犬は、犬と呼んだ。名前を付けて情が移ると離れる時に余計悲しくなる。子犬はとても人懐こく、凛にも翔太にもすぐに懐き、構ってやると短く小さな尾を千切れんばかりに振った。首には凛が持ってきた青いリボンを結び、アルミ容器を餌と水の皿代わりにした。
 ある夕暮れも、翔太は店の裏口から子犬を連れ出し、少し運動させてやった。店の裏はちょっとした空き地だが、懐いた子犬は遠く逃げたりはしなかった。短く太い脚をちょこちょこ動かし、草や空気のにおいを嗅いで回った。
「おまえ、なにつけてんの」
 水を替えて振り返り、思わず翔太は笑った。犬の鼻の頭に、タンポポの黄色い花びらがついている。そんなもの気にする様子もなく、呼ばれたことに気づいた犬は嬉しそうに駆け寄ってきた。
 抱き上げ、花びらを取ってやる。子犬は温かくて柔らかい。草のにおいがする。盛んに動く尻尾が腕に触れてくすぐったい。
 気づいた翔太は、思わずそこから一歩二歩引いた。それでも彼女の持つスマートフォンのレンズは追いかけてくる。
「じっとしてて」
「録るなよ」
「顔は映さないから。この子だけ」
 どうやら彼女は動画を録画しているようだった。くんくんと鳴く犬の頭を片手で撫で、その顔をしっかりレンズで捉えている。
「何で録ってるんだ」
「あとで、必要になるの」
 意味がわからないでいる翔太を促し、子犬を下ろさせると歩く姿を録画する。容器に餌を入れ、美味しそうに平らげる様子も録り、何枚か写真にも収めた。
 子犬はよく寝る。二人が構いしばらく遊ぶと、こてんと眠り込んでしまった。それを毛布を敷いた木箱に入れ、裏口から入った店の隅に置き、タオルをかけて暗くしてやる。
 犬の世話を終えて表口から中に入ると、少し遅めの夕食を摂ることにした。
「ほら、これ見て」
 共に番号が呼ばれるのを待っている間、スマートフォンをいじっていた凛が画面を正面の翔太に見せる。
「里親募集?」
「そう。掲示板。ここにさっきの動画と写真載せておくの。誰かが気に入って連絡してくれるかもしれない」
 ネットの里親募集の掲示板だった。凛が見せたページには子犬の詳細や食事の写真、先ほど録画した動画が貼られている。
「ふーん」なるほど、これなら学校よりも遥かに多くの人たちに声掛けができる。「便利だな」翔太が心底思って言うと、凛はくすりと笑った。
「今時、自分のスマホ持ってないのなんて、翔太くんぐらいだよ」
「うるさいな」彼が口を尖らせたとき、各々の番号が呼び出された。
 翔太はいつも通りの親子丼、凛は日替わり定食を前に、いただきますと軽く手を合わせる。
 他愛のない話をしながら、二人は箸を動かす。子犬の様子や、学校のこと。中間試験はいつ頃だとか。ほとんど凛が質問しそれに翔太が答えると言った形だったが、二人は同級生らしい会話をした。
 だが、彼女の言葉と意識にずれがあるのに翔太は気付いた。彼女は何か言い淀んでいる。愛想の良い会話に、他に聞きたい話を混ぜようとしているのが分かる。
 そんなもの、どうでもいい。出会ったばかりの彼女に対し、やましいことなどこれっぽちもない。嘘も、隠し事も、その必要性も。
「今日、ちょっと聞いたんだけどね」彼女はようやく決心したらしい。わかりやすいな、と思いながら翔太は水を飲む。
「翔太くんの、家のこと」
 だからなに、とは言わなかった。残った卵を箸ですくう。
「お母さんたちと、暮らしてないの」
 卵を口に運ぶ。
 嘘も隠し事も必要ない。かといって、言う必要もない。
 ――殺されたんだよ。
 そんなこと、言わなくたって。
「そうだよ」残った玉ねぎと米粒をかき集めながら翔太は返事をした。
「俺、伯母さんと暮らしてるんだ。二人とも死んだ」
 そうなんだと言った彼女は、いくぶんほっとした様子だった。理由を詳しく問い詰めるほど彼女は幼くないようだった。
「二人暮らし?」
「うん」
 少しだけ、彼女を不審に思う。なんだかその表情が嬉しそうに見えたのだ。
「なに笑ってんの」
「笑ってなんかないよ」慌てて否定する彼女は続ける。
「私も、両親居ないんだ。叔父さんの家族と暮らしてるの。お姉さんがいて、四人暮らし」
 思わず目を見開き、箸を咥えたまま、翔太はようやく「へえ」と唸った。彼女の家もどうやら複雑なものらしい。もちろん、それを問い質すほど翔太は幼くはない。
「お母さん、蒸発しちゃったし。お父さんも、もう一緒に暮らすことはないから」
「そうなんだ」
「似てるね。私と翔太くん」
 別にと言いかけて、やめた。今度こそ嬉しそうに笑う姿に、水を差したくない。こんなに明るい女の子とこれほど暗い共通点があるだなんて、微塵も思わなかった。代わりに彼女に釣られ、翔太も少しだけ笑ってしまった。