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 その後も、時折百瀬を誘っては近所のカフェでご飯を食べた。
 いつまで経っても目的を達成できる気はしなかったけれど、楽しそうな百瀬の顔を見れるのはうれしかった。
「ね、この前言ってた三人オトコ旅、どうだったの?」
「あー、楽しかったよ。ヒッチハイクしたり、滝行してみたり。ホテルの予約できてなくて野宿しかけたりもしたなぁ。画像見る?」
「見たい!」
 会うたびに百瀬の笑顔が増えていく。それが彼女と打ち解けつつある証拠のようで、そこはかとないうれしさを感じた。
 一方で、ポケットからは現れる不穏な紙は止まることがなかった。
〝ぼっち、かわいそうだね〜〟
〝顔キモいよ〟
〝学校来なくていいから〟
 ハンカチ、レシート、スマホ、いろいろなものに混じって陰湿な言葉が俺のポケットにワープしてくる。でも百瀬は何も言わない。やっぱり俺の勘違いなんじゃないかと思わせるくらい、一緒にいても彼女からその話は出てこない。
 そして俺も、その疑問を解消する一言が出てこない。
〝百瀬。今……学校、楽しい?〟
 何も聞けない。立ち入れない。百瀬にとって俺は相談する価値もないただの知り合いなのだと思うと、何も切り出さなかった。
 文通でやり取りをしている人たちと比べたら、俺は彼女にとって〝生徒A〟なのだろう。
 そう思うと何も行動できず、ポケットから生まれる不快な言葉をゴミ箱に叩き付けるだけの日々が続く。
 そんなある日のことだった。
 学校からの帰り道、ふとポケットに手を入れると何かが手に触れた。
 ハンカチだ。でも気になるのは、もうひとつの方。
 数珠。
 ……なんだ、これ。
 新品みたいな、黒の数珠。ハンカチもいつものモコモコしたものではなく、薄い真っ白な生地で、触れると僅かに湿っている。
 なんだ……?
 お墓参り?
 平日の、こんな時期に?
 それとも……。
 ……お葬式?
 気になって、ついマンション前の公園で百瀬を待ってしまった。
 ポケットの中の数珠はすぐに消えた。でも、胸に残る不安はいつまでも消えてくれない。
 何かあったのだろうか。
 百瀬は今、何をしているのだろうか。
 なんで俺は、こんなに彼女のことが心配なんだろう……。
 しばらくすると、マンションへ入ろうとする制服姿の百瀬が目に入った。
 夜まで戻らないかもしれないと覚悟していたのに、塾がある日より早く現れたので驚いてしまう。
 俺の視線に気づいた百瀬が振り返った。
「片野くん……」
 百瀬はたくさんの紙袋と、花束を抱えていた。
 仏花ではない。赤、白、ピンク、華やかな色合いが百瀬の手元を彩っている。
「……バレちゃった」
 百瀬はそう呟くと、俺に近づいてきた。
 そして少しためらいながら、口を開く。
「片野くん、ごめんなさい。……私、もうすぐ引っ越すの」
「……え?」
 混乱して、体が固まった。
 引っ越す?
 引っ越す、って……?
「転校するから、今日、最後の登校だったんだ。片野くんにも言わなきゃって思ってたんだけど……なんだか言えなくて。ごめんなさい」
「え……。な……なん、で」
「これからはおじいちゃんの家に住むの。新潟に行くんだ」
 絶句した。
 新潟……。
 新幹線を使えば会えない距離じゃない。でも、高校生の俺にとっては絶望的な遠さだ。
 頭が真っ白になる。
 同時に、さまざまな感情が入り乱れた。
 悲しさ。
 寂しさ。
 そして……。
 ——悔しさ。
「なんで……そういうこと、何も、言ってくれないんだよ」
 気づくと、唇から本音がこぼれ落ちていた。
 ……何を言っているんだろう。
 俺だって、何も言わなかったくせに。
 いじめの紙を見てしまったことも。
 相談してほしかったことも。
 勇気がなくて、怖くて。何も言えなかったくせに。
「ごめんね……。あの……」
 百瀬が鞄から何かを取り出そうとする。
 それと同時に、俺の鞄から着信音が鳴った。
 ゲーム仲間からだ。今夜、オンラインゲームの約束をしていたのを忘れていた。
「……電話? 出ていいよ」
「いや、友達だから……あとでいいよ。それより百瀬、今言いかけたこと……」
「……ううん。やっぱり……なんでも、ないの」
 ふっと微笑む百瀬の笑顔がどこか寂しげで、不意に、これが俺たちの最後なのだと悟ってしまった。
 その瞬間、頭の中にある言葉が舞い降りてくるのを感じた。
〝好きだ〟
 急にその単語を言いたくなって、今更に、自分の気持ちに気づく。
 あぁ……そうだ。
 俺はずっと、百瀬のことが好きだったんだ。
 はじめは、小学生の頃。
 彼女の字を見て、心惹かれて。
 そして、今。いつのまにか彼女の柔らかな笑顔に癒されるようになっていた。
 ずっとそばにいると思っていた。
 どこにも行かないと思っていた。
 言うチャンスなんて、いくらでもあったのに。
 いつでも声が届く場所にいたのに。
 別れはもう、目の前。なのに、この今ですらも。
 言葉が……出てこない。
「……百瀬」
 好きだ、という言葉が喉元で消えていくのを感じる。俺はすばやく自分の生徒手帳を取り出し、メモ欄を破った。
 ペンを探して体をまさぐっていると、百瀬が気づいてポケットのペンを貸してくれた。メモに自分の電話番号とSNSのIDを書いて、百瀬に渡した。
「……もし……。……困ったことがあったら、連絡して。いつでもいいから。いつでも、会いにいくから」
 彼女の目の縁が、夕日を浴びて波打ち際のように輝いている。
「……うん。うん……。ありがとう……」

 ——でも、わかっていた。

 彼女は決して、自分から弱音を吐かないこと。
 誰かに頼らず、なんでも自分で解決しようとすること。
 彼女はおそらく、いじめから逃れるために転校する。それを一言も、俺に話さなかったから。
 そんな彼女に決断を押し付けても、彼女は……。
〝好きだ〟
〝距離が離れてもいいから、付き合ってほしい〟
 俺はここで、そう言わなきゃいけなかった。
 仮に、彼女が一ミリでも俺に好意を持ってくれていたとしても。俺が言わなければ、百瀬は離れる。距離の遠くなる自分と無理につながろうとはしないから。
 だから、俺から言わなきゃいけなかったのに……。



 それきり、彼女から連絡が来ることはなかった。