五月も終わりかけた頃、子犬の新しい飼い主が決まった。
 同級生の親戚という人物から、よつば食堂に電話があった。小学二年生の一人娘が写真を目にし、どうしても飼いたいといって聞かないという。
 嬉しいはずの一報を聞いても、翔太の胸からはため息が漏れた。

 土曜日の夕刻、若い母親が車で食堂までやって来た。悦子に通された裏の広場で、翔太と凛は彼女に「こんにちは」と挨拶をした。彼女も同じように「こんにちは」と言った。子犬は何も知らないまま、凛の腕の中で尻尾を振っている。
「大丈夫やとは思うんやけど、一つだけ約束させてほしいんです」子犬について細々とした説明をする悦子が、最後に言う。「もし飼えんようになったら、いつでもええんでうちに返しに来てください」
 悦子らしい台詞だなと翔太は思った。優しい言葉だ。
「ええ、約束します」母親は微笑んだ。「けど、安心してください。私も昔、実家で同じ犬種を飼っていたんです。必ず最期まで幸せにします」
 それならと、悦子は凛に目配せした。彼女は頷いて、犬を一層強く抱きしめる。その感触を手に植え付けるように頭と背中を撫でる。「元気でね」そう言った。
 次に翔太が犬を受け取った。
 真っ黒で真ん丸な瞳。顔が映るぐらいに純粋で真っ直ぐなそれを見つめ、犬の額に自分の額を軽く当てた。ありがとう、と呟く。温かい鼓動に、悲しみが吹っ切れる。この犬は、もう次へ行かなければならない。「幸せになれよ」そう言い聞かせると、頷くように子犬が鳴いた。
 子犬をそっと入れた木箱を持ち上げ、表の車へと運んだ。助手席の足元に箱を固定する。
 礼を言った母親が乗り込むと、まるで未練を知らない車はあっという間に去っていった。
 大きく手を振っていた凛は、それが見えなくなった頃に泣き出した。だから翔太は、泣かずに済んだ。
「泣くなよ」
 そう言われた凛は頷きながらもしばらく泣いていて、その肩を悦子が優しく抱いてやった。

 食堂の人々は、礼をしたいと言ってくれた。そんなものいらないと翔太と凛は断ったが、最も高い定食に海老フライをおまけしてくれた。翔太はせめてポケットの三百円を渡そうとしたが、それはジュース代にしろとどうしても受け取ってくれなかった。
「お、翔太。いいもん食ってるなあ」
 定食を口にしていると、元さんがやってきた。
「あげないよ」
「言うなあ、おまえ」
 大きな手で頭を掴まれ、乱暴に撫でられる。豪快な笑い声を聞きながら、レタスを口に運ぶ。
「元さんと翔太くん、仲良しなんだね」向かいで同じものを食べる凛が言った。
「そりゃあな。ちっこい頃から知ってるからな」勝手に翔太の横に座る。その周りでは、騒がしい男たちがカウンターで口々に注文をしている。
「ちっこいって?」
「言っても小学生だよ。二年ぐらい」
「その頃からずっと来てるんだ」彼女は驚いた顔をした。「じゃあ、ここは翔太くんの実家みたいなものだね」
 彼女の台詞に翔太は目を丸くし、元さんは大きな声で笑った。「そうかもなあ」などと勝手に言う。
 悦子や元さんや、その仲間や従業員の人たち。多少顔ぶれは変わることもあったが、誰もが優しい。少なくとも、帰るべき「家」の人間とは比較にもならない。だから七年もここに通い詰めている。
 彼らが家族だったら。そんなことを幼い頃は妄想した。だが今はもうしない。現実との差分に気づいた途端、実に惨めな気分に陥るからだ。
 近づきすぎず、遠すぎず。この距離でいい。背中を叩いてくれる手のひら、騒々しく慣れた声、身体に馴染んだ味。全てが十分だ。おまけの海老フライを噛み締めた。