本草学研究院──。

 王国を象徴する公共機関、「王宮魔導院」のひとつで、魔法と植物の関係や、薬草を使った錬金術など研究している魔導化学研究機関だ。

 その院長であるマズウェルの部屋に、ひとりの男がいた。

 実に狡猾そうな雰囲気の貴族然とした男。

 彼の名はラインハルト。

 魔導院の騎士学院魔道科を主席で卒業したエリートであり、サタやブリジットの上司にして本草学研究院の上席研究員だ。

「ホーエル地方から『大海瘴の兆しあり』と報告があったそうだな?」
「……っ」

 マズウェルに尋ねられ、ラインハルトの喉から小さい悲鳴のようなものが上がった。

 ラインハルト自身、まさかというのが正直なところだった。

 ホーエル地方を統治するパルメ子爵より信書が届いたのはつい先日だ。

 ──ホエール地方に、再び大海瘴が発生する兆しあり。

 そう書かれていた手紙を受け取ったラインハルトだったが、「過ぎ去るのを待つべし」と返信し、マズウェルには報告しなかった。

 理由は簡単。そんなことに割く時間などなかったからだ。

 学会発表シーズンが近づき、その評価如何で念願の「室長」の座を射止めることができる。

 地方の田舎領主に時間を割くくらいなら、昇格のための根回しに時間を使ったほうがいい。

 ホエール地方の危機など、昇格と天秤にかけるまでもない些細なこと。

 ラインハルトにとってホエール地方の滅亡は「うまいワインが飲めなくなるのは少々残念」程度のことだった。

「どうなのだ? ラインハルト」
「確かにありましたが、ホエールを統治しておりますパルメ子爵より『手出し無用』との続報が入り、静観することにしました」
「静観」

 唸るようにマズウェルが言う。

 その表情は微塵も変わらない。

 怒っているとも呆れているとも、納得しているとも取れる。

「なるほど。ということは瘴気対策の第一人者である我々が辺境領主に遅れを取ったのは、すべて貴様のせいというわけだな」
「……は?」

 予想していなかった返答。

 ラインハルトはポカンとしてしまった。

「本草学研究院から『ただ過ぎ去るのを待つべし』と返答を受けたパルメ子爵は独自に瘴気対策を講じ、招き入れた優秀な瘴気研究者の尽力もあり大海瘴の危機を未然に防いだそうだ」
「……っ!? まさか」

 あり得ない、とラインハルトは思った。

 大海瘴は広範囲に高濃度の瘴気が発生する自然災害。それを未然に防ぐことなど出来るはずがない。

 ──まさか、瘴気の浄化にでも成功したというのだろうか。

 本草学研究院でも瘴気浄化は長年研究されてきたが、きっかけすらつかめないでいる。浄化どころか、発生の原因すら特定できていないのだ。

「あり得ない、か?」
「そっ、そのとおりです! きっと何かの間違いで──」
「間違い、だと!?」

 激昂したマズウェルが飛び上がるように椅子から立ち上がる。

「私の許可なくパルメ子爵に馬鹿げた返答をした貴様の行いが大間違いだっ! このたわけ者めっ!」
「……ひっ!? も、申し訳ありませんっ!」

 ラインハルトの額にブワッと大粒の汗がにじみ出た。

 彼の頭の中は大混乱に陥っていた。

 何故、独断でパルメ子爵に返信したことを知っている。

 まさか近くに内通者がいるのか。

 面倒だが室員の身元を洗い直さなければならない。

 ……いや、そんなことよりもまず行うべきは、失墜してしまった評価の回復か。

 このままだと室長の夢が幻になってしまう。

「瘴気対策の先駆者たる我々が、瘴気対策の分野で専門家でもない地方領主に遅れを取ったと国王様の耳に入ればどうなると思う?」
「そ、それは……」

 間違いなく悪い方向へ進むだろう。

 ただでさえ本草学研究院が行っている瘴気対策には結果が伴っていないのだ。

 院内部からは「予算が削減されるのでは」という噂すら流れはじめている。

 そんな中、本草学研究院でも成し遂げられなかったことを片田舎の領主が成功させたとなれば──どうなるかは火を見るよりも明らか。

 しばし、重苦しい沈黙が院長室に流れる。

「……だが、まだ挽回の余地はある。その瘴気研究者の手で大海瘴は回避されたが、パルメ子爵はその男の懐柔に失敗したらしい」

 マズウェルは大きく息を吐くと、再び椅子に腰掛けて続ける。

「その有能な瘴気研究者の正体を探り、必ず院に招き入れるのだ」
「……承知いたしました」

 承諾はしたものの、またかとラインハルトは思った。

 輝かしい実績を持つ有能な人間は、いかなる手を使っても院に入れる。そうすればその実績は本草学研究院のものになるからだ。

 それが院長マズウェルのやり方。

 だが、そのやり方をラインハルトは快く思っていなかった。

 有能な人間が入ってくることは、自分の昇格を阻む邪魔者が増えることと同義。

 もしその男が院に入ってきたなら、姑息な手を使ってでも追放しなければならない。

 付与魔法などという馬鹿げた加護を持っていた、あの男と同じように。

「……ああ、それと」

 ラインハルトが院長室を出ようとしたとき、マズウェルがふと引き止めた。

「デファンデール家の息女の件はどうなっている?」
「申し訳ありません。未だ、行方がわからず」
「彼女の捜索も急げ。この件が護国院の耳に入れば、私の首が文字通り飛ぶことになるのだからな」
「…………」
「返事はどうした、ラインハルト?」
「承知しました。必ず見つけ出します」

 涼しげな表情で頭を下げ、院長室を後にするラインハルト。

 だが、その胸中は穏やかとは言い難かった。

「……クソ。無理難題を押し付けるだけの無能め。貴様の首など知ったことか」

 ラインハルトは大理石が敷き詰められた廊下を歩きながら静かに罵る。

 デファンデール家の息女、ブリジットが突如として院から姿を消したのは数週間前。

 その事実はラインハルトの手によってもみ消され、ブリジットの父である護国院院長の耳には届いていない。

 だが、それも時間の問題だろう。

 明るみになる前にもみ消しはしたものの、いつ噂になって広まるとも限らない。

 そうなる前にブリジットを保護しろ──というのが、彼女の上司であるラインハルトに課せられた任務だった。

「あんな女など捨てて置けばいいものを」

 若干、十七歳にして王宮魔導院に入ってきた天才。

 あんな娘を捜索するなど、保身のためとは言え虫酸が走る。

「……まぁ、あの生意気な男と比べれば可愛いものか」

 ラインハルトは、ふと思い耽る。

 付与などという詐欺魔法を使っていたあの男の名は、確かサタと言ったか。

 奇妙な加護を持ち、彗星のごとく現れた男。

 サタの生意気な顔と共に想起されるのが、あの男が発表しようとしていた論文だった。

 これまでにないアプローチで瘴気を浄化させる方法。それはまさに「革新的」と言っても過言ではないものだった。

 故に、ラインハルトはその論文を握りつぶすことにした。

 保身と室長への昇進のために。

 革新など必要ない。

 求めるべきは不変。

 何も変わらないからこそ、甘い汁が吸えるのだ。

「ホエール地方に現れたという瘴気研究者も実に生意気そうだが、あの男ほどの腹正しさはあるまい」

 金をちらつかせれば懐柔は容易いはず。

 窓から覗く忌々しいほどに晴れ渡った空を見ながら、ラインハルトは吐き捨てるようにつぶやいた。

 ──ホエール地方を大海瘴の危機から救った瘴気研究者こそが、そのサタ本人であるとも知らずに。