日下部(くさかべ)雄吾(ゆうご)は、随分困窮していた、らしい。
 後に翔太が知った全容は、こうだった。
 日下部の家庭はとても貧しかった。妻子のためにいくら働いても、生活は楽にはならなかった。疲弊し摩耗したある日ふと思い立ち、会社帰りに見知らぬ駅で電車を降りた。
 駅前で呆然と立ち尽くしていると、自分とほぼ歳の変わらない見た目のサラリーマンが目についた。その男には駅前まで妻と息子が迎えに来ていた。小学一年生ほどの男の子が、いち早く駆け寄って飛びつく。男はそれを抱きとめて嬉しそうに笑う。「ただいま」と言うと、男の子が「おかえりなさい」を連呼して、今日あったことを話し始める。歩み寄る妻が男の子と手を繋ぐと、その反対の手を男は握りしめた。
 息子を真ん中にした、幸せな三人家族。
 夕陽の中へ歩いていく彼らを見て、何故だか涙が溢れた。
 そして、「壊さなければ」と思った。憎悪だの嫉妬だの、そんな感情がどろどろと混ざりあい、ゆっくりと、しかし力強く心の堤防を壊していった。目元を拭いながら、許せない、とも思った。
 距離を空けて後をつけ、辿り着いたのは一軒の真新しい家だった。自分の狭いアパート暮らしが、惨めさを超えて馬鹿馬鹿しく思えるような家。
 靄のかかった頭で庭に侵入し、物置の裏に身を潜めた。
 時間の経過は記憶にない。すっかり日が暮れてあたりが暗くなった頃、勝手口が開き、パジャマ姿の男の子が現れた。彼は庭の植木鉢のそばにしゃがんで何かを拾い上げると、再び家の中に戻っていった。鍵の閉まる音はしなかった。
 更に夜が更け、家からも周囲からも灯りが消えた頃、勝手口のドアの取っ手を引いた。音もなく開いたそこから家の中に忍び込む。キッチンから廊下を進むと玄関にたどり着いた。防犯用に置かれた金属バットを握り締め、再び家の奥へ踵を返した。
 廊下の脇に、光の漏れる部屋があった。ゆっくりと開けると、中にはこちらに背を向けてデスクのパソコンで作業をする男の姿があった。
 男が気配に振り向く前に、バットを上から下へ思い切り振った。頭部を打たれ、床に崩れて痙攣する男を何度もバットで打ち据えた。
 血しぶきの生温かさに気づいた頃、男はピクリとも動かなくなっていた。
 そして、「どうしたの」という不安そうな女の声が聞こえた。
 引き寄せられるように部屋を出て電気の点いたリビングに入り、男の妻と鉢合わせた。彼女は目を大きく見開いて驚いたのち、事態の把握に努めようとその目を忙しなく動かした。視線が血に塗れたバットを捉えた頃、短く叫んだ彼女の頭部を狙いそれを振った。
 だが一歩引いた彼女の頭を逸れ、バットは肩口に当たった。痛みに崩れながら必死に距離を空けようとする彼女に近づき、その胴を狙った。身体を守ろうとした腕を打つと、骨の折れる鈍い感触がした。
 悲鳴を上げる顔面を打つと、真っ赤な血が吹きだした。這ってでも逃げようともがく彼女の腹を、足を打った。あの男では、壊す感触をあまり味わえなかった。だからその分、残りの家族で、と思った。
 部屋の家具や壁に鮮血が飛び散った頃、息も絶え絶えの彼女が、「逃げて」と潰れた顔で必死に声を上げた。まだこんな大声が出せたのか。血や唾液や涙に塗れた顔面に向け、最後の一撃を食らわせるべくバットを振り上げた。
「しょうた……!」
 その言葉を最後に、頭を割られた彼女は血の海の中に溺れていった。
 振り向くとリビングに一歩入ったところで、見覚えのある男の子が立ちすくんでいた。恐怖におののく細い足は震え、小さく開いた口から浅い呼吸が漏れている。
 すぐくたばりそうだな、と思った。それならまず足から狙うべきだろう。
 気の触れた思考が巡った時、リビングの窓を通し、隣家の部屋に灯りが灯ったのに気が付いた。話し声が聞こえる。先ほどの悲鳴を聞きつけた近隣住民が、怪しんでいるようだ。
 その時、初めて「まずい」と思った。逃げなければ。この子の口を封じて、一刻も早く現場を去らなければ。
 足を踏み出すと、それまで固まっていた男の子は弾かれたように動き出し、背を向けて逃げようとする。足早にその距離を詰め、黙らせようと素早く首根っこを掴んだ。幼い悲鳴をあげて暴れる身体を床に叩きつけ、頭を狙ってバットで殴った。一発で、男の子は動かなくなった。
 いよいよ玄関のチャイムが鳴る。入ってきた勝手口から家を飛び出し、裏の塀を乗り越え、逃げた。