翔太が受験できることを喜んだのは、凛だけでなく悦子や元さんといった食堂の人々も同じだった。悦子と旦那は食堂を閉める夜の九時まで、テーブルの隅で二人がノートを広げることを許してくれた。
 次第に空気に冷えを覚え始める季節、その夜も二人はよつば食堂で教科書とにらめっこをしていた。
「そういえば」凛が顔を上げる。「翔太くんって、運動神経悪いよね」くすくすと笑う。
 勉強に疲れると、どちらからともなく関係のない話をして休憩できるのも、二人でいる利点だった。
「馬鹿にしてんの」
翔太もテーブルの上の教科書を閉じる。
「だって、よくぶつかるし、時々転ぶし」
 憮然とする彼に、彼女は「あはは」と笑った。
「悪口かよ」
「体育ぐらいちゃんとした方がいいよ。今日の跳び箱、見学してたけどサボりでしょ」
「サボりじゃないし」翔太は軽く右目の瞼を指先でかいた。「知らなかったっけ」
「なんのこと?」
「俺、右目見えないんだ」
 凛が驚愕に目を丸くした。「うそ」とその唇が動くのに「ほんと」と翔太は返す。
「神経がやられてるんだ。光があっても、ずっと真っ暗で何も見えない」
 左目を閉じて、顔の前で右手の指を二本立ててみる。本数どころかその存在さえも、右目ではちっともわからない。
「こんなんで跳び箱するなんて、危険すぎるだろ。不便だよ。片目が見えなくても、もう片方が良かったら、手帳さえもらえないんだ」
 唖然としていた凛は、はっとすると申し訳なさそうに顔をゆがめた。
「ごめん、ごめんなさい。私、全然知らなかったから……」
「俺だって言ってないし。全然気づかれなかったんなら、その方がいいよ。そう見せてんだから」
 それでも、彼女はどんな顔をしていいのかわからないようだった。自分の台詞を思い出してすっかりしょげかえっている。悪口なんて言わなきゃよかった。そう思っているのがありありと伝わってくる。
「そのこと、みんな知ってるの?」
 凛は周囲を見渡した。向こうの席では今日も元さんたちが集まって食事をしている。カウンター前では客の一人が「悦っちゃん、牛丼一つ」と注文をし、「はーい」と悦子が元気よく返事をするのが聞こえる。
「知ってるよ」
 翔太が頷くと、「クラスのみんなは」と凛は神妙な顔をする。
「もちろん。半分は小学校も同じだったんだし」
「そうだったんだ」
 彼女の様子に、少し考えた翔太は慌てて言った。
「別に、榎本さんに嘘つこうとか、そんなんじゃないよ。わざわざ言う必要なかっただけだし、多分みんなもそう思ってるんだよ」
「……そうだね」彼の台詞に、凛は納得したように頷いた。「その、見えない理由も、みんな知ってるの?」
「まあ、多分」逡巡を隠し、翔太はすぐに続ける。「なんていうか、事故だよ」
 うんうんと頷く凛は、それ以上原因について言及するつもりはないようだった。代わりに、くすりと笑う。
「可哀想だね、翔太くんは」
「なんだよ、いきなり」
「だって、お母さんもお父さんも亡くなって、右目まで見えなくなっちゃって。こんな不幸な人、そうそういないよ」
「榎本さんだって、似たようなもんじゃんか」翔太は口を尖らせた。「叔父さんたちと上手くいってないんだろ」
「どうして」
「見てればわかる、そんぐらい。あのお姉さんって人にもいじめられてるだろ」
 あの丘に二人で上った夜のことを思い出す。まだ中学生の女の子が、とっくに食堂の閉まる時間になっても帰ってこないのだ。普通の親なら心配するし、凛もきっと躊躇うはず。それなのに、遠回りしようと誘ったのは彼女の方だった。その時点で翔太は違和感を覚えていたし、家で義姉と鉢合わせた彼女の様子を見て確信した。彼女の家は裕福でも、彼女は決して幸福な女の子ではない。
「翔太くんは、容赦ないなあ」
「そっちが言い出したくせに」
 凛が否定せず笑うから、翔太も笑ってしまった。傷だらけの自分たちを思い知ると、笑えてきて仕方なかった。