1

 二学期が始まってからもうすぐ一か月が経つ。青葉はまだ深いけど、季節はすっかり秋だ。この季節になるといつも悲しい。僕は窓の外で風に揺れる木々を眺めて思う。
「莉奈ちゃんのこと、考えてる?」
 不意に呼びかけられ、ベッドに腰掛ける詠を見る。四季折々と万年筆を手に持って微笑んでいる。嘘をついても仕方がないので、僕はわかりやすくうなずいた。
「うん。でも、前よりは寂しくないよ。詠とか、みんなのおかげ」
「ほんとに素直になっちゃって~。前に進んで、えらいえらい」
 子どもみたいに頭を撫でてくる詠の手を雑に払って、僕は四季折々を覗き込む。
「夏にやること、ぜんぶ終わったんだな」
「うん。ぜんぶ湊のおかげ。このまま秋も、冬もよろしくね」
 僕は、今度は曖昧にうなずく。終わりが近付いているんだ。でも僕以外の誰も、そのことは知らない。その現実に、心がざわつく。
「もうそろそろ文化祭だよね! 楽しみだな~」
「そうだな。うちのクラス、何やるんだろ」
「みんなと一緒なら何でも楽しそうだなぁ。よし、四季折々!」
 詠はそう言うと、万年筆で綺麗な願いを綴り始めた。そして僕に見せてくる。
「最後の文化祭をみんなと楽しみたい!」
 最後。その言葉と文字が、僕の心に重くのしかかる。
 詠の願いに僕は全力で応えるだけだ。でも、本当にそれで――死季病を隠したままの心で、本当にみんなと心から楽しむことなんてできるのか?
「詠、死季病のこと、颯斗となずなに話さなくていいのか? もう、限界だよ」
「えーなに、急に。まあ、そのうち二人にはちゃんと話すよ。まだ、大丈夫」
「大丈夫じゃない。もう一週間、検査で学校休んでるだろ。何も言わないけど、あいつらもおかしいって思ってる」
 詠は少し黙ったあと「私なりのタイミングがあるの」とつぶやく。……タイミングって何だよ。僕は目を逸らす詠を睨む。
 文月もそうだ。僕が指摘するまで、死季病のことは話さなかった。文月を大切に想っていたからこそ、知ったとき本当に辛かったし、悔しかった。
「早く話さないと、みんなが辛い思いをすることになるんだぞ!」
「なに、それ……湊の勝手なエゴを押し付けないで!」
「エゴって何だよ! 僕だけじゃない、みんな詠のことを大切に想ってる! だから言ってんだよ!」
「何て言われても、ギリギリまで話す気はないから!」
 詠は布団を被って完全に僕をシャットアウトした。いくら呼びかけても、揺さぶっても、反応は返ってこない。僕はもどかしさに髪を掻きむしったあと、詠の部屋を後にした。

 ――

 僕は心の底では、わかっていた。詠が病気を隠し通す理由を。だから、こんな懐かしい夢を見てしまうんだろう。
 文月の横顔。大きな目に長い睫毛。整った鼻筋。結ばれた唇。
 僕たちは神社の階段に座り込んでいた。文月は華奢な体を縮ませ、膝を抱えていた。夢の中、思い通りに体は動かせなくて。僕はシナリオを読むみたいに口を動かした。
「死季病のこと、どうして隠してたの?」
「言ってもどうしようもないからよ」
「どうしようもないことだから、文月と一緒に背負いたかったんだよ。早く気付いてあげられなくて、ごめん」
 文月は僕の目を見つめて微笑み「ごめんなさい。今の、嘘よ」とつぶやく。
「本当は、そうね。私が私でなくなってしまうと思ったから」
「……どういう、意味?」
 すると文月は僕の手を握ってきた。氷のように冷たい手。それを溶かそうと、僕は強くその手を握り返した。
「湊。私はここにいる。だから、私が私でなくなってしまっても、憶えていて」
 文月の強いまなざしに、僕は「忘れないよ」とうなずいた。
 文月の笑顔が白くぼやけていく。そのまま、夢の映像は途切れた。

 暗闇に包まれた自室のベッドで、僕は目を覚ます。濃密な文月の記憶に、しばらく動くことができない。やがて僕は夢の内容を正確になぞった。
「詠も、そうなのか?」
 思わず口に出る。当時、深くは考えなかった文月の言葉。でも、きっと今と繋がるはずだ。
 僕は確かな確信を胸に、部屋から出た。

 *

 翌日。詠が久しぶりに登校した日に、それは唐突に訪れる。
 六時間目。文化祭の出し物を決めるホームルーム。実行委員の颯斗となずなが前に出て、クラスのみんなに案を聞く。
「そんじゃー、みんな何やりたい?」
 カフェやお化け屋敷、メイド喫茶、脱出ゲーム、など。次々に出る案をなずなが黒板にまとめていく。すると詠はぴんと手を挙げて提案した。
「はいっ! 私、縁日やりたい! みんなで屋台とか、ゲームとかやったら楽しそう!」
 颯斗は嬉しさと申し訳なさがない交ぜになった表情で笑った。
「さては詠、食べたいだけだろ~」
「そ、そんなことないよ! ほら、浴衣とかも着れるし! 美味しいし! 最高!」
 間の抜けた詠のプレゼンに笑いが起きる。その提案は、夏祭りに行けなかった後悔があるからで。僕たちも気持ちは同じだった。
 なずなは黒板に大きく『縁日』と書いた。やがて案が一〇個くらい出揃い、多数決を取る。『縁日』と『カフェ』が共に一五票ずつ。
 詠となずなが、本気で悔しそうな顔をしていて僕は吹き出す。縁日側の我がすごく強い。このままだと戦争が起きそうなので、僕は手を挙げる。
「折衷案として、合わせるってのはどうかな? カフェも縁日も飲食が絡むし、和と洋を上手く組み合わせれば集客も見込める。浴衣だけじゃなくて、着たい服の幅も広がるし」
「なるほど、いいな。さっすが湊」
「え、湊は天才だった……?」
 颯斗と詠に褒められて気恥ずかしくなる。ほかのクラスメイトも「いいかもね」「楽しそう」と賛同してくれた。
「じゃあ、いま湊が出してくれた、両方合わせてみる、って案でいい人は、挙手ー!」
「ふふ、決まったね」
「よし、やったーっ!!」
 詠は両手を挙げて思い切り喜ぶ。クラスの雰囲気も弛緩する中、颯斗が口を開く。
「じゃあ詠、具体的に何やりたかったんだ?」
 しかし颯斗の問いに答えは返って来ず、クラスは沈黙に包まれた。その違和感に、僕を含めた数人の視線が詠の席へと向く。
 それを見た刹那、僕は全身から冷や汗が噴き出した。詠は、唐突に音もなく眠っていた。まるで電池の切れた機械のように。
睡眠発作。間違いなく、死季病冬期症状の一つだった。
 隣席に座っていたクラスメイトが笑いながら呼びかける声が小さく聞こえる。自分の震えた息遣いが耳元で聞こえた。
 僕は気付くと詠の席まで駆け寄っていた。机と椅子がガタンッと鈍い音を立て、クラスメイトの視線が刺さる。でもそんなの、今は関係なかった。
「――詠! 詠、起きろ!」
 返事がない。上手く息ができなくなって、喉から変な音が鳴る。
 救急車を呼ぼうとしたところで、詠は目を覚ました。徐々に焦点が合っていく瞳で僕を見た詠は、はっと息を呑んだ。
「あ……普通に、寝てた。あはは……で、何だっけ?」
 おどける詠につられて、教室でぽつぽつと笑いが起きる。でも僕は笑うことなんて出来ずにその場に立ち尽くしていた。僕は息を整えて、二人の様子を見る。
 颯斗はしばらく詠を心配していたが、やがてホームルームに戻った。なずなは何度も瞬きをしながらクラスメイトと笑い合う詠を見つめていた。
 詠が今まで塗り固めてきたすべての理想が、剥がれ落ちていく音がした。

 僕たちは高校が終わると、その足で詠の家に集合した。準備は忙しくなりそうだけど、それ以上に楽しくなりそうだ。
 クラスから出た案を大体まとめ終わる頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。最近は陽が落ちるのが早い。秋の肌寒さと共に、焦燥感もやってくる。
「あっ、湊。カーテン閉めてくれる?」
「わかった」
 詠の指示を聞いてカーテンを閉めると、不意に颯斗が口を開いた。
「詠、その脚……いつ頃治りそうなんだ?」
「あーこれ? そうだなぁ、もうちっとかかりそ~」
 詠は雪のように白い脚をぺちぺちと叩きながらごまかす。二か月近く歩いていない脚は、出会った頃よりさらに細くなった。二人のやりとりを、僕は黙って見つめる。
「そっか。早く治して、文化祭準備、バシバシ手伝えよ~?」
「当たり前じゃん! 心配ご無用! あ、みんな今日泊まってく? 明日休みだし」
 あまりに不自然に話題を変えようとした詠に、なずなが「詠ちゃん」と呼びかける。凍てついた声と空気が、僕たちを取り囲んだ。
「何か、隠してるでしょ」
「え、えぇ~? ……本当は食べ物の屋台もっと増やしたいって思ってるの、バレた?」
「真面目に答えて」
「お、おい、なずな」
 なずなは「颯斗くんもおかしいって思ってたでしょ?」と訊き返す。颯斗は迷ったように視線を彷徨わせ、うつむいた。
 沈黙を裂くようになずなは立ち上がり、詠のもとへ近付いていく。でも詠はなずなと目を合わせようとしない。
「……詠ちゃん、ごめんね」
 なずなはそう言って、詠の手に触れた。
「っ!」
 渇いた音が部屋に響き渡った。なずなは詠に弾かれた自分の手を握り「やっぱり、そうなんだね」と、震える声を抑えながら話し始めた。
「中二になったときから詠ちゃん、体調悪くて休む日、増えたよね」
 なずなは違和感のピースをはめていくように、核心へと踏み込む。それは死季病の春期、死季の始まりだ。詠を見ると、青ざめた顔で口をつぐんでいた。
「三年になったらそれもなくなってほっとしてたけど、今度は二学期から年末までぜんぜん連絡取れなくなった」
 詠の喉元にじわじわとナイフが突き刺さっていく。それは、詠が秘匿してきた真実を暴くまで止まる気配はない。
 なずなは、詠の脚へ視線を向けた。
「詠ちゃんの脚、いつ治るの? 湊くんでも二か月しないで治ったのに」
「な、なず、もうやめよ? 本当に、何もないよ!」
「嘘つくのもいい加減にしてよ!」
 なずなが叫ぶと共に沈黙が降りる。重たい空気に塗り固められたように動けなくなった僕たちの中で、なずなのまっすぐな瞳が詠を捉えていた。
「……詠ちゃんの顔だけ、描けなかったの」
「私の、顔?」
 僕はなずなが描いていた、顔のない詠の絵を思い出す。不気味なほどにリアルだった。
「最初は私の技術の問題だって思った。だから詠ちゃんを観察して何枚も描いたんだ。でも描けば描くほど、詠ちゃんがわからなくなった」
 なずなは苦悶の表情を浮かべて、ベッドに座る詠を見下ろした。
「それで気付いたの。目の前にいる詠ちゃんと、私が描いた詠ちゃんは、ぜんぜん違うって」
 その言葉の意味を、僕は直感的に理解できてしまった。
 なずなは天才だ。本人もそれを自覚しているだろう。見たものの本質をそれ以上に見抜き、描き出せてしまえる。仮面を被った詠と秘密を抱えた本当の詠。なずなはその矛盾を描いたとき、詠に違和感を抱いたんだ。
「……信じたくない」
 ぽつりとつぶやいて、なずなは黙り込んでしまった。――もうとっくに、なずなは……。
 壁掛け時計が空虚な音を奏で、外の黒い木々が這うように蠢いている。
 音もなく、なずなは詠を見つめていた。詠からの言葉を待っていたのかもしれない。でもどれだけ時が経っても、詠から言葉が発されることはなかった。
 やがてなずなは、ヒビが入った詠の仮面を叩き割る言葉を突きつけた。
「……死季病、なんでしょ? 詠ちゃん」
 詠は声にならない掠れた息を吐き、うつむいた。僕はなずなを見ることができずに目を逸らす。全身から力が抜け、嫌な汗が止まらなかった。
「……死季病って、何でだよ。だってずっと元気だっただろ? 治る、んだよな?」
 颯斗の問いに、僕も、誰も答えることができない。ただ沈黙を貫くことしかできない。
 きっと颯斗や氷野こそが正常で、決して鈍感なわけじゃない。誰も、大切な人が病気だなんて考えない。そんな考えにすら行き着かない。僕もなずなも、その人を想うあまり、少し見えすぎるだけなんだ。
「なぁ詠。嘘だよな。何か、言ってくれよ」
 颯斗はうつむく詠の両肩を掴む。そして明らかな異常に、大きく目を見開いた。
「何でこんな、冷たいんだよ……」
 颯斗の手から逃れるように詠は体を小さく縮ませる。やがて消え入りそうなほどの小さな声で「ごめんなさい」とつぶやいた。
「私、死季病、で。それでね……次の春まで、生きられない」
 詠の口から放たれた現実に視界が眩む。いつか辿ることを知っていた未来でも、心が歪みそうなほどに苦しい。僕は唇を噛みしめ、声にならない呻きを飲み込んだ。
 僕は眩む視界で二人を見る。颯斗はまだその現実を受け止め切れていないのか、その場に座り込んで放心していた。
 さっきまで強かったなずなの表情は徐々に弱く歪み、涙が溢れ出してくる。何度も横に首を振り、現実を否定していた。
 それは、最後まで詠が否定してくれるのを待っていたように、僕には見えた。
「――っ」
「なずなっ!」
 涙が溶けだした声を残して、なずなは逃げるように部屋を飛び出した。颯斗も咄嗟になずなを追いかけて行った。
「なず、颯斗……!」
 詠は慌てて二人を追いかけようと走り出すが、足がもつれてその場で転倒してしまった。僕はただ立ち尽くして詠を見つめる。
「……湊の言う通りになっちゃったね。こうやって、何もかも簡単に、終わっていくんだ」
 僕は、嗚咽を押し殺してそう言った詠を支え起こして、ベッドに座らせた。
「疲れたでしょ。今まで散々付き合わせてごめんね。……独りにさせて」
「詠、まだ終わってない。颯斗もなずなも、まだ受け入れられてないんだよ」
「もう無理だよ。きっと三年も隠してきたバチが当たったんだ」
「どうして死季病のこと、ずっと隠してきたんだ?」
 こうなることは火を見るより明らかで。それでもひた隠しにした理由。詠は涙に濡れた瞳で僕を見てつぶやいた。
「……私が、私じゃなくなっちゃう気がしたの」
 ――私が私でなくなってしまうと思ったから。
 文月の言葉とリンクして、僕は鳥肌が立つ。その言葉の先を欲してしまう。
「どういう、意味?」
「死季病だって言ったら『水瀬詠』から『難病の女の子』として見られる気がしたんだ。今までの私が忘れられちゃうみたいで、怖かったの」
 ――私はここにいる。だから、憶えていて。
 そういう、意味だったのか。
 僕は詠と文月、二人の言葉を反芻して、飲み込む。胸の奥から得体の知れない侘しさが込み上げてきた。
「忘れるわけ、ないだろ」
 心の中と目の前にいる二人に向けて、僕は言う。忘れるなんてできるか。
 僕は詠の机の引き出しから四季折々を取り出す。一冊のノートに、今まで叶えてきた無数の願いが綴られている。自分の願いよりもほかの人を想った願いの方が多い。
 それを詠に見せて、僕は言う。
「四季折々の始まりは死季病だ。でもここに書かれた願いは、詠が誰かを想って、後悔しないために歩いてきた証だろ?」
「……うん」
「詠の人生は、大切な人たちに『難病の女の子』としか記憶されないものだったのか?」
 詠は何度も首を横に振る。僕は病室で詠に出会った日からの出来事を思い出すように言う。
「詠が歩いてきた四季は、ちゃんと残ってる。絶対に忘れられない思い出だよ」
「ほんと?」
「一緒に行こう。まだ詠の四季は、終わってない」
「……ありがとう」
 四季折々を胸に抱きながら、詠は一筋、涙を流した。

 河川敷に、颯斗となずなは座り込んでいた。辺りはすっかり暗くなり、街灯に照らされた川面がきらきらと風に揺れている。
 緩やかなスロープを下り、その背後に立つ。二人がこちらに振り返ると、詠は何度か深呼吸をしたあと、芯の通った声で言った。
「なず。颯斗。私の病気のこと、ちゃんと話したい」
「湊は死季病のこと知ってたのか?」
 僕は包み隠さずに答えた。震えそうな声を、必死に抑えつける。
「詠に初めて会った日に教えてもらったよ」
「それなら何で俺らに教えてくれなかったんだよ。もっと早く知ってたら何でもできた。もっと毎日を大切にできたのに……」
「……本当に、ごめん」
 僕は頭を下げて謝り、二人の表情を見る。
 颯斗は僕を責めているより、やり場のない感情をただ言葉に乗せているように見えた。なずなは涙でぐしゃぐしゃな顔で、茫然と詠へ視線を向けていた。その姿が過去の氷野やクラスメイトと重なり、心がざわつく。
 僕が何も言えずに黙っていると、詠が口を開いた。
「湊のせいじゃない。私が言わないでって言ったの」
「そんなに俺ら、頼りないかよ」
 詠は颯斗の嘆きに「違うよ」と首を振り、病気を隠していた理由を二人に話した。難病の女の子としてではなく、水瀬詠の言葉として。
 三年にも及ぶ秘密の理由を聞いた颯斗は、悔しそうに顔を歪めて詠に言った。
「でも、初めて会った湊には教えたんだな」
「それはきっと、自分の命に意味なんてないって思ってた僕に、証明するためだと思う」
 眉間に皺を寄せた颯斗の横から、今まで沈黙していたなずながぽつりとつぶやいた。
「詠ちゃんより、これからを生きられる湊くんの方が幸せってことの証明?」
 的を射る言葉に、僕は驚いてしまう。なずなは涙で濡れる目を伏せながら言った。
「言ったでしょ。私の方が、湊くんよりずっと詠ちゃんと一緒にいるって」
 なずなの気持ちが痛いほど理解できてしまう。その痛みに、僕はぐっと目を閉じた。
 ――何が本心でぶつからなきゃ何も見えない、だ。こんな現実、見たくもないはずなのに。
「私、言ったら詠ちゃんを傷付けちゃうんじゃないかとか、絶対に何か勘違いしてるんだってずっと自分に言い聞かせてた。詠ちゃんと話し合いたいとも思ってた。でも――」
 なずなは涙を溢しながら、叫ぶように本音を吐き出した。
「やっぱり、詠ちゃんが大切だから何も言えなかった。それが、いちばん悔しい……!」
「なず……!」
 詠は車椅子から降り、両脚を地面に引きずりながら二人のもとへ向かう。河原の小石が無造作に散らばり、土が抉れる。
 座り込むなずなと颯斗の目の前までたどり着いた詠は、正面から向かい合う。
「なず、颯斗、ごめんね。私自分のことばっかで、二人の気持ち、深く考えられなかった」
「……それは私もだよ。だから今まで、逃げて何もできなかった自分が許せないの」
 なずなは何度も声を詰まらせながら言葉を紡いだ。きっとこれが、なずなの本心なんだ。
 それは、文月を救えなかった自分を責めた僕にも。すべてを投げ出して、一人で悪者になろうとした颯斗にも言えることで。
 だから僕たちは悩んで、自分のせいにしたり、誰かのせいにしたりして、こんなに足踏みをしているんだ。
 颯斗は消え入りそうな弱々しい声で、詠に語りかける。
「俺も自分のことばっかで、病気だなんて思いもしなかった。ずっと一緒にいたのに……」
 自省する颯斗となずなの手に触れて詠は首を振る。まるで自分の罪を贖う咎人みたいに。
 その手のひらの冷たさに、二人は苦しそうに顔を歪めて詠のことを見つめた。
「違うよ。私が狡くて弱かったから、伝えられなかったの」
「詠のせいじゃない」
 僕は咄嗟に口に出していた。自分を責めるのは楽だけど、進む未来を変えてはくれない。
 詠の隣に腰を下ろしてみんなの顔を見る。不安げに翳る表情。最良の答えを求めるような視線が、僕に集まった。
「誰のせいでもない。だから、難しいけど、自分を許して進むしかないんだよ」
 そうやってやり場のない感情をぜんぶ抱え込んで進む未来は、灰白色の世界だ。僕はそんな痛みや苦しみを、みんなに抱えてほしくはなかった。
「でも私、二人を傷付けた! ぜんぶ私が悪いの! 一生嫌われたって仕方ない!」
 一人で背負い込もうと詠は叫ぶ。その気持ちが、僕にはよくわかった。
「誰も責めてくれないから、自分を責めるしかないんだよな。その方が重く背負える気がするから。僕もそうだったよ」
「違う……私は、本気で」
「それが間違ってるとは言わないよ。だから、考えたんだ」
 ずっと、自分を許すにはどうしたらいいのか考えてた。みんなと過ごして、やっと僕は気付くことができた。
 これが最良の答えなのかはわからない。でもそれに近付こうと考えて、考え抜いて出した答えを、僕は三人にぶつけた。
「自分を許すって、『信じる』ってことなんだと思う。自分を責めるのは、自分を信じてくれた人も否定するってことじゃないのか?」
 詠は驚いたように短く息を吸い込んだあと、拳を握った。
「僕はみんなといれば、自分を許せる気がしたんだ。だから、ほかには何もいらない」
 誰かと一緒にいることで初めて自分や人を信じることができる。独りだとできないことだ。
「湊の言う通りだな」颯斗は頭を雑に掻いたあと、僕と詠を交互に見た。
「正直、病気のことはまだ受け止め切れねぇし、頭もごちゃごちゃしてる。……けど俺もみんなといたい。誰も嫌いになんてなれねぇよ」
 それはきっとみんな同じ気持ちで。なずなもずっと心の中にあったのだろう。詠への想いを口にした。
「みんな好きも嫌いもあるよ。でもそれで詠ちゃんのことぜんぶ嫌いになんてならないよ。だって詠ちゃんにもらった好きの方が、私の中にいっぱいあるから」
 詠は二人に何か言おうとして、でも何も言えず黙ってしまう。するとすぐに、言葉にできない感情がその頬を伝った。
 しかし詠は溢れ出る涙を拭おうとはしなかった。屈託もなく、子どもみたいに泣いている。
 僕は詠が意図して二人の前では明るく振る舞っていたことを知っていた。それが、弱さを見せたくないという詠の弱さだということも。だから素直に嬉しかった。これからは僕だけじゃない。颯斗となずなも一緒に、詠の未来を分かち合えるんだ。
 その姿が伝播したのか、なずなも涙を流しながら詠を力いっぱい抱きしめた。
「詠ちゃん、今までよく頑張ったね。もう、独りになんてさせないからね」
「……ありがとう、なず。でも私、独りじゃなかったんだよ。死季病になって辛くても、みんながいたから生きて来られた。幸せだったんだよ」
 詠は死季病になってからの約三年間を僕たちに話してくれた。もちろん辛かったこと、苦しかったことはたくさんあって。でも嘘偽りなく、詠は幸せそうだった。
 その詠の歩いてきた幸せな四季の中には確かに、僕たちがいた。

 すべてを剥き出しにして話し合い、気付いたら夜は更けて肌寒くなっていた。街灯の下で僕たちは別れを告げる。僕を含めだと思うけれど、みんなひどい顔だった。
「……今日は詠ちゃんの家に泊まる。離れたくない」
「なずな、詠も疲れてるだろうから」
「嫌だ」
 颯斗の言葉をバッサリ切って、なずなは詠に抱き付いた。その当人は目の周りを真っ赤にしながらまんざらでもない顔をしていた。
 仕方なく僕と颯斗は二人に別れを告げ、歩き出した。
 所々明かりが漏れる住宅街を無言で歩く。遠くで車のエンジン音が聞こえる。その音がどこかへ吸い込まれてから数秒、颯斗がぽつりと口を開いた。
「半年後、俺たちは何してるんだろうな」
 半年後。詠の四季が終わったあと。それでも僕たちの四季は続いていくんだ。想像もつかない。でも、誓っていることはある。
「わかんないけど、あのときみたいに後悔したくないよ。そのためなら、何だってやりたい」
「湊は強いな。そうやって莉奈ちゃんも、詠も救ってきたんだな。俺も、なずなもそうか」
「ただ必死なだけだ。……救えてるのかはわからないよ」
 それに、本当の意味で救われているのは、僕の方だ。
 颯斗は「半年か」とつぶやいたきり、沈黙してしまった。僕は隣を見る。すると颯斗は肩を震わせて、押し殺すように、静かに泣いていた。
 病気を打ち明けられてから、ずっと我慢していたんだ。僕はこの不器用で、大切な人のことを思って泣くことができる親友に笑いかけた。
「僕、やっぱり颯斗のこと好きだよ」
「……何だよ、急に」
 颯斗は瞳に涙を溜めて少し笑うと、前だけを見つめて、誓いのような言葉を僕に言う。
「湊、生きような。何も諦めないで、手放さないで、生きよう」
 それだけ言って颯斗はまた黙ってしまった。僕も何も言わずに、分かれ道まで歩き続けた。


 2

 一〇月に入り、文化祭まではあと一〇日。僕は放課後、再び検査入院することになった詠に呼び出されていた。病室に入ると、詠は文化祭で使う装飾品をせっせと作っていた。
 僕が椅子に座ると、詠は声のトーンを落として訊いてきた。
「それで……みんな、どう、だった?」
 その言葉ひとつで今日の出来事が脳裏によみがえる。教壇からの風景。クラスメイトの様々な感情が込められた視線。その記憶をなぞるように、僕は詠に教えた。
「死季病のこと、ぜんぶ話してきたよ。文化祭前に話したのも、できるだけ早くみんなに伝えたかった詠の意思だって」
「ごめんね。本当は私が伝えなきゃいけないことなのに……」
 本来なら今日、詠が僕たちと一緒にそれを伝えるはずだった。しかしここ最近、検査入院が続いた詠は学校に来れていなかったのだ。その明らかな異変は、クラスのみんなも感じ取っていた。もう限界だった。
「もともと詠ひとりに言わせるつもりはなかっただろ? 颯斗となずなが傍にいてくれたから心強かったよ」
 詠は「そっか」と安堵しながらも、その先を求めるように強いまなざしで僕のことを見つめてきた。みんなの反応こそ、詠が恐れているもののはずなのに。
 だから僕も目を逸らさずに、瞳に焼き付けた風景をそのまま話した。
「みんな信じられないって顔してた。泣いて過呼吸になってるやつとか。嘘だろって疑ってくるやつもいた」
「うん、それで……?」
「それで、特に何か言われたわけじゃないけど、迷惑そうにしてるやつもいた。興味なさそうに寝てるやつとかもいたよ」
 僕たちのしたことはあまりに自分勝手で。でも悔恨を残さないために必要なはずだ。覚悟はしていた。それでもあの景色は、僕には悔しかった。だからきっと、詠はもっと。
 僕が何か言葉を掛けようとした瞬間、詠は「そっか~」と気の抜けた声を出した。思っていた反応とのギャップに、僕は驚く。
「……悔しく、ないのか?」
「悔しいよ。でもみんなに嫌われてなくて安心したかな。私のために泣いてくれる人がいるだけで、私の人生、間違ってなかったんだなって思えたよ」
 詠は「次みんなに会ったら謝んなきゃ」と僕に微笑む。その笑顔は、少しだけ強がっているようにも見えて。だから僕は、これが当たり前かのように言った。
「そうだな。僕も一緒に謝るよ」
「ふふ、ありがと、湊」
 すべての不安が払拭されたわけじゃないだろう。でも、死季病を僕たちに打ち明ける前とは明らかに違う。これが詠の成長の形なんだ、そう僕は思った。
 詠はいそいそと装飾品を綺麗に作り終えると、僕を見つめてにやっと笑う。
「……なに、その顔」
「じゃーん! これなーんだ!」
 効果音と共に、詠が布団の中に隠していた紙の束が僕に掲げられる。小さな文字が規則正しく綴られている。小説の原稿用紙だ。
「出来たんだ……!」
「うん。最高傑作だよ」
 自信満々に言って、詠は原稿用紙を渡してくる。紙の重みだけじゃない。水瀬詠のすべてが懸かった重みが僕の両手に乗る。パラパラとめくると、文字は全編万年筆で書かれていた。
「これ、ぜんぶ書き直したのか?」
「せっかく万年筆もらったから。何かね、湊がいつも見ててくれるみたいで心強かったよ」
「……ああ、そう」
 そこまで喜んでくれているとは思わず、僕は顔が熱くなるのを感じる。詠も気付いたのか、無視してくれればいいのに、わざわざ突いてきた。
「湊、顔赤~い。照れてる~!」
「て、照れてない」
 僕は詠に背を向けて、小説の原稿をリュックの中にしまう。でもすぐに顔が綻んでしまう。感慨深くて、嬉しくて、じんわりと心に熱がともる。
 窓の遠く、少し乾いた秋の空を眺めて表情を落ち着かせていると、背後から声が聞こえた。
「湊、絶対に感想ちょうだいね。思ったこと、全部だよ」
「ああ。面白くなかったらバッサリ言うよ。約束する」
 詠は「ほんとかなぁ」と訝しげに言うと、テーブルに置いてあった四季折々を開いて僕を手招きした。前科があるから仕方ないけど、まったく信用されてないな。
 僕はベッドに腰を下ろして万年筆を持つ。開かれたページいっぱいに『詠の小説をぜんぶ読んで、本音で感想を伝える』と書き、誓いの言葉を口に出す。
「――四季折々」
 至近距離で、僕のことを嬉々として見つめてくる詠を見つめ返し、目を閉じた。
「……これで、どうだ?」
「ふふん、よろしい」
 得意げに言った僕に詠も偉そうに答える。数秒経って互いに可笑しくなり、吹き出した。白くて空虚な箱が色付いていく、そんな感覚。それより単純に、詠といるこの空間が楽しいんだ。
「それで、次の四季折々、どうしようか」
「う~ん、どうしよ」
 詠は時間をかけてページをめくり、記された願いの中から指を差した。
「『みんなと文化祭を楽しむ』と『みんなと紅葉狩りをしたい』の二つかなぁ」
「わかった。そう言えば、紅葉はあと少しで見頃だって、ニュースでやってたな」
「え、ほんとに? やった!」
 答えながらふと四季折々に目を通すと、いくつか願いが塗り潰されていることに気付いた。僕の視線に詠も気付いたのか、静謐な声で言う。
「運動系と食べる系の願いはもう叶えられないから、消したんだ」
 避けようのない事実。僕は一瞬の間、言葉に詰まる。これからはもっとそういうことが増えて、詠の歩ける道は狭まっていく。
 だから僕は、塗り潰した願いを寂しそうに指でなぞった詠に、微笑んだ。
「じゃあ、消した願いの分、ほかにやりたい願い事をみんなで考えるか」
 その狭まった道を押し広げるために僕たちは一緒にいるんだ。一人だと何も見えなくても、四人なら、手から零れ落ちるものは減るはずだ。
 詠は花みたいに笑顔を咲かせて何度もうなずいた。その生き生きとした表情は、この狭い場所には似合わなかった。
「また今度、颯斗となずも呼んで作戦会議しようね! さぁて、何やろうかなぁ……」
 僕たちは身を寄せて、まだ見ぬ四季に未来を描く。それはとても理想的な幸せで。
 僕の肌に触れる氷のような温度だけが、現実を如実に映しだしていた。

 *

 翌日、僕は四季折々の作戦会議のために、颯斗となずなを連れて病院を訪れた。二人と来るのは、詠の誕生日会以来だ。
 廊下を進んだ先。病室のドアの前には詠の母親が立っていた。詠と似て快活そうなその表情は、なぜか暗い。嫌な予感が僕の脳裏にべっとりと貼り付いた。
 颯斗となずなの挨拶に続いて、僕も遅れて頭を下げる。
「みんな、来てくれてありがとうね。……あの子のことなんだけど、聞いてくれる?」
 詠の母親は病室のドアに手を掛け、僕たちを見て言った。
 状況が飲み込めないまま扉が開かれ、中に通される。いつもと変わらない白い箱。カーテンは閉め切られ、薄暗い。その部屋の中央のベッドで詠は眠っていた。それはまるで――。
 全身から嫌な汗が噴き出す。心臓が不規則に脈を打った。なずなも気付いたのだろう。詠を見つめ、つぶやいた。
「これって……」
「死季病の、冬期の末期症状でね。次に起きるのは一週間後か、遅いと一か月後だって先生に言われたの」
「そんな、嘘だろ」
「詠ちゃん……」
 感情を押し殺したような、でも涙が滲む声で、詠の母親は説明してくれる。惨たらしい現実が重くのしかかった。僕も詠も昨日まで、この場所であんなに笑い合っていたのに。
 動けずに茫然とつぶやく二人を置いて、僕はいつもと同じようにベッド脇の椅子に座る。そして静かに眠る詠の顔を眺めた。
 雪のように白く、生気のない肌。体はピクリとも動かず、呼吸音もほとんど聞こえない。本当に、嘘みたいな光景だ。
 文月はこうなる前に死んでしまった。こんなにも、残酷なのか。僕たちと詠の間に、決して超えることのできない壁が立ちはだかった気がした。
 それでも僕はなぜか冷静だった。分厚い氷のような絶望が心を凍り付かせているのに。
 颯斗となずなもベッドに近付いて、祈るように詠の手を握った。
「詠はすぐに起きるよ」
 根拠のない言葉を僕は口に出す。二人を元気付けようとかそんな意図はない。ただこれまで僕たちが乗り越えてきた色々な出来事が、僕にそんな自信を持たせていた。
「詠はすぐ起きて一緒に文化祭に行く。四季折々にもそう書いたんだ。絶対に、大丈夫だよ」
 詠の手を握っていた颯斗は「そうだよな」と立ち上がった。本当はこんな根拠のない言葉、信じたくはないはずだ。でも僕たちは信じることしかできない。詠と過ごした時間を。
 なずなは詠が大量に作っていた文化祭の装飾品を眺めて、僕と颯斗に言った。
「文化祭の準備とか、ほかにも色々、私たちがやれることをしよう」
「そうだな。詠が起きて、最高に文化祭を楽しめるようにしようぜ」
 強い意志が込められた二人の声音に、僕も自信がみなぎってくる。何だって思い通りになるような、そんな予感。分厚い氷のような絶望感が急速に溶けていく。
 颯斗となずなが居て、本当に良かった。僕だけならきっと耐えられなかった。
 僕は目の前にいる心強い友人たちに、笑いかけた。
「――それじゃあ、作戦会議だ!」
 そうだ。絶望に至るには、まだ早い。

 スマホの画面の中に楽しそうに作業するクラスメイトたちの笑顔が映る。教室内は至るところに装飾が施され、画面には映らない絵の具や木材の匂いが、場を満たすざわめきが、非日常感を演出していた。
 これが僕たちの作戦会議の末に出た答えで。詠が眠っている間にできることだ。文化祭準備中。みんなの楽しそうな声を聞けば、詠が飛び起きそうな気がした。
 何を撮ろうかと教室を見回すと、男子が二人「詠か?」と話しかけてくる。
「詠! これおれが作った射的の連射ゴム銃! カッケーだろ!」
「カフェで創作ドリンクも試作してるから、味見よろしくな。早く来いよ!」
 中村は子どもみたいにゴム銃を撃ち、前田は僕に「ほい、篠宮」その創作ドリンクとやらを渡してくる。七色の色彩で、炭酸が入っているのかパチパチと音を立てている。
 受け取って恐る恐る口に運ぶと、僕の頭の中に電気が走った。
「うっわ、まっず! 前田これ何入れた!?」
 口の中がおかしい。僕が悶える姿を中村と前田は大声で笑う。いつか覚えてろ。
「篠宮くんとそこ二人! 遊んでないで手を動かしてください!」
 声の方へスマホを向けると、クラス委員長の岩沢さんが呆れ顔で立っている。二人はすでに教室から逃げ出していて、気付けば僕ひとり取り残されていた。
「篠宮くん。ここはいいので、外の小道具班の作業をお願いしていいですか?」
「あ、はい、わかりました」
 その圧に、僕は思わず敬語で受け答えしてしまう。怒っているわけではないんだろうけど、何だか緊張してしまう。
 委員長は僕のカメラに気付くと、笑顔で手を振った。張り詰めた雰囲気が一瞬で解ける。
「詠ちゃん。作ってくれた装飾すごく上手だった。みんな頑張ってくれて、良い文化祭になりそうだよ。待ってるから、またね」
「……岩沢さん、詠には敬語じゃないんだな」
 どうでもいいことを言うと、委員長は「だめですか」と僕を睨んできた。いいえ、とんでもない。僕は逃げるように教室を飛び出した。
 廊下にも華やかな装飾が目立つ。気分が高揚して、僕はスマホで装飾を撮りながら走った。学校中がお祭りみたいだ。アートが施された階段を駆け下り、中庭で作業している小道具班のもとへ。
 色々な学年のクラスが作業する中、颯斗は汗を流しながら、大きなロール紙に書かれたイラストに丁寧に絵の具を塗っている。颯斗は僕に気付くと手を振ってきた。
「おっ、撮ってんなぁ。どうだ詠、俺の仕事ぶり! 上手くね?」
「自分で言うな!」
 颯斗の塗ったイラストを撮りながら気付く。明らかにその絵の繊細さが違うことに。
「まさかこれも……?」
「なずなはうちの内装責任者だからな。あとで黒板アートもやるって言ってたぜ」
 その仕事量の多さに脱帽する。委員長のお達し通りできることを探していると、颯斗に名前を呼ばれる。
「うわっ! 何すんだ!」
 僕は振り向きざまに左頬に絵の具を付けられた。冷たい感触が気持ち悪い。
「あっはっはっ! ダセェー!」
「ったく、お前がやったんだろ!」
 腹を抱えて笑う颯斗につられて、僕も笑う。颯斗は僕のスマホをちらりと見て言った。
「ここは足りてるから、なずなのとこ行ってこい!」
 僕はうなずいて、また走り出した。正門前の巨大なアーチ。屋上からぶら下げられた複数の横断幕。設置される屋台と人混みを撮りつつ、なずなのいる体育館へ。
 息を切らし体育館に到着すると、なずなはステージバックの巨大パネルに色を塗っていた。それもなずなが描いたものだ。真剣な表情で、十数人の生徒たちに指示を出している。
 邪魔するのも悪いよな、と僕が声を掛けるのを躊躇していると、なずなが気付いて駆け寄ってきた。
「湊くん! あ、詠ちゃーん! 私も頑張ってるよ~! また会いに行くねー!」
「相変わらず忙しいな、なずな」
「湊くんも少し前まで全体の企画とかスケジュール調整とかで忙しかったでしょ?」
「あー、まあな」
 僕にしては忙しかったここ数日を思い出す。詠やみんなと楽しい文化祭にするために、今まで話したこともなかったクラスメイトたちともたくさん言葉を交わした。最初は慣れなくて戸惑ったけど、楽しい毎日。きっと詠がいれば、もっと――。
「えいっ」
 後ろ向きな考えが頭をよぎった瞬間、右頬に冷たいものが触れる。驚いて顔を上げると、なずなが絵筆を持って悪戯っぽい顔で笑っていた。
「おい、なずな……」
「ふふ、湊くん、ほっぺかわいー」
 鏡を見なくてもわかる。僕の顔がどれだけ愉快なことになっているのか。このカップル、本当に良い連携をしてくれる。
 なずなは僕が撮っていたスマホを取り上げて、僕を映す。
「詠ちゃん、うちのクラスの立役者でーす! 何かお言葉をどうぞ!」
 いざカメラを向けられると、恥ずかしくて困るけど。僕は病室で眠り続ける詠を想像しながら、語りかける。
「詠……後悔しないために、色々やってみたよ。クラスのみんなとも話して、毎日忙しくて。でもすごく楽しい。青春してんなぁって思う」
 文月と一緒にいることが僕にとっての青春で。それを喪って。そして僕は詠と出会い、颯斗となずなと出会った。いま僕は、居心地の良い青春の只中にいる。でも――。
「でも、足りないよ。僕の青春には、まだ詠が足りない。だから、早く戻って来い」
 喋り終えて少しして、急激に顔が熱くなる。僕はなずなからスマホをひったくる。
「やばい、めちゃくちゃハズイ! 今のなし!」
「えー何で! すごくカッコ良かったよ! 特に、僕の青春には、まだ詠が――」
「復唱すんな!」
 画面がガタガタと揺れて数秒後、映像は途切れた。
 ――
 僕は静かになった病室で頭を抱える。いま見返しても恥ずかしい。あのときは何か変なスイッチが入っていたんだろう。とはいえ、これを聞いているのは目の前で眠っている詠だけだ。僕はスマホをしまって話しかける。
「明日だよ、文化祭。あとは一緒に文化祭に行くだけだ。頼む、起きてくれよ、詠……」
 両手で詠の手を包み込んで、僕は言う。
 しかし冷たいその手から反応は返って来ない。無情な沈黙に包まれる。やれることはやった。諦めてもいない。だから僕はもう、祈るしかなかった。
 不意に扉が開く音が聞こえる。入ってきたのは詠の母親だった。こうやって二人で会うのは初めてだ。僕が立ち上がって挨拶をすると、彼女は明るい声で笑った。
「こんにちは湊くん。明日文化祭なのに、今日も来てくれたのね。……お邪魔だった?」
「いえ、全然」
 よりによって手を握っているところを見られた。僕は平静を装って答えるが、彼女はにこにこと僕を見つめて来る。詠と笑い方がそっくりだ。嫌な予感がする。
「毎日来てくれるのなんて、湊くんだけよ。やっぱり、そういうこと?」
 どういうこと? と突っ込みたかったけど、僕は曖昧に笑ってごまかす。彼女は何でもない話題を僕に振りながら、詠の体温を測り始めた。
 その口調や仕草、快活な性格と少し抜けたような発言も詠に似ていて。僕は詠が未来を生きたら、こんな大人になるんだろうな、とひとり思った。
 詠を挟んで何気ない会話を続けていると、彼女は急に笑い出した。
「ふふ、詠から聞いてた通りね」
「悪いこと言われてそうで、怖いですね」
 彼女は詠の髪を撫でながら「ううん、むしろ逆」と微笑む。
「高校から急に湊くんの話しかしなくなったのよ。隠してた死季病のことも話して、私にも見せてくれなかった四季折々を手伝ってもらってるって聞いて。すごい、何者? って」
 僕は恥ずかしくなって、口元を押さえながら言う。
「詠には助けてもらってばかりで。だからすごいのは僕じゃなくて、詠の方なんです」
「……きっとそういうところもなのね」
 つぶやいた彼女は「さて」と気合を入れて立ち上がった。
「詠の体をマッサージするんだけど、やってみる?」
「えっ? い、いや、さすがに……」
 娘の友だちで、しかも赤の他人に頼むか普通。僕は面食らってしまう。
「ごめんなさい。もちろん無理にとは言わないわ。詠の意思だったものだから、ついね」
「詠の、意思……?」
 彼女は過去の出来事を思い出すように目を閉じる。その長い睫毛の輪郭を、窓から差し込んだ夕陽が縁取った。
 彼女は洗面台で濡らしたタオルで、詠の首筋を拭きながら話し始めた。
「詠は最初、こういう体のケアを家族にもやらせようとしなかったの。きっと私たちの負担になるって思ったんでしょうね。そんなこと、思うはずないのに」
「……でも何だか、詠らしいです」
「そうね。それで話しているうちに詠が言ったのよ。もし拒否されなかったら、家族以外で、湊くんにも任せたいって」
 そのことに僕は唖然として、寝ている詠の顔をちらと見る。何というか――。
「――変な奴だな」
 思わず口に出してしまうと、彼女は口元に手を当てて笑った。
「こんなこと、家族以外にさせられるわけないって怒ったんだけど、聞かなくて」
「けっこう頑固ですよね、詠って。いや、まっすぐって言ったらいいのか」
 僕が今まであった出来事を思い出して笑うと、彼女は慈しむように詠を見つめて言う。
「だから驚いたの。まっすぐで、警戒心が強くて、人のことをきちんと見極めて付き合うこの子が、そんなに信頼できる人を見つけたのが……嬉しかったのよ」
 それは僕の知っている詠とは違う姿だった。今まで僕は、詠は誰とでも仲良くなれるタイプだと思っていた。きっとそれも正しいんだろうけど、正解ではない。
 警戒心が強くて。人のことをきちんと見極める。詠が死季病のことを黙っていたことにも繋がる気がした。……なら詠は、どうして僕に――。
 鍵穴に形の合わない鍵を差し込んでいるような、もどかしい感覚。すると意識の外から視線を感じる。詠の母親が、詠と同じ強いまなざしで僕を見ていた。
「詠にとって湊くんは、本当に特別なんだと思う。できるだけ一緒にいてくれたら、私もすごく嬉しい」
 遠慮気味に言った彼女に、僕は未来が決まっているかのように、自信を持って答えた。
「ずっと一緒にいます。約束したんです」
「……ありがとう、湊くん。そう言ってくれると、救われるわ」
 彼女は涙が滲んだ声で僕に微笑んだあと、黙々と詠の体を拭き始めた。夕陽が沈み、薄暗くなる病室。詠の白い肌が灰色に染まるのを見て、僕は口を開いた。
「僕は、何をしたらいいですか。教えてください」
 彼女は確認するように「いいの?」と訊いてくるが、僕は一切の迷いもなくうなずいた。
 詠がそう望むなら、僕はそれを叶えるだけだ。
「……じゃあ、まずは腕のマッサージからお願いしようかな」
「はい。わかりました」
 詠の右腕に触れてそっと持ち上げる。鉛のように重く、氷のように冷たい。僕の温かかった手のひらはすぐに冷え切ってしまう。
 僕は彼女に言われた通り、筋肉が固まってしまった詠の腕をマッサージしながら、関節などの拘縮を和らげていく。緊張で、額には汗が滲んできた。
 こうやって全神経を注いで触れるほどわかる。詠の体はここにあるのに、どこにもいないことが。僕は得体の知れない焦燥感と心を突き刺す痛みに耐えるように、唇をきつく結んだ。
 時間をかけて詠の右手まで到達すると、僕の手にざらざらした何かが触れる。見てみると、親指と中指にペンだこができていた。詠の努力の証だ。
「……こんなに、頑張ってたんだな」
 僕がつぶやくと、彼女もマッサージしていた手を止めて微笑んだ。
「湊くんに万年筆をもらって、毎日のように書いてたから。私にも自慢してきて、よっぽど嬉しかったんだと思うわ」
 ――何かね、湊がいつも見ててくれるみたいで心強かったよ。
 詠が嬉しそうに笑う光景を思い出しながら、僕はペンだこを撫でる。手のひらは少しだけ皮膚が硬くなっている。バッティングセンターのときにできたマメだろう。
 詠の手に刻まれた、生きた証。それは僕がこれまで詠と一緒に過ごしてきた証だ。胸を満たす嬉しさに、自然と顔が綻んだ。
「……湊くん、大丈夫?」
 彼女に心配された理由はわかっていた。僕は泣いていた。嬉しいはずなのに涙が溢れ、嗚咽が込み上げてくる。
 僕は何度も涙を拭って、呼吸を整える。目の端が擦れて少し痛かった。詠の手のひらに落としてしまった涙の雫まで拭き取ると、僕は彼女に微笑んだ。
「すみません、大丈夫です。……次は、どうすればいいですか?」
 僕はまた時間をかけて詠と向き合い始める。この瞬間に、詠が目覚めるよう祈りながら。


 3

 詠は文化祭までに目覚めなかった。『みんなで紅葉狩りがしたい』という四季折々も、秋にしかできないほかの四季折々もすべて叶えることはできなかった。
 一一月。詠が眠ってから一か月が経った。冬の背中が見え始めたある日、僕はいつものように詠の病室を訪れていた。窓から差し込む陽光は昼だというのにぼんやりとしていて、まるで世界が終わる前みたいにやる気がない。木々や太陽が痩せ細っていく中で、この病室の風景だけは変わっていなかった。
 僕は洗面所で手を洗い、タオルをお湯で濡らすと、詠の首筋を拭き始めた。
「今日、颯斗となずながさ――」
 僕は高校での楽しい出来事を詠に話す。それを思い出して病室でひとり笑いながら。そうしないと僕は耐えられなかったのだ。詠だけ時が止まったままの、この日常に。
 詠の体のケアを終え、僕は深く椅子に腰かけて息をつく。そして少し疲労の溜まった体で、テーブルの上に置いてあった四季折々を開いた。
「なあ、詠――四季、折々」
 返事はない。わかっているのに、詠が眠ってから何度も儀式のように繰り返したやり取り。僕はページをめくって、詠と今まで叶えた願いを確認していく。
 ただの欲望の願い。ふざけてノリで書いた願い。切実な願い。僕を勇気づけるための願い。涙ながらに書いた願い。途方もないほど多くの願いを叶えてきた。それはまだたくさんある。その中で、僕がまだ叶えられていない願いも。
 僕はリュックの中から、詠の原稿用紙を取り出した。ずっしりとした重さの夢の束を、丁寧にめくる。
 僕は一瞬だけ詠に視線を向けたあと、一ページ、また一ページと小説を読み進めて行った。

 ――

「詠、そんなに走ったら危ないわよ」
「えーだって楽しいんだもん! 莉奈ちゃん! 湊! 早く来て!」
「もう……詠は子どもみたいね、湊?」
 呼びかけられて隣を見ると、文月が困った顔で微笑んでいた。少し遠くには詠もいて、飛び跳ねながら走り回っている。突然目の前に広がった光景に、僕は驚く。
 そこがどこかはわからない。二人以外の風景はすべて不鮮明で、僕はすぐにこれが夢だと理解した。でも僕は目の前の幸福に身を任せる。
「僕には、文月もはしゃいでるように見えるよ」
「まあ、否定はしないわ。きっと湊と詠が一緒だからね」
 僕は文月に笑いかけて、詠のもとへ走った。後ろでカメラのシャッター音が、弾むようなリズムを奏でる。
 幸せな夢だ。詠も、文月も、僕も一緒に笑っている。絶対に叶うことはない夢。
 僕は走り疲れて、楽しそうに話し始めた詠と文月を眺める。瞬間、夢の端から白い靄が迫ってきた。それは徐々に夢の中心部まで塗り固めていく。
「詠! 文月!」
 僕は必死に名前を叫んで追いかけた。しかし二人は靄の奥へと歩いて行く。何度も叫びながら、心の奥底ではわかっていた。希望だけを詰め込んだ、幸福な夢が終わるのだと。
 ――ああ、まだ、目覚めたくない。もっと、一緒にいたいよ。
 しかし僕の願いは届くことはなく、すべてが白に染まる。靄の中に消えてしまった大切な人たちを見送って、僕は静かに、目を閉じた。

 目覚める瞬間、とてつもない苦痛が僕を襲う。薄暗い病室。視界は涙で歪んでいた。
 詠の小説にまで、涙の雫が落ちている。僕は体を起こしてそれを拭うと、読み終えた小説をテーブルの上に置いた。
「――と」
 不意に掠れた音が聞こえた。空調の音でも、風が窓を叩く無機質な音でもない、確かな生の熱を持った音。僕はゆっくりと顔を上げてその正体を探る。
「み、なと……おはよう」
 弱々しい掠れ声と光を宿した瞳。静かに微笑む詠に、僕も微笑んだ。またどうしようもなく涙が溢れてきて、詠の顔を目に焼き付けたいのに、滲んで見えなかった。
「……おはよう、詠」
 僕は優しく詠の手を握った。詠も呼応するように、僕の手を握り返してくる。その手は変わらず冷たかったけれど、驚くほど力強かった。
 しばらくすると詠の両親が病室に駆け付けた。詠が「また、会えて良かった」と笑いかけると、二人は涙を流しながら詠を抱きしめた。僕はその幸福な光景を、ただひたすら目に焼き付けた。
 詠の両親が経過説明のために主治医と病室を出て行くタイミングで、息を切らせた颯斗となずなが駆け込んできた。
 なずなは勢いそのまま詠に抱き付くと、胸の中で嗚咽を漏らしながら言った。
「詠ちゃん……本当に、良かった」
「……これで、四人そろったな」
 颯斗は涙で震える声でそうつぶやいた。本当にその通りだ。詠が眠って、僕たちの心に開いてしまった穴はとてつもなく大きくて。けどようやく、止まっていた時間が動き出した。
 詠は少し目を伏せて言った。
「みんな……心配かけてごめんね。文化祭とかも、一緒に行けなくて」
「詠が目を覚ましただけで僕たちは嬉しいよ。気にする必要なんかない」
 どれだけ慰めても、詠が喪った時間は大きくて。それを感じ取ったのか、颯斗はスマホの画面を詠に見せた。
「ほらこれ、文化祭の動画! 詠にも見せたくて、みんなで撮ったんだ」
 颯斗が動画を流そうとすると、なずなが涙を拭いながら制止する。
「まだ詠ちゃん起きたばかりだから、動画見たら疲れちゃうよ」
「そ、そうだよな。悪い、気が回ってなかった」
 颯斗が素直に謝ってスマホを仕舞おうとすると、詠は「そんなことないよ」と笑った。
「みんなが私の分まで楽しんでくれたの、見たいな。もっと、元気出ると思う」
 一か月眠っていたとは思えないほど生気の迸る声音で、詠は言う。元気を与えるつもりが、逆にこっちが元気付けられてしまう。
「じゃあ颯斗、鑑賞会だ。カーテン閉めてくれ」
「りょーかい!」
「やったー。なずはかわいいから私の隣ね」
 よくわからない理由で詠のベッドに座ったなずなは、勝ち誇った顔で僕と颯斗を見てくる。何だか釈然としない。僕と颯斗は目配せして、無理やり詠のベッドに腰掛けた。ゆったりしたベッドも、途端に窮屈になる。
「ねーちょっと、狭い~」
「私と詠ちゃんの空間なのに」
「こうしないと動画見られないし。なー、湊」
「そうだよ、我慢してくれ」
 僕も乗っかってそう言うと、詠は「仕方ないなぁ」と口を尖らせている。心なしかその表情は嬉しそうだ。
 動画を再生する前、詠は静かにつぶやいた。
「四季折々。達成で、良いかなぁ」
 僕たちは何も答えなかった。そんなの、答えるまでもなかったからだ。
 ――みんなと文化祭を楽しむ。
 四人がここにいて。詠のために残した思い出がここにある。それだけで四季は色付く。
 颯斗が再生ボタンを押した。僕たちは過去に刻んだ四季を、巡り始めた。

 *

 詠は一週間ほど精密検査とリハビリが続いた。その間も僕たちは、病室で出来る範囲で四季折々を叶えた。詠がそれを望んだからだ。
 僕と詠は一一月の空の下、散歩に出かけていた。もちろん詠は外出禁止なので、病院内の中庭だ。僕らを取り囲む木々は葉を落とし、冬に備えている。道端に咲いている花は四季折々楽しめるらしい。詠はそれを見て「綺麗だね」と微笑んでいた。
「こんな綺麗な庭があるなんて知らなかったな」
「え~、もったいない。もっと綺麗なところもあるんだよ。行こ」
 詠は自分で車椅子を動かす。僕が押そうとすると「リハビリになんないでしょ」と文句を言われた。内心ハラハラしながら、隣に並ぶ。
「まだ起きて一週間なのに、詠はすごいな」
「お母さんと湊が私の体をケアしてくれたからすぐ動けたんだよ。ありがとう」
「……どういたしまして」
 僕はその感謝を受け取る。でもきっとそれだけじゃなくて、詠の時計の針を進める意思が強かったからだ。細くなった腕で車椅子を動かす詠を見ながら、僕は歩を進める。
「――四季折々」
 不意に詠がつぶやいた。今日、僕がここに呼ばれた理由。僕の四季折々を叶えるためだ。
「読んで、くれたんだよね。……どうだった?」
 詠のすべてを懸けた最高傑作。一字一句見逃さないように、その情景を、意図を、伏線を読み解いた。緊張しているのか、僕は手汗が滲んでいるのを感じる。
「すごく、面白かった。舞台設定も登場人物もよく練り込まれていて。緻密なシーン描写には何回も驚いたよ。所々で張られていた伏線も効いて、読んでて楽しかった。詠がすべてを懸けただけはあるな。最高だった」
 一思いに言い切ると、詠は顔を輝かせて喜んだ。その瞳には涙も浮かんでいる。詠の小説は自称さんにも負けないくらい、最高だった。それだけなら、まだ良かった。
「本当に、面白かったよ。ただ――気になることがあって」
「……気になること?」
 僕が立ち止まると、詠も止まる。僕たちは中庭から外れ、僕の身長ほどの植物が入り組む迷路みたいな場所まで来ていた。本当にこの先に、綺麗なところなんてあるんだろうか。
「湊、遠慮しないで。本音で、ぜんぶ教えて」
 小説の問題はない。僕が気になったのは、そこから浮かび上がってきた違和感で。きっと誰も気付かない。僕じゃないと気付けないものだ。
 自称さんの言葉を思い出す。小説は、書いた人間を映す鏡だ、と。だから僕は詠の小説を読んだあと、あんなあり得ないはずの夢を見たのだろう。
 僕は詠に、正面からその違和感をぶつける。
「――詠は、僕と出会う前から、文月と友達だったんじゃないのか?」
 一陣の風が吹き抜ける。思わず身震いしてしまうほどの冷たい風。しかし詠はじっと僕を見据えたあと、目を閉じた。
「湊……もうすぐ着くから、行こう。私と莉奈が、初めて会った場所」
 間違ってはめられていたパズルが再配置されていくようだ。でもまだ全体像は掴めない。
 逸る気持ちを抑えながら、詠の後ろを付いて行く。迷路のようでいて、単純な道のり。やがて僕たちは行き止まりで足を止めた。
 煉瓦で舗装された道。パーゴラから伸びるツタや植物は幻想的で。その下に設置された木製のベンチに、柔らかい秋の木漏れ日が差し込んでいた。
 詠は何もないベンチを少しだけ見つめたあと、僕に向き直った。
「中二の春に死季病になって、偶然ここに辿り着いたときに、莉奈と会ったの」
 僕の知らない文月の話に、一瞬で引き込まれる。詠は過去を懐かしむように続けた。
「ずっと塞ぎ込んでた。でも莉奈は、いくら拒絶しても私の手を握ってくれたんだ。今の私くらい冷たい手だったのに『私と同じね。でも、大丈夫よ』って幸せそうに笑ったの」
「文月が……そんなことを、言ったのか」
 僕は思わず泣いてしまいそうになる。文月がそんな風に詠を励ましていたことに。幸せそうに笑っていたことに。
「莉奈と一緒にいるうちに心が軽くなって、また明日が楽しみになったんだ。それくらい、莉奈は私にとっての心の支えだった」
 でも莉奈は、と声のトーンを落としたあと、詠は僕に微笑む。それは悲しみを押し殺すような笑みで。詠も僕と同じく、文月を喪って傷付いていたんだ。
「莉奈はいつもある人の話をしてた。優しくて、情熱的で、まっすぐ莉奈の心にぶつかってきてくれる男の子の話」
「それって……」
「莉奈が言ってた。私に手を差し伸べられたのは、湊が自分にそうしてくれたからだって」
 文月がそう言ってくれて、僕は素直に嬉しかった。ずっと知りたかった文月の本心。過去の自分が満たされていくようだった。それと同時に、未完成のパズルは正しく組み合わさり、完成に近付いていく。
「それで、頼まれたの。莉奈が死んだあと、湊のことを気に掛けてあげて欲しいって」
「っ……」
 最後のピースがはまった。その真実に、僕は足元が崩れ去るような衝撃を覚える。どうしてその可能性に気付けなかったんだろう。いや、違う。本当は詠と文月の関係に気付いた瞬間、僕はわかっていた。でも、無意識に考えないようにしていたんだ。
 ヒントはいくらでもあった。
 詠の母親が言っていた。詠は警戒心が強く、人を見極めて付き合う子だと。
 颯斗が不思議がっていた。そんな詠が、僕を警戒せずに初めから仲良くできたこと。
 死季病と四季折々の秘密を明かしてまで、僕を救おうとしたこと。
 認識はすべて根底から覆り、温かく色付けられた四季は、冷たく意図的なものに変貌していた。僕は突きつけられた真実を咀嚼して、口から吐き出す。
「文月に頼まれたから、僕と一緒にいたのか……?」
「違う……違うよ、湊。私は――」
 僕は詠から伸ばされた手を、思わず払ってしまう。そのことに自分でも驚いた。詠がそんなことをするわけがない。わかっているのに、心と体が連動しなかった。
 悲痛に歪む詠の表情。その表情すら、今の僕には――。
 耐えきれずに、僕は詠を置いたままその場から逃げ出した。傷だらけの背中に、僕の名前を必死に叫ぶ詠の声を浴びながら。

 僕は、文月と初めて出会った河川敷まで来ていた。脚が鉛のように重い。呆れてしまうほど濃い夕陽は水平線に溶かされ、代わりに川面には白い月が映し出されている。
 緩やかに流れる川。風に揺れるススキ。遠くに見える何の変哲もない鉄塔。ただそれらを眺めて、僕は河原に座り込んだ。
 詠と初めて会った日のことをなぞるように思い出す。春、白い箱庭。初対面なのに、まるで元々仲が良かったかのように接してきた。でも蓋を開けてみればそれは文月の願いで。
 僕は衝動的に河原の石を乱暴に掴んで川の中に投げ入れた。水面が弾け、波紋が広がる。すぐに何事もなかったように水面は穏やかになったが、土を抉った指先が鈍く痛んだ。
 本当に色々なことがあった。笑って、泣いて、心に触れ合って。大切に四季を巡ってきた。それなのに。
「……今までの日々がぜんぶ、偽物みたいじゃないか」
 しかし僕の理性が僕の言葉を否定する。詠と過ごした日々は、交わした言葉は、本当に偽りだったのか。ただ僕の感情はどうしようもなく、シナリオめいたこの現実を許せなかった。
 理性と感情の狭間で懊悩している僕の背後から、不意に名前を呼ばれる。詠の声。病院から抜け出してまで、追ってきたんだ。でも僕は振り返らずに立ち上がり、その声から逃げる。
「待って、湊!」
 結局、逃げてばかりだ。文月が死んでから何ひとつ変わっていない。大切な人を最後まで信じてあげることすら、僕にはできない。どうしてこんなに、難しいんだろう。
「行かないで。あっ――」
 短い悲鳴と共に車椅子がガシャリと鈍い音を立てる。思わず振り返ると、詠がスロープの途中で倒れていた。溝に引っ掛かったのだろう。車椅子は横転し、タイヤの車輪だけがカラカラと虚しく回転していた。
 それを無視するなんて、できなかった。
 僕は詠のもとまで駆け寄り、何も言わず詠を抱きかかえる。驚いてしまうほどに細く、軽い体。病衣越しにも伝わる体温。そのままスロープを下り、芝生の上に座らせる。
「ありがとう、湊」
「寒いだろ……」
 素っ気なく言って、僕は着ていた上着を詠の肩に掛ける。冷たく吹く風が、熱くなっていた頭と体を冷やす。僕は詠の隣に腰を下ろした。
 ススキが風に遊ぶ音。カラスの寂しい鳴き声。隣の詠の息遣いは聴こえない。僕は目の前の水面に揺らぐ偽物の月をじっと見つめていた。
 視界の端で、詠が僕の方を向いた。
「湊、ごめんなさい。あんな風に言ったら、確かにそう思われて当然だよね」
「別に謝ってほしいわけじゃない。僕はただ……」
 真実を知りたいだけだ。文月の想いと、詠が抱えてきたそのすべてを。僕は目を瞑る。頭は冷静だ。もう、逃げることはしない。詠と、視線が交わう。
 僕の意志が届いたのか、詠は僕を見つめて、訥々と話し始める。
「私ね、死のうと思ったんだ。病院で検査を受けた帰り道に、どこかないかなって庭を散歩して、それであの場所に行き着いたの」
「……そこで、文月に会ったんだな」
 詠は小さくうなずく。僕の背筋に冷たいものが走った。詠のその心境は当時の僕と同じだ。まるで忘れ物を思い出したような感覚。本当の絶望は、自分の知らないところで膨れ上がっていて、急に弾けるんだ。
 病院の庭での会話を思い出すように、詠は言う。
「莉奈に湊のことを頼まれたのは本当だよ。でも、それだけで行ったわけじゃない。莉奈が本当に楽しそうに湊のことを話すから、どんな人なのか、私も会いたくなったの」
「そんなの、今ならどうとだって言えるだろ」
 心無い言葉を放った僕の口は途端に凍り付いてしまう。なのに詠は、それでも怯まない。
「そうだね。初めから私がぜんぶ湊に話してたらこんなことにはならなかった。でも、どうしてもできなかったの」
「何で……」
「あのときの湊に、莉奈とのことをぜんぶ話すなんて、できないよ」
「っ……!」
 僕はそこで理解した。詠のとてつもなく強い意思を。
 四月。僕が詠から文月の話を聞いたとして。その後に詠も死季病だと知ったとして。僕は耐えられただろうか。突き放して、二度と立ち直れなかったはずだ。
「夏期の病状が落ち着いて湊に会いに行ったら、莉奈から聞いてた湊とは別人みたいだった。それどころか、少し触っただけでいなくなっちゃいそうで……」
 瞳に浮かんだ涙が流れないためか、詠は数秒だけ目を閉じた。
「抜け殻みたいな湊を見るのが、すごく辛くて……何とかして救いたいって思った」
 初めて会ったあの瞬間から、詠はそこまで考えていたんだ。何気ない会話をして僕を励まそうとしてくれた詠の笑顔を思い出す。それなのに、僕は。
「でも、私の比じゃないくらい湊の絶望は深かった。中途半端じゃ湊の心は救えない。私もそこで、覚悟を決めたの」
「それで文月との関係を隠して、死季病と四季折々を僕に伝えたのか」
「湊は莉奈のときみたいに、絶対に私の死季病にも気付く。だから初めから死季病を打ち明けて、それでも湊が自分の意思で前に進めるようになるまで、一緒にいようって」
 詠は最後に「どれだけ私が拒絶されても」と小さくつぶやいた。どうして、詠はここまでできたんだろう。文月の願いだから? 文月から僕の話を聞いて興味を持ったから? どれも正しいとは思えなかった。真実を知っても、僕には、それだけがわからない。
「わからないよ……どうして詠はそんなに、僕のことを」
 僕の質問が意外だとでも言うように詠は微笑む。その瞳に、煌めく水面を支配する月の光が映り込んだ。
「湊は、私の命の恩人だから」
 とてもシンプルで、しかし身に覚えのない理由に、僕は呆然とする。その言葉を咀嚼しても答えは出なかった。
「……でも僕は、そのとき詠に会ってすらいない」
「会ってなくても、巡ってるんだよ。湊は莉奈のことを救って。莉奈は私のことを救ってくれた。だから私は、湊のことを救いたかった。私の四季を繋いでくれたのは莉奈でも、その始まりは、ぜんぶ湊なんだよ?」
 走馬燈のように、文月と出会ってから今までの四季折々がすべて蘇る。体の中から何かが迸り、僕はうなだれる。やがて震える唇で言葉を紡いだ。
「僕は、救えていたんだ……」
 つぶやいた瞬間、僕の両手を詠の両手が包み込んだ。なぜか、出会った頃の詠の手みたいに温かい。それが錯覚だということはわかっている。でも、何もかもが温かすぎて、もう涙が頬を流れていた。顔を上げると、詠も静かに泣いていた。
 詠は声を詰まらせながら、僕に微笑みかけた。
「――私は、出会う前から、湊に救われていたんだよ」
 その言葉に、僕の傷がすべて癒えて、心が満たされていく。ひたすら走ってきた過去が。目の前が真っ暗になった過去が。自分を責めた過去が。
 僕が選んで、巡ってきた四季は間違いじゃなかった。間違って、なかったんだ。
 僕の嗚咽は水面を滑り、徐々に強く広がっていく。小さくなって泣き続ける僕を包む詠の温もりだけは、ずっと傍にいた。


 4

 どこまでも突き抜けるような青空。この快晴がまるで嘘かのように、車椅子を押す僕の手から熱が奪われていく一二月。僕たちは、とある場所まで来ていた。
「寒くないか、詠?」
「着込んで来たから、大丈夫だよ」
 詠のブランケットの位置を直して、僕は目的の場所を目指す。
 規則正しく並べられた墓石。それは無機質で冷たく見えるけれど、確かにその人がここで生きていた証だ。小高い丘を登り、僕は一つの墓前で足を止めた。
 文月が眠っている墓。ようやくここまで来ることができた。僕が立ち尽くしていると、詠は静かに口を開いた。まるで長年の夢が叶ったような安寧を湛えて。
「莉奈のお墓参り、二人で来られて良かった」
「……そうだな。二年と三か月も掛かったけど」
 詠が会いに来てくれなければ、僕はここに来られなかった。本当に詠には感謝しかない。
 辺りを見渡して水道を見つけた僕は、詠に言った。
「じゃあ水汲んでくるから、ちょっと待ってて」
 そして二人で墓の周りを掃除し始める。定期的に家族が来ているのだろう。墓は綺麗に保たれていた。軽く掃除を終え、花を供え、線香をあげる。
 僕たちは並んで手を合わせた。柔らかく上がる線香の煙。赤くなった僕らの指先。またこうして文月に何かをするということが、堪らなく嬉しかった。
 目を閉じるとすぐに思いは溢れた。文月への言葉を、僕は空まで届く煙へと乗せる。
 ――遅くなってごめん、文月。長い間、君と過去に閉じ籠っていたけど、もう僕は大丈夫。大丈夫だよ。だから、これから僕が歩む四季を、どうか見守っていてほしい。
 冷たく、でも柔らかい風が僕の肌を撫でる。長い時間、僕は手を合わせていた。ゆっくりと目を開くと、詠が僕のことを見つめて微笑んでいた。
「湊もちゃんと、届けられた?」
「……うん、きっと。届くといいな」
 僕も詠に微笑みかけて二人で空を仰ぐ。青の彼方に、雲のように白い僕の息が上っていく。詠の口からは出ないその白は、やがて空気に溶けて、消えていった。

 文月の墓参りですべてが終わったわけじゃない。まだ僕は、やり残していることがあった。詠の車椅子を押して、かつて文月と歩いた道を歩く。
 鉄塔に背を向けて少し歩いた住宅街。その中の一軒家に、僕たちは向かっていた。
「莉奈のママさん、元気かなぁ。最近は会ってなかったんだ」
「連絡とってくれてありがとう、詠」
 文月の葬式に出られなかった僕がどう思われているのかは、正直怖い。でも、僕の知らない文月の最後が、そこにはある気がした。
 緊張を紛らわせるために会話をしていると、急に詠の体が傾いた。睡眠発作だ。最近は短い周期で短時間だけ眠ることが多くなった。
 僕は慌てて車椅子を止め、詠の正面から肩を揺すって声を掛ける。
「詠、詠、大丈夫か? 起きられそうか?」
「ぅ……」
「良かった……」
 僅かに反応があるときは、数分で目を覚ますはずだ。僕の体から吹き出た汗が引いていき、冷たい安堵だけが残った。僕は詠の体をベルトで固定して、また歩き出した。
 レンガ調の小さな一軒家。二年前まではよく訪れていた場所だ。車椅子を止めた僕は、玄関扉の横のインターホンを見る。数段の階段を上って押すだけなのに、とても遠く感じた。
「大丈夫だよ、湊。私も一緒だから」
「詠、良かった……心配したよ」
 詠は「いつもごめんね」と困った顔で笑う。僕は思わず詠の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。冬の渇いた空気と詠の髪の匂いが混ざり合い、空間を満たす。何だか落ち着く匂いだ。
 こんな顔をさせないくらい、強くならないといけないよな。僕は短い階段を上り、インターホンを押した。詠の隣に立ち、その時を待つ。
 小さな足音が聞こえたあと、すぐに玄関の扉が開く。僕が深く頭を下げると、詠は「お久しぶりです、ママさん」と言う。文月の母親は僕たちを交互に見て、薄く微笑んだ。
「久しぶり、詠ちゃん。……それと、湊くん、よね? 寒かったでしょう、入って」
 母親には初めて会ったけど、僕のことは文月が話していたのだろう。
 靴を脱ぐと、文月の部屋へ続く階段に手すりが設置されているのに気付く。僕が遊びに来ていた時にはなかったものだ。文月の強がりに、僕は懐かしさを覚える。
 僕たちはリビングへ通された。詠をソファに座らせて、僕はリビングを見渡した。
 木材を基調とした温かな雰囲気は二年前と変わっていない。でもその中で、すぐにある部分に目が行く。コンパクトな仏壇に、文月の遺影が立てかけられていた。相変わらず猫のように澄ました表情で、こっちを見ている。
 そしてその隣にもう一つ、優しそうな男性が微笑んでいる遺影が並んでいる。きっと文月の父親だ。亡くなっていたなんて、知らなかった。
 僕は文月の母親に、静かに訊いた。
「……線香を、あげてもいいですか?」
「ええ、もちろんよ。ありがとう」
 仏壇前の座布団に正座する。僕はソファから動けない詠の分も線香をあげ、リンを鳴らす。高い音色が彼方へと吸い込まれた後、僕は正座のまま文月の母親に向き直った。謝らなければいけないことがある。
「莉奈さんとは、仲良くさせてもらっていました。でも、葬式にも、墓参りにも行けなくて、本当にすみません」
 深く頭を下げる。母親は「謝らないで」と諭すように言うと、ゆっくりと顔を上げた僕を優しい表情で見つめる。
「湊くんは今日、こうやって詠ちゃんと来てくれたでしょう? それだけで嬉しいのよ」
「……そう言ってもらえると、救われます」
 もっと色々言われることを覚悟していたから、その言葉は本当に僕にとっての救いだった。
「救われたのは私の方よ。莉奈は死季病になってから、私に頼ったり、弱いところを一つも見せなくなったから。きっと、このあと独りになる私に気を遣ったのかもしれないわ」
 僕は視界の端にある二つの遺影に意識を向ける。
「何か、莉奈っぽいなぁ。泣き虫になっちゃった私とは真逆だ」
 詠が恥ずかしそうに笑うと、母親も口に手を当てて笑いながら、続ける。
「それでいいのよ。たくさん泣いて、笑って、甘えてくれた方が親としては嬉しいもの。でも中学生になってからは、ちゃんと年相応に弱音を吐いたりするようになった」
 母親は僕たちを交互に見て微笑んだ。目尻には涙が少し、滲んでいた。
「湊くんと詠ちゃんのおかげで、あの子はとても幸せに生きられたと思うわ。二人とも、本当にありがとう」
 声を出せずに、僕はうつむいて首を横に振る。詠は涙が滲む声で口を開いた。
「私も、莉奈と会えて幸せだった。私、莉奈にもらってばかりで、何も返せてない」
「いいえ、そんなことないわ。傍にいてくれるだけで心を満たしてくれる。詠ちゃんは莉奈にとっても、私にとっても、大切な存在よ」
 僕は深く納得する。きっとそれは詠の才能で。人間性で。その輪に入った誰もがそう思ってしまう。詠は恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
 母親は立ち上がり、ソファに座っていた詠の隣に腰を下ろすと、そっと肌に触れた。文月のことを思い出したのか、その表情が寂しげな色を見せる。
「……桔梗の会で初めて会ってから、もうそんなに経つのね」
 桔梗の会。確か死季病患者の会の別称だったはずだ。詠は、母親に微笑みかけた。
「私の四季も、あと三か月くらいだよ。最近は、関節を動かすのが難しくて。睡眠発作も頻度が多くなってきたんだ」
「……そう、なのね」
「それで、次に長く眠ったら、最期」
 明るく放たれた言葉。しかし「最期」という言葉だけは、少し震えて空気に溶けた。遠いようで、限りなく近い未来だ。
 母親は、ゆっくりと詠の背中に腕を回した。詠は少し驚いた表情を浮かべたあと「えへへ」と笑う。嬉しさや寂しさが混ざった、でも幸せに近い笑みだと、僕は思った。
「……向こうでも、莉奈と仲良くするね。ママさん」
「ええ……莉奈のことをよろしくね、詠ちゃん」
 二人は少しの間、抱き合っていた。母親は詠から腕を解いて、流れていた涙を指で拭う。詠はその姿を見てか、明るい声で提案した。
「そうだ、ママさん。私、久しぶりに莉奈の部屋行きたい」
「莉奈の部屋? ええ、いいわよ」
「やった。湊、ん!」
 両腕を広げて、運んでと催促してくる詠に、僕は言う通りにする。でも文月の母親の前では少し恥ずかしい。
 詠の母親と違って何も言っては来ないけど、僕を見る目が文月のそれと同じだ。楽しいおもちゃを見つけたみたいな、そんな目。ぜひやめてもらいたい。
 僕は詠を抱えて、文月の部屋がある二階へ上がった。奥の一室。ドアを開けて中に入った僕たちは、同時に「あのままだ」とつぶやいた。
 シンプルな木目調の部屋。勉強机とイス。ベッドにカーペット。クローゼットに服はあまり掛かっておらず、代わりにカメラに使う撮影道具が積まれている。
 あれから二年が経っても埃っぽさはまるでなくて、きちんと掃除が行き届いていた。僕は詠をベッドの上に座らせ、文月の部屋を懐かしんだ。
 ――女の子の部屋をじろじろ見るなんて、デリカシーがないわよ、湊。
 初めて文月の部屋を訪れたときのことを思い出す。そのあと、なるべく一点を見るように努めて笑われたことも。
「湊も莉奈の部屋、来たことあったんだね」
「うん、よく来てたよ。急に呼ばれて、文月のやりたいことを叶えに」
 でもそれは決まって母親が仕事でいない日だった。さっきの話を聞いた今ならわかる。その理由が、文月の寂しさを紛らわせるためだったのだと。
 ――湊、いつか私の四季が終わったら……。
 頭の中に反響するように、文月の声が聞こえる。僕がまだやり残していること。あのときのまま変わらないこの部屋なら、きっとそこに。
 ――私の部屋。勉強机の、横のチェスト。
「……上から、二段目」
 僕はチェストの引き出しを開ける。そこには、文月の魂が刻み込まれた一眼レフカメラが置いてあった。楽しい思い出が詰まったカメラを手に取り、指で撫でる。
「湊くん。莉奈のカメラ、もし良かったらもらってほしいの」
 遅れて部屋にやってきた母親の突然の提案に、僕は首を振る。
「こんなに大切なもの、もらえません」
「莉奈が命くらい大切にしていたものだから、湊くんにもらってほしいのよ」
 僕はあのとき約束を交わさなかった。文月の四季が終わるのを認めるみたいだったからだ。でもそれは、ずっと心に引っ掛かっていた約束のひと欠片で。
 ――湊、いつか私の四季が終わったら。今度はあなたがこのカメラで、四季を巡って。
「それがきっと、莉奈の最期の願いだから」
 文月の最期の願い。今の僕なら、きっと文月に胸を張れるくらいの四季を巡ることだってできるだろう。
 不意に詠を見つめると、ベッドの上で淡く微笑み返してきた。まるでこれから僕が出す答えがわかっているみたいに。
 僕はその表情に向けてカメラを構える。幾度となく見た、文月がファインダーを覗く姿を思い出しながら。
 シャッター音が部屋に響く。その音が消える刹那、文月が笑ってくれた気がした。
「……大切にします。これからも、ずっと」
 いつか僕の四季が、終わるまで。
「ありがとう、湊くん。莉奈の隣にいた人が、あなたで良かった」
 母親は涙声でそう言ったあと「ゆっくりしていって」と言い残して、階段を降りて行った。僕は何だか力が抜けてしまい、詠の隣に腰を下ろして息を吐く。木製のベッドが鈍く鳴った。
 僕はまだ手に馴染まないカメラを触りながら言う。
「文月のカメラを譲り受ける日が来るなんて、思わなかったな」
「でも撮る姿、けっこう様になってたよ。さっきの写真、見たいな」
 カメラを覗き込んでくる詠にデータを見せる。性能が良いのもあるけど、久しぶりにしては上手く撮れた方だ。
「おぉ~。やっぱり私、可愛いなぁ」
「おい自分で言うな。……まあでも、被写体が良いのは確かだな」
 詠は突然、僕を小突いてくる。ずっと一緒にいるからわかる。ただの照れ隠しだ。
 そのまま僕たちは、文月が閉じ込めた幸せな時間を巡り始める。過去から未来へ。膨大な枚数を、一枚一枚、時間をかけて。
 すべてが風景写真だった。河川敷。水面の不規則な揺らめき。遠くの鉄塔。群青の空。文月が巡った四季折々の繊細さと漂う懐かしさに、まるで童心に帰ったような胸の高鳴りを覚える。思い出が新しいものになるにつれて、その風景はより繊細に、輝きを増していった。
 僕や詠に出会った日付から少し経つと、今までとは明確に違う写真が、僕たちの目に飛び込んできた。
「これ、文化ホールに飾られてた写真だね」
 『夏の涯』。文月が放課後に息をするように撮った、初めてのポートレート。
 展望公園から、夕陽に染まった町並みを見下ろす少年の横顔が切り撮られている。夕陽の逆光で、それが誰かはわからない。
「被写体が良いのは、湊も一緒だね」
「これは、文月の技術が凄いんだよ」
 文月と初めて会ったときの、僕を被写体にするという約束。文月にとっての幸せな写真の一部になれたことが、僕は何よりも嬉しかった。
 それ以降は、母親の写真。僕の写真。詠の写真の比率が徐々に多くなってきた。僕の胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていった。
 長い旅を終え、最後の二枚。僕と詠は顔を見合わせ、写真をモニターに表示する。
 僕と詠は、同時に息を呑んだ。最後の二枚は、僕と詠がそれぞれ文月と一緒に写っている写真だった。頑なに自分は写ろうとしなかった文月が一緒に撮ろうと提案してきたことは、今でも鮮明に覚えている。
 場所はどちらも展望公園。一本の桜の樹を背景にしていた。僕は緊張気味に文月の左隣に。詠は満面の笑みで文月の右隣に立っていた。二つの写真の中で文月は幸せそうに微笑んでいる。
 モニターに、温かな水滴が落ちる。気付くと僕は泣いていた。これが文月の幸福の答えなんだ。そう思うと、涙が溢れて止まらなかった。
 詠も涙を拭った手で、二枚の写真を交互に表示させた。
「……何か、三人で一緒に写ってるみたい。莉奈、本当はずっとこうしたかったんだよね」
「……うん、きっと」
 でも文月は、最後にひとり残されてしまう僕を案じて、そうしなかった。
 その文月の優しさと慈愛を、胸にしっかりと刻み込む。僕は涙で滲む視界で、その幸福の答えを眺め続けた。

 *

 部屋にカメラのシャッター音が響く。僕は慣れた動作で、切り撮った思い出を確かめる。
 大きなクリスマスツリー。並べられたプレゼント。豪華な食事。見るだけで心が躍るような光景だ。煌びやかに飾り付けられた部屋は、白い箱庭なんかじゃない。詠が生まれ育った家に僕たちは集まっていた。
 僕が顔を上げると、颯斗がローストチキンをもぐもぐと頬張りながら口を開く。
「詠、本当に良かったのかー? 食べ物も並べちまって」
「いいの! 食べ物ないとクリスマスじゃないじゃん! まあ最近は調子良いから、できればちょこっと……」
「おい食うなよ? 食ったらなずなのパンチが飛んで来るぞ」
「や、やだ。そんなことしないよ!」
 今にも口からよだれを垂らしそうな詠を僕は制止する。食べても危険なわけではないけど、できるだけ危険因子は減らすべきだ。詠の病状を鑑みると仕方がない。
 餌をお預けされる犬みたいな詠に、なずなが手を叩いて言う。
「じゃあちょっと早いけど、プレゼント交換会しよっ!」
「やったー! プレゼント~」
 ベッドに座った詠の顔がぱっと華やぐ。僕はそれをすかさず写真に収めた。が、タイミングが悪く、半眼の詠が変なポーズを取って荒ぶっている仕上がりになってしまった。まったく、文月のようにはいかない。
 颯斗となずなが、一か所に置いていた全員のプレゼント袋を仕分け始める。詠が食べ物を食べられない代わりに、プレゼントは僕たち三人で会議して絶対に喜んでくれるものを選んだ。
 僕もカメラに視線を落とした、一瞬のことだった。
「うわ~っ! お肉美味しい~!」
 ローストチキンに豪快にかぶり付く詠に、颯斗となずなは真っ青になって詠に飛び付いた。
「うわっ! バカッ、よせ!」
「詠ちゃん! もう絶対やると思った!」
 僕は天国と地獄が垣間見える光景に、腹から笑いながらシャッターを切った。詠の母親の想像通りだ。僕は事前に「食べ過ぎない程度になら、詠にも食べさせてあげて」と了承を得ていた。颯斗となずなには伝えないで正解だったな。めちゃくちゃ面白い。
 詠は程よく食べて、幸せそうに笑っていた。僕も颯斗もなずなも、それは同じで。文月のカメラに、僕にとっての幸福の答えが、多く刻み込まれていった。

 それから僕たちは正月を迎えた。大晦日は詠の家に泊まり、展望公園で初日の出を拝んだ。僕がこの世界に願ったことは、みんなが幸せでいられますように。ただそれだけだった。
 でも、世界に祈るより確実なことがある。それは、詠が作った四季を巡る祈りだ。僕たちはゆっくり、着実に冬の四季折々を叶えていった。
 そんな日々が、これからもずっと続けばいい。そう思う反面、僕は覚悟していた。いずれ来る崩壊の日々を。
 その日も変わらず、僕は詠の病室を訪れていた。いつもの調子で会話をして、四季折々を叶えて。充足した一日。
 僕は自称さんの小説を読んでいた。それは主人公とヒロインが出会い、ある事件をきっかけに破滅していくという物語。希望溢れる描写から絶望に変わるストーリーラインに、引き込まれていく。
 すると、何かが床に落ちる音で、僕は現実世界に引き戻された。顔を上げると、四季折々に書き込んでいた詠の手から万年筆が落ちていた。
 床に転がる万年筆を拾い上げ、僕は詠に手渡す。
「ありがと……」
 しかし万年筆は、詠の手から零れ落ちる。テーブルに万年筆が落ちる空虚な音が、嫌に耳に残った。僕はその事実に、ぞっとする。力が、一つも入っていないみたいだった。
「詠……」
 名前を呼ぶと、詠は小さな声で「いや……」とつぶやく。その顔はみるみるうちに恐怖に歪み、呼吸が荒くなっていく。
「嫌ッ!!」
 廊下にまで響き渡るほどの声で、詠は叫んだ。ほとんど悲鳴のようだった。僕は詠の肩に手を置いて「詠、大丈夫。大丈夫だから」となだめた。しかし詠はとてつもない力で、僕の手を振り解く。パニックに陥っていた。
 怒りと、恐怖と、悲しみと、あらゆる感情が内包された声。僕は一瞬怯んだが、詠を落ち着かせようと抱きしめた。
 すると騒ぎを聞いた看護師が数人、慌てた様子で部屋の中に入ってきた。僕は詠から引き剥がされ、看護師数人が詠の体を押さえる。しかし詠は体を激しく動かして抵抗した。
「嫌ッ! 離して!! 何で私が死ななきゃいけないの!? まだ、死にたくない!」
 僕は立ち尽くし、詠の悲痛な叫びを聞いていた。その間も看護師はずっと優しく言葉を掛け続けている。詠は過呼吸状態で、喘鳴を上げながら、金切り声を出した。
「――死にたくないッ!!」
 僕は呆然と項垂れた。目の前の詠の声がとても遠くに聞こえて、僕の震えた呼吸が耳元で聞こえる。『死にたくない』。理不尽な現実に対するその強い想いが、僕の頭の中で、何度もこだましていた。
 やがて詠は鎮静剤を打たれ、今は静かに眠っていた。椅子に座ってぼんやりしていると、不意に声を掛けられる。詠の母親だった。
「湊くん。今日はもう大丈夫だから、家に帰ってゆっくり休んで。……ごめんね」
「はい……僕は、大丈夫です」
 うつむきながら僕は答える。ふと、いつの間にか床に転がっていた万年筆が目に入る。詠が綺麗な四季を描いていたそれは、ペン先がぐにゃりと曲がっていた。僕はそれを拾うこともせず、詠が眠る病室を後にした。

 僕は河川敷に座り込んでぼうっと川面の揺らめきを眺めていた。一月は昼間でも気温が低く、徐々に僕の熱を奪っていく。その冷たさに、心に付いていた傷がひどく痛んだ。
 死にたくないという詠の心からの叫びに僕ができることなんて、何もない。さっき、まざまざとそう思わされてしまった。
 ポケットの中のスマホが震える。きっと颯斗となずなだろう。二人もあのあと来る予定だったから、僕の行方を捜しているのかもしれない。でも、返信している余裕はなかった。
 雪がはらはらと降ってきた。その小さな結晶は音もなく僕の手に触れ、消えていく。その様子を何となく眺めてうずくまると、背後から声が聞こえた。
「篠宮……?」
 その声にゆっくりと振り向くと、氷野が立っていた。しかしそこに今までのような険しい表情はなくて。単純にこんな場所に座り込んでいる僕に対しての疑問が表れていた。
 返事をする余裕もなく、僕はまた正面の景色を眺めた。すると、氷野は「何でこのクソ寒い日にこんなところにいんだよ」と悪態をつきながら、僕の周りをうろうろし始めた。それにも反応せずにいると、氷野は短く舌打ちをして、僕の隣に腰を下ろした。
「吹っ切れたのかよ」
「え……?」
 ぶっきらぼうに放たれたその言葉に、僕は聞き返す。氷野は正面を眺めたまま、その意味を正確に伝えてくる。
「文月の母親から聞いた。篠宮と水瀬さんが来てくれたって。すっげぇ喜んでたよ」
 僕は文月の家に行くまでの出来事を思い出しながら、口を開く。白煙が空に昇った。
「ああ……文月にちゃんとお別れを言えてなかったから。時間は掛かったけど」
「じゃあ、何でそんなにくたばりそうなツラしてんだよ」
 氷野と久しぶりに視線が合う。そこに怒りの色はなく、まっすぐ僕だけを見ている。あれから何か心境に変化でもあったのだろう。だから誤魔化す必要はないように思えた。
「詠が死季病なんだ。もうそんなに長くない。それでさっき病室でパニックを起こして……」
「死季病って……嘘だろ」
 そんなの、信じられないだろう。氷野は苦痛に顔を歪めていた。きっと文月との別れを思い出しているのかもしれない。
 それは氷野が文月に固執する――いや、自分と過去とを鎖で繋がなければならなかった理由にもなった出来事だ。
 僕は空を仰ぎ、当時のことを思い出す。中学一年生の二学期が始まってすぐのことだ。
 氷野は文月が好きだった。でも、好意を伝える選択を誤った。文月の気を引くために、文月が命くらい大事にしていたカメラを奪ったのだ。無知で未熟な考えで。
 僕も、無知で未熟だった。感情のまま氷野を殴りカメラを取り返した。それが後にどんな結果を生むかも知らずに。
 それ以来、僕は氷野と関わりを断ち。氷野は謝れないまま、文月は死んでしまった。
 氷野が文月を傷付けたのは紛れもない事実だ。でも氷野を文月から遠ざけてしまったのは、無知で未熟だった僕だ。言い訳はできない。
 だから僕は、隣でうつむく遠い日の友人に声を掛ける。
「……氷野」
 氷野の視線が僕を捉える。悲痛なその表情が、僕の過去の記憶と重なる。鮮烈な痛みが胸の奥を駆けた。
「文月の死季病を黙ってて……ずっと氷野のことを遠ざけて、本当にごめん」
 頭を下げる。本当に僕は、何もかもが遅すぎる。氷野にとってはもう、取り返しがつかないことなのに。
 氷野は鉄塔に視線を移して瞬きをすると、意を決したように体を僕に向けた。
「……黙ってたのは、文月がそう望んでたからだろ。本当はわかってた。でも、色んな感情がごちゃ混ぜになって、ぜんぶお前のせいにしちまった」
「いいんだ。僕が氷野を文月から遠ざけてなきゃ、こんなことにはならなかったんだから」
 しかし氷野は首を横に振って「違うよ、篠宮」と僕を見つめる。深い後悔の色が、表情から滲み出ていた。
「本を正せば、俺が文月のカメラを奪ったのが原因だ。篠宮のせいじゃねぇ。謝ろうと思えばいつでも謝れたのにな。でも、怖かったんだ。あれ以上、嫌われたくなんてなかった」
 氷野はふっと僕から目を逸らし、独り言のように小さくつぶやいた。
「……好きだった。ただ、それだけだったんだ」
 もう直接伝えられないその想いは、冷たい風に攫われていく。だから氷野は何度も文月に手を合わせていたのかもしれない。天国までの遠い距離へ、どうにか届くように。
 氷野はもう一度しっかりと僕を見据えると、少しだけ震える声で言った。
「俺の弱さのせいで、篠宮にひどいこといっぱい言ったよな……本当に、ごめん」
 僕は、深く頭を下げてくる氷野を見つめる。僕らは無知で、未熟で。でも今この瞬間、少しは前に進めたんだろう。だから僕は、さっきの言葉を氷野にそのまま返した。
「……吹っ切れたのかよ」
 氷野は驚いた表情で僕を見たあと、柔らかく微笑んだ。それは遠い日の笑顔から、何一つ変わってはいなかった。
 しばらくすると氷野は立ち上がり、僕を見下ろしながら言った。
「で、いつまでそんな辛気臭いツラしてんだ、篠宮」
 僕の心はまだ完全には晴れていなかった。さっきの詠を思い出すと、体の細胞がすべて凍り付いたみたいに動けない。氷野は何も答えない僕に「あのさ」小さくため息をついた。
「文月も、水瀬さんも、お前を選んだ。それって、篠宮なら何かを変えてくれるって思ったからじゃねぇのか?」
「……僕ができることなんて、本当に何もないんだよ」
「俺が見てた昔のお前は、こんなところで立ち止まってなんかいねぇよ。いつも大切な誰かのために走り回ってただろ!」
 思い切り背中を叩かれる。痛みの熱が浸透するように、体中に響いた。ああそうだな。それだけは、自信がある。
 ――私は、出会う前から、湊に救われていたんだよ。
 晴れやかな詠の笑顔。病室での恐怖に歪んだ顔。相反する二つの表情が、頭の中を巡る。まだ何一つ、救えてなんかいない。
 僕は立ち上がる。体は冷え切っていたけれど、確かに熱は灯っていた。
「氷野、ありがとう。僕……」
「わぁったから、早く行けバカ!」
 相変わらず口が悪い氷野に苦笑しながら、僕は詠のもとへと走る。
 厚い雲間から覗く淡い光芒。太陽は水平線に吸い込まれようとしていた。むせ返ってしまいそうな冬の冷気を体内に取り入れてもなお、僕の体はいっそう熱を帯びる。
 走りながら、スマホの着信を確認する。颯斗となずなから何件も電話が掛かって来ていた。その瞬間、僕は察する。折り返そうとした矢先、また着信音が鳴った。
『――湊っ! 詠が……病院から、いなくなった』
 震えるその声は、僕の心臓と走る脚を加速させた。

 内から湧き出る焦燥をかき消すように、僕は走る。拭い去れない嫌な予感は、陽が落ちて夜の比率が濃くなると共に膨らんでいった。
 詠が病院から姿を消したのは三〇分ほど前。車椅子に乗った詠が町を出ていないことは、颯斗が駅員に確認を取っている。詠は、きっとこの町のどこかにいるはずだ。
 高校。ショッピングモール。中央公園。文化ホール。詠と出会い、巡った場所を僕は探し回る。しかし詠の姿はどこにもない。また中央公園に戻ってきたところで、背後から声を掛けられた。振り向いた先に、颯斗となずながいた。二人とも走り回ったのか、呼吸が荒い。
「湊! 詠、いたか?」
 返答しようとした瞬間、僕は激しく咳込む。町中を走った反動が今になって体を襲う。呼吸は苦しく、頭がぼんやりする。こんなに寒いのに体だけは熱く、汗が噴き出してきた。
 膝に両手をつく。地面に染み込む自分の汗を見ながら、僕は何とか言葉を絞り出した。
「いや。まだ、ぜんぶは、探せてない……」
 僕は全身に脈打つ鼓動を意識しながら、また歩き出す。すると、不意になずなに右手を掴まれる。ぼやける視界の中で、なずなも、颯斗も、ひどく不安そうな顔をしていた。
「湊くん。ちょっと休んで。詠ちゃんは私たちが絶対に見つけるから」
「そうだ。このままだとお前が先に倒れちまう」
 その優しい言葉に僕は首を振る。心配してくれる二人を心配させないように、僕は笑う。
「大丈夫だ。それに、ここで立ち止まったら、また後悔すると思うから」
 今までずっと立ち止まってきた。だから、僕は走り続けたい。死ぬほど今が辛くても、未来では笑うために。
 二人にも思い当たる場所をもう一度探すように頼んで、僕はまた走り出した。
 詠との軌跡を、僕はなぞる。バッティングセンター。河川敷を横目に通り過ぎる。耳の奥で鼓動が響く。詠が向けてくれた笑顔が脳裏に点滅するように蘇った。
 後は――詠と僕、文月の思い出の地だけだ。無意識のうちに、候補から外していた。あの場所に辿り着くには、車椅子では難しいから。
 でも、確信があった。詠は絶対にそこにいる。僕はその場所へと急いだ。

 汗を拭い、僕は疲弊しきった体で展望公園へと続く道を上る。黄昏時。僕を追い返そうと木々が激しく揺れる中を、まっすぐと進む。
 木々が途切れ、静かになった。視界の端には一本の桜の樹。陽が落ちて薄暗くなった展望公園は、全体がセピア色に染められていた。
 落下防止柵の向こう側。そこには鋭い木々と背筋が凍るほどの急斜面の崖が広がっている。その手前に詠は座っていた。僕は少しだけ近付いて、声を掛けた。
「……空でも、飛びたかったのか?」
「来ないで」
 静かで、研がれた刃のような言葉。僕は向けられた刃の切っ先へ向かうように近付いた。
「どうして、そんなところにいるんだ」
「今が、すごく幸せだから」
 詠は遠くの町並みを眺めながら、震える声音で言う。僕は口を結んで、次の言葉を待った。
「……もっと生きたい。死にたくない。でも、もうすぐぜんぶ終わる。だから、どうせ終わっちゃうなら、写真みたいに幸せなまま、終わらせたいの」
 息を呑む。僕たちの根底には確かに絶望があって、自ら死を望んだ。でも詠の絶望はもっと底が見えないくらい、深い。
「湊。私を、救ってくれてありがとう」
 詠は柵を支えに震える手足で立ち上がり、背を預けた。柵は腐食しているのか、グラグラと動いて頼りない。今にも詠は、本当に鳥のように飛び立ってしまいそうだ。
 だから、僕は叫んだ。その羽を折るために。二人で最期まで歩いて行くために。
「こんなのが、幸せ? ふざけんな!」
 体をびくりと震わせて、詠は僅かに僕を振り返る。
「死にたくないんだろ? 幸せなまま終わりたいんだろ? なら、まだやれてないことがたくさんあるだろ! 足掻けよ!」
「足掻いたよ!」
 詠も叫び、僕を睨む。そんな目をできる奴が死を望むなんて、絶対に間違っている。
「湊も見たでしょ? 私の手が動かなくなるところ。後はもう冷たくなるだけなのに、それでも、まだ、頑張らなきゃいけないの……?」
「っ……」
 弱々しいその本心に僕は怯む。詠は半分泣いているような声で、言葉を絞り出した。
「湊は私を救ってくれて、幸せをたくさんくれた。このまま終わらせたいって思うことは、そんなにだめなことなの?」
「だめだ」
 僕は強く言い切って、さらに詠に近付いた。詠は青ざめた顔で「来ないでよ!」と叫ぶ。柵を掴む両手に力が入るのがわかる。このまま少し勢いをつけて飛び出せば、詠は真っ逆さまに落ちてしまうだろう。凄惨な光景が脳裏をよぎった。
 それでも僕は足を止めなかった。そんなに悲しい顔を、苦しい思いをさせたまま、詠と離れる気はない。
「僕はまだ、詠を救った覚えはない」
「え……?」
 詠は僕に救われたと、幸せだと言ってくれた。でも、まだ何もかもが中途半端なんだ。
 前に僕がこの場所で詠に誓った約束。『最後まで詠と一緒にいる』。この約束の本当の意味を、僕は言葉に乗せる。
「詠が瞳を閉じる瞬間に、心から幸せだったって思うまで僕は足掻きたい。それが僕の……」
 一瞬だけ言葉に詰まり、僕は微笑む。誓ったんだ。独りになんて絶対にさせない。
「――四季折々だ。詠……僕の願いを、一緒に叶えてほしい」
 自分勝手だって思われても、こんな形で別れるよりはずっといい。これが僕の四季の形だ。
 詠は、初めは静かに、しかしやがて堪え切れずに嗚咽を漏らし始めた。それはセピア色に染まった展望公園にこだまする。何度も、何度も、声にならない声で「ごめんなさい」と繰り返しながら。
 僕は「帰ろう、詠」と言って、柵に掴まって一生懸命に立っている詠に近付いた。詠も素直にうなずいて、僕に手を伸ばす。
 ――瞬間。詠の体が、かくんと崩れた。睡眠発作。最悪なタイミングだった。
 死の底へと吸い込まれていく詠。伸ばされた小さく冷たい手を掴むために、僕は何も考えずにただ走った。周りの音が止んだ。
 しかし脳裏に浮かんだ映像が、僕の脚を鈍らせる。
 文月との最後の日。僕は背を向ける文月の手を掴めなかった。
 詠と川遊びをした日。転びそうになった詠の手を掴めなかった。
 でもそんなこと、今は関係ない。そうならないために、僕は詠と、この四季を巡ってきたんだ。僕はただ、ひたすら駆ける。
「詠ッ!!」
 ――手を、伸ばした。
 落下防止柵の根元を左手で掴み、僕は飛び込むように詠の右手を握った。詠の体が急斜面の崖から飛び出し、揺れる。細かい石が音を立てて転がっていく。暗い底はひどく凍てついて見えて、僕は恐怖に息を呑んだ。
 詠のすべてを受け止めている僕の右手と肩が悲鳴を上げる。長くは持ちそうになかった。
 詠は確かに眠っている。それなのに、僕の手を握る力は、とてつもなく強い。
 懸命に生きようとする詠の意志が、僕の体に流れ込んでくる。だから僕が諦めるわけにはいかない。最後まで、足掻いてやる。
 詠の魂まで届くように、僕は叫ぶ。
「詠! 僕が君を救う! だから絶対に離すな!!」
 反応はない。思いとは裏腹に、僕たちの手はじりじりと離れていく。僕はとっくに、限界なんて超えていた。
 無意識のうちに、僕は心の中で文月に願っていた。
 お願いだ、文月。まだ詠を連れて行かないでくれ。これからなんだ。やれていないことがたくさんあるんだ。
 しかし、その願いは届かなかった。
 数瞬の浮遊感。そこから、呼吸をする暇もないほどの落下速度と風圧に襲われる。
 あのときと――僕が飛び降りたときとまったく同じ。でも唯一違うこと。僕と繋がれた右手の先には、死んでも守らなければいけない大切な人がいる。
 衝突の瞬間。僕は自分でも信じられないくらいの力で詠を引き寄せ、抱きしめていた。


 どのくらい、時間が経ったのだろう。僕はうっすらと目を開ける。ぼやける視界。僕の腕の中で、詠は目を閉じていた。途端に僕は怖くなり、息を止めて耳を澄ませる。
 静かで、安定した呼吸が聞こえた。良かった、生きてる。その安堵感からか、僕の意識が徐々に遠のいて行くのを感じた。
 詠の寝顔を見つめると、その瞳から涙が零れていることに気付いた。胸が、ひどく痛む。
「――」
 泣かないで。そう発したはずの声は音もなく空気に溶けた。体の感覚がなく、動かせない。そうか。もう、僕は……。
 目を瞑ると、古い記憶が流れていった。初めて会ったとき涙を流した文月が、僕に微笑む。
 ――憶えておいて。女の子の涙を拭う、ハンカチなんかよりもずっと素敵なアイテム。
 結局、その答え合わせを文月にはできなかったよな。でも僕さ、考えて、考えて、やっとわかったんだ。
 もう一度、僕は目を開く。感覚がない体を無理やり動かした。
 泣かないで、詠。できれば、最後まで、笑っていて。
 僕は、繋いだ右手とは反対の左手の指先で、流れる詠の涙を丁寧に掬い取った。
 その涙の温かさを指先に残しながら、僕の意識は、闇に落ちた。

 ――

 気付くと僕は、自分の部屋に立ち尽くしていた。目の前には、クッションを枕にして颯斗となずなが寝息を立てている。そうだ、僕の家に泊まろうと詠が言い出して、遅くまでみんなで遊んでいたんだった。
 でもなぜだろう。僕は急に不安に襲われて詠の姿を探す。すると詠は堂々と僕のベッドを占領して、大の字で眠っていた。その図太さに僕は安堵する。
 みんなに毛布を掛けて、僕はそれぞれの寝顔を眺める。遊び疲れた子供みたいに、あどけない顔で眠っていた。これでもう、大丈夫だ。
「さて……行かないとな」
 僕はドアを開けて少し振り返り、三人の姿を目に焼き付けると、部屋を後にした。
 不意に、文月の声が聞こえた。僕の名前を呼ぶ声。それは家中に響き渡るように聞こえてきて。僕は転がるように階段を降りた。
 声がする場所を探しながら、僕は文月に届くように語りかける。みんなに毛布を掛けたときから理解していた。これが、最期の夢なのだと。
「なぁ、文月。君はあんなに暗い場所で、独りで死んだんだな」
 家中にあるドアを開け、僕は一つずつ中を確かめる。そこに文月の姿はない。でも、声はどんどん近付いていく。
「……怖かったよな。寂しかったよな。痛かったよな」
 僕もそうだった。死ぬのは、怖い。当たり前だと思っていたことの本当の意味を、あの瞬間になって思い知らされた。
 それはきっと、僕にたくさん大切な人がいるからで。だから僕は二年前、死ぬのが少しも怖くなかったんだ。そのとき独りで冷たくなった文月のことを想うと、やるせなかった。
 小さくて、軽やかな足音。次いで玄関のドアを開閉する音が聞こえた。僕は懐かしい音のする方へと向かう。
 いつもと変わらない玄関。その先にいる文月に呼びかけるように。
「文月……僕も今から、そっちに行くから――」
 ドアノブに手を掛け、勢いよく開いた。
 眩しいほど真っ白な空間。文月はそこに立って、微笑んでいた。その笑顔はなぜか少し悲しそうにも見えて。僕は慎重に距離を詰めた。
「久しぶりね、湊」
「久しぶり、文月。じゃあ、行こうか」
 僕は笑って右手を伸ばす。すると数秒、自分の右手に視線が釘付けになった。誤魔化すように視線を戻したとき、文月は微笑みながら首を振っていた。
「まだやれていないことが、あるんでしょう?」
 うつむいた僕に、文月はゆっくりと近付いて来た。心残りはある。でも――。
「……湊。ここまでありがとう。今のあなたなら、もう、大丈夫よ」
 耳元で文月はそう囁く。ずっと、心のどこかで望んでいた言葉。夢の質量では表せない、本物の熱量を持った言葉だ。唇が震え、鼻の奥がつんと痛む。一筋の涙が、僕の頬を伝った。
「――さようなら」
 ありがとう、文月。
 さようなら。

 ――

 機械的な音がリズムを刻んでいた。僕は重たいまぶたを開く。差し込む光の刺激に、目を細めた。徐々にぼんやりしていた視界と頭が明瞭になっていくと、声が聞こえた。僕の名前を呼ぶ声だ。
「湊! 聞こえるか?」
「湊くん!」
 視線を巡らせると、颯斗となずなが険しい顔で僕を覗き込んでいた。そんな顔するなよ、大丈夫だから。そう証明するために、僕は薄く微笑んだ。
 でも、何よりも大事なこと。詠はあの後どうなった? 今どこにいる? ちゃんと助けられたのだろうか。姿を探すが、この病室にはいない。
「……よみ」
 名前を呼ぶ。自分でも驚くくらい、か細く掠れた声だった。
 詠のところに行くために軋む体を無理やり動かした。鋭い痛みに脳が痺れる。その場で静かにもがいていると、颯斗が僕の体を押さえつけながら言った。
「湊……詠なら、大丈夫だから」
「今は、自分のことだけ考えて。湊くん」
 体の力が抜けていくのを感じる。でも僕の心は晴れてはくれなかった。颯斗の言葉が、まるで自分にそう言い聞かせているように聞こえたからだ。僕はもどかしい気持ちのまま、白い天井を見つめていた。
 僕は四日も眠っていたらしい。あの急斜面には大きな岩や鋭い木々が生い茂っていたにも関わらず、軽傷で済んだ。きっと文月が助けてくれたのだろう。
 医師の診察を終えるのを待って、僕は颯斗に言った。
「颯斗、詠のところまで連れて行ってくれ」
「湊、もう少し安静に――」
「わかってる。でも僕のことは後でいい。今は、詠に会いたい」
 長い沈黙。僕は二人の表情をしっかりと見据える。颯斗は何度も瞬きをして、視線を彷徨わせていた。なずなは僕を見つめながら、きゅっと唇を結んでいる。その瞳は潤んでいた。
「……わかった。今から行こう」
「ありがとう、颯斗、なずな」
 二人の沈黙の理由。その答えを胸に抱えたまま、僕たちは病室を出た。

 颯斗に車椅子を押され、僕は詠の病室までやってきた。なずながノックをすると、中から詠の母親が顔を出す。僕を見た母親は曇った表情を浮かべたあと、部屋に通してくれた。
 詠は静かに眠っていた。近くに車椅子を付けて耳を澄ませても、寝息さえ聞こえない。
 大きな傷はないように見えた。僕は安堵して詠の手を握った。懐かしい感触。冷たく、固い手だ。でもまだ、生きている。
「……湊くん」
 声の方に視線を向けると、母親は詠のベッドを挟んで僕に深く頭を下げていた。突然の出来事に、僕は理解が追い付かなかった。
「怪我をさせてしまって、ごめんなさい。あのとき詠の心が不安定だってわかっていたのに。もっと詠をしっかり見てあげるべきだった……本当に、ごめんなさい」
 頭を下げ続ける詠の母親は、初めて会ったときよりも小さく見えた。誰だって、あのときの詠の行動を予測できた人はいなかっただろう。だから謝る必要なんてない。
「僕も詠もこうして生きてます。僕はそれだけで、幸せです」
 あのとき掴めなかった詠の手を掴んで、命を守れた。それだけで。
「ありがとう。湊くん」
 母親はゆっくりと頭を上げて僕を見つめた。でもその顔はまだ暗く沈んでいて、手探りで現状を伝えようとしていた。それこそが、僕がここに来た本当の目的だ。
 僕は詠の手を少し強く握りながら、言葉を待つ。
「……湊くん。詠はね、もう、目覚めることはないの」
 全身に重く質量のある何かが衝突したような感覚。胸が詰まって、息ができない。覚悟はしていたはずなのに。
 颯斗となずなは、僕が眠っている間にすでに知らされていたのだろう。だから二人は僕が詠に会うことを躊躇っていたんだ。
 詠の母親は涙混じりの声で、何とか僕に伝えようと続けた。
「最期まで、一緒にいてくれてありがとう。詠は本当に、幸せだった……」
 母親は静かに嗚咽を漏らし始めた。颯斗となずなも声を押し殺して泣いていた。きっと泣いてしまうとわかっていたのに、僕のために傍にいてくれたんだろう。
 白くて冷たい箱庭が、喪失を含んだ青に塗り潰されていく。
 胸が張り裂けそうなほど苦しくて、悲しい。それなのに僕は、涙が出なかった。どうしてだろう? 深い絶望の淵に立っているからだろうか。いいや、違う。
 ――まだやれていないことが、あるんでしょう?
 ああ、その通りだよ、文月。
 泣けない理由は、諦めてなんかいないからだ。
「……まだ、最後じゃない」
 僕はテーブルにひっそりと置かれていた四季折々に手を伸ばす。使い込まれたノートはとても綺麗とは言えなくて。それでも詠が歩んだ四季が詰め込まれて、輝いて見えた。
 わずかに残された、詠が叶えられていない願い。その願いをなぞって、僕は言う。
「できることはまだたくさんある。僕たちにしか、できないんだ」
 颯斗となずなは、はっとした表情を浮かべて涙を拭う。涙で濡れた顔に、徐々に生気が宿っていくように見えた。
「そうだよな……今も詠は、頑張ってるんだもんな」
 颯斗は詠に視線を落として微かに笑う。覚悟を決めたように、拳を握りながら。
「そうだね。私たちが諦めるなんてできないよね。ずっと、最後まで、隣に居たい」
 なずなの弱々しい表情は彼方へ消え、今は詠への迸る意志が宿っていた。
 二人の瞳に、もう涙の気配はなかった。みんなで並んで手を繋いでいる、そんな感覚。不安なんて、微塵も感じない。
 僕が詠の母親に笑いかけると、彼女は雲間から差し込む光芒のような優しい笑顔で言った。
「……ありがとう。詠と出会ってくれたのがみんなで、本当に良かったわ」
「僕たちも同じです。それに、まだわからないです。詠はいつも、僕たちの想像なんて飛び越えてきますから」
 僕は眠る詠の顔を見つめる。まだ、別れるわけにはいかない。詠はあのとき泣いていた。だから最期は、君が心から幸せだって思えたまま、さよならを言わせてほしい。
 開いた四季折々の願いの上で、僕は詠と小指を交わす。それに気付いた颯斗となずなも無理やり小指を絡ませてきた。歪に重なり合った小指を見て、僕たちは笑う。
 僕たちの指は、冷たい水の底に沈んだ詠の指と混じり合い、熱を届ける。
 詠がもう一度、瞳を開くための祈りを込めて。
『――四季折々』


 4

 冬は見えるものすべてを灰色に染めていく。やせ細った木々には雪が降り積もり、溶ける気配はない。まるで時間が止まっているみたいだ。だから僕たちは進もう。詠の手を引いて。
 高校の帰り、毎日のように僕たちは詠のもとに集まった。寂しがり屋の詠のためでもあったし、何より詠の周りが僕らの居場所でもあったからだ。
 四季折々。その魔法のような言葉を唱えて、眠る詠の傍らで願いを叶えた。『みんなでスノードームを作りたい』。『みんなで足湯に入りたい』。『みんなで冬の星を見たい』。願いのすべてに僕たちが含まれていた。
 時間が止まっているかのようなこの季節の中で、僕たちは確かに一緒に前に進んでいた。
 ある日、詠にその日あった出来事を話している中、颯斗が嬉しそうに言った。
「最近、自分で曲作って路上で歌っててさ」
「えっ、すごいな。中央公園で歌ってたときは、ぜんぶカバー曲だったよな?」
 僕が記憶を辿りながら訊くと、颯斗は「そうそう」とうなずく。
「これが、駅前なのにまったく人が集まらねぇんだよ。いや正直、めっちゃ悔しい」
 颯斗はそれでも穏やかに笑う。熱がこもった瞳が輝いた。
「でも、すげぇ楽しい。カラフルより綺麗なものってあるんだな。ぜんぶが輝いて見えるんだよ。これが俺の本気で好きなことだからだと思う」
「……そっか。良かったな、颯斗」
「私も、ずっと応援してるからね、颯斗くん」
 正面から才能についてぶつかり合ったあの日を思い出す。颯斗はまっすぐな表情で「おう、よろしくな」と犬のように笑った。
 颯斗の熱意にあてられたのか、なずながもじもじしながら口を開いた。
「あの、まだ確定じゃないんだけどね。絵の個展をやらないかって誘われてるんだ」
「えっ、本当に? すごいな……!」
 どうやら颯斗は知っていたみたいだ。僕は「それで、やるんだろ?」となずなに問う。
「やりたい。今よりもっと先に進みたいから。それで、詠ちゃんにあげた絵も飾って、こんな素敵な子がいるんだよって教えてあげたい。……颯斗くんも応援してくれたし」
「佐伯なずなはもっと高くまで行ける天才画家だって、俺がいちばん知ってるからな」
「へぇへぇ、お熱いことで。ごちそうさま~」
 自信満々に言って見せた颯斗に、僕はからかうように言う。ここで照れながらもまったく否定しないところが、二人の絆の深さなのだろう。
 颯斗となずなに未来の希望が現れたのは、二人の努力や意志、そして何かを掴み取ろうともがいた結果だ。この先もずっと、希望が続けばいい。
 楽しく話していたら、すぐに陽は傾いた。冬は夜の手を引いてくるのがとても早い。まるで太陽と敵対しているかのようだ。
颯斗は路上ライブ。なずなは個展に向けての打ち合わせと言って病室から出て行った。
 詠と二人になった僕は、詠の寝姿勢を変えながらマッサージをする。体を拭く頻度は減っていた。詠の代謝は極端に低く、低体温で保たれていたからだ。
「……颯斗もなずなもすごいよ。あんなに頑張ってるから、すぐ有名になるんだろうな」
 詠に語りかけて、口をつぐむ。僕は、二人を羨んでいるのだろう。自分の未来を想像して目を伏せる。――僕の未来は、まだ、わからない。
 でも、詠の安らかな寝顔を見て思う。四季折々を、詠の想いを、決して悔いのない形で。それが今の僕の、未来のすべてだ。

 いつか詠が目覚めることを僕たちは信じ続けた。必死に前に進もうともがく詠の手を、みんなで引くように。
 でも、音を立てて希望が崩れ去るのは、いつも突然だ。
 ――詠の心臓が、止まった。

 集中治療室の前には、重たい沈黙が降りていた。時折、看護師が僕たちの横をすり抜けては慌ただしく走って行った。
 廊下のソファに浅く座り、颯斗となずなは険しい表情で両手の指を組んでいた。なずなの双眸からは音もなく涙が零れ、電灯の淡い光に照らされている。その姿はまるで、静かに祈りを捧げている信徒のようだ。
 詠の母親は憔悴しきった顔で項垂れていて、父親は母親の肩を抱きながら口を堅く結んでいた。永遠にも感じる長い時間。
 僕はそれぞれの表情を眺めながら、詠のいる方向を眺めていた。死季病患者が臓器異常を起こして助かる可能性は低い。無責任な事実だけを並べた文章が脳裏をかすめる。でも――。
 この押し潰されそうな静寂の向こう側で、詠は懸命に生きようとしているんだ。僕は颯斗となずなの目の前に行き、声を掛ける。
「颯斗。なずな。あまり無理しないで、ちゃんと休もう」
 数秒経ってから、颯斗は力ない声で答える。抜け殻のように空虚な響きだった。
「ああ……わかってる」
「詠ちゃん……」
 二人が指を組む手に力を入れるのがわかる。このままだと、詠が目覚める前に倒れてしまいそうだ。だから僕は意思を込めて言う。この言葉が現実になるよう、自信を込めて。
「詠は大丈夫だ。絶対にまた、すぐに目を覚ますよ」
 絶望なんてここにはない。確かな希望があるのだと。詠は、そういう奇跡を起こしてくれるのだと。僕は心の底からそう信じていた。
 その希望を少しでもこの空間に分けたくて、僕はこの場にいるみんなに明るく話しかけた。
 沈んでいた空気が、徐々に、羽ばたく鳥のようにふわりと軽くなっていく。みんなの中に巣くっていた絶望の中に、ほんの少しの光明が見える、そのときまで。
 僕は希望を願い、話し続けた。
 空が白み始めてきた。ぽつぽつと会話が戻ってきた廊下に、どこからか鳥の声が聞こえる。夜中から始まった手術は、まだ終わる気配が見えない。
 僕は気分転換に外を散歩することにした。颯斗となずなに缶コーヒーを渡しながら誘うと、二人は疲れ切った顔で微笑んだ。
「もう少しだけここにいるよ。ありがとな、湊」
「私も居たい。あと少ししたら休むね。ありがとう、湊くん」
「……そっか。じゃあ、また後で」
 二人と、詠の両親に挨拶をして、僕は外へ出た。

 夜の深い藍が、わずかに昇る太陽を含んで薄まっていく。肌を刺すような二月の寒さに身を震わせながら、僕はまだ眠りにつく町の中を歩いた。
 詠が目覚めたら何をしよう。僕は疲労で変に覚醒している脳で、幸福な未来を考える。すると不意に、今まで詠と巡った場所などを見て回ろうと思いついた。気分転換には最適だ。
 当然ながら、開いていない場所だらけだ。でもそれはそれで、僕と詠が巡ったときとは真逆の雰囲気が漂っていた。
 締め切られたショッピングモール。音が鳴り止んだ中央公園。群衆の視線から逃れた文化ホール。快音が響かないバッティングセンター。生徒がいない中学校と高校。
 その一つ一つを、時間をかけて回った。
 展望公園までやってくると、落下防止柵の修繕工事が行われていた。柵の前はバリケードで塞がれて、近付けなくなっている。
 公園の端に重機もあるので、もしかしたらこの急斜面の崖にも手が加えられるのかもしれない。結果的に三人もこの場所から落ちてしまっているから、当然だろう。
 僕は凍てつく固い大地を踏みしめて、顔を出し始めた太陽の光を浴びた。冷たくなった鼻や指先がじんわりと温まっていく。
 もうすぐ氷は溶けて、町は目を覚ますだろう。そうしてまた、四季は巡る。僕は大きく息を吸って白い息を吐き出すと、展望公園を後にした。
 河川敷は何も変わらず、ただ緩やかに川が流れている。文月と出会い、僕が詠の本心とぶつかった思い出深い場所。すべてはここから始まったんだ。
 僕が文月に出会わなければ、文月が詠を救うことはなくて。そして詠もまた僕を救うことはなかった。まるで春夏秋冬、巡るバトンを繋いでいるみたいだ。
 詠と話し合った芝生の上に、僕は座る。色褪せ、凍り付いた芝生が小気味良い音を立てた。疲労と眠気が一気に押し寄せ、僕の脳裏に詠の顔が浮かぶ。冷たい水の底で、今も必死に水面へと手を伸ばしているのだろう。
 顔を上げると遠くに鉄塔が見えた。太陽の光が当たらず、暗く翳っている。僕は立ち上がり歩き始めた。川岸は流れが弱く、薄い氷が張っていた。
 裸足になり、僕は氷を割りながら川の中に入った。そして親指と人差し指でカメラの形を作り、その枠内を切り撮った。
 二月の水温は針で刺されたように冷たく、脚に激痛が走る。どうでも良かった。
 数秒経つと脚の感覚がなくなり、思考が働かなくなってくる。でも、どうでも良かった。
 歩こうとしてバランスを崩し、僕は仰向けに倒れ込んだ。大量の水飛沫が上がる。水の中はひどく静かで。詠も今、この場所にいるのかもしれない、そう思った。
 すぐに身体は言うことを聞かなくなり、暗い水の底へと沈んでいく。体より心が、冷たく痛んだ。僕はもう、壊れていた。
「文月――詠……」
 水中で、小さく名前を呼ぶ。気泡が水面へと上がっていく光景を見て、僕は目を閉じる。
 すべてが、冷たくなっていく。
 文月と詠の体に近付いている、そんな気がしていた。


 声がした。誰かが迎えに来たのかもしれない。そう思いうっすらと目を開くと、勢い良く手が伸びてくる。そのまま僕は水底から引っ張り上げられた。
「お前は何をやってるんだ! 目を覚ませ!!」
 途切れそうな意識の中でその人を見る。黒衣を纏った、魔女のような恰好。
 僕はその人に力いっぱい抱き締められると、意識を失った。

 徐々に、体に熱が戻ってくる。僕は気付くと湯船に浸かっていた。凍え切った体が湯の熱でじりじりと痛む。僕は静かに一点を見つめ、湯船に落ちる水滴の音だけを聞いていた。
 詠が目覚めるのを信じていなかったわけじゃない。でもあの瞬間――水の底に沈んだ瞬間。僕が得てきた何もかもをかなぐり捨てて、詠と同じ場所に行きたいと、そう思ってしまった。
 強張りが取れた両手で顔にお湯を掛ける。すると浴室の扉の向こうに人影が見えて、その場に座り込んだ。
「どうだ、少しは温まったか?」
 自称さんの懐かしい声。最近は会っていなかった。その必要がなくなっていたからだ。文月を喪った日も、こうして自称さんに助けられたことを思い出す。
「お前の選んだ未来が、まさかあんなに冷たい結末とはな」
 僕は口をつぐむ。何も言い返せない。言い返す気力も起きなかった。自称さんが扉越しに息を吐くのが聞こえる。まるで体内にある重たい何かを排出するかのように。
「湊。お前は今も死と戦っている詠に、そんな姿を見せたかったのか?」
「……違う」
 僕は、僕を救ってくれた詠に、大丈夫だと胸を張って生きたい。その想いは、今は僕を支える太い幹になっている。でも。
「でも、僕は、詠が死んでいくのに耐えきれない……」
「本当に理性的だな。そんなもの、耐えられないに決まっているだろ」
 珍しく語気を強めた自称さんに僕は驚き、思わず扉の向こうを見る。
「お前は、何事もよく考えてから行動する。とても立派だよ。でもな、湊。それだけでは、死という普遍を乗り越えて進むことはできないんだよ」
「じゃあ……どうしたら僕は、乗り越えられるんですか」
 この立っていられないほどの絶望を。喪っていく恐怖を。
 文月の死を受け入れて、共に進んでいく。これも一つの正しい選択だ。大切な人を喪う恐怖を、ほかの人はどうやって乗り越えていると言うんだろう。
 僕はきっと、これからも大切な人が増えていく。その中で家族、友人、恋人の死を乗り越えて進む術。僕は自称さんの言葉を、固唾を呑んで待った。
「――もっと、目の前の死に抗え」
 そんな答えが、聞きたいんじゃない。僕は湯の中で拳を握って、抗議する。
「抗いましたよ。でも、詠は」
「まだ終わっていない。今もまだ詠は抗っているだろう。お前が諦めたら、詠はどうなる」
 はっとして黙り込む。詠が最後の眠りについたとき、僕が颯斗となずなに言ったことだ。そんなささやかな希望すら、今の僕にはなくなっていた。
 自称さんは優しく僕の名前を呼ぶ。思わず泣いてしまいそうな声音で。
「自分の感じたままに、我を通しなさい。全力で走って、やりたいことをやって、後ろなんて振り返るな。汚くても、醜くても足掻け。それが、目の前の死に抗うということだ」
 頭の中に、詠との四季がよぎる。詠の笑った顔。怒った顔。泣いた顔。詠はいつでも死に抗っていた。そんな風に僕は抗えていただろうか。いいや、きっとまだだ。僕は顔にお湯を掛ける。不鮮明だった視界が、一気に鮮明になった。
 僕は「自称さん」と呼ぶ。どことなく、さっきの言葉が寂しそうに聞こえたからだ。
「……自称さんは、死に抗ったことがあるんですか?」
 少しの沈黙のあと、自称さんはふっと笑った。
「そうだな……湊より、ずいぶん子供だった。色々な人に迷惑を掛けたよ」
 自称さんの声が優しさと寂しさを纏う。初めて見せた声の色。別人のようだ。僕は扉の向こうで揺れる影を見つめた。
「まだその名すらなかった時。……初めての死季病患者が、私の親友だった」
「初めての、死季病患者……?」
 思い掛けない真実に、僕は体ごと自称さんの方へ向く。穏やかだった水面に波が立つ。自称さんは当時を思い出すように続けた。
「この病が何なのかもわからなかった。あの子は――桔梗は、襲い来る死季に抗い続けた。春も、夏も、秋も、冬も。五回、桔梗と同じ四季を巡ったよ」
 五年にも及ぶ死季病。僕や文月や詠よりもずっと長い年月、自称さんと桔梗さんはその未知に抗い続けたのか。生半可な覚悟じゃなかっただろう。
 自称さんはため息をつくと「私の話は別にいい」とつぶやいた。
「湊。濁らずに、世界から目を背けずに生きなさい。臆せずに君の心を表せば、そこにいる誰かが、君を見てくれる。この世界は、そういう風にできている」
 僕に微笑みかけてくる詠が記憶の最前に浮かぶ。あの笑顔を、声を、温もりを、もう一度。
「最後の一瞬まで抗ったやつにしか奇跡は掴めない。湊……手を伸ばせ」
「――はい」
 力強くうなずく。もう迷いはなかった。体にも、心にも熱は戻った。あとは抗うだけだ。
 自称さんは僕の返事を聞いて「話は終わりだ」と言うと、立ち上がった。
「もう充分温まっただろう。シャワーでも浴びなさい」
 言われるままに僕は湯船から出て、シャワーの蛇口を捻る。先ほどまでの静けさから一転。僕の肌にお湯が打ちつけ、激しい音を立てて流れていく。
 あらゆる雑音がかき消される中、自称さんが「湊」と僕の名前を優しく呼ぶ声だけがはっきりと聞こえた。
「……詠の手術が成功したそうだ。やったな」
 数瞬の沈黙の後、僕は決壊する。抑え切れない嗚咽が浴室中に響き渡る。しかしその声を、シャワーの水音がすべて洗い流してくれた。自称さんの優しさが、心に沁みた。
 僕は詠の名を何度も呼びながら、哭き続けた。

 病室でひとり詠の胸に耳を当てると、不規則ながらも、確かに鼓動を刻んでいた。その現実に、また涙が溢れてきた。
 終わりが目前まで近付いていてもなお、四季は巡る。僕たちは眠る詠と一緒に、四季折々を叶えた。一つ、また一つと。手を伸ばして、奇跡を希った。
 そうして。

 ――詠が余命宣告された日から、三日が経った。

 僕は四季折々を眺める。詠や僕の願いで埋め尽くされたページは、楽しく、幸福で満たされていた。それでも、まだ叶えられていない願いはいくつかあって。
 視線を窓の外へと向ける。春にはまだ遠い、三月の景色。でも、この願いだけは。
 ベッドで眠り続ける詠に、視線を戻す。僕は数瞬、瞠目して。
「――おはよう、詠」
「――おはよう、湊」
 当たり前で、幸福な言葉を伝え合い、僕たちは笑った。


 詠は僕の手を力強く引いて走る。夏の始まり。詠と出会って間もない頃を思い出す。でもあのときとは違う。その手のひらからは、確かに柔らかな熱が伝わってきて。僕も溢れる熱が詠に届くように、力強く握り返した。
 透明で澄み切った陽光が降り注ぐ。僕と詠は白い息を躍らせ、弾むように走った。アスファルトを、大地を、力いっぱい踏みしめて。
 風に揺れる木々。羽ばたく鳥の群れ。緩やかに流れる川。息づく人たちの営み。僕らを育んでくれた町すべてが七色に縁取られ、目が眩んでしまうほど、光り輝いて見えた。
 晴れ渡った白虹色の世界を、僕たちは走り続けた。

 展望公園は、温かな陽光を浴びて煌めいて見えた。僕は詠の手を握りながら、その場所へと近付く。一本の、大きな桜の樹だ。
 ――桜を見たい。
 冬の四季を巡ったあと。次の春に綴られた、一つだけの願い。僕はどうしてもそれを叶えたかった。僕もその願いの隣に『詠と一緒に桜を見る』と綴った。
 詠も晴天に這った桜の樹の枝を眺め、花を探す。しかし、まだ芽吹かずに眠りについたままの桜だけだ。それでも。
「あっ! 湊、見て……!」
「あった……!」
 ――一輪だけの桜。
 ほとんど同時に僕と詠は願いの桜を見つけ、歓喜の声を上げていた。
 その儚さに、美しさに触れて、鳥肌が立つ。思わず握っていた詠の手を振ると、詠も満面の笑みで振り返してきた。
 僕たちは、幻でも見ているのだろうか。でも確かに桜は咲いていた。足元にはまだ少し雪が残っているにも関わらず。
 冬と春の狭間。透明な季節のなかで、僕らは奇跡を見た。
 詠は飛び跳ねて喜び、色々な角度から桜を眺めていた。僕は、震えていた。次の春を迎えることはできないと、そう言われていた詠が。自らの運命(さだめ)を超え、四季を巡ったのだ。
 奇跡は、本当にあるんだ。
 僕たちはその場に座りながら、時間をかけて、一輪だけの桜の花びらを眺めた。綺麗で、儚くて、美しい。
 すると、やがて詠が小さく口を開いた。
「私ね、あのとき死ななくて良かった。助けてくれて、ありがとうね」
「うん……助けられて、本当に良かったよ」
 手を伸ばし続けて、最後まで抗い続けて良かった。僕は過去を懐かしみながら微笑んだ。
「私に出会ってくれて、ありがとう。一緒に泣いて、怒って、悲しんで、笑ってくれて、ありがとう。湊がいたから、私はこんなに幸せになれたんだよ」
「それは、僕も同じだよ。詠が、颯斗が、なずなが居てくれなかったら、僕はずっとあのまま暗い水の底で生きてた。僕に手を伸ばしてくれて、ありがとう」
 僕と詠は同じタイミングで目が合い、笑い合う。視線が混じり合い、詠の小さな息遣いまで聞こえてくる。
 詠は僕の名を呼ぶ。それは強くて、希望に満ち溢れた声だった。
「私の、最期の願いを言うね」
 僕はうなずいて、詠の両手を強く握りながらそれを待った。なぜか冷たさは感じない。魂が揺さぶられそうな熱が、僕に流れ込んできた。
「――春も、夏も、秋も、冬も。何度も四季を巡って、またいつか、みんなに会いたい。
 だから、幸せに生きて。好きなものをたくさん作って。誰かを愛して、愛される人になって。それが……私の、最期の願い」
 詠の最期の願いを、僕は時間をかけてゆっくりと、心の中の四季折々に刻み込んだ。
「約束するよ。僕の四季が終わって、またいつか、出会う日まで」
 詠は花のように笑う。その笑顔だけで、僕のすべてが満たされていく。
 僕たちは、互いに小指を結ぶ。まだ見ぬ未来へ、願いと希望を込めて。
『――四季、折々』

 二人で桜を眺めていた。詠は僕の肩に頭をもたせ掛けながら「ねぇ湊」と呼びかけてくる。僕は視線だけを詠に移して、その温もりを感じていた。
「私ね、すごく幸せだったよ。こんなに幸せでいいのかなって思うくらい」
「それが、僕の願いだよ。詠が幸せなら、僕も幸せだ」
 詠はくすぐったそうに笑いながら、小さな声でささやいた。
「――私を救ってくれて、幸せをくれて、ありがとう――」
 花びらが、散った。
 それは瞳を閉じた詠へと降り注ぎ、やがて、音もなく消えた。