1
「四季折々!」
夏の陽射しを浴びながら高校への道を歩いていると、突き抜けるような声が聞こえた。
まるで意味のない言葉だ。それに、こんな暑いのに気にしている余裕もない。僕はそう解釈して、少し前まで歩けなかった足で歩みを進める。
「湊!」
僕の名前と共に、背後から両頬に冷たい何かが触れた。思わず手で振り払うと、その先には小さくて細い手。それを見て、ぞっとした。
「あっ、やっとこっち見た。無視はだめだよー無視は」
「心臓に悪いからやめてよ、水瀬」
「でも私の手、冷たくて気持ちいいでしょ? あ、もっかいどう?」
「どういう神経してるんだ、本当に」
両手を向けて迫ってくる水瀬に、僕は逃げるように背を向けて歩き出した。バタバタと走って僕の目の前に立ち塞がった水瀬は、まっすぐに微笑む。
「みんなには無神経ってたまに言われるー」
「入院してるときも言ったけど、僕に関わらないでくれよ。頼むから」
少し声が大きくなる。でも仕方がない。そうしないと、過去の記憶がよみがえってしまいそうだったから。
棘を纏った言葉に水瀬は笑う。生気が迸るその表情に、僕は怯んだ。
「関わるよ。そう決めたの。――よしっ! 行こっ!」
水瀬は大きな声でそう言って、僕の手を引く。
走り出す水瀬の手のひらは冷たくて、でも確かな温もりがあった。艶やかな黒髪がなびく。
景色がスローモーションに見えて、僕の呼吸音だけが大きく聴こえた。深いところまで連れて行かれそうな恐怖感。それでも僕は、走り出す脚を止めることができなかった。
「ほら早く走って!」
陽光に照らされた水瀬は笑う。無邪気に未来を信じているみたいに。僕は繋いだ手から、始まりの日のことを思い出していた。
すべては、終わりと始まりの季節。春に始まる。
*
中学の卒業式の日、僕は屋上から飛び降りた。死にたいとは思っていなかったし、高尚な理由もなかった。ただ、向こう側に行ける予感だけはあった。
僕の逃避行は結局、両脚を骨折しただけに終わった。飛び降りてから一か月。リハビリをしているときだけは、その疲労から色々なことを忘れられた。
開け放たれた窓から、ふわりと桜の花びらが迷い込んでくる。僕は布団に落ちた花びらを乱暴に手で払った。
不意に、病室の扉をリズミカルにノックする音が聞こえる。扉の前の主は、僕の了承を得る前に部屋へと入ってきた。
「こんにちは! 篠宮湊くんいますか? あっ、いた! 返事くらいしてよー」
「……誰?」
「一人部屋すごーっ。へっ、金持ちめ」
質問を無視するその女の子を、僕は無遠慮に眺める。
僕の視線を飲み込むほどの好奇心を秘めた大きな瞳。自然に上がった口角や堂々とした立ち振る舞いから、きっと人に好かれるんだろうなと思った。
彼女はようやく僕の質問に答える。
「初めまして。同じクラスの水瀬詠です! よろしくね、篠宮くん」
「ああ、そう」
「元気ないなぁ。でも元気出るもの持ってきたよ、じゃーん!」
そう言って彼女は、リュックからリンゴと一枚の色紙を取り出した。
「頑張れ色紙、クラスのみんなで書いたんだよ。ほらこれ、私の字。けっこう良いこと書いてると思う」
「知らない奴にこんなことしなくても良かったのに」
「ふふ、喜んでくれたみたいで良かった」
「いやそういう意味じゃ……」
言いかけて、口をつぐむ。何を言ってもポジティブ変換されるだけのような気がした。僕は彼女から色紙とリンゴを受け取る。
「わざわざ遠いところまで悪かった。それじゃあ、さようなら」
「え、まだ帰らないよ? リンゴ食べてから帰るから。それ貸してっ」
手からリンゴをひったくり、彼女は「ナイフはどこかなぁ」と戸棚を物色し始める。
そんな危険なもの、ここにあるはずがない。僕は辺りの引き出しを開け始めた彼女に言う。
「ナイフなんてここにはないよ。リンゴもいらないから、もう帰ってよ」
「えー? 一緒に食べようよ。ほんとはナイフも持って来てるし」
まるで意図が読めない彼女の言動に、僕は不快感を覚える。
「……じゃあ、どうして引き出し漁ったの?」
「だって、男の子の病室に来たら、引き出し漁るのがマナーでしょ?」
「タブーって言うんだよ、それは」
無神経な発言に半ば引き気味に答えると、彼女は手を叩いて笑う。何が面白いんだ。
「はーおっかしー。リンゴ剥く握力なくなるからやめてよ」
返答するのも面倒くさくなって、僕は風の吹き込む窓の外を眺める。
「お見舞いと言えばやっぱリンゴだよね~。まだ春だけど」
彼女はその瑞々しいリンゴを綺麗に剥いて、美味しそうに食べ始めた。
「空でも飛びたかったの?」
突然の核心を抉る言葉に、僕は驚いて振り向く。動揺を悟られないように渇いた唇を強く結んだ。しかしそんな僕とは裏腹に、彼女は何でもないようにリンゴを咀嚼していた。
その様子がなぜか癇に障った僕は、変な意地を張って何でもないように答えた。
「別に。少し、死にたくなっただけ」
「そっかぁ。落ちる瞬間は、怖かった?」
「いいや。失敗したなって思った」
すると彼女は、真面目な表情で僕の顔を覗き込んできた。
「篠宮くんが死んじゃったら、大切な人たちみんな悲しむよ?」
「……いないよ、そんなの。僕自身生きるのが億劫なんだ。こんな命、消えてなくなっても別に誰も困らない」
それに、僕にとって大切な人は、すでに喪われてしまった。もう、どうでもいい。
「っていうか、君には関係な――」
乾いた音が、病室に響いた。
僕は振り向きざまに、弾くように頬を叩かれた。微かに、左の頬が痛む。彼女を見ると、笑顔で手首のスナップを利かせて素振りをしていた。目は笑っていない。
「ごめーん。なーんか、つい、思わず?」
「だって、明日の約束もされてない命なんかに、意味はな――むぐっ」
食べかけのリンゴを無理やり口に突っ込まれる。禁断の甘味が口の中に広がった。
「もう、暗すぎだよ。ね、脚の怪我、まだ痛い?」
リンゴを咀嚼しながら、僕は包帯が巻かれた両脚を見つめる。
「リンゴ、美味しい?」
時間をかけて飲み込んで、僕は小さくつぶやく。
「……甘すぎるよ」
「私のことって、どう思う?」
「かなりウザい同級生」
突き放すように言うと、彼女は「それは間違いない。みんなにも言われるー」と笑った。
「ねぇ、こんな何でもない話で笑うだけで十分だと思わない? 生きる意味なんてさ」
「……そう、幸せなんだね」
「うん、幸せだよ。幸せ。まあもうすぐ死んじゃうけどねー」
何を言っているのかわからず、眉をひそめる。彼女も僕と同じことをする、というわけではないだろう。
「死季病って、知ってる? 私その病気でさ、もうすぐ死ぬの。見えないでしょー」
頭が、真っ白になる。視界がぐらつく。息が、心が、苦しい。
――死季病……死季病、だって?
それは、僕からすべてを奪ったものだ。勇気も、自信も、大切な人も、何もかも。
暢気な声で、彼女は続ける。
「明日の約束もされてない命に意味はない、かぁ。でもさ――」
彼女は息を吸い込み、変わらず明るい声で。
「余命を聞いたときに思ったんだ。私は余命っていう明日の命が約束されたから、未来がぐっと限られる。でもあなたは違う。約束されてない命の先には、無数の未来が広がってる。その未来の中に、命の意味はあるんだよ」
僕は暴れる心臓をやっとの思いで押さえつけ、口を開く。
「それなら、その限られた命を、思うように使えばいい。もう僕に関わらないでくれ」
「お、言ったね?」
嬉しそうに彼女がリュックの中から取り出したのは、B5サイズの一冊のノート。表紙には日本の綺麗な四季が描かれていた。
「四季折々」
「四季、折々?」
「うん。このノート、死ぬまでにやりたいことが書いてるんだ。篠宮くん……湊って呼んでいい? ――湊。私の願いを叶えるのを、手伝ってほしい」
「……無理だ」
そんなこと、やりたくもない。過去の映像がノイズのように頭に流れては消える。
僕の拒絶に、彼女は慌てて言葉を付け足す。
「もちろん手伝ってもらうだけじゃなくてさ。私の願いを湊に手伝ってもらう代わりに、湊も四季折々に願いを書いて、私が手伝うの。そうしたら――」
「――頼むからっ! 僕を巻き込まないでくれ……もう、帰れよ」
突き放すように僕は叫ぶ。彼女は驚いた顔で黙ったあと、唇を尖らせて「楽しそうだと思ったのになぁ。ざーんねん」とつぶやいた。
リンゴのひとかけらを口に放り込んだ彼女は、帰り支度を始めた。そして思い出したように僕の顔を覗き、頬に触れてくる。
「叩いちゃってごめんね」
「……いや」
まだ温かくて、柔らかい手のひら。関係ないはずの温もりに、僕は安堵してしまう。
病室の扉へ手を掛けた彼女に、僕は呼びかけた。
「なぁ、水瀬。君は今……どの季節にいるんだ?」
「――秋だから、今は元気。でも七月には、冬が来る」
その現実に僕は何も言えず、うつむくことしかできなかった。
「また来るね」
言い残して、彼女は病室から出て行く。テーブルに残されたリンゴは腐ったように茶色く変色していた。
僕はまだ残る彼女の手のひらの温もりを過去へ重ねて、つぶやく。
「――文月」
2
死季病は、四季を巡るように緩やかに進行していき、最期は必ず死に至る病だ。指定難病に認められていて、有効な治療法はない。
発症から死に至るまでは患者によって異なり、最短で一年。最長で五年。患者は【春期】、【夏期】、【秋期】、【冬期】の四つのフェーズで病が進行していく。
春期は主に倦怠感や頭痛、貧血、嘔吐などの体調不良が長期間続く。これで精神を病んでしまう患者もいて、春期の長さ次第で大体の余命が決まる。
夏期は初期から後期、末期症状へ進行していくにつれて体温が上昇していき、最終的には四〇度以上になる。末期には意識障害、幻覚や幻聴。循環器系の病気が併発して、最悪の場合、多臓器不全を引き起こして死に至る。
秋期は、春期と夏期に体を蝕んでいた症状が寛解し、健常者と同じ状態になる。でもそれは喜ばしくなんてない。死季病の中では最も期間が短いフェーズで、死までもう時間が残されていないことを知らせる合図でもある。
忘れようと努めていた死季病の詳細は、今でも克明に思い出せる。だから僕は、秋を終えた水瀬がこれから辿る冬を、知っている。
冬期は――。
「湊ー! 生きてるかー?」
記憶の檻から僕を連れ戻したのは、少しハスキーな声の男子生徒。顔を上げると、茶髪をセットした猫目の少年が、犬のような人懐っこい笑顔で僕を見ていた。
「湊くん、体調悪いの? 大丈夫?」
彼の隣に視線を移すと、垂れ目で柔らかな雰囲気の少女が心配そうに僕を見ていた。
七草颯斗と佐伯なずな。水瀬が僕の病室に何度も連れて来たクラスメイトだ。水瀬とは中学からの友達らしい。訊いてもいないのにそう教えられた。
僕の隣では水瀬が大口を開けて白米を頬張っている。昼休みになった途端、まるでこの形が当たり前かのように机をセッティングされた。
広げた弁当を食べながらすでにグループが明確に分かれた教室内を眺めていると、知らない女子生徒に手を振られた。居心地が悪くなった僕はうつむく。
七月。今日は高校生になって初めての登校日だ。水瀬が何を言ったのか知らないけど、なぜか僕は会ったこともないクラスメイトから友好的に接された。本当に余計なことをしてくれた。
僕は佐伯に「大丈夫」とだけ答える。
「さては授業わかんなくて焦ってたんでしょー。そんな湊には頭が良くなるお魚をあげよう」
「いらんよ」
弁当箱に入れられた鮭の切り身を返す。その不毛なやり取りの間にも、七草と佐伯は僕に話題を振った。様々な問いから、一言の答えを返す。それ以上に会話を続ける意味もない。そうやってこの三人に出会ってからの三か月を乗り切ってきた。
でもそんな僕に嫌な顔一つしてくれない二人は、やがて担任に呼ばれて席を立った。
「どうして独りになろうとするの?」
不意に放たれた水瀬の言葉に責めるような気配はなく、不思議なことを純粋に尋ねる子供のようだった。僕は不純に答える。
「ただ人と話すのが苦手なんだよ」
「ふぅん、私とはいっぱい話すくせに。あ、もしかして心開いてくれた?」
「まさか。それは絶対にありえない」
どうやったらそんな結論に行き着くんだ。水瀬は頬を膨らませて不満を漏らした。
「三か月も経つのに強情だなぁ」
「三か月も経つから、そろそろ僕が嫌になってきただろ?」
「まさか。それは絶対にありえない」
僕の真似をして笑った水瀬はリュックから四季折々を取り出し、秘密の作戦をするみたいなひそひそ声で訊いてきた。
「ねぇ。それより四季折々に書く願い事、考えた?」
「何度も言ってるけどやらないよ。それを僕がやる意味も理由もない」
「はーぁ、相変わらず青春不足だなー」
聞き慣れない言葉が引っかかり、僕は「青春不足?」と尋ねる。
「後悔しないために行動したすべてが青春の本質だって、私は思うんだ。湊みたいに行動の意味を考えるのは良いことだけど、それだけだと動けないまま後悔しちゃうよ」
完全に否定しきれない言葉だ。二年前のあの日までは僕もそう信じていた。意味なんて考えずに、後悔しないようにただひたすら突っ走っていた。
今でも、もう少し何かできることがあったんじゃないかと後悔している。二年前に終わったはずのあの四季を、もう一度巡りたいと願ってしまうくらいに。
僕は水瀬の言葉に、曖昧にうなずいた。
「……確かに、そうなのかもしれないね」
「そうだよ。行動の意味なんて、私が後から一緒に考えてあげる」
机上の四季折々を、僕は見つめる。
これで僕の後悔は消えるだろうか。きっと消えはしないし、過去の四季は取り戻せない。でも、あの日々が僕にとっての青春だったと言うのなら――。
僕の手は四季折々に伸びていた。水瀬が「やった!」と嬉しそうにバタバタしていたけど、僕は罪悪感からその顔を直視できなかった。
「じゃあ放課後、早速行動しよう!」
そうして僕たちは小指を絡ませる。水瀬は未来で後悔をしないように。僕は過去の後悔を少しでも消せるように。ゆっくりと、小指を上下させた。
「四季折々」
青春不足を解消するために僕たちが訪れたのは、駅直結のショッピングモール。入院していた三か月の間に、前にあった店は読み方が難しい雑貨屋に変わっていた。けど不思議なことに今までどんな店があったかは思い出せない。
軽い浦島状態を味わっていると、水瀬はショップの店頭で足を止めてシャツを手に取った。
「このシャツ可愛い~! どう、似合う?」
「水瀬より地味な僕に訊かれても」
「あ、そういうのいいから」
「ああ、うん。似合うよ。いや、さすが」
水瀬は本当に不愉快そうな顔をした。ゴミを見るような目だ。僕は乱暴に手を引かれてショップ内に連行される。
服を数着持って水瀬は試着室に入った。僕は試着室の前に立たされて、店員さんや他のお客さんから生温かい視線を浴びる。僕が何をしたというんだろう。
数分後、試着室のカーテンが開く。チェックのワイドパンツと白のTシャツというカジュアルな格好だ。
「これなんか、どう?」
「いいね。すごく良いと思う」
「はい次ー!」
どうしてだよ、褒めただろ。
何かが気に入らなかったようで、水瀬は試着室に戻る。その後も手を替え品を替え店を変え、ファッションショーは続いた。僕はその度に褒めて、最終的には手まで叩いた。
「次はほんと、ほんとに自信あるから!」
ムキになって試着室に入った水瀬にうんざりする。僕はまざまざと思い知らされていた。こんなことをしても決して後悔は消えない。水瀬への罪悪感が募っていくだけだ。
こんなことはこれっきりにしようと考えたところで、カーテンが開かれた。
「……湊、似合う?」
――湊、似合う?
過去の声と重なる。いつか恥ずかしくて素直に言えなかった言葉は、自然と口から出た。
「うん、とても」
「……そっか。ふふ、じゃあ買ってこよっかなぁ」
水瀬は恥ずかしそうにしながら、その服を買いに行った。僕は嬉しげな後ろ姿を見送ってから店外へ出る。胸に手を当てて、さっき確かに甦った情景に想いを馳せた。
後悔は少しだけ軽くなっていた。でも水瀬に抱いた罪悪感は、僕の心に重く圧し掛かった。
ショップを後にした僕たちは、書店へ足を運んだ。水瀬の好きな小説家の新刊が発売したらしい。積まれていた小説をめくると、ふわっと紙とインクの香りが漂う。入院してから本の類は読む気にならなかったから、こうして本に囲まれるのは久しぶりだ。
僕の隣では、新刊を両手で抱きしめた水瀬が饒舌に喋り続けている。
「でね、綴真桔先生はすごいんだよ! 希望と絶望の間を儚く踊ってるみたいなストーリーラインに、一瞬で心を絡め取る綺麗な文章! ってあれ、聞いてる?」
「聞いてるよ。人気らしいね、その人」
「そうなの! あ、でもミーハーってわけじゃないからね。ずっとファンなんだぁ……どんな人なんだろー」
うっとりしている水瀬を無視して、僕はワゴンの中の安く売り出された小説を漁る。手に取った小説をパラパラとめくり、戻す。同じことを繰り返しても、やっぱり見つからなかった。
「誰の小説探してるの?」
「わからない。タイトルもペンネームも知らない。知ってるのは物語の内容と――きっとその小説は売れていないってことだけ」
水瀬も僕と同じくワゴンの中の小説をめくり「何か、わかるなぁ」とつぶやいた。
「私も小学生の時に読んだ、あれ児童書だったのかな? その内容とかフレーズとか、ドキドキしたことはちゃんと憶えてるのにタイトルも作者も憶えてない本、あったもん」
「小学生のときなんて、みんなそんなもんだよ」
「かもね。……湊もそんな感じ?」
「僕は二年前からずっと、本屋に来るときは探してるかな」
「へーぇ! 大好きなんだね、その小説家さんのこと」
水瀬への返答に窮する。別に大好きだから探しているわけじゃない。僕は水瀬とは違い、その作者自身を知っているから。考えをまとめるためにワゴンの小説を漁る。何もかもを喪ったあの日。僕を暗闇から掬い上げてくれたあの人に対する適切な言葉は、すぐに出た。
「恩人なのかもしれない。だから探してる」
「そうなんだ……とても素敵だね。でも私の綴先生愛も負けないよ! 湊も読んでみない?」
綴真桔の新刊を顔面に押し付けられて、思わず受け取ってしまう。前から思っていたけど、水瀬は色々な距離感がおかしい。
すると水瀬は妙案が浮かんだのか、人差し指を立てた。本当にそんなポーズをするやつ、初めて見た。
「そうだ! 湊が書く最初の四季折々、『恩人の小説家さんの作品を探し当てる』でいいんじゃない? 私も一緒に探したい!」
キラキラした瞳でそう言ってくる水瀬。でも未来への希望である四季折々に僕が書ける願い事なんてないし、書きたくもなかった。その瞳から目を逸らして手渡された小説を開く。
瞬間、僕は水瀬の提案を断る口実を得た。
「いいや、もうその必要はなくなったよ」
そうして僕は、すでに読み終えていたその新刊を閉じた。
その後も色々な店に行った。水瀬は生活雑貨店で高額なビーズクッションを買うか一〇分くらい本気で悩んでいたが、結局手が出ずに三〇〇〇ピースのジグソーパズルを買った。
歩き疲れた僕らはおしゃれなフローズンドリンクを買って、モール内の中庭にある休憩スペースに移動した。屋外ではあるけれど、庇とミストが設置されていて涼しい。
水瀬がベンチに深く背を預けてしゃがれ声を出す。
「ああぁぁ、生き返るぅぅ」
「およそ女子から出た声とは思えないけど、わかる」
「ふふん。女の子が可愛い声を出すときなんて限られているのだよ、湊くん」
「なぜイケボ?」
何かまだテンションが高いな。扱いにくいから早く普通に戻ってほしい。そう願ってドリンクを口に運ぶと、水瀬はリュックから四季折々を取り出して線を引き始めた。
願いの中身が目に入る。【湊を放課後に連れ回す】【湊に褒めてもらった服を買う】【綴先生の新刊を買う(楽しみ!)】【ビーズクッションを買う(高っ! また今度買う!)】【ジグソーパズルを買う】。
「そんなに気になるなら、もっと見る?」
水瀬はベンチの上をスライドして、僕の隣にぴったりとくっついてきた。
素肌が触れて、心臓が跳ねる。水瀬の肌は夏とは思えないほど冷たい。それは僕の心の温度を根こそぎ奪い、さっき昼休みに結んだ小指を解かせるには十分すぎる冷たさがあった。
水瀬はそんな不安定な僕の隣で嬉しそうに話し始める。
「願いは春夏秋冬の季節ごとに分かれてて。春は叶え終わったから、今は夏。それで、ほら。私の願いは右ページに書いてるから、湊の願いは左ページに書いてね! 私も手伝うからさ」
「……僕以外にも、叶えてくれるやつはいるだろ」
自分で四季折々を利用しておいて、僕は怖くなっていた。このまま時が進めば水瀬は死ぬ。死んでしまうんだ。解っていたはずだ。過去を取り戻せないことなんて。
水瀬は僕の目を覗き込んで微笑んだ。
「ダメなんだよ、湊じゃなきゃ」
「どうして?」
「湊にはきっと、四季折々が必要だから」
「……意味がわからないよ」
そう言いつつも、僕は何となく理解できていた。四季折々は未来への希望で。自殺未遂をした僕がそこに願いを書くということは、それだけで大きな意味がある。
水瀬はすくっと立ち上がり僕の方へと体を向けた。
「それに、ここまで来て細かいこと言わない! この青春不足者めっ!」
「痛ッ!」
閉じた四季折々で僕は頭を刺された。おい平面で叩け。今の角だぞ。
「あっははっ、痛そう」
「怖……」
「行こっ、湊! もう時間ないよ!」
ベンチから立ち上がって後を追うと、買い物袋をガサガサ揺らして歩いていた水瀬が漫画みたいに派手に転んだ。散らばった袋の中身を拾い集めた僕は、水瀬に駆け寄る。
「おい大丈夫か、水瀬?」
「うぅ、綴先生の小説が……」
「ちゃんと拾ったよ。立てるか?」
僕は水瀬を支え起こしてベンチに座らせた。そして、ふと気付く。
「水瀬、膝から血が出てる」
「え? あ、ほんとだー。あはは」
「……笑い話で済まないのは、君が一番よく知ってるだろ。絆創膏とか買ってくる」
死季病患者にとっては少しの出血でも命を脅かすくらい危険だ。しかし水瀬はそれでもへらへらと「大げさすぎだよー」と笑う。心配させまいとしているのが目に見えてわかって、余計に痛々しく思えた。
僕は水瀬の顔を真剣に見つめる。いや、もしかすると、その影にいる彼女のことを見つめていたのかもしれない。
「……そんな顔しないでよ」
初めて気まずそうな表情で水瀬はつぶやく。僕はため息をついて立ちあがった。
近くのドラッグストアで絆創膏と消毒液を買い、患部を診る。出血は止まっていて、僕は胸を撫で下ろした。水瀬はなぜかにやにやしていて、さっきまでのしおらしい態度が嘘みたいだ。
「何だよ」
「いいや~? 優しいなぁ~って思っただけだよ。うふふ――って痛っだぁ!」
僕は消毒液を水瀬の患部に噴射した。いい加減、その顔に腹が立っていた。
「う、うぅ……ひどい」
「よし、これで終わり、っと」
絆創膏を貼った患部を叩いて治療を終えると、水瀬は痛みに叫びながら僕の頭を叩いた。「人のすることじゃない!」と怒られたけど、僕もいま頭を思い切り叩かれたのでお互い様だ。
中庭に、涼やかな風が吹く。水瀬は急に静かになり、風の流れる先を見つめていた。
遠くから、ゆったりとしたメロディーを響かせ、町が帰る時間を告げてくる。そのメロディーに隠れて黙り込む僕に、水瀬は微笑んだ。
「じゃあ、今日はもう帰ろっか」
陽は沈みかけてもじりじりと肌を灼いてきたけれど、何でもない話をしていたらいつの間にか分かれ道に差し掛かっていた。僕は別れを告げて、逃げるように歩き出す。
「ちょっと待って湊。手、出して」
その要求に恐る恐る手を伸ばすと、水瀬は突然、握手をしてきた。手のひらに何か固いものを感じる。
「えっと。これは、何?」
「今日のお礼だよ!」
お金かな、と邪な考えを浮かべて握手を解く。僕の手のひらに残ったのはもちろんお金ではなく、一つのUSBメモリ。
「――四季折々」
その言葉で空気が変わる。一種の神聖な儀式のようだ、と僕は思う。
「私ね、小説家になりたいんだ。だから死ぬ前にすべてを籠めた一冊を書き上げて世に送り出すのが、私の夢」
僕は渡されたUSBメモリを見つめて、これは水瀬の夢の結晶なんだと理解する。
「もし湊の四季折々がまだ見つからないなら、そこに入ってる私の小説を読んで欲しいの」
「僕が?」
「うん。それでね、できたら感想ももらえたら嬉しいな。それが、私の次の四季折々」
水瀬はリュックの中から、四季折々を僕に手渡してくる。
「とりあえず四季折々も湊が持ってて。あれ欲しいとか。どんなに些細なことでも書いていいからね」
僕は改めて思う。この二つは僕にはとてつもなく重い。到底、背負える物じゃない。
小説を読むことも、死に行く水瀬を突き放すことも、四季折々を突っ返すことだって、僕にはできる。選択できるんだ。それでも僕は水瀬詠のことを完全に拒絶できなかった。
理由は、最初からわかっていた。
僕が過去に巡った四季から抜け出せないからだ。あの幸せな四季を求めてなぞってしまうからだ。そして僕自身それを望んでいる。どうしても水瀬と文月の境遇が重なってしまうから、僕は彼女を拒絶することができない。
僕が過去に巡った文月との四季を守るために、水瀬がこれから巡る四季を利用する。
ひどい話だ、と僕は心の中で笑う。泣いても罪は赦されないのだから、笑うしかない。
「まーた青春不足が顔に出てるぞー?」
僕の顔を楽しそうに覗き込んで、水瀬は笑う。だからせめて、今の僕にできるだけの誠意を示そうと思った。
「読むよ、水瀬の小説。それと僕の四季折々も、難しいけど考えておく」
「えっ! ほ、ほんとに!? やったっ!」
水瀬の屈託のない喜びように、僕の胸がひどく軋んだ。
「なるべく早く読んで、感想聞かせてね! 待ってる!」
「うん、わかったよ」
「じゃあ、私こっちだから。また学校でね! バイバイ、湊!」
走り去って行く水瀬を見送る。途中で子どもみたいに大きく手を振ってくるその姿は、夕景に照らされて、淡く輝いて見えた。
*
それは決して、劇的な出会いではなかった。
中学に入学して二週間が経った日の帰り道。僕は文月莉奈と出会った。
この日、僕は一人で流れの緩やかな川が見渡せる河川敷まで来ていた。順調に友達ができて安心したから、少しだけ一人になりたくなったのかもしれない。
まだ肌寒い、でも気持ちの良い放課後。ピンク色の空は魔女が施した魔法のようで、そこから届く光が水面に反射している。
その光景をただ眺めていると、不意にシャッター音が聴こえた。次いで水面が揺れて不規則な波を作ったところで、僕は気になって視線を動かす。
カメラを胸元に下ろした少女と目が合う。なぜかこの時期に膝まで川の中に浸かっていた。
文月莉奈。
すぐに名前を思い出せたのは、僕や周りのクラスメイトが休み時間に友達と談笑しているなか、文月だけは独りで椅子に座って外を眺めていたからだ。少なくとも僕には明らかに住んでいる世界が違うように見えた。
文月は興味がなさそうに僕から目を逸らして、また遠くの写真を撮り始める。
綺麗な横顔だな、と僕は思う。カメラの方向には何の変哲もない鉄塔があるだけだ。それに比べたら、文月の横顔の方が何倍も価値があるだろう。
肩までの黒髪は癖で毛先がカールしている。猫目であまり表情も動かないから、それこそ本当の猫のように警戒心が強く見えた。制服から緩やかに伸びる細い肢体は全体的に白く、ふとした拍子にどこかに消えてしまいそうなほど儚い。
「良い風景は、撮れた?」
今日は一人で居たかったはずなのに、気付くと僕は川縁まで近付き問いかけていた。なぜだか、文月が放つ妙な引力に惹き付けられたのだ。
文月はゆっくりと振り向き僕の顔を捉えた。端正な顔立ち。さながら猫のようだ。
「あなた、誰?」
「一応クラスメイトなんだけどなあ……篠宮湊です。よろしくね、文月莉奈さん」
「ええ」
孤独な声だ、と僕は思う。正確に言えば、孤独に慣れてしまった声。どうしてそう思ったのかはわからないけれど、文月はどこか悲しそうに見えた。
僕は遠くの鉄塔をちらと見て、言葉を続ける。
「それで、どうして鉄塔を撮っていたの?」
「そうね……思い出を、閉じ込めるためかしら」
「思い出、か」
文月の表情はなぜか暗い。気になった僕は純粋に問う。
「それは、楽しい思い出なの?」
「え……?」
驚いた表情を見せた文月は体ごと僕へと向き直る――瞬間、ぐらりと体勢を崩した。
水面へ吸い込まれそうな文月にとっさに手を伸ばす。ギリギリのところで、僕は文月の右手を掴んだ。嫌に熱っぽい手のひらだった。
幸い、僕の両脚が水浸しになるだけで文月を助けることができたのだから良かった。
「文月さん。とりあえず、岸に上がろっか」
「……ありがとう」
「あはは、どういたしまして」
二人で川の中を歩いて岸まで上がると、文月が「ねぇ」と声を掛けてきた。
振り向いて首を傾げると、文月は僕と繋いだままの手を持ち上げて困ったように言った。
「もう転ばないから、大丈夫よ?」
「うわっ! ご、ごめん!」
繋いだままだった手をぱっと離す。しかしなぜか文月の手の熱と感触は離れない。むしろ全身に広がっていくようだった。
僕の慌てぶりに文月は口元を押さえてくすくすと笑う。初めて見た文月の笑顔に儚さはなく、どこにでもいる普通の女の子に見えた。
「そんなに慌てなくてもいいのに。……ふふ、顔が真っ赤よ?」
「自分でもわかってるよ。だから、あんまり見ないで」
文月は何も言わずに僕に背を向ける。そして近くにあったリュックからタオルを取り出し、濡れた脚を前方へと伸ばしてゆっくりと拭き始めた。
川の冷たさで少し赤くなった脚の水滴、指の間に付いた砂利を綺麗に拭き取った文月は、わずかに僕を振り返ってつぶやく。
「それで、どうしてそんなことを訊いたの?」
思い出を閉じ込めるように写真を撮っていた文月。それに僕が思ったことなんて、一つだ。
「文月さんが悲しそうに見えたから。思い出を閉じ込めるなら、それが楽しいものだといいなって。楽しい思い出があれば、明日はもっと楽しくなるでしょ?」
月並みだけど、これが一般的な考え方じゃないかと思った。
文月はソックスとローファーを履いてこちらに向き直る。そして僕をゆっくりと見据えて、首を振った。
「少し違うわ。初めから悲しいものなんて撮ってない。楽しくて、綺麗で、幸せなものを撮っているの」
「それなら」
「――だから、悲しいのよ」
僕は首を傾げたまま、思ったことをそのまま口にする。
「よく、わからないよ」
「……そう、幸せなのね」
冷たい声。濃密な孤独が、文月を取り囲んだような気がした。僕はまるで時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥る。目の前にはもう、さっきまで笑っていた文月はどこにもいない。
「じゃあ、さようなら」
文月はリュックを背負って歩き出す。何が彼女を孤独にさせるのか僕にはわからなかった。だから文月は僕とは正反対の人間なんだと決め付けて、これまで通り生きて行く。
それは違うよな、と僕は首を振った。
「今、幸せじゃなくなったよ」
僕は文月を追いかけて向かい合う。夕景に照らされた彼女の輪郭が輝いた。
「文月さんの言う通り、僕は幸せだと思う。でも文月さんみたいに悲しんでる人を無視してまで幸せでいたくないよ」
文月は目を見開く。綺麗な濃褐色の瞳だ。僕が返答を待っていると、やがて目尻から一筋の涙が零れ落ちた。
「えっ文月さん!? 何で泣くの? え、えーっと、ハンカチ……」
慌てて制服のポケットをまさぐっても、そこには何もなかった。くっ、恰好がつかない。
文月はそんな僕の情けない姿を見て、涙を流しながら微笑む。その濡れた瞳と同い年とは思えない艶のある表情に、なぜか僕の胸は痛んだ。
少し落ち着いた様子の文月は、僕の顔を覗き込んで試すように言った。
「憶えておいて。女の子の涙を拭う、ハンカチなんかよりもずっと素敵なアイテム」
「へぇ。それって、どんな?」
文月は涙の雫が残る綺麗な瞳で、じっと僕を見つめた。
「きっとまた、泣いてしまうときがくると思うわ。だから、答え合わせはそのときに」
「……わかった。よく考えておくよ」
「ええ、楽しみにしてる」
微笑んだその目にもう涙は残っていなかった。冷たい春風に攫われた文月の涙を、今度は僕が。約束とも言えないおかしい何か。そんな日は来るだろうか。
すると、ふとした疑問が僕の頭に浮かぶ。僕は文月とこれからも一緒に居ていいのか、と。しかしその疑問は言葉にする前に解消された。
文月は小走りで河川敷の斜面を上ると、くるりとこちらに振り返った。
「篠宮くん。今度、あなたを被写体にしてもいい?」
「もちろん。文月さんが悲しくならない、幸せな写真を撮ってよ」
「そうね……。じゃあまた会いましょう、篠宮くん。さようなら」
「うん、また明日!」
夕陽と共に去った文月に大きく手を振る。まるで子どもみたいだけど、孤独な彼女が僕を認識して、名前を呼んでくれたことが、ただ嬉しかった。
その場に残されたのは、僕と、波音のさざめきと、群青色の空だけだった。
三年前の春。僕たちの淡い四季は確かに動き出し、そして色濃く染められていった。
しかしその約一年半後、文月莉奈は死んだ。
死季に侵されていた最中、自身の物語を未完成のまま、終わらせた。
そして僕はいまだに、文月と巡った四季にひとり、取り残されている。
3
懐かしい夢を見ていた。その浮遊感から現実へと叩きつけられた衝撃で僕は目を覚ました。夢から醒めるときはいつもこうだ。体がひどく汗ばんでいる。
スマホを確認すると、すでに夜の八時を回っていた。夕食を取ったあとに水瀬の小説を読んでいたら眠ってしまったみたいだ。僕は立ち上がり、リビングへ続く扉を開く。
デスクに向かって万年筆を走らせていた女性が、僕の方に振り返る。背中までの艶のある黒髪がさらさらとなびいた。
「おや、おはよう湊。よく眠れたかい?」
「おはようございます、自称さん」
「湊、顔を洗って来なさい」
「はあ……」
そんなことを言うなんて珍しい。僕は不思議に思いながらも、洗面所へと向かった。
「……なるほど、ひどい顔だ」
鏡に映った僕の顔には、涙で濡れた跡がくっきりと残っていた。僕はその弱々しい跡を蛇口から流れ出る水で洗い流した。
僕が戻るとすでにケーキが用意されていた。自称さんが飲んでいるウイスキーの香りがリビングに漂っている。ウイスキーってケーキに合うのだろうか。
自称さんは切れ長な目で僕を見つめ、印刷した水瀬の小説を掲げて妖しく笑った。
「お友達でも出来たのか?」
「違いますよ。それと勝手に読まないでください」
「そうか、それは残念だ」
本当に残念だなんて思っていない口調だ。自称さんは水瀬の小説をテーブルに置いた。僕は自称さんの白い横顔に問いかける。
「どう思いましたか? その小説」
「個人的には好きだよ。繊細で、とても強い意志を感じる」
「そうですか。さすが小説家。いや、綴真桔先生」
彼女の正体を僕は二年越しに突き付ける。自称さんは自分のことは何も話さない。名前も。年齢も。何もかも。
職業は机の上の小説原稿からわかった。でも僕は怪しくなって『自称小説家さん』なんて不名誉な名前を付けてしまった。
「なぜ今さら私の正体を? 私のことが好きなのか?」
「水瀬詠。その小説を書いた同級生が、自称さんの大ファンなんですよ」
「なるほど。確かに文体に綴真桔が混ざっていたな。もったいない」
笑いながら、自称さんはケーキの小箱を開ける。中身はショートケーキとチョコケーキだ。自称さんは両方のケーキを眺め、思案顔でつぶやいた。
「……両方食べたいな」
「え、ショートケーキ食べたいって言ったの、自称さんじゃないですか」
「私はチョコも好きだ。半分おくれよ、湊」
子どもみたいな言い分に僕はため息をつく。互いのケーキを縦半分に切って皿に乗せると、自称さんは満足そうにオセロのような配色のケーキを頬張り始めた。
「素直な子は好きだよ。うん、美味しいな」
「今度からは二つずつ買ってきます。まったく」
自称さんが皿の上にフォークを置き、キンッと高音が鳴る。弛緩した空気が引き締まった。
「ところでこの子は――死ぬのか?」
僕は驚いてチョコケーキのひと欠片を皿の上に落とす。自称さんは静かに僕を見据えていた。まるで確信したその答えを待つかのように。
「……どうして」
「小説は書いた人間を映す鏡だ。だから文章の端々から感じ取れる。この子は特に顕著だが」
そんなこと僕にはわからなかった。水瀬の小説が訴えかけてくるものは伝わったけど、とてもそこまでは。
自称さんは「そうか」とだけつぶやいてウイスキーの注がれたグラスを持ち上げ、その琥珀を眺めてまたテーブルの上に戻した。
きっと自称さんなら他言はしない。むしろ僕と水瀬のこの不安定な関係に何かメスを入れてくれそうな、そんな予感がした。
僕は水瀬との関係を話した。水瀬が文月と同じ死季病だということ。もう長くはないということ。水瀬の夢のこと。四季折々のこと。僕の罪のこと。
「残酷だな」
ぽつりとそう言って、自称さんはウイスキーを煽った。さっきまでグラスの中で小気味の良い音を奏でていた氷も、今は水滴に変わってグラスの外側を流れ落ちている。
「はい。自分でもひどい奴だと思いますよ」
「色々な見方があるさ。まあ、君のやり方はとても賢しい。きっと君も自分でそう感じているだろう。しかし――」
自称さんはふぅと息を吐き、左目を隠していた前髪をかき上げた。ウイスキーとケーキが混じった甘い香りが僕のもとまで届く。
「私はそれを『成長』と呼ぼう。湊、君の心は成長しようともがいているんだ」
「やめてください。僕はただ――」
「この現状こそ君が成長しようとしている証拠だ。成長は独りではできない。それを知っているから、君は水瀬詠に繋がりを求めたんだよ。残酷な繋がりを」
まったく違う、と僕は首を振る。見当違いも甚だしい。自称さんは酔っている。ひどい酔い方だ。ウイスキーの瓶も、半分近く減っていた。
「彼女は湊を信頼している。自分の小説を読ませるというのはそういうことだ。四季折々を渡したのも、君の過去を話してほしいと願っているからだろうさ」
「わからないんですよ。水瀬がどうしてここまで僕に踏み込むのか」
「世界にはそういう、自分が正しいと思ったことを馬鹿みたいにまっすぐやってしまえる人間がいるんだよ。昔の君のようにな。そんな子はなかなかいないから、大切にするといい」
とても愉快そうに自称さんは笑う。まるで過去を懐かしむように。
「……こんな子が、君を停滞の先へと連れて行ってくれるのかもしれないな」
反論しようとソファから立ち上がる。しかし自称さんは落ち着いた様子で「湊」と僕の名前を呼ぶ。その凛とした声色に気を取られ、僕はその場に立ち尽くしてしまう。
「今日もらった対価分の授業はここまでだ。また来なさい」
ふと机の上を見ると、すでにケーキとウイスキーが綺麗になくなっていた。
舌で唇の端を舐め取り自称さんは立ち上がる。僕は風呂場へと向かう後ろ姿に呼びかけた。
「自称さん」
「ここから先の対価は、そうだな。私の体を、隅々まで洗う。どうかな?」
自称さんは自分の体のラインを指でゆっくりとなぞり愉しそうに笑う。その蠱惑的なポーズに少しだけ想像してしまう。僕はひとつ咳払いをして雑念を打ち消した。
「……別の対価を持って、また来ます」
「それは残念だ。二年前までは、何回も一緒に入っていたのに」
「捏造はやめてください。もう帰ります」
荷物を持って玄関へ歩き出すと、背後で衣擦れの音と服をソファに放り投げる音が聞こえた。
一回だけですよ、と声には出さずに訂正して、僕はリビングから出た。
*
爆音が脳を揺らす。まるで太鼓のバチで何度も叩かれているみたいに、僕の体内に衝撃が響き渡った。ひずんだ音はしかし不快ではなく、快感として心の深い場所へと落ちていく。
「颯斗ー! いいぞー!」
「颯斗くんカッコいいー!」
隣を見ると、水瀬と佐伯が汗だくになりながら声援を送っている。でもそれは大規模な音楽フェスではなく、中央公園で開かれている小規模なイベントのライブステージだ。
僕が七草の演奏を何となく見ていると、耳に水瀬の吐息が掛かった。僕のものではない甘い匂いが微かに漂ってくる。
「湊、昨日は急に連絡してごめんねー。どうしてもみんなで応援したくて」
「別にいいよ。四季折々に書いてたことだし」
僕は昨日の電話で水瀬から聞いた、七草が音楽に特に力を入れているという話を思い出す。確かに歌も演奏も上手かった。迸るような熱気と音圧が、僕の心を穿つ。
「ほら! 湊も立って応援しよっ!」
「あ、ああ……な、七草、いいぞー」
「うわ、声小さっ!」
「ぐっ……」
水瀬は僕に心無い言葉を投げると、佐伯とパイプ椅子の上に立って応援し始めた。さすがにそれは恥ずかしいので僕はやらない。
七草はその演奏で自分を表現していく。でも――明らかに、何かが足りない。
そこで気付いた。僕たち以外、応援している人がほとんどいない。明らかに、七草の前に演奏していたバンドの方が声援は多かった。
ステージ上を見つめると、七草はこっちを見て笑った。――ああ、そうか。
「あっ、いま颯斗くん笑ったよ、詠ちゃん! 湊くん!」
「笑ったね! 湊も見たー?」
「うん、見たよ」
今の七草の笑顔は、諦めから生まれる笑顔だ。七草にとっての原因が何かはわからない。でも僕は、あの表情を浮かべた七草を応援する気にはなれなかった。無駄だと思った。
さっきまで僕の内側に芽生えていた僅かな熱は、驚くほどすっと冷えてしまった。
その瞬間、水瀬が僕の手を掴んだ。
「ほら、湊も一緒に椅子乗ろ!」
「僕は、いいよ」
――こんな子が、君を停滞の先へと連れて行ってくれるのかもしれないな。
水瀬の冷たい手の温もりに自称さんの言葉を思い出し、僕はその手をぱっと解く。
「……んもうっ!」
水瀬はもう一度、僕の手を掴んだ。僕の心が冷えてしまったからか、その手はとても温かく感じられて。思わず握り返してしまった。
「会場の人みんながステージ見るくらいの声で応援しよ! ほら見て! 颯斗、ここにいる誰よりも輝いててかっこいい!」
臆面もなくそう言った水瀬の顔は生き生きしていた。まるで子どもがひと夏の大冒険に行くみたいに、正しくてまっすぐな、希望に溢れた瞳だ。
僕は導かれるように水瀬の手を強く握ってパイプ椅子の上に立ち、大きく息を吸い込んだ。本当に不思議だ。恥ずかしいなんて、微塵も思わなかった。
「七草ーっ!!」
自分でも驚くくらいの大声。僕は音楽に乗って首に掛けていたタオルを掲げた。視界の端で水瀬と佐伯も驚いている。
「あははっ、出るじゃん、大きい声!」
「ふふ、出たねぇ、湊くん」
顔と体の内側が熱い。この熱は届いているだろうか。――届け。そう強く思った。
僕がステージを見ると七草はさっきと違って可笑しそうに笑っている。それを見た僕も、いつの間にか笑ってしまった。
心地良い熱を感じる中、僕と繋いだ水瀬の手の熱だけが、元の冷たさに戻っていた。
ライブが終わると僕たちは中央公園を後にして、町の文化ホールに足を運んだ。佐伯が『全国絵画コンクール』で最優秀賞を獲ったらしく、水瀬がその絵を見たいと言ったからだ。佐伯がすでにプロとしていくつか作品を残していると聞いたときは驚いた。
大ホールに入ると、水瀬は辺りをきょろきょろと見渡しながら言った。
「絵画のほかにもあるんだねー」
「書道とか写真もあるみたいだな。後でそのブースも見て回ろうぜ」
「そうだね、まずはなずの作品観よ!」
絵画作品のブースに入ると、僕たちは佐伯に厳かな額縁の前へと案内された。
「みんな、これだよ。私の作品」
「うわぁ……すごい」
水瀬が感嘆の声をあげる。僕は逆に、言葉を失っていた。感情の高波が内から外に押し寄せて、気付けば鳥肌が立っていた。
砂浜と青空。描かれているのはただそれだけだ。しかしどこまでも美しい色彩と叙情的な構図。繊細に、緻密に描かれた水彩画だった。
僕は佐伯の絵に、文月の写真を見たときのような感動を覚えていた。思考することを放棄させられて何も言えなくなる。
「なず、すごいよこの絵。綺麗すぎて……言葉が出ないや」
「確かにな。俺も今、鳥肌やっばいもん」
「僕も、こんなにすごいのは久しぶりに見たよ」
「あ、ありがとうみんな。嬉しいけど何か恥ずかしいね。ふふ」
みんな語彙を失ってたいしたことは言えなかったけれど、僕たちはしばらく作品を鑑賞していた。やがて恥ずかしくなったのか、佐伯は水瀬を連れてほかの作品を観に行った。
「……やっぱすごいよなあ、なずなは」
ずっと絵の前で立ち尽くしていた七草が不意に笑った。あの、諦めから生まれる笑顔で。僕はそれを見ないふりをしてうなずいた。
「きっと、すごい努力したんだろうな」
「あいつ小さい頃から絵を描いててさ。中学のときとか寝食すら惜しんで描いてた」
「それは、すごいな」
「すごいよあいつは。努力の天才だ。凡才の俺じゃ、いくら努力しても届かねぇ。……天才って、何なんだろうな」
僕は佐伯の絵に描かれた青空を眺めながら思案する。
文月も天才だった。物心がついた頃にはすでに写真を撮り、佐伯のようにあらゆる人から評価されていた。僕はそれが誇らしくもあったが、同時に自分との差に落胆もした。
僕にとっての天才、それは。
「救い、かな」
「救い?」
「たとえば努力ですべての優劣が決まる世界。それはきっと正しいけど救いがない。だから天才は存在するんだ」
だからこそ僕は文月を心から尊敬できた。努力だけですべてが決まるなら、僕はきっと文月に嫉妬していただろうから。
「天才っていう言葉は優しいよ。努力では敵わない凡才に、諦める理由をくれるから」
「諦める理由、か。確かにそうかもな」
僕にとってはその諦めこそが救いだった。でも、七草は? ライブのときに見せたあの笑顔の真意は、僕と同じなのだろうか。
「七草は、何を諦めたんだ?」
普段なら絶対に聞かないはずの質問を、僕は七草の横顔に問いかけていた。まださっきの熱が残っているみたいだ。少しの間を置いて、七草は開き直ったように笑う。
「よくわからん! ってか、何でそんなこと訊くんだー?」
「天才を語れるのは、諦めの味を知った凡才だけだと思うから」
「……じゃあそういう湊は、何を諦めたんだ?」
「僕は」
――僕は、全部だよ。
そんなことを言えるわけもなく、僕は七草と佐伯の絵から視線を逸らす。
「よくわからん」
「ハハハッ! 何だそりゃ! ……やっぱおもしれぇな、湊は」
「どこがだよ」
「俺、やっぱり湊のこと好きだわ」
七草は僕の顔を覗き込み、犬のように人懐っこく笑った。
数分後、僕たちは別れた。七草はもう少し佐伯の絵を見るらしい。せっかく来たんだ、僕も色々と見て行こう。
そうして僕の足が向いたのは、やっぱり写真のブースだった。ポートレートや風景写真。ストリート写真もある。しかし文月の写真ほど心惹かれるものはない。
――私は誰かに評価されるために写真を撮っているわけじゃないわ。
怒ったように口を尖らせる文月を思い出す。でも文月は生前、一度だけ大きな写真展に応募した。理由は教えてくれなかったが、当時の僕は文月の写真が評価されることは嬉しかった。
それが数多のプロの中から選ばれるなんて誰が思うだろう? 放課後に息をするように撮った一枚が、なんて。
考えている途中で僕の足が止まる。人混みに堰き止められたからだ。
観衆の視線の先。一枚の写真に意識を向けた僕の思考は、一瞬にして奪われた。
文月の写真がそこにはあった。幸せな思い出として文月が閉じ込めた一枚が。
【夭逝の天才 文月莉奈 『夏の涯』】。そう記されたプレートは、僕の心の柔らかい場所を傷付けた。その傷から沸々と黒い感情が湧き上がる。
――文月の、何を知っているって言うんだ。
「――知ったようなこと書きやがって」
僕はその声の方へ振り向く。そして目が合った。
「……氷野」
氷野涼太。僕の中学の同級生で、もちろん文月のことも知っている。もう二度と会いたくはなかった。それは向こうも同じようで、氷野は苛立ちを隠そうともせずに僕を睨んでくる。
「お前、知ってたか? 文月の写真が定期的にここに飾られてんの」
「……いいや」
氷野は眉間に皺を寄せて、僕にゆっくりと詰め寄ってくる。
「こんな見せ物みてぇになってんのに、ずいぶんと暢気だな、お前」
「お前に、文月のことをどうこう言える資格があるのか?」
氷野が文月にしたことを思い出しながら、僕はナイフのような言葉をぶつける。氷野は顔を歪めて僕の胸倉を掴んだ。
「ああ、ねぇよ。けどな、文月の葬式にすら来なかったテメェに言われたくねぇよ……! もう自分には関係ねぇってか?」
僕は何も言い返せずに、口を結ぶ。関係ないと思ったからではない。目の前で起こった現実を、何も信じたくなかったからだ。
氷野は僕の胸倉を掴む腕に力を入れる。首が締まり、僕は苦しさに顔を歪める。
「黙ってねぇで、何か言えよ篠宮……!」
「――何、やってるの?」
僕の視線の先には、水瀬が困惑した顔で立っていた。
水瀬は僕のもとへ走ってくると、氷野の腕を掴んで引き離した。その目にはすでに困惑の色はなく、明らかな敵意が宿っている。
「あんた誰? 私の友だちに何してんの?」
引き離された氷野は、僕と水瀬を交互に見たあとに舌打ちをした。
「まさか、文月の次ってわけか? ……ふざけやがって」
「ふざけてんのはあんたでしょ? 何で、こんな酷いことしたの!?」
「水瀬、やめてくれ」
「でも……!」
「いいから、やめてくれ」
これ以上、僕の問題に関わってほしくない。水瀬は素直に「わかった」とつぶやき、一歩だけ後ろに下がった。氷野は髪の毛を雑に掻きむしると、苦悶に満ちた表情を浮かべた。
「これじゃあ文月が救われねぇだろ。この半端野郎が……!」
吐き捨てるように言って、氷野はブースから出て行った。
氷野の言葉が僕の心の傷を広げる。その痛みを紛らわせるために、僕は首元に感じる別の痛みに手を伸ばした。
「湊、首のとこ赤くなってる。見せて?」
「別に、何も気にしなくていいから」
水瀬の手から距離を取る。それでも水瀬は距離を詰めてきて、僕の首元に優しく触れた。
「別に、何も気にしなくていいからね」
僕は水瀬の顔も、目の前の文月の写真も見られずに、視線を彷徨わせた。
それから文月の写真を黙って見つめていた水瀬は、僕に訊いてきた。
「綺麗な写真。文月莉奈さん。二年前だよね、亡くなったの」
「……文月のこと、知ってるんだな」
「それなりに。私の中学でもすごい人がいるって有名だったから。湊、仲良かったんだね」
深入りされないように黙り込む。しかし水瀬は僕の体を突いてからかうように言った。
「湊が女の子に慣れてる感じするのって、もしかして文月さんが恋人だったから?」
「まさか、違うよ」
文月のことを話される度に深い記憶がよみがえってくる。大切にしまい込んでいた思い出がすべて流れ出てしまいそうで、僕は身震いした。
水瀬は文月の写真に近付いて鑑賞し始めた。その隙に僕はこの場を離れようとする。
「湊が、さ」
嫌な汗が噴き出す。その問いを聞いてはいけないという警鐘が、頭に響いた。
振り返った水瀬の潤んだ瞳が、僕の瞳を捉えた。
「湊が飛び降りしたのって――文月さんが、死んじゃったから?」
――さようなら、湊。
「そんなこと、お前に関係ないだろ!」
水瀬は唇を結び、潤んだ瞳で僕を見つめていた。ふと我に返ってブースを見渡すと、周りの観客が怪訝な顔で僕らを見ていた。僕は居心地が悪くなって目を伏せる。
「ど、どうしたんだよ、お前ら」
「二人とも、何があったの?」
七草と佐伯が慌てて駆け着けてきて、事情を訊いてくる。でも僕たちは黙り込んでいた。
「……とりあえず、謝ってから出るか」
「うん。そうだね」
文化ホールを出た後も、僕の胸には澱のようなものが沈んでいた。
僕は自称さんの言葉を思い出し、首を振る。先になんて進みたくはない。だってそこに、文月はいないんだから。
分かれ道に辿り着くと、七草が明るい声で言った。
「俺たちこっちだから行くけど、お前ら、さっさと仲直りしろよー?」
「じゃあね詠ちゃん、湊くん」
なかなか難しいことを言って七草と佐伯は歩いて行った。夏の夕暮れ。気温は一向に下がらない。暑く、重たい空気が僕の肌をピリピリと焦がした。
僕は後ろの水瀬の気配を感じながら、後悔していた。怒鳴るなんて最悪だ。水瀬は僕の過去を案じていただけなのに。謝ろうと口を開くけれど、肝心の言葉が出て来ない。
沈黙のまま、僕たちの足音だけが空気に溶け、やがて目前に分かれ道が見えてくる。ここを逃したらダメだ、そう思った。
「あの、さ、水瀬。さっきのことなんだけど」
返事がない。きっと怒っているんだ。僕は次の言葉が続かずまた沈黙に身を委ねてしまう。そこでようやく気付く。後ろにいたはずの水瀬の足音が抜け落ちていることに。
振り返った僕の心臓は不規則に跳ねる。
水瀬は、ぐったりと地面に倒れて動かない。生温く吹いた風が水瀬の顔に掛かった髪の毛を攫い、生気のない青白い顔を強調させていた。
無意識に、僕は叫んでいた。
「――水瀬ッ!」
病院で処置を受けた水瀬はそれから一時間ほどで目を覚ました。「おはよー湊」なんていつもと変わらない明るい声で。
「湊、起きるまでいてくれてありがとね。まー寝顔見られたのは恥ずかしいけど」
何てことはなかったように水瀬はおどけて、僕に微笑んだ。
「湊には言うね。最近、急に意識を失うことが増えてきて。体温低下、血中酸素不足などによる意識障害、だったかな。死季病冬期の初期症状から後期症状に移行した合図だってさ」
それは文月も同じだったから知っている。僕は水瀬の顔を見られずにうつむいた。
「色々としつこく詮索してごめんなさい。悪いとこ出ちゃったなって反省してる」
「謝るのは、僕の方だよ。……水瀬、怒鳴って、ごめん」
僕は水瀬が倒れて動かない映像を思い出しながら、ぽつりとつぶやいていた。
「……無事で、良かった」
「――ねぇ、湊の後悔って、何?」
「僕の、後悔……?」
不意の質問に虚を突かれて、僕はしばらく黙って考えてしまう。僕の、後悔。
それはきっと、水瀬が倒れたときに僕が感じた恐怖の原因だ。でも水瀬には言えない。これは僕が抱えるべき問題だから。
「私、絶対に後悔したくないんだ」
僕は水瀬が柔らかく微笑むその瞳の奥に、覚悟を感じる。
「四季折々って、春夏秋冬、その時その時っていう意味なんだ。だから私の四季を後悔しないで大切に生きるために、四季折々を作ったの」
水瀬は四季折々ができた経緯を楽しそうに話す。死という絶望を突きつけられてなお、水瀬は生きる希望を捨てていない。僕には絶対に真似できないことだ。
よっぽど僕がひどい顔をしていたのか、水瀬は慌てた様子で言ってくる。
「もー、ほら、顔上げてよ」
――私が死んでも湊は大丈夫よ。湊の心に寄り添ってくれる人はいるわ。私にとってあなたがそうだったみたいに。
いつか文月は笑いながらそう言った。僕の未来を案じたからなのかもしれない。
なあ文月、僕にとってのその人は、水瀬なのか?
決して届かない問いだ。答えはわからない。でも、水瀬は、きっと。
「……一人の女の子を救えなかったことが、僕の後悔だよ」
「それが文月さんなんだね。湊、ちゃんと聞かせて」
これは僕が抱えるべき問題で。水瀬にはこれ以上、何も背負わせるべきじゃない。
とても難しいね、文月。君も僕に病気を打ち明けるとき、こんな不安な気持ちだったのか?
気付くと、ダムが決壊したみたいに、僕は話し始めた。
文月が死季病を患っていたこと。文月の病気を知ってから毎日、一秒でも長く傍にいたこと。文月の心を救うために、死ぬまでにやりたいことを全力で実行したこと。僕と一緒に幸せそうに笑っていた文月が突然、飛び降り自殺をしたこと。
噛みしめるように言葉にしても、こんなにも一瞬だ。僕は文月の話をして、その人生が短くまとめられてしまうのも嫌だったのかもしれない。
水瀬は僕の話を聞いて、静かに涙を流していた。何かに耐えているような涙。水瀬が泣いているのなんて、初めて見た。
「ずっと傍にいたのに救えなかった。僕は……僕を赦せないよ」
その後悔が、怒りが、僕が飛び降りた理由なのだと今では思う。
「自分を赦して前に進んだら、文月が僕の中から消えそうで、怖いんだ」
「じゃあ湊は、そうやって後悔したまま立ち止まってるつもりなの?」
「……それが、僕ができる最後のことなんだ」
水瀬は目を見開いたあと、僕を睨みながら叫んだ。
「嘘だよ! 絶対にそんなこと思ってないくせに!」
「嘘じゃない、本心だ!」
言い返すと、水瀬は僕の両手を痛いくらいに掴んだ。振り解こうとしても離してくれない。
「湊と文月さんの思い出って、湊が前に進んだくらいで消えちゃうものなの!?」
「そんなわけないだろ! っ……」
水瀬は僕の弱さも嘘も射貫くように見つめてくる。涙を流し、強いまなざしで。
「前に進みたくないわけじゃない。でも、どうしたらいいのか、わからないんだ……」
立ち尽くしたままうなだれる。だから僕は何もかもを諦めたふりをしたんだ。
「ずっと一人で抱え込んできたんだね。話してくれてありがとう。ありがとね、湊」
心が壊れてしまいそうなほど苦しかった。でもこれが、僕の後悔の代償だ。水瀬にもこの痛みは渡せない。胸に残ったこの痛みだけは、僕のものだ。
「ねぇ湊、四季折々って持ってる?」
「……うん、持って来てるよ」
「貸して」
両手を僕に差し出す水瀬に、僕は言われるままリュックから四季折々を手渡す。
水瀬は四季折々に祈りを綴り始めた。数秒と経たずに書き終えて、僕に笑いかけてくる。
「怖いなら私と一緒に前に進もう。何も諦めなくていいんだよ。ただ、湊がやってきたことを、信じてあげて」
「僕には」
「――私は最後まで湊と一緒にいるよ。約束」
僕に四季折々を手渡して、水瀬は微笑む。最後まで。水瀬が死ぬまで。僕は果たして耐えられるだろうか。冷や汗が僕の首筋を伝って流れていくのがわかる。恐怖で全身が震えた。
それでも僕は、信じてみたかった。僕が文月と歩んできた日々を。水瀬の想いを。
『あの日々と、自分を信じて、前に進む』
一思いに書き殴った僕の文字は所々震えていて、情けないものだった。でもこれでいい。深呼吸をして隣のページを見ると、さっき水瀬が綴っていた願いが見えた。
『湊の心を救う!!』
シンプルに、大きく書かれた祈り。その優しさに、僕の心に針が刺さった。
病室に沈黙が降りる。やがてそれを切り裂くように水瀬が大きな声を出した。
「しんみりタイム終わり!」
水瀬は僕の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して、晴れやかな声で言い切った。
「湊のやってきたことは正しかった。文月さんは、幸せだったよ!」
「どうして、そんなことがわかるの?」
「え? うーん。ほら、私と文月さんって超似てるから!」
その無理のある決めつけに、僕は大袈裟に首を横に振った。
「いや、似ても似つかないよ。文月は水瀬みたいにホギャホギャ言わなかったし」
「こんにゃろー調子戻ってきたなぁ? ホギャホギャ!」
「何だよ、それ」
水瀬はホギャホギャ言いながらも楽しげに笑っていた。僕もその笑顔で心が軽くなる。
「湊、ほら」
「……うん」
僕と水瀬は小指を交わす。何かが動き出す予感がしていた。僕一人では何もできなかっただろう。きっとこれが、暗闇の中から一歩を踏み出すに相応しい言葉だ。
まるで儀式で捧げる祈りのように、僕たちは小指を上下に動かした。
『四季折々』
「四季折々!」
夏の陽射しを浴びながら高校への道を歩いていると、突き抜けるような声が聞こえた。
まるで意味のない言葉だ。それに、こんな暑いのに気にしている余裕もない。僕はそう解釈して、少し前まで歩けなかった足で歩みを進める。
「湊!」
僕の名前と共に、背後から両頬に冷たい何かが触れた。思わず手で振り払うと、その先には小さくて細い手。それを見て、ぞっとした。
「あっ、やっとこっち見た。無視はだめだよー無視は」
「心臓に悪いからやめてよ、水瀬」
「でも私の手、冷たくて気持ちいいでしょ? あ、もっかいどう?」
「どういう神経してるんだ、本当に」
両手を向けて迫ってくる水瀬に、僕は逃げるように背を向けて歩き出した。バタバタと走って僕の目の前に立ち塞がった水瀬は、まっすぐに微笑む。
「みんなには無神経ってたまに言われるー」
「入院してるときも言ったけど、僕に関わらないでくれよ。頼むから」
少し声が大きくなる。でも仕方がない。そうしないと、過去の記憶がよみがえってしまいそうだったから。
棘を纏った言葉に水瀬は笑う。生気が迸るその表情に、僕は怯んだ。
「関わるよ。そう決めたの。――よしっ! 行こっ!」
水瀬は大きな声でそう言って、僕の手を引く。
走り出す水瀬の手のひらは冷たくて、でも確かな温もりがあった。艶やかな黒髪がなびく。
景色がスローモーションに見えて、僕の呼吸音だけが大きく聴こえた。深いところまで連れて行かれそうな恐怖感。それでも僕は、走り出す脚を止めることができなかった。
「ほら早く走って!」
陽光に照らされた水瀬は笑う。無邪気に未来を信じているみたいに。僕は繋いだ手から、始まりの日のことを思い出していた。
すべては、終わりと始まりの季節。春に始まる。
*
中学の卒業式の日、僕は屋上から飛び降りた。死にたいとは思っていなかったし、高尚な理由もなかった。ただ、向こう側に行ける予感だけはあった。
僕の逃避行は結局、両脚を骨折しただけに終わった。飛び降りてから一か月。リハビリをしているときだけは、その疲労から色々なことを忘れられた。
開け放たれた窓から、ふわりと桜の花びらが迷い込んでくる。僕は布団に落ちた花びらを乱暴に手で払った。
不意に、病室の扉をリズミカルにノックする音が聞こえる。扉の前の主は、僕の了承を得る前に部屋へと入ってきた。
「こんにちは! 篠宮湊くんいますか? あっ、いた! 返事くらいしてよー」
「……誰?」
「一人部屋すごーっ。へっ、金持ちめ」
質問を無視するその女の子を、僕は無遠慮に眺める。
僕の視線を飲み込むほどの好奇心を秘めた大きな瞳。自然に上がった口角や堂々とした立ち振る舞いから、きっと人に好かれるんだろうなと思った。
彼女はようやく僕の質問に答える。
「初めまして。同じクラスの水瀬詠です! よろしくね、篠宮くん」
「ああ、そう」
「元気ないなぁ。でも元気出るもの持ってきたよ、じゃーん!」
そう言って彼女は、リュックからリンゴと一枚の色紙を取り出した。
「頑張れ色紙、クラスのみんなで書いたんだよ。ほらこれ、私の字。けっこう良いこと書いてると思う」
「知らない奴にこんなことしなくても良かったのに」
「ふふ、喜んでくれたみたいで良かった」
「いやそういう意味じゃ……」
言いかけて、口をつぐむ。何を言ってもポジティブ変換されるだけのような気がした。僕は彼女から色紙とリンゴを受け取る。
「わざわざ遠いところまで悪かった。それじゃあ、さようなら」
「え、まだ帰らないよ? リンゴ食べてから帰るから。それ貸してっ」
手からリンゴをひったくり、彼女は「ナイフはどこかなぁ」と戸棚を物色し始める。
そんな危険なもの、ここにあるはずがない。僕は辺りの引き出しを開け始めた彼女に言う。
「ナイフなんてここにはないよ。リンゴもいらないから、もう帰ってよ」
「えー? 一緒に食べようよ。ほんとはナイフも持って来てるし」
まるで意図が読めない彼女の言動に、僕は不快感を覚える。
「……じゃあ、どうして引き出し漁ったの?」
「だって、男の子の病室に来たら、引き出し漁るのがマナーでしょ?」
「タブーって言うんだよ、それは」
無神経な発言に半ば引き気味に答えると、彼女は手を叩いて笑う。何が面白いんだ。
「はーおっかしー。リンゴ剥く握力なくなるからやめてよ」
返答するのも面倒くさくなって、僕は風の吹き込む窓の外を眺める。
「お見舞いと言えばやっぱリンゴだよね~。まだ春だけど」
彼女はその瑞々しいリンゴを綺麗に剥いて、美味しそうに食べ始めた。
「空でも飛びたかったの?」
突然の核心を抉る言葉に、僕は驚いて振り向く。動揺を悟られないように渇いた唇を強く結んだ。しかしそんな僕とは裏腹に、彼女は何でもないようにリンゴを咀嚼していた。
その様子がなぜか癇に障った僕は、変な意地を張って何でもないように答えた。
「別に。少し、死にたくなっただけ」
「そっかぁ。落ちる瞬間は、怖かった?」
「いいや。失敗したなって思った」
すると彼女は、真面目な表情で僕の顔を覗き込んできた。
「篠宮くんが死んじゃったら、大切な人たちみんな悲しむよ?」
「……いないよ、そんなの。僕自身生きるのが億劫なんだ。こんな命、消えてなくなっても別に誰も困らない」
それに、僕にとって大切な人は、すでに喪われてしまった。もう、どうでもいい。
「っていうか、君には関係な――」
乾いた音が、病室に響いた。
僕は振り向きざまに、弾くように頬を叩かれた。微かに、左の頬が痛む。彼女を見ると、笑顔で手首のスナップを利かせて素振りをしていた。目は笑っていない。
「ごめーん。なーんか、つい、思わず?」
「だって、明日の約束もされてない命なんかに、意味はな――むぐっ」
食べかけのリンゴを無理やり口に突っ込まれる。禁断の甘味が口の中に広がった。
「もう、暗すぎだよ。ね、脚の怪我、まだ痛い?」
リンゴを咀嚼しながら、僕は包帯が巻かれた両脚を見つめる。
「リンゴ、美味しい?」
時間をかけて飲み込んで、僕は小さくつぶやく。
「……甘すぎるよ」
「私のことって、どう思う?」
「かなりウザい同級生」
突き放すように言うと、彼女は「それは間違いない。みんなにも言われるー」と笑った。
「ねぇ、こんな何でもない話で笑うだけで十分だと思わない? 生きる意味なんてさ」
「……そう、幸せなんだね」
「うん、幸せだよ。幸せ。まあもうすぐ死んじゃうけどねー」
何を言っているのかわからず、眉をひそめる。彼女も僕と同じことをする、というわけではないだろう。
「死季病って、知ってる? 私その病気でさ、もうすぐ死ぬの。見えないでしょー」
頭が、真っ白になる。視界がぐらつく。息が、心が、苦しい。
――死季病……死季病、だって?
それは、僕からすべてを奪ったものだ。勇気も、自信も、大切な人も、何もかも。
暢気な声で、彼女は続ける。
「明日の約束もされてない命に意味はない、かぁ。でもさ――」
彼女は息を吸い込み、変わらず明るい声で。
「余命を聞いたときに思ったんだ。私は余命っていう明日の命が約束されたから、未来がぐっと限られる。でもあなたは違う。約束されてない命の先には、無数の未来が広がってる。その未来の中に、命の意味はあるんだよ」
僕は暴れる心臓をやっとの思いで押さえつけ、口を開く。
「それなら、その限られた命を、思うように使えばいい。もう僕に関わらないでくれ」
「お、言ったね?」
嬉しそうに彼女がリュックの中から取り出したのは、B5サイズの一冊のノート。表紙には日本の綺麗な四季が描かれていた。
「四季折々」
「四季、折々?」
「うん。このノート、死ぬまでにやりたいことが書いてるんだ。篠宮くん……湊って呼んでいい? ――湊。私の願いを叶えるのを、手伝ってほしい」
「……無理だ」
そんなこと、やりたくもない。過去の映像がノイズのように頭に流れては消える。
僕の拒絶に、彼女は慌てて言葉を付け足す。
「もちろん手伝ってもらうだけじゃなくてさ。私の願いを湊に手伝ってもらう代わりに、湊も四季折々に願いを書いて、私が手伝うの。そうしたら――」
「――頼むからっ! 僕を巻き込まないでくれ……もう、帰れよ」
突き放すように僕は叫ぶ。彼女は驚いた顔で黙ったあと、唇を尖らせて「楽しそうだと思ったのになぁ。ざーんねん」とつぶやいた。
リンゴのひとかけらを口に放り込んだ彼女は、帰り支度を始めた。そして思い出したように僕の顔を覗き、頬に触れてくる。
「叩いちゃってごめんね」
「……いや」
まだ温かくて、柔らかい手のひら。関係ないはずの温もりに、僕は安堵してしまう。
病室の扉へ手を掛けた彼女に、僕は呼びかけた。
「なぁ、水瀬。君は今……どの季節にいるんだ?」
「――秋だから、今は元気。でも七月には、冬が来る」
その現実に僕は何も言えず、うつむくことしかできなかった。
「また来るね」
言い残して、彼女は病室から出て行く。テーブルに残されたリンゴは腐ったように茶色く変色していた。
僕はまだ残る彼女の手のひらの温もりを過去へ重ねて、つぶやく。
「――文月」
2
死季病は、四季を巡るように緩やかに進行していき、最期は必ず死に至る病だ。指定難病に認められていて、有効な治療法はない。
発症から死に至るまでは患者によって異なり、最短で一年。最長で五年。患者は【春期】、【夏期】、【秋期】、【冬期】の四つのフェーズで病が進行していく。
春期は主に倦怠感や頭痛、貧血、嘔吐などの体調不良が長期間続く。これで精神を病んでしまう患者もいて、春期の長さ次第で大体の余命が決まる。
夏期は初期から後期、末期症状へ進行していくにつれて体温が上昇していき、最終的には四〇度以上になる。末期には意識障害、幻覚や幻聴。循環器系の病気が併発して、最悪の場合、多臓器不全を引き起こして死に至る。
秋期は、春期と夏期に体を蝕んでいた症状が寛解し、健常者と同じ状態になる。でもそれは喜ばしくなんてない。死季病の中では最も期間が短いフェーズで、死までもう時間が残されていないことを知らせる合図でもある。
忘れようと努めていた死季病の詳細は、今でも克明に思い出せる。だから僕は、秋を終えた水瀬がこれから辿る冬を、知っている。
冬期は――。
「湊ー! 生きてるかー?」
記憶の檻から僕を連れ戻したのは、少しハスキーな声の男子生徒。顔を上げると、茶髪をセットした猫目の少年が、犬のような人懐っこい笑顔で僕を見ていた。
「湊くん、体調悪いの? 大丈夫?」
彼の隣に視線を移すと、垂れ目で柔らかな雰囲気の少女が心配そうに僕を見ていた。
七草颯斗と佐伯なずな。水瀬が僕の病室に何度も連れて来たクラスメイトだ。水瀬とは中学からの友達らしい。訊いてもいないのにそう教えられた。
僕の隣では水瀬が大口を開けて白米を頬張っている。昼休みになった途端、まるでこの形が当たり前かのように机をセッティングされた。
広げた弁当を食べながらすでにグループが明確に分かれた教室内を眺めていると、知らない女子生徒に手を振られた。居心地が悪くなった僕はうつむく。
七月。今日は高校生になって初めての登校日だ。水瀬が何を言ったのか知らないけど、なぜか僕は会ったこともないクラスメイトから友好的に接された。本当に余計なことをしてくれた。
僕は佐伯に「大丈夫」とだけ答える。
「さては授業わかんなくて焦ってたんでしょー。そんな湊には頭が良くなるお魚をあげよう」
「いらんよ」
弁当箱に入れられた鮭の切り身を返す。その不毛なやり取りの間にも、七草と佐伯は僕に話題を振った。様々な問いから、一言の答えを返す。それ以上に会話を続ける意味もない。そうやってこの三人に出会ってからの三か月を乗り切ってきた。
でもそんな僕に嫌な顔一つしてくれない二人は、やがて担任に呼ばれて席を立った。
「どうして独りになろうとするの?」
不意に放たれた水瀬の言葉に責めるような気配はなく、不思議なことを純粋に尋ねる子供のようだった。僕は不純に答える。
「ただ人と話すのが苦手なんだよ」
「ふぅん、私とはいっぱい話すくせに。あ、もしかして心開いてくれた?」
「まさか。それは絶対にありえない」
どうやったらそんな結論に行き着くんだ。水瀬は頬を膨らませて不満を漏らした。
「三か月も経つのに強情だなぁ」
「三か月も経つから、そろそろ僕が嫌になってきただろ?」
「まさか。それは絶対にありえない」
僕の真似をして笑った水瀬はリュックから四季折々を取り出し、秘密の作戦をするみたいなひそひそ声で訊いてきた。
「ねぇ。それより四季折々に書く願い事、考えた?」
「何度も言ってるけどやらないよ。それを僕がやる意味も理由もない」
「はーぁ、相変わらず青春不足だなー」
聞き慣れない言葉が引っかかり、僕は「青春不足?」と尋ねる。
「後悔しないために行動したすべてが青春の本質だって、私は思うんだ。湊みたいに行動の意味を考えるのは良いことだけど、それだけだと動けないまま後悔しちゃうよ」
完全に否定しきれない言葉だ。二年前のあの日までは僕もそう信じていた。意味なんて考えずに、後悔しないようにただひたすら突っ走っていた。
今でも、もう少し何かできることがあったんじゃないかと後悔している。二年前に終わったはずのあの四季を、もう一度巡りたいと願ってしまうくらいに。
僕は水瀬の言葉に、曖昧にうなずいた。
「……確かに、そうなのかもしれないね」
「そうだよ。行動の意味なんて、私が後から一緒に考えてあげる」
机上の四季折々を、僕は見つめる。
これで僕の後悔は消えるだろうか。きっと消えはしないし、過去の四季は取り戻せない。でも、あの日々が僕にとっての青春だったと言うのなら――。
僕の手は四季折々に伸びていた。水瀬が「やった!」と嬉しそうにバタバタしていたけど、僕は罪悪感からその顔を直視できなかった。
「じゃあ放課後、早速行動しよう!」
そうして僕たちは小指を絡ませる。水瀬は未来で後悔をしないように。僕は過去の後悔を少しでも消せるように。ゆっくりと、小指を上下させた。
「四季折々」
青春不足を解消するために僕たちが訪れたのは、駅直結のショッピングモール。入院していた三か月の間に、前にあった店は読み方が難しい雑貨屋に変わっていた。けど不思議なことに今までどんな店があったかは思い出せない。
軽い浦島状態を味わっていると、水瀬はショップの店頭で足を止めてシャツを手に取った。
「このシャツ可愛い~! どう、似合う?」
「水瀬より地味な僕に訊かれても」
「あ、そういうのいいから」
「ああ、うん。似合うよ。いや、さすが」
水瀬は本当に不愉快そうな顔をした。ゴミを見るような目だ。僕は乱暴に手を引かれてショップ内に連行される。
服を数着持って水瀬は試着室に入った。僕は試着室の前に立たされて、店員さんや他のお客さんから生温かい視線を浴びる。僕が何をしたというんだろう。
数分後、試着室のカーテンが開く。チェックのワイドパンツと白のTシャツというカジュアルな格好だ。
「これなんか、どう?」
「いいね。すごく良いと思う」
「はい次ー!」
どうしてだよ、褒めただろ。
何かが気に入らなかったようで、水瀬は試着室に戻る。その後も手を替え品を替え店を変え、ファッションショーは続いた。僕はその度に褒めて、最終的には手まで叩いた。
「次はほんと、ほんとに自信あるから!」
ムキになって試着室に入った水瀬にうんざりする。僕はまざまざと思い知らされていた。こんなことをしても決して後悔は消えない。水瀬への罪悪感が募っていくだけだ。
こんなことはこれっきりにしようと考えたところで、カーテンが開かれた。
「……湊、似合う?」
――湊、似合う?
過去の声と重なる。いつか恥ずかしくて素直に言えなかった言葉は、自然と口から出た。
「うん、とても」
「……そっか。ふふ、じゃあ買ってこよっかなぁ」
水瀬は恥ずかしそうにしながら、その服を買いに行った。僕は嬉しげな後ろ姿を見送ってから店外へ出る。胸に手を当てて、さっき確かに甦った情景に想いを馳せた。
後悔は少しだけ軽くなっていた。でも水瀬に抱いた罪悪感は、僕の心に重く圧し掛かった。
ショップを後にした僕たちは、書店へ足を運んだ。水瀬の好きな小説家の新刊が発売したらしい。積まれていた小説をめくると、ふわっと紙とインクの香りが漂う。入院してから本の類は読む気にならなかったから、こうして本に囲まれるのは久しぶりだ。
僕の隣では、新刊を両手で抱きしめた水瀬が饒舌に喋り続けている。
「でね、綴真桔先生はすごいんだよ! 希望と絶望の間を儚く踊ってるみたいなストーリーラインに、一瞬で心を絡め取る綺麗な文章! ってあれ、聞いてる?」
「聞いてるよ。人気らしいね、その人」
「そうなの! あ、でもミーハーってわけじゃないからね。ずっとファンなんだぁ……どんな人なんだろー」
うっとりしている水瀬を無視して、僕はワゴンの中の安く売り出された小説を漁る。手に取った小説をパラパラとめくり、戻す。同じことを繰り返しても、やっぱり見つからなかった。
「誰の小説探してるの?」
「わからない。タイトルもペンネームも知らない。知ってるのは物語の内容と――きっとその小説は売れていないってことだけ」
水瀬も僕と同じくワゴンの中の小説をめくり「何か、わかるなぁ」とつぶやいた。
「私も小学生の時に読んだ、あれ児童書だったのかな? その内容とかフレーズとか、ドキドキしたことはちゃんと憶えてるのにタイトルも作者も憶えてない本、あったもん」
「小学生のときなんて、みんなそんなもんだよ」
「かもね。……湊もそんな感じ?」
「僕は二年前からずっと、本屋に来るときは探してるかな」
「へーぇ! 大好きなんだね、その小説家さんのこと」
水瀬への返答に窮する。別に大好きだから探しているわけじゃない。僕は水瀬とは違い、その作者自身を知っているから。考えをまとめるためにワゴンの小説を漁る。何もかもを喪ったあの日。僕を暗闇から掬い上げてくれたあの人に対する適切な言葉は、すぐに出た。
「恩人なのかもしれない。だから探してる」
「そうなんだ……とても素敵だね。でも私の綴先生愛も負けないよ! 湊も読んでみない?」
綴真桔の新刊を顔面に押し付けられて、思わず受け取ってしまう。前から思っていたけど、水瀬は色々な距離感がおかしい。
すると水瀬は妙案が浮かんだのか、人差し指を立てた。本当にそんなポーズをするやつ、初めて見た。
「そうだ! 湊が書く最初の四季折々、『恩人の小説家さんの作品を探し当てる』でいいんじゃない? 私も一緒に探したい!」
キラキラした瞳でそう言ってくる水瀬。でも未来への希望である四季折々に僕が書ける願い事なんてないし、書きたくもなかった。その瞳から目を逸らして手渡された小説を開く。
瞬間、僕は水瀬の提案を断る口実を得た。
「いいや、もうその必要はなくなったよ」
そうして僕は、すでに読み終えていたその新刊を閉じた。
その後も色々な店に行った。水瀬は生活雑貨店で高額なビーズクッションを買うか一〇分くらい本気で悩んでいたが、結局手が出ずに三〇〇〇ピースのジグソーパズルを買った。
歩き疲れた僕らはおしゃれなフローズンドリンクを買って、モール内の中庭にある休憩スペースに移動した。屋外ではあるけれど、庇とミストが設置されていて涼しい。
水瀬がベンチに深く背を預けてしゃがれ声を出す。
「ああぁぁ、生き返るぅぅ」
「およそ女子から出た声とは思えないけど、わかる」
「ふふん。女の子が可愛い声を出すときなんて限られているのだよ、湊くん」
「なぜイケボ?」
何かまだテンションが高いな。扱いにくいから早く普通に戻ってほしい。そう願ってドリンクを口に運ぶと、水瀬はリュックから四季折々を取り出して線を引き始めた。
願いの中身が目に入る。【湊を放課後に連れ回す】【湊に褒めてもらった服を買う】【綴先生の新刊を買う(楽しみ!)】【ビーズクッションを買う(高っ! また今度買う!)】【ジグソーパズルを買う】。
「そんなに気になるなら、もっと見る?」
水瀬はベンチの上をスライドして、僕の隣にぴったりとくっついてきた。
素肌が触れて、心臓が跳ねる。水瀬の肌は夏とは思えないほど冷たい。それは僕の心の温度を根こそぎ奪い、さっき昼休みに結んだ小指を解かせるには十分すぎる冷たさがあった。
水瀬はそんな不安定な僕の隣で嬉しそうに話し始める。
「願いは春夏秋冬の季節ごとに分かれてて。春は叶え終わったから、今は夏。それで、ほら。私の願いは右ページに書いてるから、湊の願いは左ページに書いてね! 私も手伝うからさ」
「……僕以外にも、叶えてくれるやつはいるだろ」
自分で四季折々を利用しておいて、僕は怖くなっていた。このまま時が進めば水瀬は死ぬ。死んでしまうんだ。解っていたはずだ。過去を取り戻せないことなんて。
水瀬は僕の目を覗き込んで微笑んだ。
「ダメなんだよ、湊じゃなきゃ」
「どうして?」
「湊にはきっと、四季折々が必要だから」
「……意味がわからないよ」
そう言いつつも、僕は何となく理解できていた。四季折々は未来への希望で。自殺未遂をした僕がそこに願いを書くということは、それだけで大きな意味がある。
水瀬はすくっと立ち上がり僕の方へと体を向けた。
「それに、ここまで来て細かいこと言わない! この青春不足者めっ!」
「痛ッ!」
閉じた四季折々で僕は頭を刺された。おい平面で叩け。今の角だぞ。
「あっははっ、痛そう」
「怖……」
「行こっ、湊! もう時間ないよ!」
ベンチから立ち上がって後を追うと、買い物袋をガサガサ揺らして歩いていた水瀬が漫画みたいに派手に転んだ。散らばった袋の中身を拾い集めた僕は、水瀬に駆け寄る。
「おい大丈夫か、水瀬?」
「うぅ、綴先生の小説が……」
「ちゃんと拾ったよ。立てるか?」
僕は水瀬を支え起こしてベンチに座らせた。そして、ふと気付く。
「水瀬、膝から血が出てる」
「え? あ、ほんとだー。あはは」
「……笑い話で済まないのは、君が一番よく知ってるだろ。絆創膏とか買ってくる」
死季病患者にとっては少しの出血でも命を脅かすくらい危険だ。しかし水瀬はそれでもへらへらと「大げさすぎだよー」と笑う。心配させまいとしているのが目に見えてわかって、余計に痛々しく思えた。
僕は水瀬の顔を真剣に見つめる。いや、もしかすると、その影にいる彼女のことを見つめていたのかもしれない。
「……そんな顔しないでよ」
初めて気まずそうな表情で水瀬はつぶやく。僕はため息をついて立ちあがった。
近くのドラッグストアで絆創膏と消毒液を買い、患部を診る。出血は止まっていて、僕は胸を撫で下ろした。水瀬はなぜかにやにやしていて、さっきまでのしおらしい態度が嘘みたいだ。
「何だよ」
「いいや~? 優しいなぁ~って思っただけだよ。うふふ――って痛っだぁ!」
僕は消毒液を水瀬の患部に噴射した。いい加減、その顔に腹が立っていた。
「う、うぅ……ひどい」
「よし、これで終わり、っと」
絆創膏を貼った患部を叩いて治療を終えると、水瀬は痛みに叫びながら僕の頭を叩いた。「人のすることじゃない!」と怒られたけど、僕もいま頭を思い切り叩かれたのでお互い様だ。
中庭に、涼やかな風が吹く。水瀬は急に静かになり、風の流れる先を見つめていた。
遠くから、ゆったりとしたメロディーを響かせ、町が帰る時間を告げてくる。そのメロディーに隠れて黙り込む僕に、水瀬は微笑んだ。
「じゃあ、今日はもう帰ろっか」
陽は沈みかけてもじりじりと肌を灼いてきたけれど、何でもない話をしていたらいつの間にか分かれ道に差し掛かっていた。僕は別れを告げて、逃げるように歩き出す。
「ちょっと待って湊。手、出して」
その要求に恐る恐る手を伸ばすと、水瀬は突然、握手をしてきた。手のひらに何か固いものを感じる。
「えっと。これは、何?」
「今日のお礼だよ!」
お金かな、と邪な考えを浮かべて握手を解く。僕の手のひらに残ったのはもちろんお金ではなく、一つのUSBメモリ。
「――四季折々」
その言葉で空気が変わる。一種の神聖な儀式のようだ、と僕は思う。
「私ね、小説家になりたいんだ。だから死ぬ前にすべてを籠めた一冊を書き上げて世に送り出すのが、私の夢」
僕は渡されたUSBメモリを見つめて、これは水瀬の夢の結晶なんだと理解する。
「もし湊の四季折々がまだ見つからないなら、そこに入ってる私の小説を読んで欲しいの」
「僕が?」
「うん。それでね、できたら感想ももらえたら嬉しいな。それが、私の次の四季折々」
水瀬はリュックの中から、四季折々を僕に手渡してくる。
「とりあえず四季折々も湊が持ってて。あれ欲しいとか。どんなに些細なことでも書いていいからね」
僕は改めて思う。この二つは僕にはとてつもなく重い。到底、背負える物じゃない。
小説を読むことも、死に行く水瀬を突き放すことも、四季折々を突っ返すことだって、僕にはできる。選択できるんだ。それでも僕は水瀬詠のことを完全に拒絶できなかった。
理由は、最初からわかっていた。
僕が過去に巡った四季から抜け出せないからだ。あの幸せな四季を求めてなぞってしまうからだ。そして僕自身それを望んでいる。どうしても水瀬と文月の境遇が重なってしまうから、僕は彼女を拒絶することができない。
僕が過去に巡った文月との四季を守るために、水瀬がこれから巡る四季を利用する。
ひどい話だ、と僕は心の中で笑う。泣いても罪は赦されないのだから、笑うしかない。
「まーた青春不足が顔に出てるぞー?」
僕の顔を楽しそうに覗き込んで、水瀬は笑う。だからせめて、今の僕にできるだけの誠意を示そうと思った。
「読むよ、水瀬の小説。それと僕の四季折々も、難しいけど考えておく」
「えっ! ほ、ほんとに!? やったっ!」
水瀬の屈託のない喜びように、僕の胸がひどく軋んだ。
「なるべく早く読んで、感想聞かせてね! 待ってる!」
「うん、わかったよ」
「じゃあ、私こっちだから。また学校でね! バイバイ、湊!」
走り去って行く水瀬を見送る。途中で子どもみたいに大きく手を振ってくるその姿は、夕景に照らされて、淡く輝いて見えた。
*
それは決して、劇的な出会いではなかった。
中学に入学して二週間が経った日の帰り道。僕は文月莉奈と出会った。
この日、僕は一人で流れの緩やかな川が見渡せる河川敷まで来ていた。順調に友達ができて安心したから、少しだけ一人になりたくなったのかもしれない。
まだ肌寒い、でも気持ちの良い放課後。ピンク色の空は魔女が施した魔法のようで、そこから届く光が水面に反射している。
その光景をただ眺めていると、不意にシャッター音が聴こえた。次いで水面が揺れて不規則な波を作ったところで、僕は気になって視線を動かす。
カメラを胸元に下ろした少女と目が合う。なぜかこの時期に膝まで川の中に浸かっていた。
文月莉奈。
すぐに名前を思い出せたのは、僕や周りのクラスメイトが休み時間に友達と談笑しているなか、文月だけは独りで椅子に座って外を眺めていたからだ。少なくとも僕には明らかに住んでいる世界が違うように見えた。
文月は興味がなさそうに僕から目を逸らして、また遠くの写真を撮り始める。
綺麗な横顔だな、と僕は思う。カメラの方向には何の変哲もない鉄塔があるだけだ。それに比べたら、文月の横顔の方が何倍も価値があるだろう。
肩までの黒髪は癖で毛先がカールしている。猫目であまり表情も動かないから、それこそ本当の猫のように警戒心が強く見えた。制服から緩やかに伸びる細い肢体は全体的に白く、ふとした拍子にどこかに消えてしまいそうなほど儚い。
「良い風景は、撮れた?」
今日は一人で居たかったはずなのに、気付くと僕は川縁まで近付き問いかけていた。なぜだか、文月が放つ妙な引力に惹き付けられたのだ。
文月はゆっくりと振り向き僕の顔を捉えた。端正な顔立ち。さながら猫のようだ。
「あなた、誰?」
「一応クラスメイトなんだけどなあ……篠宮湊です。よろしくね、文月莉奈さん」
「ええ」
孤独な声だ、と僕は思う。正確に言えば、孤独に慣れてしまった声。どうしてそう思ったのかはわからないけれど、文月はどこか悲しそうに見えた。
僕は遠くの鉄塔をちらと見て、言葉を続ける。
「それで、どうして鉄塔を撮っていたの?」
「そうね……思い出を、閉じ込めるためかしら」
「思い出、か」
文月の表情はなぜか暗い。気になった僕は純粋に問う。
「それは、楽しい思い出なの?」
「え……?」
驚いた表情を見せた文月は体ごと僕へと向き直る――瞬間、ぐらりと体勢を崩した。
水面へ吸い込まれそうな文月にとっさに手を伸ばす。ギリギリのところで、僕は文月の右手を掴んだ。嫌に熱っぽい手のひらだった。
幸い、僕の両脚が水浸しになるだけで文月を助けることができたのだから良かった。
「文月さん。とりあえず、岸に上がろっか」
「……ありがとう」
「あはは、どういたしまして」
二人で川の中を歩いて岸まで上がると、文月が「ねぇ」と声を掛けてきた。
振り向いて首を傾げると、文月は僕と繋いだままの手を持ち上げて困ったように言った。
「もう転ばないから、大丈夫よ?」
「うわっ! ご、ごめん!」
繋いだままだった手をぱっと離す。しかしなぜか文月の手の熱と感触は離れない。むしろ全身に広がっていくようだった。
僕の慌てぶりに文月は口元を押さえてくすくすと笑う。初めて見た文月の笑顔に儚さはなく、どこにでもいる普通の女の子に見えた。
「そんなに慌てなくてもいいのに。……ふふ、顔が真っ赤よ?」
「自分でもわかってるよ。だから、あんまり見ないで」
文月は何も言わずに僕に背を向ける。そして近くにあったリュックからタオルを取り出し、濡れた脚を前方へと伸ばしてゆっくりと拭き始めた。
川の冷たさで少し赤くなった脚の水滴、指の間に付いた砂利を綺麗に拭き取った文月は、わずかに僕を振り返ってつぶやく。
「それで、どうしてそんなことを訊いたの?」
思い出を閉じ込めるように写真を撮っていた文月。それに僕が思ったことなんて、一つだ。
「文月さんが悲しそうに見えたから。思い出を閉じ込めるなら、それが楽しいものだといいなって。楽しい思い出があれば、明日はもっと楽しくなるでしょ?」
月並みだけど、これが一般的な考え方じゃないかと思った。
文月はソックスとローファーを履いてこちらに向き直る。そして僕をゆっくりと見据えて、首を振った。
「少し違うわ。初めから悲しいものなんて撮ってない。楽しくて、綺麗で、幸せなものを撮っているの」
「それなら」
「――だから、悲しいのよ」
僕は首を傾げたまま、思ったことをそのまま口にする。
「よく、わからないよ」
「……そう、幸せなのね」
冷たい声。濃密な孤独が、文月を取り囲んだような気がした。僕はまるで時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥る。目の前にはもう、さっきまで笑っていた文月はどこにもいない。
「じゃあ、さようなら」
文月はリュックを背負って歩き出す。何が彼女を孤独にさせるのか僕にはわからなかった。だから文月は僕とは正反対の人間なんだと決め付けて、これまで通り生きて行く。
それは違うよな、と僕は首を振った。
「今、幸せじゃなくなったよ」
僕は文月を追いかけて向かい合う。夕景に照らされた彼女の輪郭が輝いた。
「文月さんの言う通り、僕は幸せだと思う。でも文月さんみたいに悲しんでる人を無視してまで幸せでいたくないよ」
文月は目を見開く。綺麗な濃褐色の瞳だ。僕が返答を待っていると、やがて目尻から一筋の涙が零れ落ちた。
「えっ文月さん!? 何で泣くの? え、えーっと、ハンカチ……」
慌てて制服のポケットをまさぐっても、そこには何もなかった。くっ、恰好がつかない。
文月はそんな僕の情けない姿を見て、涙を流しながら微笑む。その濡れた瞳と同い年とは思えない艶のある表情に、なぜか僕の胸は痛んだ。
少し落ち着いた様子の文月は、僕の顔を覗き込んで試すように言った。
「憶えておいて。女の子の涙を拭う、ハンカチなんかよりもずっと素敵なアイテム」
「へぇ。それって、どんな?」
文月は涙の雫が残る綺麗な瞳で、じっと僕を見つめた。
「きっとまた、泣いてしまうときがくると思うわ。だから、答え合わせはそのときに」
「……わかった。よく考えておくよ」
「ええ、楽しみにしてる」
微笑んだその目にもう涙は残っていなかった。冷たい春風に攫われた文月の涙を、今度は僕が。約束とも言えないおかしい何か。そんな日は来るだろうか。
すると、ふとした疑問が僕の頭に浮かぶ。僕は文月とこれからも一緒に居ていいのか、と。しかしその疑問は言葉にする前に解消された。
文月は小走りで河川敷の斜面を上ると、くるりとこちらに振り返った。
「篠宮くん。今度、あなたを被写体にしてもいい?」
「もちろん。文月さんが悲しくならない、幸せな写真を撮ってよ」
「そうね……。じゃあまた会いましょう、篠宮くん。さようなら」
「うん、また明日!」
夕陽と共に去った文月に大きく手を振る。まるで子どもみたいだけど、孤独な彼女が僕を認識して、名前を呼んでくれたことが、ただ嬉しかった。
その場に残されたのは、僕と、波音のさざめきと、群青色の空だけだった。
三年前の春。僕たちの淡い四季は確かに動き出し、そして色濃く染められていった。
しかしその約一年半後、文月莉奈は死んだ。
死季に侵されていた最中、自身の物語を未完成のまま、終わらせた。
そして僕はいまだに、文月と巡った四季にひとり、取り残されている。
3
懐かしい夢を見ていた。その浮遊感から現実へと叩きつけられた衝撃で僕は目を覚ました。夢から醒めるときはいつもこうだ。体がひどく汗ばんでいる。
スマホを確認すると、すでに夜の八時を回っていた。夕食を取ったあとに水瀬の小説を読んでいたら眠ってしまったみたいだ。僕は立ち上がり、リビングへ続く扉を開く。
デスクに向かって万年筆を走らせていた女性が、僕の方に振り返る。背中までの艶のある黒髪がさらさらとなびいた。
「おや、おはよう湊。よく眠れたかい?」
「おはようございます、自称さん」
「湊、顔を洗って来なさい」
「はあ……」
そんなことを言うなんて珍しい。僕は不思議に思いながらも、洗面所へと向かった。
「……なるほど、ひどい顔だ」
鏡に映った僕の顔には、涙で濡れた跡がくっきりと残っていた。僕はその弱々しい跡を蛇口から流れ出る水で洗い流した。
僕が戻るとすでにケーキが用意されていた。自称さんが飲んでいるウイスキーの香りがリビングに漂っている。ウイスキーってケーキに合うのだろうか。
自称さんは切れ長な目で僕を見つめ、印刷した水瀬の小説を掲げて妖しく笑った。
「お友達でも出来たのか?」
「違いますよ。それと勝手に読まないでください」
「そうか、それは残念だ」
本当に残念だなんて思っていない口調だ。自称さんは水瀬の小説をテーブルに置いた。僕は自称さんの白い横顔に問いかける。
「どう思いましたか? その小説」
「個人的には好きだよ。繊細で、とても強い意志を感じる」
「そうですか。さすが小説家。いや、綴真桔先生」
彼女の正体を僕は二年越しに突き付ける。自称さんは自分のことは何も話さない。名前も。年齢も。何もかも。
職業は机の上の小説原稿からわかった。でも僕は怪しくなって『自称小説家さん』なんて不名誉な名前を付けてしまった。
「なぜ今さら私の正体を? 私のことが好きなのか?」
「水瀬詠。その小説を書いた同級生が、自称さんの大ファンなんですよ」
「なるほど。確かに文体に綴真桔が混ざっていたな。もったいない」
笑いながら、自称さんはケーキの小箱を開ける。中身はショートケーキとチョコケーキだ。自称さんは両方のケーキを眺め、思案顔でつぶやいた。
「……両方食べたいな」
「え、ショートケーキ食べたいって言ったの、自称さんじゃないですか」
「私はチョコも好きだ。半分おくれよ、湊」
子どもみたいな言い分に僕はため息をつく。互いのケーキを縦半分に切って皿に乗せると、自称さんは満足そうにオセロのような配色のケーキを頬張り始めた。
「素直な子は好きだよ。うん、美味しいな」
「今度からは二つずつ買ってきます。まったく」
自称さんが皿の上にフォークを置き、キンッと高音が鳴る。弛緩した空気が引き締まった。
「ところでこの子は――死ぬのか?」
僕は驚いてチョコケーキのひと欠片を皿の上に落とす。自称さんは静かに僕を見据えていた。まるで確信したその答えを待つかのように。
「……どうして」
「小説は書いた人間を映す鏡だ。だから文章の端々から感じ取れる。この子は特に顕著だが」
そんなこと僕にはわからなかった。水瀬の小説が訴えかけてくるものは伝わったけど、とてもそこまでは。
自称さんは「そうか」とだけつぶやいてウイスキーの注がれたグラスを持ち上げ、その琥珀を眺めてまたテーブルの上に戻した。
きっと自称さんなら他言はしない。むしろ僕と水瀬のこの不安定な関係に何かメスを入れてくれそうな、そんな予感がした。
僕は水瀬との関係を話した。水瀬が文月と同じ死季病だということ。もう長くはないということ。水瀬の夢のこと。四季折々のこと。僕の罪のこと。
「残酷だな」
ぽつりとそう言って、自称さんはウイスキーを煽った。さっきまでグラスの中で小気味の良い音を奏でていた氷も、今は水滴に変わってグラスの外側を流れ落ちている。
「はい。自分でもひどい奴だと思いますよ」
「色々な見方があるさ。まあ、君のやり方はとても賢しい。きっと君も自分でそう感じているだろう。しかし――」
自称さんはふぅと息を吐き、左目を隠していた前髪をかき上げた。ウイスキーとケーキが混じった甘い香りが僕のもとまで届く。
「私はそれを『成長』と呼ぼう。湊、君の心は成長しようともがいているんだ」
「やめてください。僕はただ――」
「この現状こそ君が成長しようとしている証拠だ。成長は独りではできない。それを知っているから、君は水瀬詠に繋がりを求めたんだよ。残酷な繋がりを」
まったく違う、と僕は首を振る。見当違いも甚だしい。自称さんは酔っている。ひどい酔い方だ。ウイスキーの瓶も、半分近く減っていた。
「彼女は湊を信頼している。自分の小説を読ませるというのはそういうことだ。四季折々を渡したのも、君の過去を話してほしいと願っているからだろうさ」
「わからないんですよ。水瀬がどうしてここまで僕に踏み込むのか」
「世界にはそういう、自分が正しいと思ったことを馬鹿みたいにまっすぐやってしまえる人間がいるんだよ。昔の君のようにな。そんな子はなかなかいないから、大切にするといい」
とても愉快そうに自称さんは笑う。まるで過去を懐かしむように。
「……こんな子が、君を停滞の先へと連れて行ってくれるのかもしれないな」
反論しようとソファから立ち上がる。しかし自称さんは落ち着いた様子で「湊」と僕の名前を呼ぶ。その凛とした声色に気を取られ、僕はその場に立ち尽くしてしまう。
「今日もらった対価分の授業はここまでだ。また来なさい」
ふと机の上を見ると、すでにケーキとウイスキーが綺麗になくなっていた。
舌で唇の端を舐め取り自称さんは立ち上がる。僕は風呂場へと向かう後ろ姿に呼びかけた。
「自称さん」
「ここから先の対価は、そうだな。私の体を、隅々まで洗う。どうかな?」
自称さんは自分の体のラインを指でゆっくりとなぞり愉しそうに笑う。その蠱惑的なポーズに少しだけ想像してしまう。僕はひとつ咳払いをして雑念を打ち消した。
「……別の対価を持って、また来ます」
「それは残念だ。二年前までは、何回も一緒に入っていたのに」
「捏造はやめてください。もう帰ります」
荷物を持って玄関へ歩き出すと、背後で衣擦れの音と服をソファに放り投げる音が聞こえた。
一回だけですよ、と声には出さずに訂正して、僕はリビングから出た。
*
爆音が脳を揺らす。まるで太鼓のバチで何度も叩かれているみたいに、僕の体内に衝撃が響き渡った。ひずんだ音はしかし不快ではなく、快感として心の深い場所へと落ちていく。
「颯斗ー! いいぞー!」
「颯斗くんカッコいいー!」
隣を見ると、水瀬と佐伯が汗だくになりながら声援を送っている。でもそれは大規模な音楽フェスではなく、中央公園で開かれている小規模なイベントのライブステージだ。
僕が七草の演奏を何となく見ていると、耳に水瀬の吐息が掛かった。僕のものではない甘い匂いが微かに漂ってくる。
「湊、昨日は急に連絡してごめんねー。どうしてもみんなで応援したくて」
「別にいいよ。四季折々に書いてたことだし」
僕は昨日の電話で水瀬から聞いた、七草が音楽に特に力を入れているという話を思い出す。確かに歌も演奏も上手かった。迸るような熱気と音圧が、僕の心を穿つ。
「ほら! 湊も立って応援しよっ!」
「あ、ああ……な、七草、いいぞー」
「うわ、声小さっ!」
「ぐっ……」
水瀬は僕に心無い言葉を投げると、佐伯とパイプ椅子の上に立って応援し始めた。さすがにそれは恥ずかしいので僕はやらない。
七草はその演奏で自分を表現していく。でも――明らかに、何かが足りない。
そこで気付いた。僕たち以外、応援している人がほとんどいない。明らかに、七草の前に演奏していたバンドの方が声援は多かった。
ステージ上を見つめると、七草はこっちを見て笑った。――ああ、そうか。
「あっ、いま颯斗くん笑ったよ、詠ちゃん! 湊くん!」
「笑ったね! 湊も見たー?」
「うん、見たよ」
今の七草の笑顔は、諦めから生まれる笑顔だ。七草にとっての原因が何かはわからない。でも僕は、あの表情を浮かべた七草を応援する気にはなれなかった。無駄だと思った。
さっきまで僕の内側に芽生えていた僅かな熱は、驚くほどすっと冷えてしまった。
その瞬間、水瀬が僕の手を掴んだ。
「ほら、湊も一緒に椅子乗ろ!」
「僕は、いいよ」
――こんな子が、君を停滞の先へと連れて行ってくれるのかもしれないな。
水瀬の冷たい手の温もりに自称さんの言葉を思い出し、僕はその手をぱっと解く。
「……んもうっ!」
水瀬はもう一度、僕の手を掴んだ。僕の心が冷えてしまったからか、その手はとても温かく感じられて。思わず握り返してしまった。
「会場の人みんながステージ見るくらいの声で応援しよ! ほら見て! 颯斗、ここにいる誰よりも輝いててかっこいい!」
臆面もなくそう言った水瀬の顔は生き生きしていた。まるで子どもがひと夏の大冒険に行くみたいに、正しくてまっすぐな、希望に溢れた瞳だ。
僕は導かれるように水瀬の手を強く握ってパイプ椅子の上に立ち、大きく息を吸い込んだ。本当に不思議だ。恥ずかしいなんて、微塵も思わなかった。
「七草ーっ!!」
自分でも驚くくらいの大声。僕は音楽に乗って首に掛けていたタオルを掲げた。視界の端で水瀬と佐伯も驚いている。
「あははっ、出るじゃん、大きい声!」
「ふふ、出たねぇ、湊くん」
顔と体の内側が熱い。この熱は届いているだろうか。――届け。そう強く思った。
僕がステージを見ると七草はさっきと違って可笑しそうに笑っている。それを見た僕も、いつの間にか笑ってしまった。
心地良い熱を感じる中、僕と繋いだ水瀬の手の熱だけが、元の冷たさに戻っていた。
ライブが終わると僕たちは中央公園を後にして、町の文化ホールに足を運んだ。佐伯が『全国絵画コンクール』で最優秀賞を獲ったらしく、水瀬がその絵を見たいと言ったからだ。佐伯がすでにプロとしていくつか作品を残していると聞いたときは驚いた。
大ホールに入ると、水瀬は辺りをきょろきょろと見渡しながら言った。
「絵画のほかにもあるんだねー」
「書道とか写真もあるみたいだな。後でそのブースも見て回ろうぜ」
「そうだね、まずはなずの作品観よ!」
絵画作品のブースに入ると、僕たちは佐伯に厳かな額縁の前へと案内された。
「みんな、これだよ。私の作品」
「うわぁ……すごい」
水瀬が感嘆の声をあげる。僕は逆に、言葉を失っていた。感情の高波が内から外に押し寄せて、気付けば鳥肌が立っていた。
砂浜と青空。描かれているのはただそれだけだ。しかしどこまでも美しい色彩と叙情的な構図。繊細に、緻密に描かれた水彩画だった。
僕は佐伯の絵に、文月の写真を見たときのような感動を覚えていた。思考することを放棄させられて何も言えなくなる。
「なず、すごいよこの絵。綺麗すぎて……言葉が出ないや」
「確かにな。俺も今、鳥肌やっばいもん」
「僕も、こんなにすごいのは久しぶりに見たよ」
「あ、ありがとうみんな。嬉しいけど何か恥ずかしいね。ふふ」
みんな語彙を失ってたいしたことは言えなかったけれど、僕たちはしばらく作品を鑑賞していた。やがて恥ずかしくなったのか、佐伯は水瀬を連れてほかの作品を観に行った。
「……やっぱすごいよなあ、なずなは」
ずっと絵の前で立ち尽くしていた七草が不意に笑った。あの、諦めから生まれる笑顔で。僕はそれを見ないふりをしてうなずいた。
「きっと、すごい努力したんだろうな」
「あいつ小さい頃から絵を描いててさ。中学のときとか寝食すら惜しんで描いてた」
「それは、すごいな」
「すごいよあいつは。努力の天才だ。凡才の俺じゃ、いくら努力しても届かねぇ。……天才って、何なんだろうな」
僕は佐伯の絵に描かれた青空を眺めながら思案する。
文月も天才だった。物心がついた頃にはすでに写真を撮り、佐伯のようにあらゆる人から評価されていた。僕はそれが誇らしくもあったが、同時に自分との差に落胆もした。
僕にとっての天才、それは。
「救い、かな」
「救い?」
「たとえば努力ですべての優劣が決まる世界。それはきっと正しいけど救いがない。だから天才は存在するんだ」
だからこそ僕は文月を心から尊敬できた。努力だけですべてが決まるなら、僕はきっと文月に嫉妬していただろうから。
「天才っていう言葉は優しいよ。努力では敵わない凡才に、諦める理由をくれるから」
「諦める理由、か。確かにそうかもな」
僕にとってはその諦めこそが救いだった。でも、七草は? ライブのときに見せたあの笑顔の真意は、僕と同じなのだろうか。
「七草は、何を諦めたんだ?」
普段なら絶対に聞かないはずの質問を、僕は七草の横顔に問いかけていた。まださっきの熱が残っているみたいだ。少しの間を置いて、七草は開き直ったように笑う。
「よくわからん! ってか、何でそんなこと訊くんだー?」
「天才を語れるのは、諦めの味を知った凡才だけだと思うから」
「……じゃあそういう湊は、何を諦めたんだ?」
「僕は」
――僕は、全部だよ。
そんなことを言えるわけもなく、僕は七草と佐伯の絵から視線を逸らす。
「よくわからん」
「ハハハッ! 何だそりゃ! ……やっぱおもしれぇな、湊は」
「どこがだよ」
「俺、やっぱり湊のこと好きだわ」
七草は僕の顔を覗き込み、犬のように人懐っこく笑った。
数分後、僕たちは別れた。七草はもう少し佐伯の絵を見るらしい。せっかく来たんだ、僕も色々と見て行こう。
そうして僕の足が向いたのは、やっぱり写真のブースだった。ポートレートや風景写真。ストリート写真もある。しかし文月の写真ほど心惹かれるものはない。
――私は誰かに評価されるために写真を撮っているわけじゃないわ。
怒ったように口を尖らせる文月を思い出す。でも文月は生前、一度だけ大きな写真展に応募した。理由は教えてくれなかったが、当時の僕は文月の写真が評価されることは嬉しかった。
それが数多のプロの中から選ばれるなんて誰が思うだろう? 放課後に息をするように撮った一枚が、なんて。
考えている途中で僕の足が止まる。人混みに堰き止められたからだ。
観衆の視線の先。一枚の写真に意識を向けた僕の思考は、一瞬にして奪われた。
文月の写真がそこにはあった。幸せな思い出として文月が閉じ込めた一枚が。
【夭逝の天才 文月莉奈 『夏の涯』】。そう記されたプレートは、僕の心の柔らかい場所を傷付けた。その傷から沸々と黒い感情が湧き上がる。
――文月の、何を知っているって言うんだ。
「――知ったようなこと書きやがって」
僕はその声の方へ振り向く。そして目が合った。
「……氷野」
氷野涼太。僕の中学の同級生で、もちろん文月のことも知っている。もう二度と会いたくはなかった。それは向こうも同じようで、氷野は苛立ちを隠そうともせずに僕を睨んでくる。
「お前、知ってたか? 文月の写真が定期的にここに飾られてんの」
「……いいや」
氷野は眉間に皺を寄せて、僕にゆっくりと詰め寄ってくる。
「こんな見せ物みてぇになってんのに、ずいぶんと暢気だな、お前」
「お前に、文月のことをどうこう言える資格があるのか?」
氷野が文月にしたことを思い出しながら、僕はナイフのような言葉をぶつける。氷野は顔を歪めて僕の胸倉を掴んだ。
「ああ、ねぇよ。けどな、文月の葬式にすら来なかったテメェに言われたくねぇよ……! もう自分には関係ねぇってか?」
僕は何も言い返せずに、口を結ぶ。関係ないと思ったからではない。目の前で起こった現実を、何も信じたくなかったからだ。
氷野は僕の胸倉を掴む腕に力を入れる。首が締まり、僕は苦しさに顔を歪める。
「黙ってねぇで、何か言えよ篠宮……!」
「――何、やってるの?」
僕の視線の先には、水瀬が困惑した顔で立っていた。
水瀬は僕のもとへ走ってくると、氷野の腕を掴んで引き離した。その目にはすでに困惑の色はなく、明らかな敵意が宿っている。
「あんた誰? 私の友だちに何してんの?」
引き離された氷野は、僕と水瀬を交互に見たあとに舌打ちをした。
「まさか、文月の次ってわけか? ……ふざけやがって」
「ふざけてんのはあんたでしょ? 何で、こんな酷いことしたの!?」
「水瀬、やめてくれ」
「でも……!」
「いいから、やめてくれ」
これ以上、僕の問題に関わってほしくない。水瀬は素直に「わかった」とつぶやき、一歩だけ後ろに下がった。氷野は髪の毛を雑に掻きむしると、苦悶に満ちた表情を浮かべた。
「これじゃあ文月が救われねぇだろ。この半端野郎が……!」
吐き捨てるように言って、氷野はブースから出て行った。
氷野の言葉が僕の心の傷を広げる。その痛みを紛らわせるために、僕は首元に感じる別の痛みに手を伸ばした。
「湊、首のとこ赤くなってる。見せて?」
「別に、何も気にしなくていいから」
水瀬の手から距離を取る。それでも水瀬は距離を詰めてきて、僕の首元に優しく触れた。
「別に、何も気にしなくていいからね」
僕は水瀬の顔も、目の前の文月の写真も見られずに、視線を彷徨わせた。
それから文月の写真を黙って見つめていた水瀬は、僕に訊いてきた。
「綺麗な写真。文月莉奈さん。二年前だよね、亡くなったの」
「……文月のこと、知ってるんだな」
「それなりに。私の中学でもすごい人がいるって有名だったから。湊、仲良かったんだね」
深入りされないように黙り込む。しかし水瀬は僕の体を突いてからかうように言った。
「湊が女の子に慣れてる感じするのって、もしかして文月さんが恋人だったから?」
「まさか、違うよ」
文月のことを話される度に深い記憶がよみがえってくる。大切にしまい込んでいた思い出がすべて流れ出てしまいそうで、僕は身震いした。
水瀬は文月の写真に近付いて鑑賞し始めた。その隙に僕はこの場を離れようとする。
「湊が、さ」
嫌な汗が噴き出す。その問いを聞いてはいけないという警鐘が、頭に響いた。
振り返った水瀬の潤んだ瞳が、僕の瞳を捉えた。
「湊が飛び降りしたのって――文月さんが、死んじゃったから?」
――さようなら、湊。
「そんなこと、お前に関係ないだろ!」
水瀬は唇を結び、潤んだ瞳で僕を見つめていた。ふと我に返ってブースを見渡すと、周りの観客が怪訝な顔で僕らを見ていた。僕は居心地が悪くなって目を伏せる。
「ど、どうしたんだよ、お前ら」
「二人とも、何があったの?」
七草と佐伯が慌てて駆け着けてきて、事情を訊いてくる。でも僕たちは黙り込んでいた。
「……とりあえず、謝ってから出るか」
「うん。そうだね」
文化ホールを出た後も、僕の胸には澱のようなものが沈んでいた。
僕は自称さんの言葉を思い出し、首を振る。先になんて進みたくはない。だってそこに、文月はいないんだから。
分かれ道に辿り着くと、七草が明るい声で言った。
「俺たちこっちだから行くけど、お前ら、さっさと仲直りしろよー?」
「じゃあね詠ちゃん、湊くん」
なかなか難しいことを言って七草と佐伯は歩いて行った。夏の夕暮れ。気温は一向に下がらない。暑く、重たい空気が僕の肌をピリピリと焦がした。
僕は後ろの水瀬の気配を感じながら、後悔していた。怒鳴るなんて最悪だ。水瀬は僕の過去を案じていただけなのに。謝ろうと口を開くけれど、肝心の言葉が出て来ない。
沈黙のまま、僕たちの足音だけが空気に溶け、やがて目前に分かれ道が見えてくる。ここを逃したらダメだ、そう思った。
「あの、さ、水瀬。さっきのことなんだけど」
返事がない。きっと怒っているんだ。僕は次の言葉が続かずまた沈黙に身を委ねてしまう。そこでようやく気付く。後ろにいたはずの水瀬の足音が抜け落ちていることに。
振り返った僕の心臓は不規則に跳ねる。
水瀬は、ぐったりと地面に倒れて動かない。生温く吹いた風が水瀬の顔に掛かった髪の毛を攫い、生気のない青白い顔を強調させていた。
無意識に、僕は叫んでいた。
「――水瀬ッ!」
病院で処置を受けた水瀬はそれから一時間ほどで目を覚ました。「おはよー湊」なんていつもと変わらない明るい声で。
「湊、起きるまでいてくれてありがとね。まー寝顔見られたのは恥ずかしいけど」
何てことはなかったように水瀬はおどけて、僕に微笑んだ。
「湊には言うね。最近、急に意識を失うことが増えてきて。体温低下、血中酸素不足などによる意識障害、だったかな。死季病冬期の初期症状から後期症状に移行した合図だってさ」
それは文月も同じだったから知っている。僕は水瀬の顔を見られずにうつむいた。
「色々としつこく詮索してごめんなさい。悪いとこ出ちゃったなって反省してる」
「謝るのは、僕の方だよ。……水瀬、怒鳴って、ごめん」
僕は水瀬が倒れて動かない映像を思い出しながら、ぽつりとつぶやいていた。
「……無事で、良かった」
「――ねぇ、湊の後悔って、何?」
「僕の、後悔……?」
不意の質問に虚を突かれて、僕はしばらく黙って考えてしまう。僕の、後悔。
それはきっと、水瀬が倒れたときに僕が感じた恐怖の原因だ。でも水瀬には言えない。これは僕が抱えるべき問題だから。
「私、絶対に後悔したくないんだ」
僕は水瀬が柔らかく微笑むその瞳の奥に、覚悟を感じる。
「四季折々って、春夏秋冬、その時その時っていう意味なんだ。だから私の四季を後悔しないで大切に生きるために、四季折々を作ったの」
水瀬は四季折々ができた経緯を楽しそうに話す。死という絶望を突きつけられてなお、水瀬は生きる希望を捨てていない。僕には絶対に真似できないことだ。
よっぽど僕がひどい顔をしていたのか、水瀬は慌てた様子で言ってくる。
「もー、ほら、顔上げてよ」
――私が死んでも湊は大丈夫よ。湊の心に寄り添ってくれる人はいるわ。私にとってあなたがそうだったみたいに。
いつか文月は笑いながらそう言った。僕の未来を案じたからなのかもしれない。
なあ文月、僕にとってのその人は、水瀬なのか?
決して届かない問いだ。答えはわからない。でも、水瀬は、きっと。
「……一人の女の子を救えなかったことが、僕の後悔だよ」
「それが文月さんなんだね。湊、ちゃんと聞かせて」
これは僕が抱えるべき問題で。水瀬にはこれ以上、何も背負わせるべきじゃない。
とても難しいね、文月。君も僕に病気を打ち明けるとき、こんな不安な気持ちだったのか?
気付くと、ダムが決壊したみたいに、僕は話し始めた。
文月が死季病を患っていたこと。文月の病気を知ってから毎日、一秒でも長く傍にいたこと。文月の心を救うために、死ぬまでにやりたいことを全力で実行したこと。僕と一緒に幸せそうに笑っていた文月が突然、飛び降り自殺をしたこと。
噛みしめるように言葉にしても、こんなにも一瞬だ。僕は文月の話をして、その人生が短くまとめられてしまうのも嫌だったのかもしれない。
水瀬は僕の話を聞いて、静かに涙を流していた。何かに耐えているような涙。水瀬が泣いているのなんて、初めて見た。
「ずっと傍にいたのに救えなかった。僕は……僕を赦せないよ」
その後悔が、怒りが、僕が飛び降りた理由なのだと今では思う。
「自分を赦して前に進んだら、文月が僕の中から消えそうで、怖いんだ」
「じゃあ湊は、そうやって後悔したまま立ち止まってるつもりなの?」
「……それが、僕ができる最後のことなんだ」
水瀬は目を見開いたあと、僕を睨みながら叫んだ。
「嘘だよ! 絶対にそんなこと思ってないくせに!」
「嘘じゃない、本心だ!」
言い返すと、水瀬は僕の両手を痛いくらいに掴んだ。振り解こうとしても離してくれない。
「湊と文月さんの思い出って、湊が前に進んだくらいで消えちゃうものなの!?」
「そんなわけないだろ! っ……」
水瀬は僕の弱さも嘘も射貫くように見つめてくる。涙を流し、強いまなざしで。
「前に進みたくないわけじゃない。でも、どうしたらいいのか、わからないんだ……」
立ち尽くしたままうなだれる。だから僕は何もかもを諦めたふりをしたんだ。
「ずっと一人で抱え込んできたんだね。話してくれてありがとう。ありがとね、湊」
心が壊れてしまいそうなほど苦しかった。でもこれが、僕の後悔の代償だ。水瀬にもこの痛みは渡せない。胸に残ったこの痛みだけは、僕のものだ。
「ねぇ湊、四季折々って持ってる?」
「……うん、持って来てるよ」
「貸して」
両手を僕に差し出す水瀬に、僕は言われるままリュックから四季折々を手渡す。
水瀬は四季折々に祈りを綴り始めた。数秒と経たずに書き終えて、僕に笑いかけてくる。
「怖いなら私と一緒に前に進もう。何も諦めなくていいんだよ。ただ、湊がやってきたことを、信じてあげて」
「僕には」
「――私は最後まで湊と一緒にいるよ。約束」
僕に四季折々を手渡して、水瀬は微笑む。最後まで。水瀬が死ぬまで。僕は果たして耐えられるだろうか。冷や汗が僕の首筋を伝って流れていくのがわかる。恐怖で全身が震えた。
それでも僕は、信じてみたかった。僕が文月と歩んできた日々を。水瀬の想いを。
『あの日々と、自分を信じて、前に進む』
一思いに書き殴った僕の文字は所々震えていて、情けないものだった。でもこれでいい。深呼吸をして隣のページを見ると、さっき水瀬が綴っていた願いが見えた。
『湊の心を救う!!』
シンプルに、大きく書かれた祈り。その優しさに、僕の心に針が刺さった。
病室に沈黙が降りる。やがてそれを切り裂くように水瀬が大きな声を出した。
「しんみりタイム終わり!」
水瀬は僕の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して、晴れやかな声で言い切った。
「湊のやってきたことは正しかった。文月さんは、幸せだったよ!」
「どうして、そんなことがわかるの?」
「え? うーん。ほら、私と文月さんって超似てるから!」
その無理のある決めつけに、僕は大袈裟に首を横に振った。
「いや、似ても似つかないよ。文月は水瀬みたいにホギャホギャ言わなかったし」
「こんにゃろー調子戻ってきたなぁ? ホギャホギャ!」
「何だよ、それ」
水瀬はホギャホギャ言いながらも楽しげに笑っていた。僕もその笑顔で心が軽くなる。
「湊、ほら」
「……うん」
僕と水瀬は小指を交わす。何かが動き出す予感がしていた。僕一人では何もできなかっただろう。きっとこれが、暗闇の中から一歩を踏み出すに相応しい言葉だ。
まるで儀式で捧げる祈りのように、僕たちは小指を上下に動かした。
『四季折々』