今回は乗合馬車を使って農園まで送ってもらうことにした。

 新居の家具は注文したけれど、完成まで半月ほどかかるのでほぼ手ぶらなのだ。

 パルメザンから農園まで二日の長旅。

 だけど、何度も経験しているから道中の過ごし方は大体決まっている。

 街で買ってきたチーズや燻製肉をつまみにして、ララノとワインを飲んだり、カードゲームを楽しんだり。
 端的に言えばまったり過ごす。うん。これに限る。

 今回も安めのワインに燻製チーズ、スモークサーモン、それに豚脂身の塩漬けなど保存がきくつまみを添えて、のんびりすることにした。

 カッポカッポと奏でるリズミカルな蹄の音。

 優しく流れてくる心地よい風。

 穏やかに流れる時間の中、コクリコクリと船を漕ぐララノ。

 その隣で流れる景色を眺めながら、ワイン片手に豚脂身の塩漬けを頬張る。

「……く〜、うまいっ」

 濃いめの塩気と酸味が最高にマッチする。

 農園の野菜はおいしくて体にもいいけれど、こういうジャンクな食べ物が時々恋しくなる。

 やっぱりプッチさんに追加料金を払って、燻製肉や魚を持ってきてもらうべきかもしれないな。

「……何だか雲行きが怪しくなって来ましたね」

 と、いつの間か目を覚ましていたララノが不安げに馬車の窓から外を見ていた。

 その声に促されるように、僕も空を見上げる。

 つい先程まで晴天だったのに、いつのまにか紫色に染まった雲が空を覆っている。これは一雨降るかもしれないな。

「お客さん」

 御者台に座っている御者の男が声をかけてきた。

「念の為、マスクをして下さい」

「……あ、もしかして瘴気ですか?」

「はい。どうやら瘴気が降りてしまったみたいですね」

 男が指差す道の先に、なにやらぼんやりと赤紫色の霧のようなものが見えた。

 あれは間違いなく瘴気だ。

 もしかすると、雨と一緒に瘴気が降りてしまったのかもしれないな。

 降りた瘴気の濃さにもよるけれど、唯一の対抗策といえるのがパルメザンの街でも売っている「瘴気マスク」だ。

 簡易的な布で作られた普通のマスクなのだけれど、瘴気から体を守ってくれる優れもので、旅の必需品ともいえる。

 ちなみに僕たちが携帯しているマスクは、免疫強化の付与魔法をかけているので高濃度の瘴気からも守ってくれる。

「……あ〜、ちょっとマズいかもしれませんね」

 リュックからマスクを取り出そうとしていると、男がボソッとぼやいた。

 僕は御者台にヒョイと顔を覗かせる。

「どうかしました?」
「あ、いや、モンスターですよ。この先で誰かが襲われているみたいです」
「え、本当ですか?」

 慌てて男の肩越しに馬車の前を見る。

 道の先、赤紫の霧の中に巨大な双頭の黒い狼が見えた。

 そして、その狼の前に立っている小さな人影も。

「道を変えます。このままじゃこの馬車も襲われてしまう」
「あ、待ってください」

 手綱を引いて馬車を反転させようとした男を止めた。

「すみませんが、しばらくここで待っていてもらえますか?」
「……え?」

 ギョッとする男。

「待つって、何をするつもりなんです?」
「モンスターに襲われてるあの人を助けます」
「サ、サタ様!?」

 慌ててララノが割って入る。

「ほ、本気で言ってるんですか!?」
「こういう場合ってスルーするのが一番良いのはわかってるんだけど、見て見ぬ振りすると寝覚めが悪くなりそうでさ……」

 嘘偽りなく、それが僕の本心だった。

 リスクを回避するためなら御者の男が言う通り、道を変えたほうがいい。

 見知らぬあの人を助けるのは理にかなってないし、わざわざ危険な橋を渡る必要なんてない。

 だけど、このままスルーするのは精神衛生上、すこぶるよろしくない。

 助けてあげたほうが良かったなと、毎晩考えてしまうのは勘弁だ。

 またララノに「頑張りすぎですから!」って叱られそうだけど。

「ふふっ」

 これは怒られるかなと身構えていたけれど、何故か笑われてしまった。

「そういうところ、本当にサタ様っぽい」
「……え? ど、どういう意味?」

 お人好しの小心者ってこと? 

 まさにその通りだから、ぐうの音も出ないけど。

「お手伝いしますよ」

 そしてララノはそんなことを言った。

 ちょっと驚いてしまった。

「私も見て見ぬ振りは嫌いなんです。せっかくの美味しいご飯が喉を通らなくなっちゃいそうですし」

 ララノがペロッと舌を少しだけ出す。

「……あ、もしかして、僕の性格が移っちゃったとか?」
「かもしれませんね」

 そうして笑いあう僕たち。

「よし、それじゃあ一緒に行こうか」
「はいっ」

 御者の男には少し離れて待っているように伝えて、馬車から降りた僕たちはモンスターに襲われている人の元へと急ぐ。

 走り出してすぐにマスク越しに、アンモニアに似た刺激臭を感じた。

 瘴気の匂い。

 だけど、まだまだ全然平気だ。

 念の為に護身用のナイフに「範囲拡張」の合わせ付与と、自分自身に「筋力強化」をかけておく。

 瘴気の中でモンスターと対峙している旅人は、どうやらひとりのようだ。

 背丈から推測するに、子供か女の子。

 腰に剣を下げているので武芸に精通しているのだろうけれど、こんな危険な場所をひとりで歩くなんて自殺行為も良いところだ。

 おまけに瘴気対策の準備をしていなかったのか、マスクをつけていない。

 早く助けてここから離脱したほうがいいな。

「ララノ、少しだけモンスターの注意を引ける? その隙にあの人をこの場所から離れさせるから」
「承知しました。ララノにまるっとお任せあれ」
「あ、ちょっと待って。ララノにも付与魔法を──」
「平気ですよ!」

 僕にウインクしたララノはグンとしゃがみこんだかと思うと、勢いよく地面を蹴って空へと舞い上がった。

「……うわっ」

 なんという脚力。

 いつも農作業と料理ばかりしてもらっているので忘れちゃうけど、ララノは身体能力が人間の数倍高いんだよな。

 天高く飛び上がったララノは、旅人を飛び越えてモンスターの前に着地する。

「……っ!? な、何だ!? 獣人!?」

 驚いたような旅人の声が聞こえた。

 声色からして、やっぱり女の子っぽいな。

「そこのキミっ!」

 モンスターの注意が旅人からララノに移ったタイミングで、旅人に声をかける。

「すぐにここを離脱するよ! このままだと瘴気にやられて身動きが──」

 僕は続く言葉を飲み込んでしまった。

 振り向いた旅人が、僕のよく知る人間だったからだ。

 ブラウンのロングヘアに、少々つり上がった翡翠色の目。

 小柄であどけなさがあるけれど、どこか高圧的でお嬢様のような雰囲気の女性。

「ブ、ブリジット!?」
「……おおっ! サタ先輩!」

 嬉々とした表情を浮かべる旅人の女性。

 モンスターに襲われていたのは王宮魔導院時代の僕の後輩職員、ブリジット・デファンデールだった。