部屋の窓から外を見ると、一面がラベンダー畑のように紫色に輝いていた。
夜の間に降りた瘴気と朝日の共演──。
僅かな時間だけ見られる、幻想的な世界だ。
瘴気は人々に害為す存在で、一刻も早く世界からなくなればいいと思っているけれど、この光景だけはいつまでも見ていたいと思う。
王都の実家にいる妹も、これを見たら喜ぶに違いない。
「……なんて思うのは不謹慎だよなぁ」
う〜んと背伸びをしたあとで、窓から何も植えられていないまっさらの畑を眺めた。
畑に何もないのは、全ての燻製野菜の納品が完了したからだ。
燻製が詰まった樽を載せて最終便の荷馬車がパルメザンへと出発したのは昨日。
運んだ樽の数はおおよそ三十ほど。
昨日送り出したのはそれくらいの数だったけど、五日前と十日前に農園を出発した一便と二便の分を合わせると、百樽ほどになっていると思う。
改めて凄い数を作ったもんだ。
燻製作りに成功してからすぐに量産体制に入ったけれど、本当に大変だった。
燻製小屋の建築と同時進行で燻製を作りつつ、さらに収穫と作付け、それに間引きや芽かき、追肥などなどの畑作業をやる。
第一便が出発する前日にプッチさんが数人の冒険者を連れて手伝いに来てくれたけど、あれがなかったらちょっとやばかったかもしれない。
ちなみにプッチさんにリンゴの木で作った燻製を食べさせたところ、「これは商品になりますよっ!」と大興奮だった。
真っ先に「おいしい」じゃなくて「お金になる」と言っちゃうところが実にプッチさんらしい。
などと考えていると、グゥと腹が鳴った。
「……適当に朝ごはんを食べるか」
部屋を出て一階に降り、燻製の下処理が終わっている羊肉とチーズ、それにホエールワインを持って外に出た。
一応、家を出るときに耳を澄ませてみたけれど、二階から物音はしなかった。
ララノとブリジットはまだ寝ているようだ。
怒涛の燻製づくりが終わって疲労困憊だろうし、今日はゆっくりさせておこう。
「というのは建前で、ひとりで羊肉の燻製を楽しみたかっただけなんだけどね」
みんなと一緒に居るのは楽しいけれど、ひとりになる時間も大切だ。
家の外でくつろいでいた動物たちに挨拶をして、家の裏の鶏舎で卵をいくつか拝借してから燻製小屋に向かう。
畑区画の奥にある物置小屋のような小さな建物が燻製小屋だ。
人がひとり入れるかどうかというくらいのサイズだけれど、この大きさで燻製が大量生産できるのだから凄い。
小さなドアが付いている小屋の中は、一番下に石で囲われた囲炉裏みたいなものがあって、ここにスモークウッドを置けるようになっている。
その上には網を引っ掛ける出っ張りがいくつかあって、小さな食材はここ置いて、大きい食材は天井にあるフックに吊るす。
なんとも機能性が高い燻製小屋だろう。
イメージはララノを通じて動物たちに伝えたけれど、一流の大工さんが作ったと思ってしまうレベルで完成度が高い。
羊肉と卵を一番下の網に置き、チーズは上の網に。
温燻は熱燻よりも温度が低いとはいえ、下の網にチーズを置いてしまうと溶けてしまうので上に置くと良いのだ。
それから、リンゴの木を使った薪に火を付けて囲炉裏部分に置く。
ドアを閉めてしばらく待っていると、屋根の上にある小さな穴からモクモクと煙が出はじめた。
これで一時間くらい待てば燻製の完成だ。
それまで小屋の前に設置してあるハンモックに体を預け、ワインをちびちび飲みながらのんびりと本を読むことにした。
雲ひとつない空の下で、風の音を聞きながらゆったりとした時間を過ごす。
ここ最近は燻製づくりに追われていたからか、こうしてのんびりできる時間がすごく贅沢に思える。
「……でも、トリトンが来たらまた引きこもり生活になりそうだな」
この世界の台風、トリトン。
例年通りだったらそろそろトリトンがやってくる時期だとプッチさんは言っていた。
トリトンが来れば大海瘴の危機も去ることになるけれど、その間は農作業ができなくなるのが痛い。
プッチさんに頼んで物資を溜め込んでおいたほうがよさそうだな。
いや、近々ラングレさんのブドウ園にも行かないといけないし、その時に街で食材を買っておこうか。
こうして燻製ができるようになって保存性も高まったわけだし、豚肉や羊肉も大量に買っていいかもしれない。
などとぼんやり考えていたら、いつの間にかうたた寝していたらしい。
「おはようございます、サタ様」
──というララノの声でハッと目が覚めた。
「……あ、おはようララノ」
「あっ、ごめんなさい。お休み中だとは知らず」
「いやいや、大丈夫。燻製を作ってて完成までのんびりしてただけだから」
「あ、やっぱりそうなんですね。部屋の窓からいい香りが流れてきたので、釣られて来ちゃいました」
ララノが少し恥ずかしそうに笑う。
どうやら燻製の香りで起こしてしまったらしい。
ひとりでこっそり楽しみたかったんだけど、まぁ仕方ない。
「出来上がったら一緒に食べようか」
「良いんですか? やった!」
嬉しそうに尻尾を踊らせるララノ。
切り株を使った椅子を二つ用意して、とりあえずワインで乾杯することにした。
「浄化作戦、成功するといいですね」
ワインを飲みながら、しみじみとララノが言う。
「いやいや何を言ってるの。絶対成功するから」
「……ふふ、そうですね。サタ様が作った燻製ですもんね」
「皆で一緒に作った燻製、ね」
ララノやブリジットが居なかったら期限通りに野菜を納品することはできなかった。
これは僕ひとりの手柄じゃない。
「でも、燻製野菜を使えば瘴気被害が未然に防げるようになるかもしれないな。そうなったらホエール地方から瘴気がなくなるだろうし……ララノとの約束もすぐに果たせるかもしれないね」
「……っ」
ハッとしたようにララノが僕を見た。
大海瘴の混乱で行方不明になっているララノの家族。
彼らが戻ってこられるようにホエール地方から瘴気を無くすとララノに約束した。この調子だと、夢の実現までそう遠くはなさそうだ。
「……覚えていてくださったんですね」
「そりゃあ約束したからね。ご両親が戻ってきたら紹介してくれないかな?」
「もちろんです。でも、私のお父さんを見たらビックリすると思いますよ?」
「え、どうして?」
巨大な熊だったんです……とかいうオチはやめてね?
「お父さんはサタ様に似て華奢な見た目なんですけど、『豪腕』の加護を持っているのですごい強いんです」
「華奢なのに力持ち……何ていうか、ギャップが凄いね?」
まるで付与魔法を使った僕みたいだな。
「そうなんです。でも、そこが良いっていうか」
ララノがクスクスとくすぐったそうに笑う。
「お母さんと結婚する前は冒険者をやっていたみたいで、依頼で南の砂漠の国に行ったときはカトブレパスをひとりで討伐したらしいんですよ」
「ほんとに? 凄すぎないそれ?」
カトブレパスって、確かすっごく危険なモンスターだよね。
黒い水牛のモンスターで、視線を交差させてしまうと死んでしまうとかいう噂を聞いたことがある。
獣人は身体能力が高い種族とはいえ、そんな恐ろしいモンスターをひとりで討伐するなんて強いどころの話じゃないな。
ララノのお父さんが農園にいてくれたら、傭兵団が攻めてきても撃退できそうだ。
「それは是非うちの農園にスカウトしないとね」
「はい。きっと喜んで受けてくれると思いますよ」
ララノの家族だけじゃなくて、他の獣人たちも来てもらおうかな。
集落の広さがどれくらいだったのかはわからないけれど、この農地も相当広いし、住んでもらうには問題はないはず。
それに、獣人たちが来てくれればその分畑を拡張できるし、出荷できる野菜の量も増える。
うん、良いこと尽くめだ。
「……ん?」
などと話していると、家の方からトコトコと狼がやってきているのが見えた。
ララノの隣にちょこんと座り、何やら話しはじめる。
「どうしたの?」
「サタ様にお客様のようです」
「……お客? 僕に?」
一体誰だろう?
プッチさんは出発したばかりだし、農園に来る人なんて誰もいないはずだけど。
「燻製が出来上がるまでまだ時間がかかりそうだから、一旦家に戻ろうか」
「そうですね」
そうして僕は、ララノと一緒に家に戻ることにしたのだけれど──自宅で僕を待っていたのは意外すぎる訪問者だった。
夜の間に降りた瘴気と朝日の共演──。
僅かな時間だけ見られる、幻想的な世界だ。
瘴気は人々に害為す存在で、一刻も早く世界からなくなればいいと思っているけれど、この光景だけはいつまでも見ていたいと思う。
王都の実家にいる妹も、これを見たら喜ぶに違いない。
「……なんて思うのは不謹慎だよなぁ」
う〜んと背伸びをしたあとで、窓から何も植えられていないまっさらの畑を眺めた。
畑に何もないのは、全ての燻製野菜の納品が完了したからだ。
燻製が詰まった樽を載せて最終便の荷馬車がパルメザンへと出発したのは昨日。
運んだ樽の数はおおよそ三十ほど。
昨日送り出したのはそれくらいの数だったけど、五日前と十日前に農園を出発した一便と二便の分を合わせると、百樽ほどになっていると思う。
改めて凄い数を作ったもんだ。
燻製作りに成功してからすぐに量産体制に入ったけれど、本当に大変だった。
燻製小屋の建築と同時進行で燻製を作りつつ、さらに収穫と作付け、それに間引きや芽かき、追肥などなどの畑作業をやる。
第一便が出発する前日にプッチさんが数人の冒険者を連れて手伝いに来てくれたけど、あれがなかったらちょっとやばかったかもしれない。
ちなみにプッチさんにリンゴの木で作った燻製を食べさせたところ、「これは商品になりますよっ!」と大興奮だった。
真っ先に「おいしい」じゃなくて「お金になる」と言っちゃうところが実にプッチさんらしい。
などと考えていると、グゥと腹が鳴った。
「……適当に朝ごはんを食べるか」
部屋を出て一階に降り、燻製の下処理が終わっている羊肉とチーズ、それにホエールワインを持って外に出た。
一応、家を出るときに耳を澄ませてみたけれど、二階から物音はしなかった。
ララノとブリジットはまだ寝ているようだ。
怒涛の燻製づくりが終わって疲労困憊だろうし、今日はゆっくりさせておこう。
「というのは建前で、ひとりで羊肉の燻製を楽しみたかっただけなんだけどね」
みんなと一緒に居るのは楽しいけれど、ひとりになる時間も大切だ。
家の外でくつろいでいた動物たちに挨拶をして、家の裏の鶏舎で卵をいくつか拝借してから燻製小屋に向かう。
畑区画の奥にある物置小屋のような小さな建物が燻製小屋だ。
人がひとり入れるかどうかというくらいのサイズだけれど、この大きさで燻製が大量生産できるのだから凄い。
小さなドアが付いている小屋の中は、一番下に石で囲われた囲炉裏みたいなものがあって、ここにスモークウッドを置けるようになっている。
その上には網を引っ掛ける出っ張りがいくつかあって、小さな食材はここ置いて、大きい食材は天井にあるフックに吊るす。
なんとも機能性が高い燻製小屋だろう。
イメージはララノを通じて動物たちに伝えたけれど、一流の大工さんが作ったと思ってしまうレベルで完成度が高い。
羊肉と卵を一番下の網に置き、チーズは上の網に。
温燻は熱燻よりも温度が低いとはいえ、下の網にチーズを置いてしまうと溶けてしまうので上に置くと良いのだ。
それから、リンゴの木を使った薪に火を付けて囲炉裏部分に置く。
ドアを閉めてしばらく待っていると、屋根の上にある小さな穴からモクモクと煙が出はじめた。
これで一時間くらい待てば燻製の完成だ。
それまで小屋の前に設置してあるハンモックに体を預け、ワインをちびちび飲みながらのんびりと本を読むことにした。
雲ひとつない空の下で、風の音を聞きながらゆったりとした時間を過ごす。
ここ最近は燻製づくりに追われていたからか、こうしてのんびりできる時間がすごく贅沢に思える。
「……でも、トリトンが来たらまた引きこもり生活になりそうだな」
この世界の台風、トリトン。
例年通りだったらそろそろトリトンがやってくる時期だとプッチさんは言っていた。
トリトンが来れば大海瘴の危機も去ることになるけれど、その間は農作業ができなくなるのが痛い。
プッチさんに頼んで物資を溜め込んでおいたほうがよさそうだな。
いや、近々ラングレさんのブドウ園にも行かないといけないし、その時に街で食材を買っておこうか。
こうして燻製ができるようになって保存性も高まったわけだし、豚肉や羊肉も大量に買っていいかもしれない。
などとぼんやり考えていたら、いつの間にかうたた寝していたらしい。
「おはようございます、サタ様」
──というララノの声でハッと目が覚めた。
「……あ、おはようララノ」
「あっ、ごめんなさい。お休み中だとは知らず」
「いやいや、大丈夫。燻製を作ってて完成までのんびりしてただけだから」
「あ、やっぱりそうなんですね。部屋の窓からいい香りが流れてきたので、釣られて来ちゃいました」
ララノが少し恥ずかしそうに笑う。
どうやら燻製の香りで起こしてしまったらしい。
ひとりでこっそり楽しみたかったんだけど、まぁ仕方ない。
「出来上がったら一緒に食べようか」
「良いんですか? やった!」
嬉しそうに尻尾を踊らせるララノ。
切り株を使った椅子を二つ用意して、とりあえずワインで乾杯することにした。
「浄化作戦、成功するといいですね」
ワインを飲みながら、しみじみとララノが言う。
「いやいや何を言ってるの。絶対成功するから」
「……ふふ、そうですね。サタ様が作った燻製ですもんね」
「皆で一緒に作った燻製、ね」
ララノやブリジットが居なかったら期限通りに野菜を納品することはできなかった。
これは僕ひとりの手柄じゃない。
「でも、燻製野菜を使えば瘴気被害が未然に防げるようになるかもしれないな。そうなったらホエール地方から瘴気がなくなるだろうし……ララノとの約束もすぐに果たせるかもしれないね」
「……っ」
ハッとしたようにララノが僕を見た。
大海瘴の混乱で行方不明になっているララノの家族。
彼らが戻ってこられるようにホエール地方から瘴気を無くすとララノに約束した。この調子だと、夢の実現までそう遠くはなさそうだ。
「……覚えていてくださったんですね」
「そりゃあ約束したからね。ご両親が戻ってきたら紹介してくれないかな?」
「もちろんです。でも、私のお父さんを見たらビックリすると思いますよ?」
「え、どうして?」
巨大な熊だったんです……とかいうオチはやめてね?
「お父さんはサタ様に似て華奢な見た目なんですけど、『豪腕』の加護を持っているのですごい強いんです」
「華奢なのに力持ち……何ていうか、ギャップが凄いね?」
まるで付与魔法を使った僕みたいだな。
「そうなんです。でも、そこが良いっていうか」
ララノがクスクスとくすぐったそうに笑う。
「お母さんと結婚する前は冒険者をやっていたみたいで、依頼で南の砂漠の国に行ったときはカトブレパスをひとりで討伐したらしいんですよ」
「ほんとに? 凄すぎないそれ?」
カトブレパスって、確かすっごく危険なモンスターだよね。
黒い水牛のモンスターで、視線を交差させてしまうと死んでしまうとかいう噂を聞いたことがある。
獣人は身体能力が高い種族とはいえ、そんな恐ろしいモンスターをひとりで討伐するなんて強いどころの話じゃないな。
ララノのお父さんが農園にいてくれたら、傭兵団が攻めてきても撃退できそうだ。
「それは是非うちの農園にスカウトしないとね」
「はい。きっと喜んで受けてくれると思いますよ」
ララノの家族だけじゃなくて、他の獣人たちも来てもらおうかな。
集落の広さがどれくらいだったのかはわからないけれど、この農地も相当広いし、住んでもらうには問題はないはず。
それに、獣人たちが来てくれればその分畑を拡張できるし、出荷できる野菜の量も増える。
うん、良いこと尽くめだ。
「……ん?」
などと話していると、家の方からトコトコと狼がやってきているのが見えた。
ララノの隣にちょこんと座り、何やら話しはじめる。
「どうしたの?」
「サタ様にお客様のようです」
「……お客? 僕に?」
一体誰だろう?
プッチさんは出発したばかりだし、農園に来る人なんて誰もいないはずだけど。
「燻製が出来上がるまでまだ時間がかかりそうだから、一旦家に戻ろうか」
「そうですね」
そうして僕は、ララノと一緒に家に戻ることにしたのだけれど──自宅で僕を待っていたのは意外すぎる訪問者だった。