きっとそれでいい。正解も不正解もない。
自分の選択肢を評価していいのは本人だけだ。

でも、でもさ、チヅさん。

「何が自由なんて、チヅさんが決める事じゃないよ。真木さんが決める事だよ。」

私の言葉にチヅさんは息をのむ。

「わたし、これから真木さんに会いに行くよ。
・・・好きだって、伝えるよ。」

俯いたまま、肩を震わせたまま、
彼女はは何も言わない。

「だから、チヅさんも自分の答え出しといて。」


部屋を出て行く寸前、
チヅさん、と彼女の名前を呼ぶ。

「生きていてくれて、ありがとう。
・・・チヅさんの事大好きだよ。」

返事を聞かないまま、その部屋を出た。