かつての大好きだった人に、久しぶりに会えると美優はドキドキとしていた。
当事まだ中学生だった美優にとって、その時出会った高校生の史也はヒーローのごとくとても大人に見えた。そしてとても頼りになってかっこよかったと美優の記憶にいつまでも残っていた。
ずっと会えなかったけど、やっとまた史也に会える。
服の胸元に触れながら美優は電車を降りた。
この日のためにと美優は精一杯のお洒落をし、かつて史也と待ち合わせしていたおなじみの場所へと足を急がせた。
だけど、そこで待っていたのは白髪頭の年老いた男性だった。近づいてくる美優をそわそわしながら申し訳なさそうに見ていた。
「美優……さん……ですね」
声を掛けられ美優は戸惑う。
でもよく見れば、史也に似て親しみのある顔だった。ちょうど史也が年を取ったような風貌。
『僕にはまだ会った事のない年が離れた兄がいるんだ。その人はきっと僕と似ているはずだ』
かつて史也が言っていたと美優は思い出す。
史也の家庭が複雑で、何かの事情があって兄弟離れて暮らしていたのだろう。
はっきりとした理由を美優は訊かなかった。史也があまり兄について訊かれたくなさそうだったからだ。
もしかしたら目の前にいるのは史也の兄かもしれない。
でもなぜここにいるのかが美優にはわからない。美優は半信半疑に軽く頭を下げた。
白髪の男性は口を震わせながら、経緯をどう説明していいのか迷っていた。
美優は相手が話し出すまで様子を窺う。
暫くふたりは無言でお互いを落ち着かなく見ていた。
「立ち話も何ですから、喫茶店でも入りませんか?」
かなり痩せ細っているせいか、頼りなく笑った顔に皺が刻まれる。
「あ、あの、史也さんはどうされたんでしょうか」
「史也は……」
そこまで言うと、白髪の男性は目を潤ませた。
それは美優を不安にさせる。でも美優の口からはっきりとどうしたのか怖くて問い質せなかった。なんとなく嫌な予感がしたからだ。
ふたりの周りだけに漂う違和感のある空気。行き交う人々の中にはちらりと見ていく人がいる。ただ突っ立っているふたりには気まずさを植えつけ、それが居心地悪い。
でもこんなよく似たことが前にもあったと、美優は過去を思い出す。それは史也と初めて出会った時のことだった。
初めて史也に出会ったのは、中学に進んで周りに馴染めず戸惑いを感じ始めた頃だった。
「君は無理をしているね」
学校の帰り、友達と別れてみんなが見えなくなったあと、美優がため息を吐いていたところをすれ違った史也がつぶやいた。
あなたには関係ないでしょと言いたい気持ちを美優は抑え、史也に振り返った。
せめてきつく睨んで嫌な顔をしてやらないと気がすまない。
史也はそれを待っていたかのようにすでに立ち止まって美優を見ていた。意表をつかれ美優はドキッとしてしまう。
見知らぬ男の人。無視をして走り去ればいいものを美優は史也と向き合う。目が合って泣きそうなくらいの優しく微笑む史也を前にして、逃げるという選択を美優は思いつかなった。
美優はその眼差しに引き込まれていたからだ。それは純粋であまりにも儚かった。
一度お互いを見つめてしまうと美優は史也の前から動けなかった。
史也も声を掛けながら結局自分が何をしたかったのか分からずおどおどする羽目になった。
「ご、ごめんね。君の友達が不良っぽく見えて、そこに大人しそうな君がいるのがアンバランスだったんだ。思った事が口からつい出たんだ。僕の言った事は忘れて」
史也が踵を返そうとすると美優は「待って」と呼び止めた。
「あの、その通りです。私、本当はあの女の子たちと一緒に居たくないんです。でも今更グループを抜けられなくて……」
その言葉を吐き出すと、美優は抑えていた感情が溢れんばかりにじわっと涙が滲んできた。
「よ、よかったらハンカチ貸そうか」
史也は制服のポケットを探り出す。
「いえ、も、持ってます」
美優はセーラー服の胸のポケットからハンカチを出して目にあてた。それを見て、悪い事をしてしまったと史也は落ち着かない。
「えっと」
「あっ、だ、大丈夫です」
無理に発した言葉は収拾がつかなくなったように、お互い急に恥ずかしくなってしまう。
初対面で自分たちは一体何をしているのだろう。再び顔を見合わせたとき、どっちも慌てていた様子に急におかしくなってしまった。
持っていきようのない恥ずかしさで史也は頭に手を置いて仕方なく笑い出す。
その声に合わせるように美優も笑った。
ただそれだけで美優も史也も心が随分と軽くなった。
美優は当事の事を鮮明に思い出す。
史也と会ったときの話を、目の前のテーブルに置かれたクリームソーダに視線を落としながら史也の兄に美優は話していた。
しゅわしゅわとした泡がグラスの中で上昇している。同じように涙も目から湧き上がってくる。
それをハンカチで押さえると同時に胸が詰まって何も話せなくなってしまう。
「突然のことで、悲しい思いをさせてすみません」
史也の兄は謝る。
「いえ、お兄さんが謝ることはないです。こうやってお知らせ下さって有難かったです」
「でも私は嘘をついてしまいました。あたかも自分が史也だと偽って美優さんを呼び出してしまった。私もどうやって伝えればいいのかわからなくて」
「いえ、それは構いません。こうやってお兄さんにも私が知っている史也さんの事をお話できて却ってよかったです。お兄さんもさぞかしお辛いことでしょう」
「そうですね。史也と私は事情がありましたから、お互い顔を合わせる事は最近まであまりなかったですし、史也は私とあまり会いたくなかったとも思います。でも私は史也が大切でした」
史也の兄もまた目に涙が溜まっていく。
こぼすまいと必死に我慢して体を震わせていた。
「史也さんは何かに悩んでいたんでしょうか」
「史也にしか分からない理由でかなり胸に秘めて悩んでいたと思います。でも必死に踏ん張って、有りのままの自分を受けいれようとしていました。とても不安定な日々を過ごしていたけども、美優さんと出会ってからは楽しかったのか、可愛い妹が出来て世話をしてやらないとと思っていたみたいです」
「妹……ですか」
美優はその言葉に引っかかった。
美優としてはその扱いは気に入らない。でも美優と史也は友達以上恋人未満でお互いの気持ちをはっきりいったことはなかった。
それでいて切っても切れなくて、史也が高校を卒業するまでの二年間はお互いを求めるように頻繁に会っていた。
史也が大学に入った辺りから思うように会えなくなって、メールやラインだけでやっと繋がる日々だった。
その当事、美優は中学三年で受験を控えて勉強に忙しくなったけど、史也もまた遠く離れた大学の近くで一人暮らしを始めてから滅多に地元に戻ってこなかった。
自分が大人になれば史也を追いかけられる。そればかり考え、美優は受験勉強を頑張りやっと高校生になれて喜んでいた。
これで少しは史也に近づいた。
高校生になった自分を見て欲しいと美優は史也に連絡を入れていた。だけど、それについての返事は中々もらえなかった。
そしていつの間にか史也からの連絡も途絶えてしまった。
もしかしたら史也には彼女ができてしまったのかもしれない。
それを恐れていたとき、やっと史也から会おうとメールが来た。それは史也の兄が弟のスマホを操作したものだったとはその時は知らなかった。
そして史也はもうこの世にいない。
しかも自殺と聞いて美優は衝撃を受け、一瞬息が苦しくなる。
史也の兄からその事実を知らされたとき、美優は自分が夢の中にいるようで、それが現実だと受け止められない。それとも史也と会っていた時が夢だったのだろうか。
でも史也の兄の苦しそうな表情を目の当たりにすると、自分の立場を否定し続けるのは却って失礼なように思えた。
悲しみの中落ち着きを取り戻して、自分が知っている史也の事を話そうと心を決めた。
美優は史也が好きだったことも伝えたかったのに、妹と思われていた事にショックを受けた。それが顔に出ていたのだろう。史也の兄は美優を宥める。
「妹と思ったのは、美優さんがあまりにも可愛かったからだと思います。守るものができたことで、自分がしっかりしなければと背伸びしたかったんです。そこに美優さんに好かれたいという気持ちもあったはずです。でも……」
そこで史也の兄は少し黙った。
「でも、何でしょう?」
美優は催促する。史也が自分をどう思っていたのか知りたかった。
「いえ、私が言うことではありませんでした。史也はとにかく美優さんを大切に思っていたと思います」
史也の兄はコーヒーカップを手に取り、ぬるくなってしまったコーヒーを静かに喉に流し込んだ。その姿は史也と重なった。その様子を美優は寂しく見つめる。
「私は史也さんのことが……」
美優が言いかけたとき、史也の兄はカップをソーサーに置いた。その音が意外にも強く響いて美優の言葉を遮った。
「美優さん、今まで史也と仲良くして下さってありがとうございました。美優さんはもう自由です。この先、自分のしたい事や夢に向かって羽ばたいて下さい。史也もきっとそう望んでいることでしょう」
「史也さんはお兄さんに、私の事を他に何か話してませんでしたか?」
「それを知ったところでどうなるんでしょう。何とでも私は史也の代わりに言えます。私の言葉を信じますか? もし、美優さんのために喜ぶ事を言おうと私が嘘をつくこともできます」
史也の兄の目がどこか虚しい。
美優を突き放して、これ以上史也に関わるなと言われているようだ。
いや、史也の兄が弟と関わりたくないといっているのかも しれない。とても複雑な要素が絡み合っている。
美優に会って史也の死について話すのも本当は乗り気じゃなかったのかもしれない。会ってくれただけでも感謝すべきことだ。
「すみません。自分のことばかりで」
美優にはそれ以上どうすることもできなかった。史也の兄に自分の気持ちを言っても仕方ないし、史也の不確かな言葉を兄の口から聞いても意味がない。
自殺の原因も史也にしかきっとわからないのだろう。何を聞いても史也は美優の元には戻ってこない。美優は俯き肩を強張らせて必死に耐えていた。
「美優さん!」
史也の兄が突然叫んだ。
美優が顔をあげると史也の兄はボロボロと涙をこぼしていた。それを見るととても悲しくなると同時に、相手が自分よりも感情を露にすると美優は一歩引いて冷静になっていく。
何を言われるのか、美優はじっと史也の兄を見つめていたが、史也の兄は口元を震わすだけで声がとも合わない。まるでそこには美優に何かを伝えたい言葉が隠れているようだ。それを飲み込んで違う言葉が口から出てきた。
「す、すみません。ただお礼をいいたかっただけなんです。どうかお幸せになって下さい」
史也はテーブルの伝票を手にし、そして立ち上がる。
「あっ、あの」
美優が何かを言う前に史也の兄は「さようなら」と去っていく。
追いかけたくて美優は咄嗟に手を伸ばすが、椅子からは立ち上がれなかった。史也の兄はこれ以上史也の事を聞かれたくない何かがあると美優は感づいていた。
暫くひとり椅子に座ったまま、史也の兄が飲んだコーヒーカップを見つめていた。
「お兄さんの名前、そういえば聞いてなかった」
でも知らなくてもいいのだろう。今後、会うこともなさそうだと美優は思う。
何もかも虚しくて、そして悲しすぎて美優はすぐに立ち上がれない。
まだ手をつけてなかったクリームソーダにストーローを差込み一口吸った。喉に炭酸の刺激が走る。それは胸へと流れて弾けて去っていった。
史也に言えなかった思い。自分が大人になれば全て解決すると思っていた。いつかそれが叶うまで美優は誰にもこの恋を言わなかった。史也の事を誰にも知られたくないと独占欲も強かった。自分だけのヒーローのように。
美優の思い出の中の史也はいつまでもかっこいいままでその姿を封印する。中学生の子供だった自分の姿と共に。いつかそれが懐かしいと思えるその時、美優はきっと今よりももっと大人になっている。
「そうしたら、その時の私は思い出の中の史也よりも年をとってるのね」
ぼそっと呟いて、目の前のクリームソーダを見つめ美優はひっそりと泣いていた。
そのうちアイスクリームが溶けていくと、自分の流れていく涙に見えていく。スプーンを手にしてそれをかき混ぜた。
色が透き通った緑からパステルカラーの優しい緑色に変わっていく。史也のようにそれが優しいものに感じられた。
史也の笑顔が目に浮かび、泣くことが史也のためにならないと思えてきた。
悩んでいたときに出会えた事で強くなれた。史也のお陰で今があると自分を勇気付ける。
もう一度残りのソーダを飲んだ時、溶けたアイスクリームが混じって口の中で優しくはじけた。
飲み干した時、きっと自分は笑顔になれる。
美優は愛しそうにクリームソーダを味わっていた。
「美優、嘘を信じてくれてありがとう」
白髪の男は喧騒の街の中で独り言を呟き、これでよかったと終止符をつける。
ショーウインドウにリフレクトする自分の姿。自分は一体何歳に思われたのだろう。これでもまだ二十一歳だと言ったら誰も信じないだろう。
喫茶店から逃げるように飛び出したあと、史也は悲痛な思いに息苦しく胸が張り裂けそうになっていた。
久しぶりに会った高校生の美優は驚くほど美しくなり輝いて眩しすぎるほどだった。
それとは対照的に史也は枯れて老いぼれていた。それは人よりも早く年を取ってしまう病のせいだった。
早くからこの病に侵されている事を知っていた史也は人生を絶望視していた。そんな時に美優を見かけ、無邪気になれる一番楽しい時期に不満を抱いている様子が勿体無くて口を挟んでしまった。
まだ年相応に見える姿のままで人と関わり合いたい気持ちもあったし、美優の可愛さにふと惹かれた気持ちもあった。それとも本能で救いを誰かに求めていたのかもしれなかった。
成り行きで知り合ったことは、史也にはとても有難く思えた。
中学生の美優は確かに妹のように救いを差し伸べたいと思っていたけど、そう思うことで自分を保てるような気がした。その時だけは病気のことを忘れられた。
だけどそれも次第にできなくなり、二十歳が近づく頃に急激に年を取っていく。史也の場合大学生に入った頃にはすでにその兆候が著しく出てきていた。
美優に会いたくても急激に老けた姿を見られたくない。隠していてもいずれ今よりも年を取っていく。悩みに悩んで出した結論が、兄に成りすまして自分を殺すことだった。
それは早くから計画し、美優にも架空の兄の存在を予めほのめかす。
しかし、実際年老いた兄がすでに史也の中に存在していて、若い自分とすり替わるその時を容赦なく待っていた。
年を取った自分に会いたくない、でもすでに会ってしまった。ショーウインドウに映る姿はまるで玉手箱を開けた浦島太郎のように突然に老けた自分がいた。
いずれそうなるからと史也は恋をずっと押し殺し美優を見ていた。美優の気持ちも聞きたくなかった。多感な年頃にヒーローとして美優の目に映ればそれでよかった。
「僕は思い出の中で君のヒーローでいたい」
史也はショーウインドウに映る姿を尻目に背筋を伸ばして歩いていく。
その姿はやがて街を行き交う人の中にまぎれて見えなくなった。
そして史也の恋は誰にも告げられず心の中で無数の泡となろうとしていた。
了
当事まだ中学生だった美優にとって、その時出会った高校生の史也はヒーローのごとくとても大人に見えた。そしてとても頼りになってかっこよかったと美優の記憶にいつまでも残っていた。
ずっと会えなかったけど、やっとまた史也に会える。
服の胸元に触れながら美優は電車を降りた。
この日のためにと美優は精一杯のお洒落をし、かつて史也と待ち合わせしていたおなじみの場所へと足を急がせた。
だけど、そこで待っていたのは白髪頭の年老いた男性だった。近づいてくる美優をそわそわしながら申し訳なさそうに見ていた。
「美優……さん……ですね」
声を掛けられ美優は戸惑う。
でもよく見れば、史也に似て親しみのある顔だった。ちょうど史也が年を取ったような風貌。
『僕にはまだ会った事のない年が離れた兄がいるんだ。その人はきっと僕と似ているはずだ』
かつて史也が言っていたと美優は思い出す。
史也の家庭が複雑で、何かの事情があって兄弟離れて暮らしていたのだろう。
はっきりとした理由を美優は訊かなかった。史也があまり兄について訊かれたくなさそうだったからだ。
もしかしたら目の前にいるのは史也の兄かもしれない。
でもなぜここにいるのかが美優にはわからない。美優は半信半疑に軽く頭を下げた。
白髪の男性は口を震わせながら、経緯をどう説明していいのか迷っていた。
美優は相手が話し出すまで様子を窺う。
暫くふたりは無言でお互いを落ち着かなく見ていた。
「立ち話も何ですから、喫茶店でも入りませんか?」
かなり痩せ細っているせいか、頼りなく笑った顔に皺が刻まれる。
「あ、あの、史也さんはどうされたんでしょうか」
「史也は……」
そこまで言うと、白髪の男性は目を潤ませた。
それは美優を不安にさせる。でも美優の口からはっきりとどうしたのか怖くて問い質せなかった。なんとなく嫌な予感がしたからだ。
ふたりの周りだけに漂う違和感のある空気。行き交う人々の中にはちらりと見ていく人がいる。ただ突っ立っているふたりには気まずさを植えつけ、それが居心地悪い。
でもこんなよく似たことが前にもあったと、美優は過去を思い出す。それは史也と初めて出会った時のことだった。
初めて史也に出会ったのは、中学に進んで周りに馴染めず戸惑いを感じ始めた頃だった。
「君は無理をしているね」
学校の帰り、友達と別れてみんなが見えなくなったあと、美優がため息を吐いていたところをすれ違った史也がつぶやいた。
あなたには関係ないでしょと言いたい気持ちを美優は抑え、史也に振り返った。
せめてきつく睨んで嫌な顔をしてやらないと気がすまない。
史也はそれを待っていたかのようにすでに立ち止まって美優を見ていた。意表をつかれ美優はドキッとしてしまう。
見知らぬ男の人。無視をして走り去ればいいものを美優は史也と向き合う。目が合って泣きそうなくらいの優しく微笑む史也を前にして、逃げるという選択を美優は思いつかなった。
美優はその眼差しに引き込まれていたからだ。それは純粋であまりにも儚かった。
一度お互いを見つめてしまうと美優は史也の前から動けなかった。
史也も声を掛けながら結局自分が何をしたかったのか分からずおどおどする羽目になった。
「ご、ごめんね。君の友達が不良っぽく見えて、そこに大人しそうな君がいるのがアンバランスだったんだ。思った事が口からつい出たんだ。僕の言った事は忘れて」
史也が踵を返そうとすると美優は「待って」と呼び止めた。
「あの、その通りです。私、本当はあの女の子たちと一緒に居たくないんです。でも今更グループを抜けられなくて……」
その言葉を吐き出すと、美優は抑えていた感情が溢れんばかりにじわっと涙が滲んできた。
「よ、よかったらハンカチ貸そうか」
史也は制服のポケットを探り出す。
「いえ、も、持ってます」
美優はセーラー服の胸のポケットからハンカチを出して目にあてた。それを見て、悪い事をしてしまったと史也は落ち着かない。
「えっと」
「あっ、だ、大丈夫です」
無理に発した言葉は収拾がつかなくなったように、お互い急に恥ずかしくなってしまう。
初対面で自分たちは一体何をしているのだろう。再び顔を見合わせたとき、どっちも慌てていた様子に急におかしくなってしまった。
持っていきようのない恥ずかしさで史也は頭に手を置いて仕方なく笑い出す。
その声に合わせるように美優も笑った。
ただそれだけで美優も史也も心が随分と軽くなった。
美優は当事の事を鮮明に思い出す。
史也と会ったときの話を、目の前のテーブルに置かれたクリームソーダに視線を落としながら史也の兄に美優は話していた。
しゅわしゅわとした泡がグラスの中で上昇している。同じように涙も目から湧き上がってくる。
それをハンカチで押さえると同時に胸が詰まって何も話せなくなってしまう。
「突然のことで、悲しい思いをさせてすみません」
史也の兄は謝る。
「いえ、お兄さんが謝ることはないです。こうやってお知らせ下さって有難かったです」
「でも私は嘘をついてしまいました。あたかも自分が史也だと偽って美優さんを呼び出してしまった。私もどうやって伝えればいいのかわからなくて」
「いえ、それは構いません。こうやってお兄さんにも私が知っている史也さんの事をお話できて却ってよかったです。お兄さんもさぞかしお辛いことでしょう」
「そうですね。史也と私は事情がありましたから、お互い顔を合わせる事は最近まであまりなかったですし、史也は私とあまり会いたくなかったとも思います。でも私は史也が大切でした」
史也の兄もまた目に涙が溜まっていく。
こぼすまいと必死に我慢して体を震わせていた。
「史也さんは何かに悩んでいたんでしょうか」
「史也にしか分からない理由でかなり胸に秘めて悩んでいたと思います。でも必死に踏ん張って、有りのままの自分を受けいれようとしていました。とても不安定な日々を過ごしていたけども、美優さんと出会ってからは楽しかったのか、可愛い妹が出来て世話をしてやらないとと思っていたみたいです」
「妹……ですか」
美優はその言葉に引っかかった。
美優としてはその扱いは気に入らない。でも美優と史也は友達以上恋人未満でお互いの気持ちをはっきりいったことはなかった。
それでいて切っても切れなくて、史也が高校を卒業するまでの二年間はお互いを求めるように頻繁に会っていた。
史也が大学に入った辺りから思うように会えなくなって、メールやラインだけでやっと繋がる日々だった。
その当事、美優は中学三年で受験を控えて勉強に忙しくなったけど、史也もまた遠く離れた大学の近くで一人暮らしを始めてから滅多に地元に戻ってこなかった。
自分が大人になれば史也を追いかけられる。そればかり考え、美優は受験勉強を頑張りやっと高校生になれて喜んでいた。
これで少しは史也に近づいた。
高校生になった自分を見て欲しいと美優は史也に連絡を入れていた。だけど、それについての返事は中々もらえなかった。
そしていつの間にか史也からの連絡も途絶えてしまった。
もしかしたら史也には彼女ができてしまったのかもしれない。
それを恐れていたとき、やっと史也から会おうとメールが来た。それは史也の兄が弟のスマホを操作したものだったとはその時は知らなかった。
そして史也はもうこの世にいない。
しかも自殺と聞いて美優は衝撃を受け、一瞬息が苦しくなる。
史也の兄からその事実を知らされたとき、美優は自分が夢の中にいるようで、それが現実だと受け止められない。それとも史也と会っていた時が夢だったのだろうか。
でも史也の兄の苦しそうな表情を目の当たりにすると、自分の立場を否定し続けるのは却って失礼なように思えた。
悲しみの中落ち着きを取り戻して、自分が知っている史也の事を話そうと心を決めた。
美優は史也が好きだったことも伝えたかったのに、妹と思われていた事にショックを受けた。それが顔に出ていたのだろう。史也の兄は美優を宥める。
「妹と思ったのは、美優さんがあまりにも可愛かったからだと思います。守るものができたことで、自分がしっかりしなければと背伸びしたかったんです。そこに美優さんに好かれたいという気持ちもあったはずです。でも……」
そこで史也の兄は少し黙った。
「でも、何でしょう?」
美優は催促する。史也が自分をどう思っていたのか知りたかった。
「いえ、私が言うことではありませんでした。史也はとにかく美優さんを大切に思っていたと思います」
史也の兄はコーヒーカップを手に取り、ぬるくなってしまったコーヒーを静かに喉に流し込んだ。その姿は史也と重なった。その様子を美優は寂しく見つめる。
「私は史也さんのことが……」
美優が言いかけたとき、史也の兄はカップをソーサーに置いた。その音が意外にも強く響いて美優の言葉を遮った。
「美優さん、今まで史也と仲良くして下さってありがとうございました。美優さんはもう自由です。この先、自分のしたい事や夢に向かって羽ばたいて下さい。史也もきっとそう望んでいることでしょう」
「史也さんはお兄さんに、私の事を他に何か話してませんでしたか?」
「それを知ったところでどうなるんでしょう。何とでも私は史也の代わりに言えます。私の言葉を信じますか? もし、美優さんのために喜ぶ事を言おうと私が嘘をつくこともできます」
史也の兄の目がどこか虚しい。
美優を突き放して、これ以上史也に関わるなと言われているようだ。
いや、史也の兄が弟と関わりたくないといっているのかも しれない。とても複雑な要素が絡み合っている。
美優に会って史也の死について話すのも本当は乗り気じゃなかったのかもしれない。会ってくれただけでも感謝すべきことだ。
「すみません。自分のことばかりで」
美優にはそれ以上どうすることもできなかった。史也の兄に自分の気持ちを言っても仕方ないし、史也の不確かな言葉を兄の口から聞いても意味がない。
自殺の原因も史也にしかきっとわからないのだろう。何を聞いても史也は美優の元には戻ってこない。美優は俯き肩を強張らせて必死に耐えていた。
「美優さん!」
史也の兄が突然叫んだ。
美優が顔をあげると史也の兄はボロボロと涙をこぼしていた。それを見るととても悲しくなると同時に、相手が自分よりも感情を露にすると美優は一歩引いて冷静になっていく。
何を言われるのか、美優はじっと史也の兄を見つめていたが、史也の兄は口元を震わすだけで声がとも合わない。まるでそこには美優に何かを伝えたい言葉が隠れているようだ。それを飲み込んで違う言葉が口から出てきた。
「す、すみません。ただお礼をいいたかっただけなんです。どうかお幸せになって下さい」
史也はテーブルの伝票を手にし、そして立ち上がる。
「あっ、あの」
美優が何かを言う前に史也の兄は「さようなら」と去っていく。
追いかけたくて美優は咄嗟に手を伸ばすが、椅子からは立ち上がれなかった。史也の兄はこれ以上史也の事を聞かれたくない何かがあると美優は感づいていた。
暫くひとり椅子に座ったまま、史也の兄が飲んだコーヒーカップを見つめていた。
「お兄さんの名前、そういえば聞いてなかった」
でも知らなくてもいいのだろう。今後、会うこともなさそうだと美優は思う。
何もかも虚しくて、そして悲しすぎて美優はすぐに立ち上がれない。
まだ手をつけてなかったクリームソーダにストーローを差込み一口吸った。喉に炭酸の刺激が走る。それは胸へと流れて弾けて去っていった。
史也に言えなかった思い。自分が大人になれば全て解決すると思っていた。いつかそれが叶うまで美優は誰にもこの恋を言わなかった。史也の事を誰にも知られたくないと独占欲も強かった。自分だけのヒーローのように。
美優の思い出の中の史也はいつまでもかっこいいままでその姿を封印する。中学生の子供だった自分の姿と共に。いつかそれが懐かしいと思えるその時、美優はきっと今よりももっと大人になっている。
「そうしたら、その時の私は思い出の中の史也よりも年をとってるのね」
ぼそっと呟いて、目の前のクリームソーダを見つめ美優はひっそりと泣いていた。
そのうちアイスクリームが溶けていくと、自分の流れていく涙に見えていく。スプーンを手にしてそれをかき混ぜた。
色が透き通った緑からパステルカラーの優しい緑色に変わっていく。史也のようにそれが優しいものに感じられた。
史也の笑顔が目に浮かび、泣くことが史也のためにならないと思えてきた。
悩んでいたときに出会えた事で強くなれた。史也のお陰で今があると自分を勇気付ける。
もう一度残りのソーダを飲んだ時、溶けたアイスクリームが混じって口の中で優しくはじけた。
飲み干した時、きっと自分は笑顔になれる。
美優は愛しそうにクリームソーダを味わっていた。
「美優、嘘を信じてくれてありがとう」
白髪の男は喧騒の街の中で独り言を呟き、これでよかったと終止符をつける。
ショーウインドウにリフレクトする自分の姿。自分は一体何歳に思われたのだろう。これでもまだ二十一歳だと言ったら誰も信じないだろう。
喫茶店から逃げるように飛び出したあと、史也は悲痛な思いに息苦しく胸が張り裂けそうになっていた。
久しぶりに会った高校生の美優は驚くほど美しくなり輝いて眩しすぎるほどだった。
それとは対照的に史也は枯れて老いぼれていた。それは人よりも早く年を取ってしまう病のせいだった。
早くからこの病に侵されている事を知っていた史也は人生を絶望視していた。そんな時に美優を見かけ、無邪気になれる一番楽しい時期に不満を抱いている様子が勿体無くて口を挟んでしまった。
まだ年相応に見える姿のままで人と関わり合いたい気持ちもあったし、美優の可愛さにふと惹かれた気持ちもあった。それとも本能で救いを誰かに求めていたのかもしれなかった。
成り行きで知り合ったことは、史也にはとても有難く思えた。
中学生の美優は確かに妹のように救いを差し伸べたいと思っていたけど、そう思うことで自分を保てるような気がした。その時だけは病気のことを忘れられた。
だけどそれも次第にできなくなり、二十歳が近づく頃に急激に年を取っていく。史也の場合大学生に入った頃にはすでにその兆候が著しく出てきていた。
美優に会いたくても急激に老けた姿を見られたくない。隠していてもいずれ今よりも年を取っていく。悩みに悩んで出した結論が、兄に成りすまして自分を殺すことだった。
それは早くから計画し、美優にも架空の兄の存在を予めほのめかす。
しかし、実際年老いた兄がすでに史也の中に存在していて、若い自分とすり替わるその時を容赦なく待っていた。
年を取った自分に会いたくない、でもすでに会ってしまった。ショーウインドウに映る姿はまるで玉手箱を開けた浦島太郎のように突然に老けた自分がいた。
いずれそうなるからと史也は恋をずっと押し殺し美優を見ていた。美優の気持ちも聞きたくなかった。多感な年頃にヒーローとして美優の目に映ればそれでよかった。
「僕は思い出の中で君のヒーローでいたい」
史也はショーウインドウに映る姿を尻目に背筋を伸ばして歩いていく。
その姿はやがて街を行き交う人の中にまぎれて見えなくなった。
そして史也の恋は誰にも告げられず心の中で無数の泡となろうとしていた。
了