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 百瀬華乃は小学生の頃のクラスメイトだった。
 いや、高校生となった今、小学生の頃のことなんてほとんど記憶の彼方に消えている。俺たちの関係をもっと的確に言うならば、〝同じマンションに住む同い年の知り合い〟だろう。
 俺たちは同じマンションに住んでいる。
 俺の家は二階、百瀬の家は最上階の七階。階が違うからといってそこまで家賃は変わらないだろうけど、百瀬は育ちのいい、金持ちの気配がしていた。
 ただ、百瀬はそれを鼻にかけることもない、物静かな普通の女の子だったけれど。
 彼女の字のことはよく覚えている。
 学校中の誰よりも美しかった。廊下に貼り出された作文も、黒板に記すチョークの字も、俺は密かに見惚れていた。
 あのノートは彼女のものだ。たいした記憶力もないくせに、それだけは事実だと思えた。
 じゃあなんで、彼女のノートが俺の制服のポケットに入っているのか……。
 その日の放課後、俺は家へ帰らずマンションの敷地内にある公園へと向かった。
 百瀬と最後に会ったのはいつだろう。百瀬と俺は生活リズムが違うらしく、同じマンションに住んでいるというのにすれ違うのは年に一度くらいだった。
 それでも会えば二言三言は話す間柄だから、今話しかけてもぎりぎり気まずくはない。
 ……会って、どうしようというのだろう。
 よくわからないまま、ブランコに乗って彼女を待つ。定期的に整備されているブランコは、変な引っかかりもなく俺の体をするりと空中に浮き上がらせた。
 彼女がいじめを受けている確証なんてない。
 それどころか、この紙切れが彼女のものという根拠もない。
 なのに俺は、何がしたいのか……。
 ふと、ブレザーのポケットに手を入れる。そこで気づいた。
 ない。
 あの紙切れが、ない。
 ブランコを止めて確かめてみても、やっぱりない。たしかにさっきポケットに入れたはずなのに。
「——片野くん?」
 声をかけられて、驚いて顔を上げた。
 そこには、腰を折り曲げて俺を覗き込む、制服姿の百瀬がいた。
 揺れる長い黒髪。化粧っ気もないのにほんのりと艶めく、きれいな肌。
 あまりに急な出会いに、声が出なくなる。
「やっぱり片野くんだ。どうしたの? こんなところで」
「い、いや。……久しぶり。帰り、遅いのな……お前」
「塾行ってるから」
「あ、そうなんだ……」
 次の言葉が見つからない。話題なんてクラスの女子相手ならすらすら出てくるのに、なぜか思考が止まっている。
 そうこうしているうちに、百瀬が曲げた腰を元に戻した。
「じゃ、また……」
「あ、あのさ!」
 咄嗟に引き止め、同時に頭をフル回転させた。
 このポンコツ頭も、いつもこれくらい動いてくれたらテストでいい点が取れるだろうに。
「……お袋、最近パート始めてさ。今夜は自分でご飯買いなさいって金渡されたんだ。でも俺、一人でご飯食べられない派で……。……奢るから、メシ付き合ってくんね?」