翔太は混乱していた。日曜日に友加里の話を聞いてから、頭の中がぐしゃぐしゃで吐き気がしていた。凛を疑わざるを得ない現状と、疑いたくない感情が、激しく混ざり合っていた。常に胸中がそのことでいっぱいで、アルバイト先ではミスを繰り返して叱られた。食事中でも授業中でも、眠りにつく時ですら考え続け、たちまち寝不足になった。
 もしかしたら、人違いではないか。いつも最後はその考えに辿り着き、よく似た違う事件の犯人が彼女の父親だったのではと考える。それならまだ救われる。彼女の父の罪は、彼女のものではないのだから、殺人犯の娘であれど彼女を愛せる自信はある。ただ許せないのは、その罪が自分の両親の殺害であること、ひとつだけ。つまり重要なのは、日下部雄吾が凛の父親ではないということだ。そうだ、その一点だけなのだ。
 だが、凛に以前の名字を尋ねる勇気が出なかった。そういった話はこれまで出来る限り避けて通ってきた。どう切り出せばいいのかもわからないし、もし本当にそうだとしたら……。
 自分の中にこもって延々と考え続ける翔太は、彼女に会わずとも以前の名字を知る方法に気が付いた。それは、いけないことだと以前自分を諭した方法だった。
 けれど、知らないわけにはいかない。
 木曜日、翔太は急いで家に帰ると、「夢十夜」を手に取った。部屋の畳に座り込み、本をひっくり返し、裏に書かれている「榎本凛」の名前を見つめた。その苗字は一枚のシールの上に書かれている。
 激しい動悸に加え、眩暈がする。
 これをめくれば、決着がつく。もしも下に書かれている苗字が「日下部」でなければ、なんの問題もない。明日からいつも通り凛と接し、笑い合うことが出来る。また幸せな日々が戻ってくる。
 だが、同時に果てしない恐怖が襲ってきているのも事実だった。もしも彼女があいつの娘だったら?
 気づけば、日が暮れていた。
 電気も点けていない部屋の中は薄暗く、外から月明かりが差し込んでくるばかりだ。美沙子は帰ってきていない。最近は城戸という男の元に入り浸り、週に数度しかこの部屋には戻ってこない。
 ――大丈夫。凛は絶対、大丈夫。
 何度言い聞かせたかわからない言葉を自分にかけ、ついに翔太は裏表紙のシールに指先を触れさせた。ぶるぶると指が震えてしまう。息を吐き、ゆっくりと吸い、また吐いて。慎重に、シールをめくった。
 シールは思いの外、綺麗に剥がれた。
 そして想像していたよりも、ショックは小さかった。やっぱり、と奥の方で囁いた。わかっている。本当はどこかで諦めていた。あんなにひどい事件が、同じ年に何度も起こるとは思えない。一縷の望みは、都合が良すぎたのだ。
 ああ、とため息が漏れた。
 「日下部凛」
 それが、彼女の本当の名前だった。