異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ

前回のあらすじ

いかさまと業運にはさまれてカモにされるリリオ。
運の絡まないゲームとして提案されたのは。






 ともすれば不遜さの乗りそうな鼻っ柱がひくりとうごめきました。
 勝気な釣り目が大きく見開かれて、まるで飛び掛かる寸前の猫のように張りつめています。
 朽葉色の瞳はいま、火精晶(ファヰロクリスタロ)の灯りを照り返して、時に黄色く、時に赤く、奇妙に揺らぎながら、私の一挙手一投足を睨みつけるように見張っているのでした。

 こんなに、ああ、こんなにも強い視線を向けられるのはいつ振りのことでしょうか。
 血に飢えた魔獣たちも、潜み狙う盗賊たちも、命を切り結ぶ相手を求めて放浪する武芸者たちでさえも、こうまでも強い目を見せたことはなかったでしょう。

 恐れ知らずの武装女中とはいえ、小柄で、華奢で、愛らしくさえあるトルンペートの小作りな顔からは、いまや青ざめたように血の気が引いていて、形の良い耳ばかりが火照ったように赤く染まっていました。
 集中している。
 針先のようにピンと張り詰めた意識が、私に、私の指先に全霊をもって集中している。

 そのことがなんだか、私に不思議な高揚と、奇妙な興奮とを覚えさせるのでした。

 全霊に対して、私も全霊でもって応える。
 そのことがどれほど心地よく私をたかぶらせてくれることでしょうか!

「あっち――」

 ちり、とかすかに揺らがせた指先に、トルンペートのまつ毛がかすかに揺れ動きます。
 凍り付いたように微動だにしない手足と裏腹に、首から上はいまにも弾けそうなほどに(リキ)が込められているのが窺えました。
 わずかに開かれた唇の下に、大きめの犬歯がちろりと顔を覗かせているのが、期を窺う猟犬を思わせます。

「向いて――」

 私は指先からすっかり力を抜いて、だらりと脱力させていました。
 必要なのは、その瞬間まで力の方向性を悟らせない、極限の脱力。
 そして、脱力から瞬時に立ち上がる、手首のしなやかさと切れ味。

 事ここに至っては、もはや小手先の揺さぶりは無粋。
 一瞬。
 ただ一瞬の攻防にこそすべてがある。

 すべてを、この、一瞬に――

「――ホイ!」

 刹那、私の指先は、蛇の躍りかかるようにしなやかに、そして容赦なく、視線ごと首を引きずり回す思いでもって、左へと振りぬかれました。

 トルンペートの瞳が、須臾に切り裂かれ刹那に刻まれた時間の中、私の指先を追いかける。
 人に残された獣の神経が瞬時に発火し、食らいつき、追いすがり、しかして人の築き上げた理性がそれを押し留める。
 ぎりりと音を立てて奥歯が噛み締められ、ぎゅうと顎の筋肉が隆起する。
 無意識が指先を追いかけようとすることを、意識の手綱が強引に押さえつけ、すでに動き出してしまっていた筋肉を、また別の筋肉が押さえ込む。

 おのれの力でおのれの首を断つがごとき筋肉の相争う悲鳴が音もなく響き、その鼻先は私の指を離れ、さかしまの方向へと向けられたのでした。

 振り抜かれた勢いのままに汗が飛び、ぱたぱたと音を立てて床に散りました。

「……やりますね」
「この程度……なのかしら?」
「へえ……まだ、強がれますか」
「慣れてきたのよ、いい加減……次で決めるわ」
「見せてあげようじゃあないですか……“格”の“違い”ってものを……!」
「ええ、そうね……あたしが“上”で、あんたが“下”ってことをね……!」
(ウヌ)!」
(ドゥ)
(トリ)!」
『そろそろ降りるわよー』
「アッハイ」

 拳を振り上げ、さあ(エーク)の合図で振り下ろそうとしていた私たちは、伝声管から気の抜けた声を響かせるお母様によって、最高に盛り上がった瞬間に奇麗に水を差されたのでした。
 えー、もうちょっと遊んでたいよー、といった気分ですが、竜車を操作してくれているお母様に文句など言えようはずもありません。
 そもそも力んだところで間を外されてしまって、変に気勢をそがれてしまったので、もう一回あのノリをと言われても難しいです。

 手ぬぐいで汗をぬぐい、途中で暑くなって脱ぎ捨てた上着を拾い上げて着込み、もそもそと固定用の帯を結びます。
 そうして一息ついてから顔を合わせると、さっきまでなんであんなに単純な遊びであんなに盛り上がっていたんだろうと、妙に冷静な気持ちになってしまって、なんだか妙に気まずくなって視線をそらし合うのでした。

 最初は、遊び方を教えてくれたウルウも混じって、三人で回していたのですけれど、私とトルンペートが盛り上がるにつれてウルウはそのノリについていけなくなり、また一時は落ち着いていた乙女塊大海嘯が再び込み上げてきたので、固定帯を結んで毛布にくるまってしまいました。

 そうして止める人もいなくなった私たちはどこまでも高みに上っていってしまったわけです。
 恐るべしあっち向いてホイ。
 いや、だって絶対指の方見ちゃうじゃないですか。それをこらえて他所向かなきゃいけないんですよ。それをわかったうえで指先で誘導して、振り切る前にくいっと翻して騙したり、それさえも見越して視線と顔の動きとを逆にして見たり、いや、本当に面白いんですよこれ。

 ともあれ。

 私たちの火照った体が落ち着いてくるころには、竜車はがたがたと大きく揺れながら高度を下げていき、ウルウの魂の抜けるような細い悲鳴を背景に、ひときわ大きく揺れて着地したのでした。

 竜車は半日ほど飛んだ先の、森の傍の開けた野原に降り立ちました。
 半日ほどとはいえ、なにしろ飛竜の翼で翔けた半日です。ハヴェノからはすでに遠く離れ、南部は南部でも東部よりの内陸地まで辿り着いていました。

「そうねえ。この辺りはツィンドロ子爵領に入るのかしら」
「ということは、あの山が噂に名高いアミラニ火山ですかね」

 いくらか先に峰高くそびえる、山頂付近に雪を冠するアミラニ山は、人族が町をつくるには適しませんが、土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちにとっては鉱物が豊富で熱源も得られる良好な鍛冶場です。
 神話の頃より土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちはこの古く偉大な火山を掘り、町を作り、鉄を打ってきたそうで、古代聖王国時代に多く打ち壊された芸術的土蜘蛛(ロンガクルルロ)様式の建築物も現存している、歴史的にも文化的にも、そして観光地としても名高い土地です。

 帝国が古代聖王国の残党を狩り出し、東大陸を統一するにあたって、多くの武具がこのアミラニ山から供出されました。
 その功績をたたえて長たる土蜘蛛(ロンガクルルロ)がヴルカノ伯爵として取り上げられ、現在もその権力と影響力は帝都にまで響くものです。

 広大で肥沃な農地を支配するツィンドロ子爵も、質の良い鉄の農具と舞い振る火山灰の恩恵を強く受けており、この古き鍛冶師の末裔を寄り親と仰いでいるとのことです。

 しかし、確かに遠くまで気はしましたけれど、日はまだいくらか高く、飛ぼうと思えばまだ飛べそうではあります。

「まあ飛べなくはないわよ。でも、飛竜に乗るのもそれなりに疲れるし、竜車に乗りっぱなしもしんどいでしょ?」
「はい」
「ウルウのここまで力強い肯定そうそうないわよね」

 それに、暗くなってくると空から着陸可能な場所を見つけるのは難しく、ちょうどよく開けた場所を見つけたら早めであっても切り上げる、とのことでした。なるほど、空の旅は空の旅で、何事も都合よくいくという訳ではないようです。

 飛竜鞍を外し、好奇心に負けてうろつこうとするピーちゃんを軽くたたいて窘めてから、じゃああと任せたわ、と残して、お母様はキューちゃんの暖かくも柔らかい背中に寝そべって、すぐにも高いびきを立て始めました。
 どこでもいつでも体を休められるというのは、旅する冒険屋としては素晴らしい素質です。

 任されました、ということで、私たちは早速野営の準備に取り掛かりました。
 まあ野営と言っても、頑丈で鉄暖炉(ストーヴォ)もある竜車のおかげで、やることは大してありません。
 なんて素晴らしきかな竜車、と一瞬思いましたけれど、考えてみれば普段からそんなに変わらない気もします。焜炉付きの幌馬車に、見張りにもなるボイちゃん。それに魔獣などをよせつけない、ウルウのよくわからない匂い袋や天幕のおかげで、普段から楽してます。

 いつもと変わりませんね、ということで、私たちは普段通りを心がけて、作業を分担しました。
 つまり、力自慢の私は薪拾いに荷物持ち。勘が鋭く遠間の攻撃が得意なトルンペートが狩り。そしてウルウは収穫が多い時の《自在蔵(ポスタープロ)》係です。

 ぶっちゃけ仕事だけ考えるとウルウには留守番していてもらっても構わないのですけれど、新しい土地の新しい風物を見て回りたいというのもウルウの旅の目的ですし、何より、寝ているとはいえ、寝ているからこそ、旅仲間の母親という親しい訳でもなくかといって無関係という訳でもない微妙な相手と二人きりにさせるのは申し訳なかったのです。

 昼寝して無防備なお母様を置いていくのも、というのは余計なお世話でしょう。
 高いびきをかいてぐっすり眠っているようには見えますけれど、あれで熟練の冒険屋ですから、誰か近づけばすぐに目覚めるでしょうし、なんなら射程ギリギリから矢を射っても止められそうな気がします。
 それに、頂点捕食者と言っていい飛竜のキューちゃんとピーちゃんがいる訳ですし、あれをどうにかするのは地竜の突進でもないと無理でしょう。

 それでもあんまり時間をかけてはすっかり暗くなってしまいますし、何より私のお腹も空いてきていますので、あまり高望みをせずに、さっと捕まえられるあたりを仕留めていきます。

 木もまばらで土中に根が蔓延っていないあたりでは、こうした土に潜り込むように掘り進め、草木の根や虫の類を食べる螻蛄猪(タルパプロ)が良く見つかります。北部でも見かけますけれど、土に霜が降り、硬く冷たくなる冬は南下するとも聞きます。
 体は猪にしては小柄ですけれど、上向きに生えた幅広で頑丈な牙と、鋤のように発達した前足のひづめで結構な速度で土を掘り起こし、ずんずんと進んでいく様はいかにも猪と言った感じです。

 ただ、割と浅い所を潜るので地表が盛り上がってしまって居場所がわかりやすいですね。またほとんど目が見えず、地上を歩く速度もあまり速くないので、結構いい的です。

 それでも、うっかり螻蛄猪(タルパプロ)の真上を踏み抜いてしまったりすると、恐ろしい力強さで杭のような牙が打ち上げてきて、時には死者が出ることもある生き物です。

 私たちは森に入って早速この螻蛄猪(タルパプロ)の道を見つけ、掘り進んでいる真っ最中のところに深々と剣を突きさし、うまく仕留められました。
 土越しに一撃で仕留める自信がない場合は、斜め後ろからそっと土を掘り返してやり、逃げようと頭を土に突っ込んでいる間に槍などで仕留めるとよいでしょう。

 一方で少々見つけにくく、そろそろ帰ろうかなと言うときに運よく茂みの中に見つけられたのが、狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)でした。
 これは兎や鶏くらいの大きさで、赤褐色の羽毛と、横縞模様の幅広な尾羽を持つ、草原やまばらな林に住む羽獣です。
 木の上ではなく、茂みの中や地面のくぼみに巣をつくり、茂みをくぐるように低く飛び回るので、地味な体色もあってなかなか捉えづらいところがありますね。

 私は見落としそうになり、トルンペートも気配を探ってはいましたが、見つけたのはウルウでした。
 生き物のいのちの気配を探るとかいう、技術ではなくある種のまじないで、茂みの中に隠れた狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)の位置を正確に探り当て、そこをトルンペートが短刀をひょうと投げて仕留めたのでした。
 茂みにかたまって潜んでいた何羽かの狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)が素早く飛び上がって逃げようとしましたが、そこをまた短刀が鋭く狙ってもう一羽が得られました。
 飛び立つ姿を眺めて、肉付きのよさそうなものを狙う余裕振りです。

 どちらもすぐにしめて、雷精を心臓に流して血抜きし、きりりと冷たい雪解け水の水精晶(アクヴォクリスタロ)水で流し、しっかり冷やしました。
 以前はこうした作業が苦手だったウルウも、最近は少し慣れてきたのか、直接手掛けるのはまだ難しいようですけれど、お手伝いくらいはできるようになってきました。

 茸や山菜、香草の類、そして薪を採りながら野営地に戻ると、お母様がぱっちりと目を覚まして迎えてくれました。
 飛竜のキューちゃんはどっしりと腰を落ち着けたままで、きょろきょろと辺りを見回し、ふんふんと鼻を鳴らして落ち着かないピーちゃんが飛び回らないよう、見張っているようでした。

 狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)は明日の朝食用にしまい込み、螻蛄猪(タルパプロ)を今夜の夕餉として胡桃味噌(ヌクソ・パースト)の鍋に仕上げることにしました。

 三人がかりで手早く解体し、毛を焼き、改めて水で血を洗ったバラ肉を大きめの塊にしてから、大鍋に香草と酒、それに少しの塩を加えて、水から茹でていきます。
 本当はしばらく酒と香草で漬け込んでおきたいんですけれど、もっと言えば何日か寝かせた方が美味しいんですけれど、贅沢は言えません。
 余った分を食糧庫の方の竜車にしまって寝かせることにしましょう。

「あなたたち、いつもそんな大鍋持ち歩いてるの?」
「欠食児童が二人もいるんで」
「馬鹿容量の《自在蔵(ポスタープロ)》持ちがいるんで」
「防具にもなるので」
「さては馬鹿なのねあなたたち」

 灰汁を取りながらじっくりと茹で上げ、すっかり柔らかくなったら茹でこぼし、ごろっとした大きさに切り分けます。これと根菜類、香草を、酒、胡桃味噌(ヌクソ・パースト)などを溶いた大鍋で煮込み、最後に葱や葉物を加えてもう一煮立ちさせて、いただきます。

 薄切りの猪肉を使った鍋も美味しいですけれど、ごろっと塊に切ったバラ肉はなかなかに食いでがあってたまりません。もう少ししっかりと味をしみこませるには時間がかかるので、野営には向きませんけれど、鍋の汁自体をちょっと濃い目にしてやって、うまく味を乗せてやります。

 ウルウは濃い目の味付けがちょっと苦手ですけれど、なんだかんだ体を使う冒険屋の私たちには塩気が嬉しい限りです。そしてその、ともすればべったりとしそうな濃い目の味付けの中にも、ウルウが見つけて摘んできた葉物が、独特の香りを立てて、味に膨らみをもたらしてくれています。

 葉物というか、私は食べ物として見たことなかったというか、もう本当に、そこら辺の適当な葉っぱという感じだったんですけれど、ウルウに言われるままに食べてみたら、これが美味しいんですよ。
 ちょっとほろ苦さがあって、でも独特の爽やかな香りが食欲を掻き立てるのでした。

 ウルウによれば、恐らく菊の仲間である花の葉であるとのことでした。
 ウルウがシュンギクと呼び、お母様が王冠菊(クローノ・レカンテト)と呼んだこの葉物は、いままで見向きもしなかったことがなんとももったいなく感じられるほどの味わいでした。
 春には可愛らしくも美しい花を咲かせるとのことで、花としては見られても食用としては見られていなかったのですね。

 私たちは大鍋にたっぷりの猪鍋に舌鼓を打ち、お腹をすかせた二頭の飛竜には、取り出したばかりの螻蛄猪(タルパプロ)の内臓をはじめとした餌を与えました。体の大きさに見合って、結構な量を平らげていく様はなかなか見ていて気持ちのいいものがあります。

 ウルウも感心したように二頭の食事風景を観察していました。
 ウルウって、生き物苦手なのに生き物の観察するの好きなんですよね。一番観察してる生き物は私です。いいでしょう。

 そうしてご飯が済んだら、普通の冒険屋であれば見張りを立ててお休みですけれど、なにしろ私たちは現役冒険屋からもおかしいと言われている《三輪百合(トリ・リリオイ)》です。
 ウルウが黙々と金属製の例の湯船を準備し始めると、お母様がおかしそうに笑い始めました。

「お風呂?」
「ええ、お風呂です」
「さてはあなたたち、とびっきりの馬鹿ね?」
「不本意なことによく言われます」

 私とお母様、ウルウとトルンペートに分かれてお風呂を頂き、ハヴェノで購入した香り付きの新しい石鹸で体を磨き上げ、気分も体もすっきりです。
 以前は石鹸と言えば一番安い、香りも何もないものをちびりちびりと使っていたものですけれど、潔癖なくらい奇麗好きなウルウが惜しまず使い、切らさず仕入れしているうちにだんだん感覚が麻痺してきて、いまでは精油で香り付けしたものや、可愛らしく成形されたものなどをいろいろ比べていて、三者三様にお気に入りができたりしています。

 風呂の神殿ではこういった変わり石鹸を必ず取り扱っていて、定番のもののほか、地方特有の品もあって、旅の中でいろいろ試してみるのも楽しいものです。

 そして湯上りには、ウルウ特性の()()()を髪に馴染ませて、石鹸できしきしごわついてしまっていた髪を整えてやります。
 最初は柑橘の汁を湯で薄めたものを使っていたのですけれど、出歩いているうちに痒くなったりすることがあったので、ウルウが改良したこのりんすなるものを私たちは使っています。
 林檎酢(ポムヴィナーグロ)葡萄酢(ヴィノヴィナーグロ)に香草や精油などを加えたもので、使用するときはお湯で薄めて使います。
 割と簡単に作れるので、最近は土地土地でお値段や名産を勘案して、三人であれやこれや好みに合わせて自分用のものを作っています。

 今日はお母様には私と同じものを使っていただき、同じ香りをまとうことにしました。
 なんだかちょっと、くすぐったいみたいな、不思議な気持ちです。

 お風呂を済ませて、念のためにウルウの魔除けの匂い袋をしかけて、お休みの時間です。
 いつものように竜車にウルウのお布団を敷きましたけれど、さすがのウルウの不思議なお布団もお母様も含めた四人で潜り込めるほどの広さはありません。

 これは仕方がありません。
 魔法のお布団にはちょっと詰めてもらって、毛布を分厚く敷いてもう一つ寝床を作り、二人二人に分かれて眠ることにしましょう。

 ウルウは寝床変わると寝付けないたちですし、トルンペートはお母様と一緒だと緊張するでしょうから、ウルウとトルンペート、私とお母様に分かれることにしましょう。
 仕方がありません。
 これは仕方がありませんね。
 なのでにやにやとこっちを見てる二人は覚えていなさい。

「ねえ、私寝るときにまで突っ込まなきゃいけないの?」
「え?」
「なんです?」
「《自在蔵(ポスタープロ)》に羽毛布団突っ込んでるの?」
「あー」
「完全に忘れてました、そう言う感覚」
「ねー」
「私が呆れるって、本当に、相当よ、あなたたち」

 伝説の冒険屋は、そうして苦笑いするのでした。




用語解説

・ツィンドロ子爵(cindro)
 南部の内陸に広がるツィンドロ子爵領は、平地が続く土地で、広大な農地を保有する。
 アミラニ火山の噴火によって形成された、平らで、柔らかく、水はけのよい地質で、地下水が豊富。空気を含むことで保温性も高い。やや痩せ気味ではあるが、長年の間に研究された肥料の効果が出やすいとも言える。
 西大陸から渡ってきた柑橘類を古くから育てており、特に、島国から伝来した、皮が薄くて剥きやすく、小さいが甘みの強い、種もなく食べやすい蜜柑(モルオランヂョ)(moloranĝo)が帝都で人気となり、生産を拡大している。

・アミラニ火山(Amirani)
 南部ヴルカノ伯爵領の大部分を占める活火山。
 古来から土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちが住み着き、開発してきた火山。
 活火山ではあるが、土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちがほぼ完全に管理しており、最後に噴火に至ったのは百年単位で昔のことである。

・ヴルカノ伯爵(vulkano)
 アミラニ火山及びその周囲のいくばくかの土地を所領とする伯爵。土蜘蛛(ロンガクルルロ)。血統の古さ、領民からの信頼、技術力、経済力など周辺への影響力は強い。

・魔獣などをよせつけない、ウルウのよくわからない匂い袋や天幕
 ゲームアイテム。それぞれ以前登場した《魔除けのポプリ》、《宵闇のテント》のこと。

螻蛄猪(タルパプロ)
 蟲獣。半地中棲。大きく発達した前肢と顎とで地面を掘り進む。が、割と浅いところを掘るのですぐにわかる。土中の虫やみみず、また木の根などを食べる。地上では目が見えず動きが遅いのでよく捕まる。

狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)(lavurso koturno)
 羽獣。茂みや地面のくぼみなどに巣をつくる。赤褐色の羽根色。雑食性で幅広く何でも食べ、時には蛇なども捕食する。農作物への食害もある。
 駆除以外では、毛皮目的の狩猟が多く、また丁寧にした処理した肉は美味であり、食用にもされる。
 冬季は動きが鈍り、気温の低い北部などでは冬眠することもある。

王冠菊(クローノ・レカンテト)(Krono lekanteto)
 キク科シュンギク属。シュンギク。
 奇麗な黄色い花を咲かせる菊の仲間。外側が白くなっているものもある。
 帝国では観賞用としてされているが、無毒で、葉は独特の香りとほろ苦さがあり、食用に耐えうる。

・りんす
 閠がこの世界に来た当初は、石鹸でアルカリ性に傾いた髪を、柑橘類の絞り汁を湯で薄めたもので酸性に傾けることでリンスとしていた。
 しかし光毒性と言う、紫外線に当たると皮膚にダメージを与える性質があったため、特に色素の薄いリリオがかゆみやふけなどを生じさせてしまった。
 このことから材料を見直し、香りが尖らない果物酢をベースに、香草や精油などを加えて調合した。
 やや手間と金がかかるようになったが、好みや体質に合わせて調整を繰り返し、それなりに使える代物になっているようだ。

葡萄酢(ヴィノヴィナーグロ)
 林檎(ポーモ)の採れる北部では林檎酢(ポムヴィナーグロ)が、葡萄(ヴィンベーロ)(vinbero)の採れる地域では葡萄酢(ヴィノヴィナーグロ)が流通しているようだ。

・仕方がありません。
 全く持って仕方がないのであった。

前回のあらすじ

伝説の冒険屋を次々に呆れさせる《三輪百合(トリ・リリオイ)》の一行。
そして母親に甘えるリリオであった。




 他人の寝息。
 他人の気配。
 他人の体温。
 他人の重み。

 以前の私であれば、これらの一つでも傍に感じられれば、とても落ち着いて過ごすことなどできなかったことだろう。
 家賃ばかりが高いアパートでも、薄い壁の向こうに人の気配を感じて、なかなか寝入れなかったことを覚えている。
 会社で寝袋に包まっていた時も、終電後にうごめく亡者たちの足音や、栄養剤の助けもむなしく沈み込んだ死者たちの寝息に、浅い眠りしか得られずに苦労したものだ。

 ともすれば自分の鼓動さえも煩わしく感じられたあの頃、墓の下のような静けさが恋しかった。

 その私がいま、大きいとはいえ、車の中に四人並んで眠るという事態に陥っても平然としていられるのは、なんだか不思議な気分だった。
 もうパーティとしてそれなりに過ごして、一緒に寝てきたリリオとトルンペートだけでなく、稽古はつけてもらったけどそこまで関りがあるという訳でもない、リリオのお母さんという赤の他人の気配があっても落ち着けているというのは、私の人間的成長の証なのだろうか。

 まあ、私とマテンステロさんを一番端同士にしてくれたのもあるんだろうけれど。

 竜車の反対側で、リリオはマテンステロさんに甘えるようにして、毛布にくるまっている。
 私にはお母さんというものがいたことがないのでよくわからないけれど、やはりその存在は、決して小さいものではないのだろう。

 日頃、あんなにたくましく、笑顔でパーティを引っ張っていくリリオだけれど、それでもまだ十四歳の女の子だ。
 トルンペートがいくらかお姉さんではあるけれど、彼女はリリオを立てる。リリオのことを支えてはくれるけれど、甘やかしてはくれない。
 私は随分年かさだけれど、でも二人が頼りにできるほどの頼もしさなんてありはしない。甘やかすほどの度量もない。

 この国では十四歳で成人らしいけれど、それで急に大人になれる訳じゃない。
 二十六年生きてきた私だって、いまだに自分が大人なんだって意識はない。
 甘えたい盛り、というやつなのだろうか。普段は少し、背伸びしていたのかもしれない、そう言う強張った部分が、マテンステロさんの前でははがれてしまうのかもしれない。

 素が出た、というよりは、たくさんある顔のうちの、ひとつなのだろうけれど。

 ひそひそとした話し声や、笑い声が漏れ出てくるのを聞いていると、微笑ましいような、少し寂しいような、そんな気持ちがする。

 そんな私が横たわる《(ニオ)の沈み布団》の中には、トルンペートが同衾している。
 というか、リリオと同じようにトルンペートも大概小さいので、抱き枕代わりにしている。

 リリオは本当に小さくて、その癖柔らかい肌の下には密度の高い筋肉が詰まっていて、やけにぽかぽかと体温が高く、ゆっくり温めてくれる。
 一方でトルンペートは少し背が高く、少し細身で、しなやかな筋肉に覆われているけれど、ちょっと骨ばっている。だからか、体温がちょっと低い。私もあまり体温が高くない方なので、触れあっていると、リリオとは違って、じんわりと体温が交わって馴染んでいくような、そんな落ち着きがある。

 竜車の中は鉄暖炉(ストーヴォ)で温められ、私の体もある程度は寒さ暑さに強いけれど、それでもこうしたぬくもりが腕の中にあるのとないのとでは、大分違う。

 石鹸と、お手製リンスの香り、それに、人の匂い。
 鼻先にそれを感じながらうつらうつらとしていると、私の胸にうずまって生暖かい吐息を漏らしていたトルンペートがもぞもぞと顔を上げて、呟くように言った。

「あんた、変わったわね」
「そうかな」
「そうよ」

 猫がそうするように、私の胸をふにふにと押しながら、トルンペートはおかしそうに笑った。

「会ったばかりの頃は、隣に座るのだって、お尻一つ分はあけなけりゃならなかったわ」
「そうだったね」
「人に触るのだって怖がって、前だったら、こうしてたら、きっとがちがちに固まって、どうしたらいいのかわからないって顔してたわ」
「そうかも」

 そう、それは、いまもあまり変わらない。
 いまも、知らない人は怖いよ。人込みは落ち着かないし、街中を歩くのは息苦しい。初めての人と話すのは、ひどく疲れる。
 でも、馴染みの人の隣は心地よい。人のいない景色は物悲しく、一人の部屋はうすら寒い。下らないことを話していると、心が落ち着く。

 けれど、リリオとトルンペートは別だった。
 特別だった。
 特別に、なっていった。

 二人は私を受け入れてくれた。
 この世界では異物でしかない、生前の世界でだって何かとつながることのできなかった私を、受け入れて、繋ぎとめて、そして放してくれなかった。

 はじめのうち、私はリリオのことを、ただの()()()にしようと思っていた。いかにも駆け出しと言ったリリオの姿は、初々しく、新鮮さに満ちた冒険の旅を思わせた。けれどきっとその旅は苦難に満ち、ともすれば断ち切れてしまうかもしれない。
 私は彼女の旅を程よいところで見限り、そして次の旅へと関心を移すだろう、そう思っていた。

 けれど気づけば私は舞台に飛び上がり、そしてリリオに手を取られ、トルンペートに絡めとられ、もう客席は第四壁の向こうへと隠れてしまった。 

 独りで生きて、独りで死ぬのだと思っていた。
 でも、いまではもう、独りではどうしたらよいのかわからないでいる自分がいる。

「私は、君たちに依存してるんだと思うよ」
「依存?」
「すっかり頼り切って生きてるってこと。君たちがいないとだめってことかな」
「ふうん。……ふうん」
「なあに?」
「それって、好きってことかしら?」

 見下ろせば、鉄暖炉(ストーヴォ)の火に照らされて、勝気な目がきろきろと輝いていた。

「どうかな」
「わからないの?」
「なんていうのかな」
「うん」
「そういう、のじゃないと思う」
「そういうのって?」
「なんかこう、きれいな感じのじゃ、ないかなって」
「きれい?」
「うん。もっと、こう……私のは、自分勝手っていうか」
「ふうん?」
「リリオがね、どこに行こう、あれをしようって、私のことを引っ張っていってくれると、すごく、楽なんだ」
「楽?」
「自分で何か決めなくていいって、私が何かしなくても、手を引いてくれるのって、すごく、楽なんだ。ついていっていいんだって、そう思えるのは、信じる努力をしなくてもいいって言うのは、すごく、楽なんだ」
「ふうん」
「トルンペートもね」
「あたし?」
「うん。だめになりそう」
「なによ、それ」
「ご飯美味しいし、お掃除してくれるし、なんだかんだ付き合いいいし」
「いいじゃない」
「なんか、甘やかされてだめ人間になりそう」
「いやなの?」
「いやじゃないから、困る」

 リリオから離れたくない。
 トルンペートから離れたくない。
 放されたくない。手放さないで欲しい。
 ずっとそばにいて欲しい。縛り付けてしまいたくなる。

 マテンステロさんが現れて、リリオがそっちに甘えるようになって、本当は少し、嫌な気持ちがした。
 死んだと思っていたお母さんと再会できて、よかったねって、そう言ってあげなきゃいけないのに、私は素直にそんな気持ちにはなれなかった。
 私が。
 私の。
 私に。
 なんて言えばいいのかわからないくらい、ぐちゃぐちゃになった気持ちを、私はどうしたらよいのかわからなくて、きれいに折りたたむこともできないまま、本当はいまも抱え込んでいる。

 もしゃもしゃと適当にこねくりこんで、少しずつ端の方を千切っては散らして、均していくしかできない。

 私がうまく言葉にできないものを、ぽつりぽつりと告げていくと、トルンペートは少し笑ったようだった。

「誰かを好きになるって、あんたが思ってるほど、きれいなもんじゃないと思うわよ」
「そう、なのかな。でも、うん」
「物語の中ではそうかもしれないけど、人間だもの」
「うん」 
「自分の胸の中にあるものなんだから、きれいなものばかりじゃないわ」

 トルンペートの薄い胸の中には、どんな色が詰まっているのだろう。
 彼女がうずまる私の胸の中は、何色なんだろう。

「あたしだって」
「うん」
「リリオには自由に旅してほしいって思うけど、でも、時々、独り占めにしたくなるわ」
「ほんとに?」
「ほんとに。あたし、本当に子どものころから、リリオと一緒なのよ。あの子の面倒見て、後始末して、名前だって付けてもらったし、秘密の宝物だって分けてもらえたわ。いまだって、何かあったら一番に頼ってもらえるって、そう言う自負があるわ」
「うん」
「最近あんたのせいでちょっと怪しいけど」
「そう、かな」
「そうなのよ。だから、まあ、たまに、あたしのなのよって、思うわよ」
「うん」
「うそ。本当は結構ちょくちょく思ってるわ」
「うん」
「それで、うん、そうよ。あんたからリリオを取り上げたい時もあるんだけど」
「うん」
「あんたを独り占めしたい時もあるわ」
「うん?」
「ええ」
「私を?」
「ええ。なんかリリオの方ばっかり構ってる時とか」
「そんなつもりはないんだけど」
「あたしがそう感じてるのよ」
「なんかごめん」
「あとは、ほら、よそでご飯食べてるとき」
「え、なんで?」
「なんか、無防備に美味しそうな顔するから、あたしの方が美味しいの作ってるじゃないって」
「あー、うん?」
「餌付けしてんだから他所に浮気するんじゃないわよって」
「えー……なんか、ごめん?」
「気難しい猫が、自分以外に隙見せた時みたいな、そんな感じ」
「わかるような、わかんないような」
「あとおっぱい」
「なんて?」
「おっぱいあるじゃない」
「うん。右と左に」
「んふ」
「並んで、あるね」
「なんでちょっと笑わせようとするのよ?」
「そういうつもりじゃないんだけど」
「その、おっぱいよね」
「そのっていうか、いままさに触られてるんだけど」
「リリオと二人で分けてると、やっぱり独り占めしたくなるのよ」
「なに、なんなの? 私の胸を二人で分けてるの?」
「こう、あんたをはさんで寝るじゃない」
「うん」
「それで、右パイと左パイを」
「右パイと左パイ」
「それぞれ所有権を主張するのよ」
「私の固有の領土なんだけど」
「あんたたまにこう、左を下にして寝ることあるんだけど、逆って滅多にないのよ」
「待って待って待って、私それ知らない」
「いまも左向いてあたしのこと抱いてるじゃない」
「あー、うん?」
「だから左側人気があるのよ。そういうときやっぱり、独占したくなるわよね、おっぱい」
「だから私のなんだけど」
「まあ、結局好きって言うのは、こんな感じで、そんなにきれいなもんじゃないわよ」
「そう、そうなのかなあ」
「あたしが信じられない?」
「喩えがおっぱいじゃなあ……」
「おっぱいは大事なのよ」
「そうなんだ……そうなんだ?」
「そうなのよ」
「そうなんだ……」
「そうなのよ」
「あー……私も、そうなのかな。そうなのかも」
「そう?」
「朝起きた時、布団にトルンペートがいないとなんか、もやもやする」
「なにそれ」
「一人だけ早起きして、支度とかしてると、なんかこう、なる」
「なるって、何がよ」
「私より支度の方が大事なんだ、みたいな」
「なにそれ可愛い」
「言ってて恥ずかしくなってきた」
「いいわよ。そういうのはもっと言って」
「やだ。子供みたいだ」
「おっきな子供みたいなもんじゃない」
「もう」

 眠くなってきたせいか、なんだか言わないでもいいことを言ってしまっている気がする。
 私はトルンペートの頭をかき抱いて黙らせて、さっさと眠りについてしまうことにした。

 腕の中の頭は、小さめで、きれいに丸く、そして鼻先が小生意気に尖っていた。

「うん」

 いままさに私はトルンペートを独り占めしているのだと思うと、何となく、わからないでもない気持ちだった。

「私は、そう、好きなのかもしれない」

 なんだか、胸のつかえがとれたような気がした。




用語解説

・おっぱいは大事
 単なる脂肪のふくらみに過ぎないのだと言われようとも、運動するとき邪魔にしかならないと言われようとも、それでも、おっぱいは大事なのだった。
前回のあらすじ

お布団にくるまれてガールズトークに興じるウルウとトルンペート。
おっぱいは大事。




 窓も戸も閉め切った竜車の中では、朝の訪れを感じ取ることは難しい。
 まあ、いつも決まった時間に、かちりと歯車の噛み合ったように目覚めるあたしが、惰眠をむさぼるには少しばかり弱い言い訳だけれど。

 あたしを抱きしめたまま静かな寝息を立てるおっぱいもといウルウの寝顔を眺めながら、なんとはなしに昨夜話していたことを思い出して、抜け出しづらくなってしまった、というのが本当のところだった。
 別に、あたしがするりと抜け出して、てきぱきと支度を整えたところで、ウルウは何にも言わないだろうし、朝の準備が楽でいいとさえ思うかもしれない。
 けれどそれで、顔に出ないだけで、確かな言葉にはならないだけで、もしかしたらもやもやとやらを抱えているのかもしれないと思うと、仕方がないなあという気持ちになって、布団から抜け出せないでいるのだった。

 そのままだと二度寝してしまいそうだったので、おっぱいからは抜け出したけれど、暖を求めてむずかるものだから、腕の中からは抜け出せそうになかった。

 日頃のウルウは、いつも何考えてるかわかんない無表情で、目つきも眠そうに細めていることが多いけれど、それでも、ご飯を食べてほんのり唇の端が持ち上がったり、街並みを眺めて目を見開いたり、近頃はその感情の起伏が見て取れるようになってきたと思う。

 表情には乏しいけれど、あえて表情を隠そうとするわけでもないから、よくよく見ていればその違いは必ず目に見える形で浮かんでくるものだったし、慣れてくればその気配で、なんとなくわかっても来るものだった。

 いまも何考えてるのかわかんないってことは結構あるけれど、でも、どう感じているんだろうっていうのは、もうあんまり間違えないんじゃないかと思う。

 そう、そして、寝顔だ。
 起きているときは、ちょっと気取ったり、格好をつけたりするところのあるウルウだけれど、寝ているときはそういったものがみんな取れちゃう。

 辺境育ちのあたしや、もともと色が薄いリリオとはまた違った、ちょっと病的な肌の白さのせいで、最初はまるで死人みたいだと思うこともあったけれど、眺めているとこれほど賑やかな死人はそういないわね。
 だらしなく口を開いて涎を垂らしたりなんかしないけど、夢でも見ているのか微笑んでいる時もあるし、リリオの寝相で布団がはだけたり、あたしが抜けだしたりしてぬくもりが消えると眉をひそめたりする。

 寝息は静かで、寝返りもあまり打たなくて、寝相はいいけれど、ちょうどいい大きさのものがあると抱き枕にする癖がある。それはリリオだったり、あたしだったり、枕だったり、どこかから取り出した大きなぬいぐるみだったりする。
 それから、顔の近くにあるものに、赤ちゃんみたいに唇をくっつける癖がある。そうすると、安心するみたいだった。
 だからあたしとリリオは、ウルウの顔が自分の方を向いていると、そっと手を寄せてみたりしてみる。そうすると、すり寄ってくるのだった。
 リリオに同じことをすると、舐められたりしゃぶられたり、下手すると噛まれるので迂闊なことはできないわね。

 いまも物寂しそうにしている唇に手の甲を当ててやって、まどろみに安らぎを与えてやる。
 こんなふうに甘やかすから、ダメになるかも、なんて言われるのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていると、何やら視線を感じた。
 振り向けば、がっしりとしがみついたまま寝息を立てるリリオを腰のあたりにぶら下げた奥様が、にやにやと笑っていた。
 別に後ろめたい所はないのだけれど、なんとなく気恥ずかしくなって視線を逸らすと、ますます悪戯っぽい笑みが深くなったような気がする。

 奥様はうん、とひとつ伸びをすると、何のためらいもなく立ち上がり、腰にリリオをぶら下げたままのしのしとあたしたちの布団をまたいで、勢いよく竜車の戸を開いた。
 竜車にはまじないが刻まれていて、閉め切っている限りは風は強く吹き込まないし、息が詰まるということもないけれど、さすがに戸を開け放つとその効果も途切れる。

 南部とはいえ冬の朝。
 冷え込んだ空気がどっと流れ込んで、寝坊助二人がわたわたと目を覚まし始めた。

 竜車の中でリリオとウルウが身を寄せ合うようにして朝の訪れに抗っているのを尻目に、奥様は颯爽と竜車を降りていく。
 あたしも手早く髪を整えて、速やかにそれに続く。武装女中は、朝から完璧でなくてはならないのだ。

 あたしが竜車から降りると、奥様は巨大な赤い毛玉に取り付いていた。
 よく見ればそれは体を丸めて、翼に首と尾を突っ込んで眠っている飛竜二頭だった。
 キューちゃんとピーちゃんは奥様の気配に気づいて起き出し、わしわしと撫でてもらいながら、羽繕いを始めたようだった。
 飛竜乗りは飛竜との触れ合いの時間を多くとるというし、あれもそうなんだろう。

 あたしは水精晶(アクヴォクリスタロ)の水で顔を洗い、口をゆすぎ、朝食の準備に入ることにした。

 石を組んだかまどに改めて火を起こし、新しい鍋で水を湧かす。
 温まるまでの間に、昨日ウルウに羽をむしらせ、内臓を取り除いておいた狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)に手を付ける。
 皮に残った毛や、細かい毛を焼いて処理し、小刀片手に解体していく。
 鳥の類の解体を覚えておくと、他の生き物を解体する時にも役立つわね。
 猪とか大きいのは、解体の手順が違ってくるけど、少なくとも鳥の類はみんな大体同じ造りだから、どうすればいいのかってことはわかってくる。

 今回は昨夜のうちに頭は落として、内臓も抜いてしまったから、まず、関節を外して、腿から下を切り外す。胸肉をあばらから浮かせて、筋を外した手羽ごと引きはがす。骨からささみを抜く。
 骨付きのまま煮たりすると美味しいが、食べるときちょっと面倒くさいし、手短にさっと炒めるつもりなので、骨は外してしまう。骨にそって刃をいれて開き、骨を取り除き、しがみつく軟骨を外す。軟骨も美味しいは美味しいけれど、集めるほどの数はないので、今回は見送りだ。
 こうしちゃうともう、なんていう鳥だったのか見分けるのが難しくなるくらい、いわゆる「お肉」の形だ。

 骨は鍋に放り込んで、だしを取る。

 ささみの筋を取り、余分な脂を切り取り、適当な大きさに切り分けていく。食べてるって感じがするくらいの大きさ、でも下品じゃない程度にころころとした感じに。
 狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)は結構皮の脂が厚くて食いでがある一方、肉の方は割とあっさりとした、臭みのない赤身肉で、羽獣ではあるけれど、どちらかと言えば鳥の類より獣の類の肉に近い味がする。

 切り終えたら下味を入れて、粉をはたいて衣をつける。

 韮葱(ポレオ)の緑の硬い部分は出し取りも兼ねて猪鍋に放り込んでおき、白い部分は肉と同じくらいの感じでざくざくと刻んでいく。個人的にはあればあっただけ嬉しい。
 肉と韮葱(ポレオ)だったら、韮葱(ポレオ)の方がおいしいときだってあるくらいだ。
 
 ハヴェノを出るときに仕入れた甘唐辛子(ドルチャ・カプシコ)があったから、これも新鮮なうちに使っちゃいましょ。鮮やかな赤や黄色、緑の色どりが映えることでしょうよ。
 ヘタを取り、種を外し、肉厚な果肉を刻んでいく。
 ちょっと甘みが強いけれど、ま、悪いことにはならないでしょ。

 これだけでもいいけど、ハヴェノの華夏(ファシャ)街で食べた炒め物が美味しかったのよね。
 こう、変わった形の豆だか木の実だかみたいのが入ってて、なんて言ったかしら、ウカジュ? カジュ? みたいな名前のやつ、あれが美味しかったんだけど、色々食べ歩きしてたら、買って来るの忘れちゃったのよね。

 だから今日は、兜胡桃(キラスユグランド)で代用ね。
 殻付きのまま袋詰めにされた兜胡桃(キラスユグランド)を、もそもそ起き出してちんたら顔を洗っていたリリオに投げつけて、割らせることにする。

 普通の胡桃ならあたしでも割れるけど、投げつけたら武器になるほど硬い兜胡桃(キラスユグランド)は胡桃割りがいる。鍋で炒って温めて、薄く口を開いたところに短刀をねじ込んで割る、というのもできなくはないけど、やっぱり時間かかるし、面倒くさいのよね。

 その点、リリオは素手で平然と割っていく。
 小さい手の中でばきばきと恐ろしい音を立てて兜胡桃(キラスユグランド)が割れていく。
 試しにと手に取ったウルウが、しばらく取り組んで、それから真顔でリリオの作業を見つめてた。
 そうよねえ。あれ人間が割れる硬さじゃないわよねえ。

 リリオがあくびまじりにばきばきと兜胡桃(キラスユグランド)を割っている間に、あたしは出汁の取れた鍋をかまどから降ろし、揚げ物用の鍋に油を満たして火にかける。

「鍋いくつ持ってるのよ?」
「え、いくつでしたっけ………ウルウ、鍋何個あったかしら?」
「えーっと、その大鍋ひとつと、揚げ物用ひとつと、寸胴鍋と、片手鍋が二つ、あ、三つか、あとは、土鍋ひとつと、フライパン……浅鍋が二つ、華夏(ファシャ)鍋の大きいのがひとつ、小さいのがひとつ、それから」
「もういいわ。ウルウちゃん、私のパーティに入らない?」
「お・か・あ・さ・ま!」
「冗談よ。半分は」
「もう!」

 突っ込まれるまで完全に忘れてたけど、そうよね、鍋だけでもこんなにあるって異常よね。
 便利だからあたしは何にも言わないけど。

 鍋に用意した油は、葡萄種油(ヴィンセモレオ)だ。
 香りがないからなんにでも合わせられるけど、逆に言うと油の香りを生かしたい時にはちょっと物足りない。今日は揚げ物ってわけじゃないから、これでいい。揚げ物として香りをつけたい時は、香りの強い油をちょっと加えてやればいい。

 油の温度が低いうちから、兜胡桃(キラスユグランド)を放り入れて、じんわり過熱して水分を飛ばしていく。これやると油が一発で汚れるからあんまり好きじゃないんだけど、でもまあ、そこまで気にする程じゃない。
 どうせ油はウルウに大量に持たせてるもの。

 兜胡桃(キラスユグランド)が仕上がったら、狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)の肉を油通し、というより揚げちゃう。カリッと揚げちゃう。
 で、野菜は油通し。

 油を油入れに濾し入れて、古布で残った油をふき取り、揚げ物鍋をリリオに放り投げる。洗い物くらいはして貰おう。
 
 華夏鍋を取り出してよくよく熱して、油返ししたら、刻んでおいた生姜(ジンギブル)大蒜(アイロ)を炒めて香りを出し、狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)のガラの出汁と牡蠣油(オストル・サウツォ)醤油(ソイ・サウツォ)でたれを作り、味を調え、調え……

「こんな感じだったっけ?」
「大丈夫?」
「不味くはないわよ。なんか記憶と違うだけで」
「まあ、隠し味もあるだろうしねえ」

 まあ大体こんな感じだったからいいわよ。
 材料を放り込んでざっくり絡めて、出来上がりだ。
 それから、昨夜の猪鍋の残りを温めて、かなり豪勢な朝ごはんのできあがり。

 華夏(ファシャ)の調味料使って、華夏(ファシャ)料理っぽくして見たけど、やっぱりまだまだ違うわね。美味しいは美味しいけど。

 朝食を済ませ、あたしたちは今日の旅程を確認する。
 広げた地図は、南部のものと、そして東部のものね。
 普通の旅ならその地方の地図があればいいけど、なにしろ一度にかなりの距離を飛ぶ竜車だから、あっさりと地方をまたげるわけね。

 奥様は東部の地図をとんとんと指さす。

「今日は、そうねえ、このあたりまでかしらね」
「えーと……バセーノ子爵領ですね」
「どんなところ?」
「そうですねえ、温泉で有名ですね」
「温泉」

 ウルウが食いつくけど、でも、いくらなんでも竜車で温泉街に乗りつけるってわけにはいかない。
 かといって、山や森に竜車を隠してちょっと寄ってみる、なんてのも難しい。
 なあんだ、と露骨に気落ちするウルウはわかりやすいけど、まあ、あたしも残念だ。
 なんだかんだ、あたしたち、お風呂やら温泉やら楽しみにしてるものね、いっつも。

「ああ、でも、辺境から帰ってきた時に、山の中に温泉見つけたのよ」
「秘湯ってやつですか?」
「そうねえ、その時にちょっと手を入れて入れるようにしたから、まだ使えるんじゃないかしら」

 寄る?
 と悪戯っぽく笑う奥様に、私たちの答えはもちろん決まっていた。

 朝から枝肉を平らげた飛竜たちによって竜車は空高く飛び上がり、ウルウは朝ごはんが出てこないように床に沈んで黙り込んだ。

 東部へ向かい、徐々に北上していくにつれて、段々と寒さも深まってきた。
 まだまだ辺境程じゃあないけど、南部と比べたらやっぱり冷え込む。
 南部じゃあ雪なんてめったに見られないけど、東部はちょくちょく降る。地域によっては、かなり積もるところもあるらしい。
 北部でもあまり雪が積もらないところがあるから、単純に北の方で寒いから雪が降るってわけじゃないのよね。
 雪は結局雲によって運ばれてくるわけだから、風向きとか、山で遮られたりとか、いろいろ条件がかかわってくるわけ。

「ヴォースト出てきた時は、まだ秋で雪は降ってなかったよね」
「あのあともうすぐに降り始めてたと思いますけどね」
「え、そんなに降り始めるの早いの?」
「ヴォーストあたりは大分雪降るらしいですからねえ」
「辺境はもっと早いわよ」
「一年の半分くらいは雪が積もってるって言っていいですよね」
「じゃあ私たちがつく時はもう、すっかり雪が積もってるわけだ」
「そうなるわね」

 雪の積もった辺境の景色を思い浮かべて、私たちはほうと息を吐いた。

「ちょっと楽しみだね」
「うんざりするわね」

 噛み合わない呟きに、思わず顔を見合わせるのだった。




用語解説

韮葱(ポレオ)(poreo)
 南部原産のネギ属の野菜。茎は太く、葉は平たい。
 基本的に成長とともに土を盛り上げて育てる根深ネギ。
 軟白化した部分を主に食用とし、緑の葉も柔らかい部分は食す。
 リーキ、ポロネギ。

甘唐辛子(ドルチャ・カプシコ)(dolĉa kapsiko)
 甘味種の唐辛子(カプシコ)を品種改良したもの。
 鐘型、やや大型の果実で、辛みはない、またはほとんどない。
 緑、黄色、赤など、さまざまな色が存在する。
 生食のほか加熱したり、乾燥させて粉末状にしたものを色素や香辛料として用いる。
 ピーマン、パプリカ。

華夏(ファシャ)
 大叢海をはさんだ向こう側、西大陸のほとんどを支配下に置く西の帝国ことファシャ国。
 ざっくりと言えば中国のような国家であるらしいが、帝国のように広範であるため、一概には言えない。
 現在は帝国との仲は極めて良好であり大叢海さえなければ気軽に握手したいと言わせるほど。

華夏(ファシャ)
 ハヴェノの一角に存在する、華夏(ファシャ)からやってきた人々が暮らす外国人街。
 異国情緒あふれる町並みで、華夏(ファシャ)料理や華夏(ファシャ)文化などが楽しめる。
 もちろん、活気あふれるこの区画にも、薄暗い面はあるのだが。

華夏(ファシャ)街で食べた炒め物
 恐らく腰果鶏丁(ヨウクォチーディン)
 鶏肉と腰果(ヨウクォ)の炒め物。
 トルンペート達が食べたものは、帝国人向けに調整されたもので、鶏肉を揚げたものにソースを絡めた形だったようだ。

・ウカジュ? カジュ? みたいな名前のやつ
 腰果(アカジュヌクソ)(akaĵunukso)。
 ウルシ科の常緑高木の種子。
 南大陸原産で、華夏(ファシャ)では腰果(ヤオクォ)として利用されているほか、南部でも輸入している。

兜胡桃(キラスユグランド)(Kiras juglando)
 胡桃(くるみ)の一種。
 肉厚で大振りであり、仁は大きくコクがあるが、石のように頑丈な殻でおおわれており、取り出すには苦労する。
 大型の胡桃割りや、万力型の胡桃割りなどが必要で、大量に用意するのはかなりの労力である。
 石で殴ると石の方が割れるほどのあまりの硬さに、胡桃割り人形殺しなどとも呼ばれる。
 

華夏(ファシャ)
 西大陸を治める華夏(ファシャ)で広く用いられる鉄の丸底鍋。
 持ち手や鍋の深さ、大きさなど、いくつか種類がある。

葡萄種油(ヴィンセモレオ)(vinsemoleo)
 葡萄酒(ヴィーノ)を作る過程で得られる種子を絞って得られる油。
 古くは葡萄酒(ヴィーノ)を作る際は、葡萄(ヴィンベーロ)の種類も様々に混ぜ、皮も種も混ぜ込んで作っていたが、洗練されていくうちに副産物として油も搾られるようになった。

牡蠣油(オストル・サウツォ)(ostrsaŭco)
 牡蠣(オストロ)を塩茹でした煮汁を濃縮し、小麦粉などでとろみをつけ、砂糖などで調味したもの。
 華夏(ファシャ)の料理人の間で崇められる食の神ジィェンミンがもたらしたとされる。

・食の神ジィェンミン
 華夏(ファシャ)が西大陸を統一した頃に存在したと言われる料理人。またその陞神した神。
 現在の多彩な華夏(ファシャ)料理の基礎を作り上げたと言われる。
 一説によれば、美味なる料理を求めた境界の神プルプラが異界より招いたともされる。

大蒜(アイロ)(ajlo)
 ヒガンバナ科ネギ属の多年草。球根を香辛料・食用として用いる。ニンニク。

・バセーノ子爵領(baseno)
 東部の領地の一つ。温泉地で有名。
 浴場建築の優れた技術が蓄積されており、美麗な浴場が多く見られる。

・噛み合わない呟き
 降雪地帯とそうでない地帯の出身の人には、雪に対する認識に結構違いがみられる。
前回のあらすじ

朝からがっつりと朝食を摂り、旅に備える一行。
飯の話しかしてねえなこいつら。




 安定して飛行している間はそれなりに会話もできるウルウですけれど、上昇や下降で上下動が入り始めると途端にだめになります。
 窓を開けて冷たい空気に当たることで酔いをごまかして、搾りたて乙女塊大放出ということももうなくなりましたけれど、やはりこの激しい上下動の最中は、できるだけ動かないようにしてこらえるということしかできないようです。

 小食とはいえ朝から結構食べましたし、ちょっと辛そうですね。食べ過ぎたり飲み過ぎたり、またお腹が空き過ぎたりしていると酔いやすいと聞いたことがあります。私は酔ったことがないのでよくわからないんですけど。

 トルンペートは揺れには結構強くて、ウルウを撫でてあげたりと、甲斐甲斐しくお世話しています。誰かのお世話をしている時のトルンペートは本当に生き生きとしています。

 私は本当に、全然平気なんですよね。
 竜車には慣れてますし。
 まあ辺境の竜車はさすがに貴族用だけあって内装も快適ですし、使用する飛竜も気性の大人しい飼育種の、それも安定した飛行の得意な選ばれたものですから、揺れももっと少なく、静かなものですけれど。

 竜車はやがて、ぐわんぐわんと右に左に上に下に斜めにと揺れに揺れながら、どしんと音を立てて着地しました。この着地の荒っぽさも、竜車用に調教された飛竜では味わえない醍醐味ですね。結果としてウルウは死にそうになりますけれど。

 外の物音が落ち着いて、お母様が外から竜車の戸を開けてくれますと、冷たい空気が吹き込んできて、ウルウがほっとしたように息を吐きました。
 ひどい酔いも、寒気に急にさらされることで体が驚いて、すっかり忘れてしまうようでした。

 まあそれでも、お腹の中身がひっくりかえったような気持ちの悪さがすっかり消えてしまう訳ではないようで、まさしく亡霊(ファントーモ)のような顔つきのままなのですけれど。

 そんなウルウを支えながら竜車を出ると、そこは山間にぽっかりと開けた窪地のようでした。

「前に来た時、ちょうどよく着地できる場所がなかったから、キューちゃんに薙ぎ払ってもらったのよね」

 訂正、山間にぽっかりと開いた傷痕のようでした。
 溜めに溜めた咆哮(ムジャード)でも盛大にぶちかましたのか、えぐり取られたような窪地にはいまも木々は復活していないようでした。

 恐らくはかなり荒れ果てていたであろう大地は、いまはすっかりと雪に覆われて、竜車の車輪もすっかりと埋もれてしまっています。
 試しにと降りてみると、柔らかな新雪に膝のあたりまで埋まってしまいます。これは結構な積り具合です。

「……これ、どうするの?」

 雪に慣れていないウルウは、埋もれてしまった私を引き上げながら、小首を傾げます。
 確かに膝まで積もった雪を()()ながら歩くのは大変なものです。
 冷えますし、濡れますし、疲れます。
 でもご安心を、雪国にはきちんとそうした時の対処法があるのです。

 私たちは荷を開いて、雪輪(ネジシューオ)を取り出して、早速靴に取り付けました。
 これは木の枝や木材を楕円状に曲げて組んだもので、雪にかかる体重を広く分散することで、深く沈み込まないようにするというものです。堅い雪を上るために爪も付いていて、慣れれば大抵の雪道は楽に歩けるようになります。
 慣れないうちは、ちょっと歩き方を気にしながらじゃないと、雪輪(ネジシューオ)同士をぶつけてしまいますけれど。

 私たちは雪輪(ネジシューオ)をしっかりと固定して、降り積もった雪の上に降り立ちました。
 こう、雪を踏んでいると、冬だなって感じがしますね、やっぱり。
 ウルウも初めての雪に興味津々のようで、面白がるように足踏みしています。

「ちょっと歩くけど、この先に温泉が湧いてるのよ。竜車はさすがに通れないけど、行く?」

 もちろん、私たちはそのつもりでした。
 最低限の荷だけ持って、私たちはお母様の後に続いて、入り組んだ山道に挑みました。
 人の立ち入らない土地だけに道は全く獣道の有様で、伐採するものもないために木々が密集して入り組み、そのくせ木の根ででこぼことした道には滑りやすい雪が積もっているという、実に面倒この上ない道でしたが、私たちもそれなりに足腰の鍛えられた冒険屋です。
 慣れてくればそう苦労することもなく踏破できました。

 慣れるまでが大変でしたけど。

 私とトルンペートはなんだかんだ辺境で慣れていますけれど、ウルウは雪の山道は初めてですし、体が大きいのでちょっと大変そうでした。
 それでもその大変さを楽しむ余裕くらいはあるようで、遅れずについてきたのは全く大したものです。

 私たちの後を、二頭の飛竜もついてきていましたが、こちらはさすがに木々の間をきれいにすり抜ける、というのは、体の大きさからして難しいようでした。
 落ち着きのあるキューちゃんは、体が大きい割に巧みに道を選んで歩き、精々灌木を踏みつぶしたり、細い木々を押しのけて折ったりといった程度ですけれど、小柄なピーちゃんはまるで落ち着きがなく、無駄に広げてしまった翼が引っかかったり、上から落ちてきた雪にぴいぴい鳴き叫んだり、賑やかなことこの上ありません。

 こうしてみると、野生種の飛竜というものは縦にも横にも大きいように見えて、柔らかな羽毛の下は意外とほっそりと細身なようでした。ちょっときついかな、と思うような隙間も、体をよじりながら通り抜けてしまうのでした。

 やがて木々がまばらになり、足元の雪が薄くなって地面が見えてくるようになりました。なんだかほんのり暖かくなってきて、心なし硫黄のようなにおいもし始めます。
 そうしてすっかり視界が開けると、もうもうたる湯気が立ち込める広々とした泉が、そこには広がっていたのでした。
 そこらの公衆浴場よりもよほどに広く、小舟くらい浮かべていてもおかしくないくらいの広さがあり、駆け寄って湯に触れてみると、少し熱い程度で、ちょど良いくらいの湯加減です。

 これならすぐにでも浸かれるのではないかと思えるくらいに好条件の温泉でしたけれど、お母様に窘められました。

「直接入ると危ないわよ」

 どういうことかというと、どうもこの温泉を住処とする魔獣がいるそうで、迂闊に飛び込むと、その魔獣と一戦交えるようなことになるというのでした。
 お母様は返り討ちにしてやったとのことでしたけれど、何も一頭や二頭だけという話ではありませんし、気にしながら浸かっていたのでは全く落ち着かないから、一角に岩で囲んだ湯船をこさえたとのことでした。

 成程、確認しに行ってみれば、温泉の一角に、ごつごつとした岩を組んで区切られた湯船があり、野趣あふれる趣となっていました。
 なんでも、近くにあった岩を切り崩して、外側を区切り、底に平らな石を敷き、きれいに湯が出入りするように調整してと、一日仕事で組み上げたというのですからなかなかの力作です。

 というより、岩を切り崩すってどういうことなんでしょうか。
 岩って切るものでしたっけ。
 あまりに自然に言われたので流してしまいましたけれど。

 ともあれ、こんな素敵な露天風呂です。
 浸かっていかないというのはあまりにももったいない話です。
 私たちは手分けして、葉っぱやごみを取り除き、汚れた岩を磨き、心地よく入浴できるだけの準備を整えました。

 後は入浴するだけですけれど、さすがに四人全員で一緒に入る、というのは難しそうです。
 お母様が自分用に作ったものですから、そこまでの広さは無くて、入れても二人が限度と言ったところでしょう。

 私たちはすこし相談して、二人ずつに分かれて入浴することにしました。
 つまり、最初に私とお母様がお湯を頂いて、その間、ウルウとトルンペートは今晩の夕餉の食材を集めに行きます。
 そして交代して、ウルウとトルンペートが入浴している間に、私とお母様が集まった食材を調理して夕餉の支度をする、とこういう訳です。

 旅を通して仲も深まってきましたけれど、やはり、人見知りのウルウや使用人としての意識があるトルンペートがお母様と二人きりで裸の付き合いというのは厳しいでしょうし、この組み分けは仕方がありません。ええ、仕方がありません。

 ウルウとトルンペートが期待しているように言い残して去っていくのを見送って、私たちは早速温泉を楽しむことにしました。
 もこもこに着ぶくれた服を脱いでいくときはとにかく寒いのですけれど、温泉に飛び込めばそんな寒さもどこへやら、体はほっこり暖かく、顔はひんやり涼しくと、露天風呂特有の心地よさに頬も緩みます。

 これで風があって吹雪いていたらさすがにつらいのでしょうけれど、今日は雪も降らず風も吹かず、穏やかな天気でのんびりと温泉を楽しめます。

 私の白い肌がお湯に温められてほんのり赤く染まっていくのと対照的に、お母様の褐色の肌は血の色がそこまで目立ちません。
 南部の陽光あふれる気候と、陽気な人々の気性、それらに実に似合った肌色だとは思いますけれど、私とは似てないなと思うとちょっと寂しくはあります。

 瞳の色も、同じ翡翠色とは言いますけれど、お母様のそれが鮮やかな青を含むのに対して、私は少しくすみがちな気がします。

 兄のティグロなどは、髪はお父様譲りの灰金色ですけれど、肌はお母様とそっくりの柔らかな褐色で、目元などもよく似ているような気がします。

 他にも、数えてみれば似ていない点が多いように思われて、なんとなく落ち着かない気持ちで、私はお母様を眺めていました。
 もちろん、そんなことは実に下らない悩みで、似てる似ていないなんて大したことではなく、私がお母様の娘であるということは間違いのない事実なのですけれど、しかし長く離れていた時間が、私に不思議な距離感を覚えさせているのでした。

 お母様に甘えたいという気持ちは強く、実際、ハヴェノの家でも、旅の中でも、お母様に甘えているとは思います。けれど、そうした素直な甘えたい盛りの私の中に、同時に、どう触れていいのかわからない、少し気がねする、そんな緊張があるのも確かなのでした。

 もしかすると、大人になっていくにつれて、親と子のあいだには、自然とそうした距離感のようなものが生まれて、大人と大人の、互いに自立した関係性というものができていくのかもしれませんでしたけれど、あの冬に置いてけぼりにされた子供のままの私が、うまくそれに適合できないでいるのでした。

 温泉の暖かさと、冬の空気の冷たさ、それに挟まれて、ぼんやりとお母様を眺めてみましたけれど、お母様の方はまるで何も気にしたところなんてなくて、ただひたすらに飛竜乗りの疲れをお湯の中に溶かし込んでいるような、そんな暢気な顔です。

 もしかしたらこれも大人の余裕というもので、お母様の中にも、離れ離れになっていて、見ないうちにずいぶん大きく育っていた娘に対する気がねとか遠慮とかそういうものがあるのかもしれませんでしたけれど、

「リリオ、あんた少しはおっきくなったけど、胸は小さいままね」
「なんですとー!?」

 全然そういうの、ない気がしてきました。
 自然体すぎるお母様に、なんだか気が抜けるような気もします。

 あんまり建設的でないことにあれこれと頭を使ったところで、私の頭では大したことなんて考えられそうにありませんし、それならまだ、ウルウたちが何を採ってきてくれるのか、晩ご飯は何になるだろうか、そういうことを考えていた方がよほどましという気もしてきました。

 私がため息とともにいろんなものをお湯の中に吐き出すと、お母様はそう言えば、と何気なく呟きました。
 どうせろくでもないことなんだろうなあ、とは思いながらも耳を傾け、

「ウルウちゃんとトルンペートちゃん、どっちが本命なの?」
「ぶフッ」

 本当に、ろくでもないことでした。





用語解説

咆哮(ムジャード)
 竜種が用いる攻撃方法の一つ。大量の魔力を風精などに乗せて吐き出す攻撃で、竜種が持つ最も威力の高い攻撃手段である。

・雪をこぎ
 雪をこぐ。雪の積もった道を歩くこと。
 藪をこぐ、のようにも使う。
 北方・辺境訛り。こざくなどとも。

雪輪(ネジシューオ)(Neĝŝuo)
 かんじき。雪に沈み込まないように、足元の面積を広げる道具。
前回のあらすじ

山間の温泉に辿り着く一行。
いよいよもって旅行番組の様相を見せ始めてきた。





 湯の花漂い、分厚い湯気の覆う温泉で、ぼんやりと釣り糸を垂らしている姿っていうのは、かなりシュールだと思う。シュールっていうか、クレイジーっていうか。

「……これ、本当に釣れるのかしら?」

 横で()()を片手に見守るトルンペートも、実に疑わしそうな眼だ。
 そりゃそうだ。
 温泉で魚釣りなんて、聞いたことがない。

 でも、マテンステロさんによれば、この温泉に棲む魔獣こと温泉魚(バン・フィーショ)とやらが、結構な数、泳ぎ回っているのだという。
 そして温泉魚(バン・フィーショ)が泳ぎ回っているということは、それが餌にしている生き物や、逆に温泉魚(バン・フィーショ)を餌にしている生き物も、多分、いるんだろう。

 半信半疑ではあるけれど、なにしろファンタジーな世界のことだ、温泉を住処とする魚類がいても、そういうものかもしれないと私なんかは思う。

 例えば、ドクターフィッシュとか呼ばれる魚類は、確か三十七度程度の水温でも生きていけるはずだ。
 足湯なんかでこう、角質を食べてくれる奴だ。
 私は体験したことがないのだけれど、くすぐったくて面白いとは聞いたことがある。

 他にも、温泉に広がる藻だとか、四十度を超える温泉で確認されたオタマジャクシだとかいるらしいし、極端な話で言えば、深海の熱水噴出孔付近では八十度を超える中で棲息しているポンペイワームとかイトエラゴカイとかいるしね。

 そう考えると、風呂の神なる超存在が実在しているこの世界のことだ、温泉の中で平然と棲息している生き物がいてもおかしくはないと思う。
 現地人のトルンペートからしても疑わしく思えるみたいだけれど、まあ、いないと決めつけるより、いるかもって思った方が面白いし、いざ遭遇した時に慌てないで済む。

 それに、私の場合、いるかいないかもわからない生き物を待ち続ける必要はない。

「いるなら必ず釣れるし、いないなら釣れない」

 そう、この《火照命(ホデリノミコト)の海幸》ならね。
 こうして釣り糸を垂らしているこの釣り竿、ゲームアイテムの一つで、水辺で使えば確率でアイテムが釣れるというものだった。
 幸運(ラック)極振りの私がこの釣り竿を使えば、百パーセント何かは釣れるのだ。
 そして生物相が限られているだろうこの温泉であれば、いるとするのならばほぼ確実に温泉魚(バン・フィーショ)が釣れること間違いなしだ。

 あまりの便利アイテムっぷりに私自身呆れるほどだが、隣のトルンペートなどはあきれ顔で、またいつもの便利道具かという顔をしている。便利だからいいや、というスタンスではあるみたいだけど。

 今回は、釣り気分を少しでも味わえるかと思って、《生体感知(バイタル・センサー)》での魚群探しはせずに、適当な場所で糸を垂らしているので少し時間はかかるだろうが、もとより釣りとはそういうものなんだろう。よくは知らないけど。

 ぼんやりと湯気を眺めていると、トルンペートが温泉に向けていた疑わしげな視線を、《火照命(ホデリノミコト)の海幸》に向ける。

「詮索するわけじゃないけど」
「なあに?」
「そういうのって、どこで手に入れた訳?」

 そういうのっていうのは、つまり、この《海幸》だけでなく、《(ニオ)の沈み布団》とか、《魔除けのポプリ》とか、トルンペート達の言うところの便利道具のことだろう。
 改めて尋ねられて、私は少し考えこんでしまった。

 フムンと漏らしたきり黙り込んだ私に、トルンペートはどことなく気まずげに鼻を鳴らした。

「別に、詮索する気はないわよ。言いたくないなら、」
「どこで手に入れたんだろうねえ」
「はあ?」
「いや、誤魔化すわけじゃなくてさ、本当に、これ、どこから手に入れたんだろうねえ、私」

 自分でもわからないのかと呆れられたけれど、実際、わからないものは仕方がない。

 ゲーム内のどこでどんな条件を満たしてどのように入手したのかということなら、余すところなくしっかり覚えている。攻略wikiも丸暗記してるから、効率のいい入手法だって教えてあげられる。
 でも()()は、()()()は、私がゲーム内で集めたアイテムそのものではないのだろう。

 私のいまの体が、心臓麻痺かなんかで死んでしまった私の魂だけを積み込んだ、プルプラお手製のお人形であることを考えれば、まあやっぱりプルプラお手製の付属品みたいな感じなんだろうなあ、と思う。
 あの割といい加減な所のありそうな神様のことだ、深く考えずに設定そのままに流し込みで作った感じがしてならない。

 なのでどこで手に入れたのかと聞かれたら、わからないながらもこう答えるほかない。

「神様からもらったって言ったら信じる?」

 下手な宗教みたいな文句だ。
 我ながらあんまりにも胡散臭すぎて、鼻で笑いながら言ってしまったが、トルンペートはちょっと肩をすくめるだけで、どうかしら、と呟いた。

「普通なら鼻で笑うところなんでしょうね」
「だろうね」
「でもあんたなら、ありそうかな、くらいには思うわ」
「そうかなあ?」
「いくらなんでも世間知らずが過ぎるし、なんか変なまじないとか使うし」
「フムン」
「便利道具だけじゃなくて、あんた自身が神様の落とし子だって言われても、まあ、信じられなくはないわ」
「落とし子ねえ」
「深い意味はないわよ?」
「うん? うん」

 温泉魚(バン・フィーショ)が生息していると言っても、入れ食いになるほどの数はいないようで、釣り竿はまだピクリともしなかった。
 これが釣りというもののスタンダードならば、私は多分釣りには向かないだろうな、という気分になってきた。つまり、だんだん飽きてきた。
 こうしてトルンペートが隣で話し相手になってくれていなければ、さっさと《生体感知(バイタル・センサー)》や《薄氷(うすらひ)渡り》などを使って強引に捕獲に移っているはずだ。

 そうした方が手っ取り早いし効率がいいのは確かなのだけれど、趣は全くないし、完全に作業になってしまうので、私のスタンスではないなという気はする。

「そういう便利道具って、どれくらい持ってるのよ?」
「いっぱいあるけど、秘密」
「なんでよ」
「便利道具に、便利に頼られたら、面白くないし」
「そんなつもりはないけど」
「《自在蔵(ポスタープロ)》とか、《布団》とか、割と使い倒してるよね」
「あ、やっぱり《自在蔵(ポスタープロ)》も普通じゃないのね」
「まあね」
「どんなのがあるのよ。役に立たないのでもいいから」
「役に立たないものはあんまり持ってないけど……ほら、あれとか」
「なによ」
「酔いを誤魔化す時に抱いてるぬいぐるみとか」
「熊のやつ? なんか特殊なの?」
「特に何もないんだよね」
「はあ?」
「フレーバー・テキスト……説明書きが気に入って、持ってたんだよね」
「どんなの?」
「『ぼくはタディ、七つの子のお守り役。ぼくはタディ、夢の国までお供する。ぼくはタディ、忘れられても傍にいる。ぼくはタディ、君のテディベアになりたい。ぼくはタディ、君だけのテディベア』」
「なんだか、不思議な響きだわ」
「特に効果はないはずなんだけどね。抱いてるとちょっと安心する」
「おっきなくせに」
「心は小さくてね」
「ところで」
「なあに?」
「引いてるわ」
「あっ」





用語解説

温泉魚(バン・フィーショ)
 温泉に棲息する魚類。魔獣。
 水精に働きかけることで温泉という特異な環境に適応しているのではないか、ということで魔獣と言う風に扱われているが、実際のところ生物学的に適応しているのか、魔術によって適応しているのかは判然としていない。
 体長は最大で一メートルほどで、サメの類に似る。
 肉は甘く、脂肪が少なく柔らかい。
 腐りづらく、山間などでよく食べられる。
 しかし鮮度が低下すると独特の臭気を発するため、あまりよそでは知られていない。
 肉食で、おなじく温泉に棲息する魚類や両生類を主な餌とするほか、温泉に入ってきた北限猿(ノルダシミオ)などを襲うこともあるとされる。

北限猿(ノルダシミオ)
 猿の仲間のうちで最も北に棲息する一種。
 果物や昆虫を主に食べる他、時に肉食もする。
 赤ら顔で、北部で酔っぱらいを指してよく猿のようだとよばうのはこの北限猿(ノルダシミオ)が由来である。
 人里近くにも出没し、食害などを出すこともあるが、多く人の真似をして、危害を加えないことが多い。
 温泉に浸かることで有名。

・ドクターフィッシュ
 コイ亜科の魚ガラ・ルファの通称。
 人間の手足の表面の古い角質を食べるために集まってくるとされる。
 三十七度ほどの水温でも生存でき、温泉にも生息する。

・温泉に広がる藻
 高温の温泉などに適応した極限環境微生物。
 様々な種類が存在する。

・四十度を超える温泉で確認されたオタマジャクシ
 南シナ海はトカラ列島に所属する口之島で発見されたリュウキュウカジカガエルのオタマジャクシは、最高で四十六・一度にも達する温泉に棲息している。
 生体のカエルは温泉では発見されていないことから、幼体の時のみの特性ではないかとされる。

・ポンペイワーム
 栗毛の牡(二〇一九年現在三歳)。父にItsmyluckyday、母にBriecatを持つ。
 ではなく。
 深海の熱水噴出孔間近で発見された生物。
 八十度程度の熱水付近に棲息するため、火山噴火の犠牲で有名なポンペイの名を与えられたとか。
 本編には登場しない。

・イトエラゴカイ
 同じく深海の熱水噴出孔付近で発見された生物。
 高温でも壊れにくい特殊なタンパク質でできているそうだ。
 本編には登場しない。

・神様の落とし子
 優れた才能の持ち主や、美貌の持ち主、また幸運の持ち主などを呼ばう言い方。親のわからない孤児や迷子などを指すこともある。
 また、非常に魅力的である、運命を感じる相手であるなどという言い回しでもある。

・《薄氷(うすらひ)渡り》
 ゲーム内《技能(スキル)》。《暗殺者(アサシン)》系統がおぼえる。
 設定では「一時的に体重をなくす」ことができるとされ、水上を歩行可能にするだけでなく、使用中所持重量限界を緩和できる。
 また足音が消え、一部の敵Mobから発見されなくなるまたは発見されにくくなる効果がある。
『生きるということは、薄氷を踏んで歩くが如く』

・酔いを誤魔化す時に抱いてるぬいぐるみ
 ゲーム内アイテム。正式名称 《ネバーランド・タディ》。
 効果は特になく、イベント報酬として手に入るが、売値も高くない。
 イベントの雰囲気を味わうためのもので、イベントを終えて手に入れた時は何となくしんみりするが、プレイヤーの開く露店などで束で売られたりしていてちょっともやもやする。
『ぼくはタディ、七つの子のお守り役。
 ぼくはタディ、夢の国までお供する。
 ぼくはタディ、忘れられても傍にいる。
 ぼくはタディ、君のテディベアになりたい。
 ぼくはタディ、君だけのテディベア』
前回のあらすじ

中身も盛り上がりも落ちもない釣りだけで一話使いやがった、という回。





 釣れるまで半信半疑どころか二信八疑くらいだった温泉魚(バン・フィーショ)とやらは、鮫の仲間らしいなかなか凶悪な魚だった。
 竿を引く力も強いし、こちらを引きずり回して粘る体力もなかなかのもの、そして釣り上げたあともがちがちと牙を鳴らす様は、実に凶暴ね。

 釣りなんてあんまりしないからうまいやり方がわからず、びったんびったん暴れまわる温泉魚(バン・フィーショ)相手にあたしたちは大いに狼狽え、てんやわんやと騒いだ挙句、ウルウがひらりと針を一刺ししてとどめを刺して、なんとか黙らせたのだった。

 一メートルほどはある大物を都合二匹釣りあげて、無駄に汗をかいてしまったあたしたちは、もうこんなものでいいかと早々に切り上げることにした。

「釣りは楽しめた?」
「しばらくはいいかな」

 やっぱりあたしたちにこういうのは向いてないのだ。

 あたしなら、短刀や投げ矢で直接水中の獲物を狙った方が早いし、ウルウも水中の魚の位置がわかるし、水上歩行なんて芸当もできるから、もっと手早い手段がある。
 リリオなんかは最近、雷の術を操るようになったから、水に剣を差し込んで、ばちりと一撃やってやれば魚が勝手に浮いてくるという始末だ。

 冒険屋として多芸であった方がいいのは確かだけど、でも向き不向きってのはあるもの。仕方ないわね。

 あたしたちが温泉魚(バン・フィーショ)を引っ提げて帰ってきた頃には、リリオたちは温泉から上がって服を着ているところだった。
 温泉に入っている間は暖かくていいんでしょうけど、寒さに凍えながら急いで服を着ている姿はなかなかにみっともない。
 仕方がないんでしょうけど、もはや湯冷めとかそういうのじゃないわよね、これ。
 せっかく温まった分を、すべて発散してしまっていそう。

 二人に温泉魚(バン・フィーショ)を託して見送ったあたしたちは、そういう不安とは無縁だ。
 あたしはにやりと笑った。
 何しろ、ウルウには便利な懐炉(マノヴァルミギロ)がある。
 触れている間、あたしも全身ぽかぽかする、便利な奴だ。
 あまりに便利すぎて、リリオには黙っている。しょっちゅうウルウに引っ付くから、気づいてるかもしれないけど。

 さすがに二人で一緒に握りながら服を脱ぐってのは難しいから、ひとりずつこの魔法の懐炉(マノヴァルミギロ)の恩恵にあずかりながら服を脱いで、温泉へと身を投じた。
 そうすると、少し熱いくらいのお湯が、じんわりとあたしたちの体を温めてくれて、これが得も言われぬ心地よさなのだった。

 ウルウの魔法の懐炉(マノヴァルミギロ)も暖かくて心地よいのだけれど、あれは全身が一時に暖かい膜でおおわれるような具合で、心地よくはあるけれど、情緒がない。
 温泉の熱はじんわりと体に染み入ってくるような具合で、はだえから骨の芯までゆっくりと温められて、思わずほうとため息が漏れ出るようなものだった。

 風呂好き温泉好きのウルウと行動すると、町の風呂屋はもちろん、野宿の時の()()()()()風呂など、いろんな風呂を味わうことになるのだけれど、天然の温泉に申し訳程度に湯舟を繕ったこの露天風呂は、なかなかに野趣あふれて面白みがあった。

 見れば少し離れて、飛竜のキューちゃんとピーちゃんがざぶざぶと湯を揺らしながら温泉へと潜り込んでいるところだった。
 いままでは、あたしたちが釣りをするのを邪魔しないように、控えていてくれたようだ。
 温泉は、真ん中あたりは結構な深さになるようで、大きな飛竜が鼻先を突き出すようにして全身を浸かれるくらいにはなるようだった。
 文字通り羽を伸ばして温泉を満喫する様は、超生物、圧倒的存在としての飛竜というよりは、同じ熱を共有する入浴客の一つでしかなかった。

 生意気にも突っかかってくる温泉魚(バン・フィーショ)を片手間に追い払い、時にはおやつ代わりに頭から齧って湯を赤く染めているあたりはやっぱり化け物なんだなと思うけど。

 そんな、ある種出鱈目に贅沢な光景を眺めながら、あたしたちも温泉を楽しむ。
 ()()()()()風呂よりは広いけれど、二人一緒に入るとちょっと手狭かなという具合の湯船に肩まで浸かって、あたしたちは肺の中身を絞り出すような吐息を漏らした。
 ちょっと熱いくらいの湯は、肌にぴりぴりして、悪くない。

 横を見れば、ほっそりしているくせになかなかな代物である二つの()()()()が湯に浮き沈みしていて、眼福であるような気もするし、どうして自分の胸元には存在しないのだろうかという侘しさも感じる。
 そしてその()()()()の持ち主は、結い上げてまとめた黒髪のほつれを気にしながら、ぱしゃぱしゃと肩にかけ湯などしている。

 ほんのり火照るうなじは珠のように湯をはじいていて、これで二十六歳は嘘だろうと常々思わされる。
 大した化粧品もない旅で、保湿がどうの冬場はかさつきがどうのとか言いながら、これだ。
 あたしやリリオはまだ若さがどうのと言い訳できるけど、ウルウの場合はなにかズルしてるんじゃないかというくらいに肌の張りがいい。
 本人は、以前はもっとカサカサ肌だったんだけどねなどと言っているけれど、法の神の裁きにでもかけてやりたいところだ。

 なにしろ大抵の男より背が高いから、そういう点ではあまりモテないかもしれないけれど、でもそれを補って余りあると思う。

 異国情緒あふれるというか、西方人めいた顔立ちは、独特な魅力がある。
 肌は病的なくらい白いけど、そのちょっと病的なくらいが、なんだか背徳的というか、不思議に惹きつけられる。そして病的な色合いなのに、水は良く弾くし、もちろん柔らかく滑らかだ。

 対照的に深く黒い長髪は、櫛を通しても手ごたえがないくらいに艶やかで、枝毛なんかひとつもありゃしない。
 艶やかすぎて髪留めが落ちちゃうことはあるけど、それにしたっていろんな髪形も試せるし、お得感ありよね。

 目つきは悪いというか、いつも不貞腐れたような伏し目がちというか、眠たげというか、人と目を合わせたがらないんだけど、それが絶景にみはったり、美食にそっと細められたりすると、なんだか秘められたものを見たような気分にさせられる。
 とどめとばかりに泣きぼくろが色気を振りまいてきやがるのよね。

 欠点である背の高さだって、何しろ体形がいいから、ああ、そう言えばっていう程度でしかない。
 出るとこ出てるけど、ほっそりとしていて、でも骨が浮いてるってわけじゃないのよ。
 技込みでとはいえリリオを押さえつけられるくせに、全然筋肉質な所がなくて、たおやかな感じってこういうのを言うのかしらね。
 もしかしたらあたしでも押し倒せるんじゃないかって思わせるくらいなのよ。実際やったらするりとかわされるんだけど。

 まあ、うん、勿論これが贔屓(ひいき)目っていうやつなのはよくわかってるわ。
 身内だから、親しいから、よく見える。
 実際、最初に見た時の印象は、とにかく根暗で、目つきが悪くて、ひょろっとうすらノッポな、なんか不気味な奴って具合だったわ。
 おまけに詳しくは気取らせないくせに、じんわりと圧のある気配だから、結構怖いものがあったわ。

 でも付き合っていくとね、いい女なのよね、こいつ。
 酒場とかでご飯食べる時も、自然と給仕に取次しやすい場所に陣取るし、人付き合い苦手っていうか嫌いなくせに、率先してみんなの注文とかするし、ハシとかいう二本の棒で器用に取り分けるし。
 そんなことしなくていいのよって思うし、言うんだけど、気持ちよく食べてる姿が好きだからって言われたら、もう、仕方ないじゃない。そりゃお酌してもらうわよ。
 おかげさまで、がっつくだけのリリオの食事でさえ、なんとなく品よく調整されるわよ。
 なんていうのかしらね、ウルウ曰くの、女子力っていうの?
 そういうの感じさせるわよね。
 あたしもするから、リリオだけ女子力がない感じなのよ。実際あんまりないんでしょうけど。

 なんかこうやって並べ立てていくと、かなりの優良物件みたいに見えてくるから不思議よね。
 でも初見でそう言う風に思えるかっていうと、無理よね。無理無理。断固として無理。
 あたしが無理だったんだから無理に決まってるわよ。

 付き合えばいい女なんだけど、付き合うまでが長いのよ。
 人見知りで、人間嫌いで、それを助ける妙なまじないまであるから。
 だって、姿消すのよ、こいつ。
 見えないんだから、いないのと一緒じゃない。
 リリオがおしゃべりしたがるから、最近は姿さらしてることも多いけど、必要ない時はとことん姿消してるのよ、こいつ。

 で、姿現してもよ、壁があるのよ。壁。
 仕方がない時とか、さっき言った、注文する時とか、必要があればこいつ流暢に喋るのよ。
 喋るんだけど、親しみがないっていうか、完全に仕事で喋ってるのよ。

 笑顔も浮かべるけど、商人たちが浮かべる営業用の笑顔でしかないし、やろうと思えば小粋な会話もするけど、本心なんか欠片もないし。
 あれよ、お酒注文するときに給仕の娘なんかに微笑んだりするじゃない。そりゃあたしだってするし、リリオもするし、大概するんじゃないかしら。不愛想に、酒と飯、なんて注文するの、滅多にいないわよ。
 あの笑顔が完全に作り物なのって、もう怖くない?
 無意識に、とか、反射的に、っていうんじゃないの。意識して笑顔作ってるのよ、あれ。
 そのこと自体怖いし、そんなことしなきゃならなかった以前のウルウの住んでたとこも怖いわよ。

 リリオのくだらない冗談に塩対応してるときのやる気ない顔の方がよっぽど感情こもってるのって、どうなのかしらね、ほんと。

 だからこうして温泉とか入ってて、完全に力の抜けた顔とか見せられると、あたし、すごい偉業を成し遂げたんだわって気分さえするわね。
 気難しい野良猫が手から餌食べてくれた時みたいな。

「……あのさ」
「あによ」
「そんなに見られると穴が開きそうなんだけど」
「いっそ開きなさいよ」
「ええ……そんな無茶苦茶な」

 あたしの視線を煩わしそうに手で遮りながら、ウルウは片頰を引くつかせた。
 にやつくのを押さえてたりする顔だ。
 こういうなんでもない会話が、意外とこいつのツボだったりするのだ。

「あんたさ」
「なあに?」
「リリオが奥さまにべったり甘えてるから、寂しいんじゃない?」
「トルンペートこそ、リリオのお世話できなくて寂しいんじゃないの」
「むっ」

 最近あたしとの二人組が多いから、案外寂しがり屋な所のあるウルウは思うところがあるんじゃないかとつついてみたら、図星だったようで、むきになったように言い返してきた。
 ちょっと強がりそうになったけど、こういうとき、こちらもむきになるとよろしくない。
 あたしは大人な対応をしてやることにした。

「まあ、そうかもしれないわね」
「……意外」
「そう?」
「のような、そうでもないような」
「まあ、寂しいのはほんとよ」

 奥様が姿を消してからの四年間、リリオの傍にいたのはあたしだ。
 それまでだって、奥様がつきっきりだったわけじゃない。お世話して、面倒見たのは、あたしだ。
 リリオと一番時間を長くともにしたのは、あたしだっていう自負さえある。

 それが母親と言うだけで、急に現れて横からかっさらっていくというのは、どうにも釈然としない。
 そりゃあ、四年ぶりで、しかも死んでいたと思っていた相手との再会だ、しばらくの間は仕方がないとは思う。思うけれど、納得がいくかと言えば、全然そんなことはないのだった。

「あんたも寂しいんでしょ」
「……寂しい、んだと思う」

 改めて尋ねてみれば、素直にそう返してくる。
 あたしたちは二人とも寂しがり屋なのだ。

「寂しいっていう気持ちは、よくわからなかったんだけど、多分これが寂しいって気持ちだと思う」
「どんな気持ちよ?」
「なんかこう、胸がさわさわして、きゅうっとして、落ち着かないんだ」
「ああ、うん、そんな感じよね」
「父さんが死んだ時みたいな」
「思ったより重たいの来たわね」
「でもお母さんっていうのは、リリオにとってすっごく大事だと思うから。私はお母さんって、いたことがないからよくわからないんだけど、それでも、邪魔しちゃいけないと思うんだ」
「あー」

 あたしにも、母親ってものは、よくわからない。
 母親も父親もいなかったあたしにはそもそも親ってものがよくわからないけど、でも大事なんだろうなってことはわかるし、邪魔しちゃいけないってこともわかる。

 わかるけど、それであたしたちの寂しさがどうなるってわけではないのだ。
 むしろ遠目に見てる分、一層寂しくなる気さえする。

「もうさあ」
「うん」
「あの親子は放っておいて、あたしたち二人でくっついちゃおうかしら」
「チーム暗殺者だね」
「最強の二人ね」
「違いない」

 あたしたち寂しがり屋二人は、ちょっと手狭な露天風呂の中、肩を寄せ合ってしばらくぼんやりとそのぬくもりを楽しんだ。
 そうしてとけあうぬくもりの中で、あたしはふっと思うのだった。

 でも、きっとそれじゃ物足りないんだわ、と。




用語解説

・法の神
 法の神ユルペシロ(Jurpesilo)のこと。
 神々の裁定者。法と裁きの神。揺るがざる大天秤。
 正しきとあやまちとを見定めて裁くという。
 ただし、その司る法は神々の法であり、人の世の法ではない。
 人の罪は人の法で裁かれるべきであり、神は人を裁くことをしないという。
 ユルペシロは人の裁判を手助けしてくれるが、あくまでも人の法に則った判決を述べるだけで、その法が正しいかどうかは言及しないとされる。
 かといって神々の法に則って裁いてもらうのはお勧めできない。
 既知外の神々の法がどうして人々を守ってくれるなど考えられるだろうか。

・ハシ
 箸。二本の棒を片手で使ってものを食べるという頓狂な発想の食器。
 西大陸の華夏(ファシャ)などで広く使われている。

・女子力
 決まった中身も根拠もない、発言者の定義するところの「女子っぽさ」の度合いを示すとされる架空の力。
 「じょしぢから」と読むとまた別のパゥワになる。
前回のあらすじ

よもやこの章は飯と風呂の話だけで終始するのではないか、と思わせる回。




 先に温泉を頂いた私とお母様は、ウルウたちが釣ってきた温泉魚(バン・フィーショ)なる見事に大振りな鮫のような魚を受け取り、早速調理するべく竜車まで戻ることにしました。

 とはいえ、温泉ですっかり温まったのに、服を着るときにはどんどんと冷えていき、すっかり着込んだころにはまた温泉に入りたくなっていました。

「リリオもまだまだねえ」
「むー。お母様はずっこいです」
「使える技を使ってるだけよ」
「むぐぐ」

 一方でお母様は平然としています。
 風精に働きかけて空気の壁を作り、氷精を遮って寒さを防いでいるのです。
 何の装備もない素っ裸で、呪文の詠唱もなく、息でもするかのようにそんな術を使える方がおかしいのであって、私は冒険屋としてはいたって普通だと思うのですけれど。

「普通どまりでいいなら、それでいいんじゃない?」
「そう言われると、むぐぅ」

 冒険屋の道は、長く険しいです。

 私もなにしろ辺境貴族の端くれ。魔力の量は多く、精霊にも好かれやすいのですけれど、いかんせん精霊と触れ合い、操る術に通じていません。
 ここしばらくの間にお母様にもおばあちゃんにもいくらか手ほどきしていただきましたけれど、どうにも不器用なのか、なかなか身に付きません。
 身に着ければ便利などとちょっとした宴会芸か何かのように気楽に言ってくれますけれど、本来魔術というものは一朝一夕でできるものではありません。

 そう考えると、戦闘で使えるようなものはあまりないとはいえ、細々と魔術の使えるトルンペートはかなり努力家で、そして素質があったのでしょう。
 ウルウも精霊がくっきり見えると言いますし、変わったまじないをたくさん使いますし、真面目に習えば魔術も使えるようになるのではないでしょうか。
 この二人がいるなら別に私は使えなくても問題ないんじゃないかという気もしてきましたけれど、なんだかそれはそれで悔しいので、努力あるのみですね。

 来た道を辿るように竜車まで戻る道を、温泉魚(バン・フィーショ)に雪をまぶして、表面を洗いながら進みます。これは単に後で洗う手間を惜しむだけでなく、温泉から釣り上げられたばかりでほんのり暖かい温泉魚(バン・フィーショ)を急速に冷やしてやるための工程でもあるそうでした。
 冷やしすぎると身が固くなるそうですけれど、なにしろ温泉でホッカホカの魚です。多少しっかり冷やした方がよさそうです。

「これも、温泉なんかに住んでるけど、一応鮫の仲間なのよ」
「鮫って初めて食べます」
「このくらいの距離だったら気にしないでもいいんだけど、鮫って時間がたつと独特のにおいがしてくるのよね」
「足が早いんですか?」
「腐りはしないのよ。でもその代わり、変なにおいがするのよね」

 においはするけれど保存は利くので、海辺よりもむしろ山間などで珍味やご馳走として食べられることが多いのだとか。その独特の香りを興がるということもあるけれど、新鮮な魚に慣れたハヴェノ人であるお母様にはあんまり好みじゃないみたいです。

 なので、どんな魚でも一緒ですけれど、水揚げしたらすぐにしめて、氷水などで冷やすのが一番鮮度をよく保てる方法なのだそうです。
 直接氷で冷やさず氷水で冷やすのは、直接だと氷焼けと言って身が悪くなることが……この温泉魚(バン・フィーショ)はいいんでしょうか。直接雪がっしがっしなすり付けてますけど。
 まあお母様は細かいこと気にしなさそうですね、うん。

「私が真っ先に氷の魔法を覚えたのは、猟師との付き合いが多かったってのもあるかもしれないわね」

 幼いころから好奇心旺盛だったお母様は、よく知り合いの船に乗せてもらって、様々な魚の捕り方やしめ方、捌き方を教わったそうで、それが巡り巡って、辺境まで新鮮な魚介を届けるという、お父様との出会いにつながったわけですね。
 なんだか物語のように運命的ですね。

 その後の道中も、飛魚(フルグフィーショ)は身が黒くなりやすいし、脂は足が早いし、塩漬けは硬くなるし、水槽で運ぶにはでかすぎるし、しめ方の改良や超低温の氷室の発達がなければなかなか流通させられない雑魚だったとか、氷室で寝かせると味が深まることがわかってから値が高くなり始めたとか、海辺の町に住んでいないとなかなかわからないことを教えてもらいました。
 それに、凍らせた大型魚は凶器になるとか、烏賊(セピオ)の墨を蕃茄(トマト)と煮込んで練り物(パスタージョ)に和えたものがうまいのだとか、ほかにも様々なとりとめもないことを話したように思います。

 それは情報を交換するというよりは、全く中身のない、ただ言葉を交わすことだけを楽しむ、そんなどうしようもなく下らない、そして贅沢な会話だったように思います。

 竜車に戻った私たちは、ふわふわと柔らかい新雪をある程度投げてしまい、その下から顔を出した硬い雪をさらに踏みしめて押し固めて、しっかりとした土台を作ります。
 そうしてここに空気がよく通るように薪を積み、火を起こします。
 今日は、まあ二基あればいいでしょうかね。
 雪の上で火が起こせるのだろうかとお思いかもしれませんが、起こせます。
 こればっかりは慣れですけれど、慣れさえしていれば大抵の状況で焚火は熾せます。

 かまどを作る石は、雪で埋まってしまって探すに探せませんので、五徳に鍋をかけて湯を沸かします。

 火が安定したら、早速温泉魚(バン・フィーショ)を捌きにかかります。
 と言っても私は鮫の類を捌いたことがありませんから、余さず美味しくいただくためにも、ここは慣れたお母様に手本を見せていただきます。

 まずお母様は、水袋の水とたわしを使って、改めて温泉魚(バン・フィーショ)の表面を洗ってぬめりを落としました。
 次に魚を捌くための分厚い包丁を取り出すと、手早くひれを落とし、頭を落とし、内臓を抜き取り、尾を落とし、三枚に卸していきます。
 手馴れているので非常に速やかに作業は進んでいくのですけれど、鮫の肌というものはなかなかに丈夫なものらしく、どんどん刃が削れて切れなくなっていくのが窺えます。それでもするするっと手妻のように一尾を捌き通して、奇麗な白っぽい桃色の身をさらす三枚おろしの完成です。

 お母様が包丁を研いでいる間に、私も自前の包丁で挑戦してみましたが、これがなかなか難敵です。
 鮫肌が非常に丈夫なのは承知の上でしたが、内側も意外でした。骨が恐ろしくやわいのです。
 鮫という生き物はあれだけ強そうななりをしておいて、なんとその骨は軟骨ばかりでできていたのです。
 三枚に卸そうとして骨に刃を当てると、うっかり骨ごと身を切り落としてしまいそうになるくらいでした。

 ちょっと時間をかけながらもなんとか捌き終えましたけれど、断面はがたがたになってしまって、お母様のと比べると明らかに見た目が悪く、きっと身の締りも悪くなっていることでしょう。

「まあ、誰だって最初はそんなものよ」

 私のささやかな消沈を気にも留めず、お母様は沸かしたお湯をざばざばと温泉魚(バン・フィーショ)の皮にかけていきます。
 するとなんということでしょう、あれほど丈夫で頑固だった皮がべりべりと簡単にはがれるようになるではありませんか。
 温泉に住む温泉魚(バン・フィーショ)も、さすがに沸かし切ったお湯にまでは耐えられなかったようです。

 お母様の捌いたきれいな方の身は、サシミにするということで、濡れ布巾をかけてしばらく置いておきます。
 いまのうちに切っておいてしまってもいいのですけれど、そうすると乾いてかぴかぴになってしまいます。サシミもまた、出来立てが美味しいのでしょう。

 サシミに使わない、私の捌いた方の身と、頭や骨と言った部位を使って、私が火の入った調理を施します。
 サシミも美味しいですけれど、寒いですし、やはり温かいものが欲しいですものね。

 まず玉葱(ツェーポ)をざくざく切ります。
 塘蒿(セレリオ)もあったのでこれも入れちゃいましょう。ざくざく切ります。
 人参(カロト)がしなびてきてたので、これもざくざく切っちゃいます。
 大体の材料はざくざく切っちゃえばいいんです。
 大体の大きさをそろえて、火の通りが同じくらいになるようにって考えておけばいいんです。
 まあ、あんまり考えてやってないんですけど。

 野菜を見比べて、生姜(ジンギブル)を二欠け。
 一欠けは叩いて細かく刻みます。
 もう一欠けは、うすーく薄切りにして、それをさらに千切りにして、針のように細くして、水にさらします。

 しなびかけた韮葱(ポレオ)も見つけたので、頭の青い部分はぶつ切りにして香り出しに、白い部分は、外側のしなびたところを取り払い、適当な長さに筒切りにして行きます。
 ちょっと考えて、この筒を切り開き、芯を取り除き、繊維にそって千切りにして行きます。
 出来上がったら先ほどの生姜(ジンギブル)と一緒に水にさらします。

 この針生姜(ジンギブル)と白髪韮葱(ポレオ)は、ウルウに教えてもらったやりかたでした。

 温泉魚(バン・フィーショ)の身は程よい大きさに切り分け、兜は割り、中骨の部分も適当な大きさに分けます。

 身の部分に軽く下味をつけ、粉を叩き、油を温めた浅鍋でさっと両面を焼いて、すぐに取り上げます。
 これは表面を固めてうま味を逃がさない工夫だとかで、ここで火を通してしまう必要はありません。
 私一人ならこの時点で食べてしまっても良いような気分にもなりますけれど、ここはちゃんと最後まで頑張っていきたいところ。

 同じ浅鍋で微塵切りにした生姜(ジンギブル)を温めて香りを出し、野菜の類を放り込んだらざっくり炒めます。玉葱(ツェーポ)は先に炒めると甘みが良く出ますし、人参(カロト)は火が通りづらいのでここである程度通しておきたいところ。
 塘蒿(セレリオ)? 塘蒿(セレリオ)はなんかこう、うまいぐあいにやればいいんじゃないですかね。
 生でも火を通しても美味しいんですからあんまり気にしなくていいんですよ、うん。

 炒め終えたら深めの鍋に移して、先ほど焼き目を入れた温泉魚(バン・フィーショ)の身を崩さないように並べ、隙間にアラを放り込みます。
 そこに水、白葡萄酒(ヴィーノ)をひたひたになるまで注ぎ……ひたひたでいいんでしたっけ。まあいいでしょう。もう注いじゃいましたし。多すぎたら火にかけて飛ばせばいいんですよ。うん。

 で、塩と、砂糖を少し、月桂樹(ラウロ)の葉を適量放り込んで煮込みます。
 月桂樹(ラウロ)の葉はいいですよね。大体何に使っても間違いないですから、適当に放り込んでもまずくなることはありません。
 トルンペートなんかは、いろんな香辛料を使い分けますし、ウルウもなんだかんだ鼻がいいので、それらしいものを放り込みますけど、まあ、私は、うん、これも私らしさというか?

 船旅や、長期の旅のために、お湯で溶くだけで使える固形の出汁なんかもあるらしいですけれど、あれはさすがにお高いのでそうそう気軽に使えません。
 いや、私たちの資金からしてみたら使えないことはないんですけど、あんまり割に合わないなあ、と。
 瓶詰の濃縮出汁なんかはまだ手が届くお値段ですけれど、移動が多い冒険屋にとって、割れ物の瓶詰はちょっと使い辛いんですよね。
 これらがあれば、ちょっとの手間で味わいはぐっと深くなる、らしいのですけれど、そういうのは町のお店とかで外食する時に食べればいいかなあ、と。

 トルンペートの鹿節(スタンゴ・ツェルボ)なんかは、割とお値段は張りますけど、壊れ物でもなし、お手軽でもあり、ある種、この固形出汁のお仲間と言っていい気もします。

 まあ、私はよくわからないので、わかる方法で調理するとしましょう。

 勘で味を見極めたら、蓋をして少し火からはなし、コトコトと煮込みます。
 後は美味しくなあれと祈るだけです。

 コトコト煮込まれる鍋の前で私が美味しくなれの祈りと踊りを捧げていると、やがてお風呂上がりでほかほかとしたウルウとトルンペートが帰ってきました。
 ゆっくり温泉を楽しんできたんでしょうけど、なんかほかほかしすぎてません?
 私が凍えながら着替えて、冷め往く体温を感じながら帰ってきたのと全然違いません?
 またなにか不思議な便利道具でも使っているんでしょうか。
 ぐぬぬ。

 ともあれ、二人が帰ってきたのならば、ご飯です。
 私が煮込みの最後の調整をしている間に、お母様はサシミに取り掛かります。

 美しい桃色をさらした温泉魚(バン・フィーショ)の柵は、笹穂のようにするりと細長い包丁でもって、するりするりと鮮やかな手つきでサシミにされていきます。
 サシミってただ切ればいいものだと最初は思っていましたけれど、違うんですよね。使う包丁、切り方、また温度や、しめ方、そういったもの全てが、ありありと出てきてしまう繊細な料理なんですね、サシミ。

「お魚は寝かせた方が美味しいんだけどねえ。南部人はあんまり寝かせないで、ちょっと歯応えの(こわ)いのが好きよねえ」

 お肉も熟成させた方が美味しいですものね。
 普段は獲ったらその場で食べちゃいますけど。

 お母様はするすると切っていった――サシミは「引く」と言うそうですね――温泉魚(バン・フィーショ)を皿に奇麗に盛り付け、そして新たな切り身を、今度は沸かしたお湯にくぐらせます。
 茹でるのだろうかと思いきや、さっと取り上げて、冷水につけて冷ましてしまいます。
 これは湯引きというそうで、表面だけ加熱され、生臭さや余分な脂を取り去るほか、身が引き締まる効果もあるそうです。
 冷水から引き揚げられた柵は、霜が降りたように白く染まっており、これをサシミのように引いていくと、薄桃色の中心部が鮮やかに表れて、見た目にも美しい仕上がりです。

 またもう一つ柵を取って、こちらは串を刺して、なんと火で炙り始めました。
 串焼きで食べるにしては大きい、と思っていると、これも表面を炙るにとどめて、冷ましてしまいます。
 こちらはタタキと言うそうで、西方の炙り焼きのやり方だそうです。
 藁で焼くと香りがついてよいとのことでしたが、さすがにそこまでの準備はありませんでした。
 こちらも生臭さなどが取れる他、水分が飛ぶので味が濃く強まるそうです。
 また、食欲をさそう香ばしさがたまりません。

 刺し身は醤油(ソイ・サウツォ)で、湯引きは胡桃味噌(ヌクソ・パースト)と酢などを混ぜた酢味噌で、タタキは大蒜(アイロ)生姜(ジンギブル)、さらし玉葱(ツェーポ)などの薬味と一緒に、柑橘の汁と醤油(ソイ・サウツォ)を合わせたものでいただくと美味しいとのことでした。

 私の方はもう少しかかりそうでしたので、先に頂くことにしましたけれど、これがまた、同じような姿をしているのに、その味わいは三者三様に素晴らしい物でした。

 まずサシミです。
 少し独特の香りが鼻につくかな、とも一瞬思うのですけれど、脂が豊富でとろりと舌にとろけて、甘みが強いんですね。
 ちょっと不安になるくらいくにゅりくにゅりと柔らかくて、脂を食べている、という感じなのですけれど、これがまた美味しい脂なんですね。

 湯引きはがらりと印象が変わりました。
 表面が締まっていて、先ほどの不安になるような柔らかさに、確かな歯ごたえをもたらしてくれるんですね。そして酢味噌がまた、いい。甘みのある胡桃味噌(ヌクソ・パースト)を酢がさっぱりとした具合に仕上げてくれていて、濃厚、だけどあっさりという味の妙なのですね。
 そして、湯引きの効果と酢の効果との合わせ技か、先ほどは少し気になった独特の匂いが、全然気になりません。

 タタキは力強い印象でした。
 まず薬味を使わずに合わせ醤油(ソイ・サウツォ)だけで頂いてみたのですけれど、これがなかなか、味わい深い。湯引きと同じように身が締まっているだけでなく、炙りによる香ばしさが鼻に心地よく、またいくらか脂っこいなと感じ始めた舌に、身自体のうま味が濃縮されて感じられるんですね。
 ここに大蒜(アイロ)生姜(ジンギブル)玉葱(ツェーポ)と言った力強い薬味をけしかけますと、温泉魚(バン・フィーショ)の方も、追いやられるなどと言うことは全くなく、力を合わせて舌に挑んでくるんです。
 その上で決して重たく感じさせないのが、合わせ醤油(ソイ・サウツォ)の柑橘の爽やかさですね。

 サシミを楽しんでいる間に、煮込みの方もいい具合に誤魔化せもとい出来上がりましたので、皿に取り上げて、最後の仕上げです。

 水にさらしておいた針生姜(ジンギブル)と白髪韮葱(ポレオ)をよく絞って、これでもかっというくらいたっぷりと煮込みの上に散らします。散らすというか、もう、乗せます。たっぷり。
 そして枸櫞(ツェドラト)を搾って果汁をかけまわし、さらにその上から、浅鍋で熱した橄欖(オリヴォ)油をかけまわします。
 バチバチと跳ねながら、橄欖(オリヴォ)油の香りが漂い、爆ぜた枸櫞(ツェドラト)の汁が爽やかな香りをあげ、また韮葱(ポレオ)生姜(ジンギブル)とが高熱にさらされて、しおれながらその香りを解き放ちます。
 香りの三重奏と、跳ね上がる油の音に、視線も集まります。

華夏(ファシャ)街でやってたわよね、こういうの」
「あれ美味しかったんで、やってみようかなと」
「あれは蒸し物だったけどね」

 仕上がった白葡萄酒(ヴィーノ)煮込みを、熱々の内に頂くことにしましょう。

 火を通した温泉魚(バン・フィーショ)の肉は、生の時の柔らかな食感とは異なり、しっとりとした鶏肉のような歯応えで、硬すぎるということはなく、口の中でほろりとほどけていくようでした。
 味わいは淡白ですが癖はなく、白葡萄酒(ヴィーノ)の香りが邪魔されずに漂います。
 また、針生姜(ジンギブル)と白髪韮葱(ポレオ)と一緒に食べると、じゃくじゃくとした食感と辛みが、この控えめな味わいにすっきりとした芯を一本通してくれるようでした。
 煮込み料理には普通はあり得ない、かけまわした油の香ばしさもまた、味わいに複雑さを与えてくれます。

 また、出汁とり用として放り込んだアラも、侮れません。骨周りなどぷにぷににとした食感がたまらず、軟骨ももう少し煮込めば美味しくいただけそうなものでした。

「かなり凶暴な魚だったけど、こうしてみると美味しいねえ」
「存外、危険な魔獣の方が美味しいのかしら」
熊木菟(ウルソストリゴ)も調理次第で美味しくいただけましたしねえ」

 温泉魚(バン・フィーショ)は美味しいだけでなく、その鮫皮はおろし金に使ったり、剣の柄巻きに用いたりと、素材としてもなかなかに優秀なようでした。

「温泉も楽しめて、美味しいご飯も食べれるなんて、いい場所だね」
「住みついたらあっという間に温泉魚(バン・フィーショ)絶滅させそうよね」
「そう言えばキューちゃんたちはどこへ?」

 ご飯時になっても帰ってこない飛竜二頭に小首を傾げると、ウルウとトルンペートは顔を見合わせ、そしてぼそりと呟いたのでした。

温泉魚(バン・フィーショ)、絶滅したかも」

 おやつと温泉をたっぷりいただいた飛竜二頭が帰ってきたのは、それから少しした後でした。




用語解説

玉葱(ツェーポ)
 ネギ属の多年草。球根を食用とする。タマネギ。

塘蒿(セレリオ)
 セリ科の淡色野菜。独特の香気がある。セロリ、オランダミツバ。

人参(カロト)
 セリ科ニンジン属の二年草。もっぱら根を食用とする。ニンジン。

月桂樹(ラウロ)
 クスノキ科の常緑高木。葉に芳香があり、古代から香辛料、薬用などとして用いられた。
 食欲の増進や、消化を助けるとされる。

・固形の出汁
 固形出汁《ブリョーノ・クーコ》(buljono kuko)と呼ばれるものは様々な種類が存在する。
 例えば、材料となる牛、羊、豚、鶏などを蜂蜜のような粘度になるまで煮詰め、オーブンで乾燥させたもの。
 例えば、乾燥・粉砕した原料を粉類、調味料、香辛料などとともに押し固めたものなどである。
 どちらもある程度大掛かりな工業手法が必要であり、また需要がそこまで高くないため、現在はまだ高価であるか、希少である。
 多量の油脂で食材などとともに出汁を固めたものは安価であり、手作りも難しくなく、またカロリーが高く寒冷地や難所では人気がある。

・美味しくなれの祈りと踊り
 そんな宗教的儀式は存在しない。

枸櫞(ツェドラト)
 ミカン科ミカン属の常緑低木樹。シトロン。檸檬(リモーノ)の類縁種。
 でこぼことした楕円形で、果皮は柔らかいが分厚く、果汁も果肉も少ない。
 酸っぱい種類とそうでない種類がある。

橄欖(オリヴォ)
 モクセイ科の常緑高木。オリーブ。
 果実は油分を多く含み、古くから油が採られてきた。
 また採油だけでなく、身は食用にもなり、塩漬けが良く出回っている。
 橄欖(オリヴォ)の木材は硬く丈夫で、やや高価ながら道具類によく使われる。
前回のあらすじ

マジかよ。マジで飯だけで終わっちまった。しかも八千字近くもひたすら飯の話だよ。
どうなってるんだ。





 鮫っていうのは初めて食べたけれど、なかなか悪い物じゃなかったね。
 食べたことがない身としては、ちょっとゲテモノ枠というか、食材としてはなかなか見れない生き物だったけれど、調理して食べてしまえば、普通に美味しいものだった。
 刺し身はちょっと微妙かなー、美味しいけどちょっと気になるかなーという感じだったけれど、煮込みは普通に白身魚として美味しい部類。

 フカヒレとかキャビアとか、変な例としては肝油ドロップとか、鮫由来の食品は割と見かけたことあるけど、鮫の肉って出回らないよなあ。
 普通にスーパーとか、回転寿司屋とかで見かけるものだったら、普通に食材として受け入れる感じだよね。
 いや、出回ってるとこには出回ってるんだろうけど、私の住んでたとこ、別に沿岸地帯でもなし、そういうの見たことなかったな。
 そもそもスーパーでお買い物、なんて随分してないけど。

 鮫もとい温泉魚(バン・フィーショ)を美味しくいただいて、心配していた温泉魚(バン・フィーショ)絶滅も、軽くおやつ程度にいただいてたくらいだったらしいので杞憂に済んだし、私たちは焚火にあたりながらのんびりと(テオ)などを頂いていた。

 そう、(テオ)だ。甘茶(ドルチャテオ)じゃない。南部産のお茶なのだ。

 帝国各地で飲まれている甘茶(ドルチャテオ)は、ベリー系やハーブ系など、甘いお茶はなんでも甘茶(ドルチャテオ)と呼ぶので、地方によって全然違うというのは前にも言ったと思う。
 南部にはいわゆる甘茶(ドルチャテオ)というのはない。
 他の地域の甘茶(ドルチャテオ)がそれ自体甘いのに比べると、お茶に蜂蜜とか砂糖とかを自分で加えて甘さを調節するのが南部流だ。
 西方から茶葉も輸入しているし、茶の木自体の栽培もしてるらしいから、実際、私の知るお茶と同じか、品種がちょっと違うくらいのものなのかもしれないというか、うん、普通に紅茶だな、これ。

 私なんかは懐かしいような気もして少しホッとするけど、帝国では茶の木のお茶はそこまで人気じゃないらしい。栽培が難しいし、発酵も難しいし、渋みがあんまり好きじゃなかったり。

 南部で栽培してるのは、お茶好きの貴族が頑張って挑戦し続けた成果みたいなもので、完全に趣味の産物らしい。
 庶民なんかはむしろ、南大陸とかいうところから輸入したり、自前でもちょこちょこ栽培したりしているという、豆茶(カーフォ)の方が好みなんだとか。
 豆茶(カーフォ)も大概苦いけど、伝わってきた時に砂糖と乳をたっぷり入れて飲む甘い飲み物として紹介されたみたいで、ブラックで飲むのは少数派だ。

 こう、丼みたいなでかい器にたっぷりとカフェオレ注いで飲むんだよ、南部人のティータイム。
 下手な甘茶(ドルチャテオ)よりよほど甘いよね、あれ。

 メザーガなんかはいつもブラックで飲んでたっけ。胃が荒れそうな顔してるのに。
 彼の場合はあんまり甘いものが好きじゃないのと、覚醒作用が目的みたいなところはあると思うけど。

 マテンステロさんは甘ったるいカフェオレ大好きみたいだけど、今回の旅には豆茶(カーフォ)は持ってきていない。
 乳の類はあんまり日持ちしないから旅には持ってこれず、しかし乳がないのに豆茶(カーフォ)なんか飲めるかという、そういう理由らしい。

 このお茶は、まあ少しくらい渋みはあるけど、砂糖でどうにかなる程度だから、許容範囲らしい。
 私にはよくわからない感覚だ。

 お茶を済ませて、歯を磨いて、肌に保湿用の油を塗って、あとは寝るだけなんだけど、あくび交じりにもそもそ竜車に向かった私たちに、マテンステロさんが宣言した。

「今夜は組み分け変えましょ!」

 眠そうで実際眠い我々三人と違って、マテンステロさんは実に元気だ。
 この人が元気じゃないところ見たことないけど。

 もっともらしく語るところによれば、竜車での旅は長く退屈で、閉塞感に満ち、倦み飽きてしまう。そんな状態は心身によろしくないことは明白である。だから、刺激が必要なのだと。
 私としては変わったご飯食べられるし、温泉にも入れたし、十分刺激たっぷりな一日だったのだけれど、旅慣れたマテンステロさんにはそうではないのかもしれない。

 面倒くさいから明日でいいんじゃないですかね、と消極的なムード漂う我々を気にした風もなく、マテンステロさんは楽しげに私たちを見回して、そして密かに身を潜めようとしたトルンペートの首根っこを問答無用で掴んだ。
 あれ怖いんだよなあ。
 目の前にいるのに挙動が読めないんだもん。
 いつの間にか掴まれてるんだよ。
 マテンステロさんに言わせれば、単なる手先の技らしいけど。

 借りてきた猫よろしく大人しくなったトルンペートを引っ提げて、マテンステロさんは意気揚々と竜車に乗り込んでいった。
 去り際に垣間見えたトルンペートの目は必死で助けを求めていたように見えなくもないけど、お腹いっぱいでお茶もいただいてお目目がしぱしぱするくらい眠いから、多分見間違いだろう。私は何も見てない。知らない。わからない。

 リリオも悟りを開いたような目で見送っていることだし、我々は何も見なかった。うん。
 私たちはどちらともなく頷きあって、もそもそと竜車に乗り込み、《鳰の沈み布団》に潜り込んだ。

 いつもは三人で包まっている《布団》は、やはり二人だと、少し広く感じる。
 もともと一人用の《布団》なんだから、これでも定員オーバーのはずなんだけど。

 一日空いたせいか、ちょっと遠慮しがちに潜り込むリリオを、今日は私が抱きすくめて枕代わりにする。普段はリリオの方から抱き着いてきて、放っておいてもくっついているから、私の方から抱きしめると、どこら辺に手を当てたものか、どう抱えたものか、ちょっと要領がわからなくて、少しまごつく。
 リリオの方も、私からそうしてくるとは思わなかったようで、きょとんとしている。
 トルンペートと同じ感じでいいとは思うけど、トルンペートとは違って、子供みたいに体温が高いから、なんだか腕の中がほっこり暖かくて、不思議な感じだ。

 別に何日も何週間も離れていたってわけじゃないのに、なんだかそのぬくもりが不思議と懐かしく感じられた。

 なんだか居心地が悪いというか、座りが悪いというか、もぞもぞと抱きなおしているうちに、リリオも落ち着いてきたらしくて、いつものようにむぎゅうと抱き着いてきて、おかしそうに笑う。

「今日はなんだか、随分と積極的ですね」
「うん。寂しかったから」
「ふなっ!?」

 明らかにからかうような口調だったけれど、私は昼間の内にトルンペートとの会話の中で、ある程度自分の中の寂しさというものを認識し終えている。
 自分でもちょっと子供っぽいかなとは思うけれど、ずっと一緒に旅をしてきたリリオが取られてしまったような気持ちだったのかもしれない。
 いまは、なんだかちょっと安心しているような感じだよ。

 うつらうつらとしながらも、ある程度まとめ終えた素直な所を伝えてみると、リリオは意外そうに、でもなんだかくすぐったそうに、小さく笑った。

「いつもはつれないのに、今日は随分素直です」
「うん、まあ、トルンペートとお話してね、ちょっと気づいたっていうか」
「気づいたって寂しいってことですか?」
「それもある」

 確かに私は寂しさを感じている。
 そのことに気付かされた。
 そして、寂しい理由にも。

「私さ」
「はい」
「私、結構君たちのこと、リリオとトルンペートのこと、気に入ってるみたいだ」
「まあ、そうなんでしょうねえ」
「うん、君たちのこと、大事で、大切で、一緒に居たい」
「……はい」
「はなれたくない」
「……はい」
「ねむい」
「もうちょっとがんばってっ」
「おやすむ……」
「あああ……勿体ないような惜しいような……」

 腕の中に抱きすくめた体温。
 顔を埋めた髪から漂う、お手製リンスの少し甘酸っぱい香りと、ささやかな皮脂の匂い。
 そっと回された小さな腕。

 どれも、以前ならばきっとおぞましくさえ感じたいきものの感触が、なぜだか今の私にはとても安らいで感じられるのだった。




用語解説

・カフェオレ
 豆茶(カーフォ)は南大陸で発見されたが、当初は原住民の間で食用とされるほかは、その効用を偶然知ったものが眠気覚ましなどに用いる程度だった。
 いつごろからか豆茶(カーフォ)の豆を潰し、湯で溶いて飲用とする飲み方が始まったが、この頃はある種の秘薬のような扱いだった。
 南大陸の開拓が進んでいく中で豆茶(カーフォ)は薬用として目をつけられ始めたが、まだ一部の宗教関係者などが用いる程度だった。
 いつごろからか、恐らくは偶然から、豆を炒ると香ばしく香りが立つことが発見され、焙煎されるようになると、豆茶(カーフォ)は嗜好品として広まるようになった。
 人々の間に広まっていくうちに、より飲みやすくするために砂糖や乳を入れる飲み方が一般的になっていったとされる。
 南大陸で一般化されたこの風習は商人たちによって帝国に持ち込まれ、気候の近い南部で何とか栽培に成功し、南部での豆茶(カーフォ)の喫茶文化が洗練されていったという。
 渋みや苦みを伝統的に苦手とする帝国全体としては、すでに甘茶(ドルチャテオ)が喫茶文化の柱となっていたこともあり、趣味人のあいだでのみ流通することとなり、「知ってはいるが飲んだことはない」という人間が増えた。
 このため、南部外の人間が砂糖や乳を入れる「正しい」飲み方を知っていると、情報通であるとみなされることがある。

 なお、諸説あるが、最初に豆茶(カーフォ)に砂糖や乳を入れる飲み方を提案して、大々的に広めた人物は、神の啓示を受けたと証言したとされる。「神は()()()()()()()()を望まれている!」という発言が当時の新聞に残っているが、完全に発狂していて詳しくはわからなかったとのことである。
前回のあらすじ

恐ろしく短く感じる……飯の話をしていないというだけで……宇宙の 法則が 乱れる!





 あたしはリリオ程じゃないにしてもチビだけど、それでもそんじょそこらの連中には負けっこない。
 街道を荒らしまわる盗賊どもだって、あたしにかかればひとひねりだ。
 生中な連中じゃ手も足も出ない魔獣だって、最後にゃ鍋の具材にでもしてやれる。
 酒場で飲んだくれた冒険屋どもなんて相手にもならない。

 実際、この旅が始まってから、あたしが手こずった相手なんて数えるほどだ。
 三等とはいえ、飛竜紋を許された武装女中というものは、最低限その程度の武威を誇れなくては名乗れない。

 そりゃあ、完璧な女中だなんてうぬぼれる気はない。
 それでも自負がある。矜持がある。
 三等武装女中トルンペートには、意地がある。

 なんてまあ、格好つけたいところだけれど、泣く子も黙る武装女中にも勝てないものがある。

「今夜は組み分け変えましょ!」

 快活で裏表なく、魅力的と言って差し支えないような笑顔を前に、あたしは速やかに身を潜めてウルウの陰に隠れようとした。
 恥も外聞もない。
 大事な仲間を人身御供にしてでも逃げ出したかった。
 暗殺技能を仕込まれ、隠形を叩きこまれて以来、これ以上ないというくらいの会心の遁走だったと思うのだけれど、そんなあたしの全力全開などなかったかのようにこともなく、奥様の指があたしの首根っこをひっつかんでいた。

 力任せに鷲掴みにしているわけでもなく、鋭利な殺意で脅しつけてくるわけでもなく、まるでそこらの子猫を掴み上げるみたいに、無造作で、無遠慮で、無神経で、そして無慈悲だった。
 そこには悪意すらもなかった。
 ただ掴んで、運ぶ。それだけのことだった。
 あたしが奥さまと寝るということはすでに決定事項になっていて、覆すことのできないさだめとなっていて、そしてあたしは荷物のように運ばれるだけだった。

 竜車の奥に放り込まれ、分厚い毛布がぽいぽいと放り出されるので、あたしは仕方がなくそれを敷き詰め、整え、寝床とし、ではあとはごゆっくりと抜け出そうとして、やはり許されずとらわれた。

 乱暴ではなかったけど、容赦もなかった。
 あたしは何か言ったり、何かしたりすることも許されず、あれよあれよという間に毛布お化けこと奥様に絡めとられ、もこもこの毛布に一緒に包まることになってしまった。

 奥様は、大人しくしていれば、いっそおっとりしていると言っていいくらいに穏やかに見える方だし、微笑み方もやんわりしていて、仕草の一つ一つも柔らかく、そう、いうなれば()()()()()()だ。

 辺境であまり深く関わることのなかった頃、特に寒さのせいで動きたがらない冬場なんかは、それこそ絵にかいたような貴婦人といった具合で、どうしたらこの人からリリオみたいなおてんばが生まれるんだろうと不思議でならなかった。

 しかし、実際に私人として付き合うようになり、その行動を間近で見るようになった今、その印象は全く誤りであったことがよくよくわかった。

 穏やかなのも当然で、やんわりしているのも当然で、柔らかいのも当然で、優しそうなのも当然だ。

 何しろ、この人は、()()のだ。

 お腹の満ちた虎が兎なんかに牙をむいたりしないように、奥様がわざわざ荒ぶる必要なんて、大抵の場合存在しないのだ。
 どうとでもできるからどうもしないし、何とでもなるから何にもしない。

 ある意味においては、この方はどこまでも傍若無人なのだった。
 自由で、気儘で、そしてどこまでも勝手な人なのだった。

 冒険屋という生き物の、一つの理想の境地ではあると思うし、遠目に見る分には素直に感心もできそうだ。
 でもいざあたしがその振る舞いに巻き込まれるとなると、これは嵐の中に身一つで放り込まれたような気分だった。

 個人としての性質がそうであるだけでなく、困ったことに、奥様は、奥様という立場があった。
 つまり、あたしがお世話するリリオの母親で、あたしが仕える御屋形様の伴侶であるという、そういう立場が。
 あたしは奥様に仕えているわけじゃないけど、でも、それでもあたしから見れば奥様は仕えるべき立場の相手なのだ。

 天下の内に恐るるべきものを持たない武装女中も、仕える主には頭が上がらないのだ。

 あんまり親しい付き合いがあるわけでもなく、力量にも圧倒的に差があって、そして身分的にも頭が上がらない相手、となれば、これはもうあたしががちがちに固まって、まるで安らげなかったのも仕方がない話だとは思う。

 まあそんな小動物の気持ちなんて虎どころか竜みたいなものであるところの奥様には理解できないようで、暢気な顔で暢気なことをおっしゃるものだ。

「そんなに緊張することないじゃない。いまはただの冒険屋同士よ」

 そりゃあいくらなんでも、無理だ。無理です。勘弁してください。
 今すぐにでも逃げ出したい。
 逃げ出して、あっちのほんわか柔らかいお布団で寝てる二人のところに潜り込みたい。
 でも、いくら恐ろしくて、恐れ多くて、あと極めて面倒くさいとはいえ、さすがにそれはまずいという理性は残っている。

 子供のころから徹底的に躾けられた、武装女中としての心構えがこの極めて居心地の悪い心情を作り出しており、そしてその武装女中としての心構えが同時に、「多少無礼であれ精神安定のために逃げ出す」という選択肢を奪っている。
 ままならないものね。
 痛し痒し。痛し痒しだわ。

 奥様にはあたしの気持なんかはこれっぽっちもわからないようではあるけれど、それでもあたしが緊張でガッチガチになっているというのは、まあ目で見ただけでもわかるわよね、ゆるゆると視線を巡らせて何事か考えているようだった。
 あたしの緊張をほぐすための小粋な小噺でも思い巡らせているのならば、せめて普通に笑えるものにしてほしい。リリオなんかしょっちゅう滑るし、ウルウの噺なんかは笑いどころがつかめないものが多い。

 奥様はしばらく、んー、と可愛らしく唸って、それから、そうねと頷かれた。

「恋バナしましょ」
「はあ?」

 無礼極まりない「はあ?」であったけれど、緊張と居心地の悪さが限界に達したあたりでの理解不能な発言に、「はあ?」だけで済んだのだと言う風に考えて欲しい。
 もちろんこの「はあ?」は単純な疑問が爆発するように解き放たれてしまったが故の反射的な「はあ?」、つまり「お前何言ってんの?」を意味する「はあ?」だけでなく、よりによって緊張をほぐすための話題としてそんな危険球を投げつけてくるのかという「はあ?」や、あなた今年で三十七歳でしたっけその年でその話題を選んできますかという「はあ?」であり、また、もしかしてそれ自体が私を笑わそうとする試みですかそれならば失敗していますよという「はあ?」であり、それらが入り混じった複雑な心境の中をまっすぐに貫いてくる「正気か?」を意味する「はあ?」でもあった。

 つまり全く、完全に、私の全身全霊からの「はあ?」であった。

 失礼と失礼を重ねて失礼で打ち合わせて失礼で焼き上げたと言わんばかりの無礼の極みたる「はあ?」にも、奥様はまるで気にした風もなく、楽しげに微笑まれたままだった。

「恋バナよ、恋バナ。若者風の言い方なんでしょ、恋の話の」
「はあ、いや、それは、わかりますけれど」
「やっぱり女子が集まったら、そういうのするものだと思うのよね」
「そういうものなんでしょうか」
「私もやったことないのよ」
「私もです」

 私の場合、まあ、恋バナというか、女中の間で下世話な話とか、誰それができてるとか、そういう話はしょっちゅうしたことはあるけれど、多分恋バナというくくりではないと思う。

 奥様は奥様で、何しろ若いころから冒険屋で旅してまわり、そして冒険屋というものは比較的男性が多いから、あまり女性との絡みがなかったのかもしれない。
 女性冒険屋と話すことも時にはあったのかもしれないけど、臨時パーティなどはともかくとして、誰かと組んで旅したということもあまりないそうだから、恋バナする関係まで発展したこともないだろう。

 では辺境で御屋形様と結ばれた後はどうかというと、これが難しい。貴族の奥様ともなれば、やはりお茶会やらなんやらを開いて他の奥様方とご交流されるのが貴族界の一般的な習わしだとは思うのだけれど、なにしろ辺境というのは、土地の広さの割に貴族が少ないのだ。ぶっちゃけ三家しかない。
 郷士(ヒダールゴ)なんかを含めればもう少し増えるけど、それでも少ない。
 その上、一年の半分は雪が積もっていて、行き来が難しい。
 なので奥様会も難しいのだ。

 辺境貴族は、帝国貴族より実利を取り、使用人との距離も近いけれど、それでもやはり使用人は使用人で、奥様は奥様だ。ある程度はざっくばらんにおしゃべりしたりはできるかもしれないけれど、やはりどこかに遠慮ができてしまう。

 もとが南部の奔放な土地柄で育った奔放な冒険屋であるところの奥様としては、長い辺境での暮らしに大分鬱憤がたまっていたというのは、こういうところが理由であるのかもしれない。

 かといって故郷であるハヴェノに帰れば帰ったで、ブランクハーラの名は伝説の冒険屋という看板でもある。それだけじゃなく、奥様自身もあちこちで悪名もとい勇名を残す大冒険屋だ。
 なかなか親しい女友達もできなかったのかもしれない。

 そう考えると、こうした機会に、いままでできなかった話をしてみたいというのは、いじらしいという気もしないでもない。

 …………何にも考えてなさそうな笑顔を見る限り、思い付きで言ってそうな感じもするけど。

 まあ、それでもある程度枠組みが決まった方が、おしゃべりに付き合う方も気が楽だ。
 とはいえ恋バナか。
 何しろあたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》も、ヴォーストにいる間は依頼漬け、旅している間も特に出会いなどなく、恋とは縁遠いところにあるんじゃないかと、

「うちのリリオはウルウちゃんに()()()()みたいだけど、トルンペートちゃんはどうなのかしらって思って」

 思考を適当な方向に流そうという努力は見事に遮られた。ぶった切られた。粉砕された。
 あたしがどう答えたものかと、半分開きかけた口をもごもごとさせていると、奥様は実に楽しげに声を潜めて、いかにも内緒話を楽しもうといった風情だ。
 気分は猫にいたぶられる小鼠だけど。

「ああ、ええ、まあ、そうですね。そうでしょうね。リリオはまあ、随分ウルウに懐いていますから」
「それで?」
「それで、とは?」
「トルンペートちゃんはどう思ってるのかしらって」

 三人パーティで、二人の間に不明な矢印が発生したとしたら、残りの一人としてはどんな気持ちか。
 これは単純な数式じゃなかった。
 あたしにとってリリオは世話を見るべきお嬢様で、ウルウは数少ない友達だ。
 これが難しいところ。
 旅の主体は、リリオだ。リリオが冒険屋やりたいから、っていうのがパーティの起こり。
 ウルウの目的は、そんなリリオの旅を面白おかしく観劇すること。
 で、あたしはそんな二人のお世話。

 リリオが右いきゃ、ウルウも右についてくでしょうね。
 ウルウが左に行きたいって思ったら、リリオは左を選ぶことでしょうよ。
 でもあたしがまっすぐ行こうったって、それで左右される二人じゃないだろう。

 リリオはウルウを見ていて、ウルウはリリオを見ている。
 あたしは、そんな二人を見ている。 
 向かい合う矢印に、あたしっていう余計な点が一つくっついて、《三輪百合(トリ・リリオイ)》という三角形はできてるのだ。

 いまのところは、二人はあたしを気にかけてくれている。
 あたしの存在を許容してくれている。

 でもリリオが本当にウルウとくっついてしまったら、あたしの居場所はそこにあるんだろうか。

 なんて、考えたところで、あたしの答えは決まっている。

「別に、どうも」
「へえ?」
「主人の恋路に口を挟む気はありません。むしろ、あのリリオが誰かとくっつくんなら、将来の心配しなくていいですもの」
「ふうん」

 奥様は、リリオによく似た翡翠の瞳で、リリオと全然似ていないまなざしをあたしに向ける。

「本当に?」

 短い問いかけに、自分で勝手に圧力を感じて、思わず詰まる。

「ドラコバーネの家は、ティグロが継ぐでしょうね。辺境貴族らしく丈夫だから、あの子にもしものことなんてまずないでしょうね。だから、リリオが家を継ぐことはきっとないわ」
「そう、でしょうね」

 だから、リリオは冒険屋になりたがっている。
 というよりも、リリオが冒険屋になりたがっているから、妹思いのティグロ様は、何が何でも家督を継がれるだろう。

「爵位を継ぐこともないリリオは、厳密には貴族じゃない。貴族なのは爵位を持つ本人だけだものね。だからリリオは、貴族を親に持つ平民でしかない。政略結婚なんてする気もない辺境貴族だから、リリオがどこかに嫁ぐ必要もないわ」
「そう、なりますね」

 そうだ。
 リリオは面倒な貴族社会のことなんて考えなくてもいい立場だ。
 御屋形様は最初からそういう方面のことは期待していないし、ティグロ様はリリオの自由を阻むものがあればみんな抱え込んでしまわれることだろう。

 リリオは自由だ。
 どこへでも行けて、なんにでもなれる。
 旅を住処として、冒険屋だってやっていける。

 そして。

「自由に恋もできるわ。身分の差なんて気にしない恋が」

 だからウルウを慕うことができる、なんて話じゃない。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それは本当に、どこまでも残酷なささやきだった。
 悪意があれば恨めた。
 邪気があれば責められた。

 だが、そこにはただ善意があるのだった。
 奥様は、いたぶるでもなく、なぶるでもなく、ただひたすらに善意と好奇心から話を振ってきているのだった。

 あたしは耳をふさいだ。
 あたしは目を閉ざした。
 あたしはかぶりを振って、奥様の言葉を、視線を、拒む。

 やめてください。
 やめて。

「それとも、ウルウちゃんかしら?」
「やめて!」

 これは。
 この気持ちは。
 あたしの気持ちは恋なんかじゃない。
 リリオは幼馴染で、姉妹で、主従で、そして友達。
 ウルウは旅仲間で、姉妹で、相棒で、そして友達。

 それでいい。
 それがいい。
 あたしはいまの関係が心地よい。

 本当に?
 そう問いかけたのは、奥様の声だっただろうか、それともあたし自身の声だっただろうか。

 いつの間にかあたしは意識を手放していたようで、気づけば毛布に一人包まれて、鉄暖炉(ストーヴォ)の火がぼんやりと竜車の中を照らすのを見つめていた。

 寝不足のままに起き出せば、奥様はまるで何事もなかったかのように飛竜の世話をし、リリオたちも相変わらず眠たげな様子でもそもそとまどろみから抜け出そうともがいていた。

 冷たい水で顔を洗っても、気分はどこか晴れず、昨日の残りで朝食を済ませながら今日の予定を話している間も、なんだかぼんやりとした心地だった。

 それでも体は習慣通りに後片付けを済ませて、誰に促されるわけでもなく竜車に乗り込んでいた。
 ぐらりぐらりと揺れながら空の高みへと舞い上がっていく竜車に、ウルウの声なき悲鳴が漏れ出る。

 空模様はあまりよろしくなく、竜車は落ち着きなく揺れながら曇り空を飛んでいく。
 まるであたしの胸の内みたいだ。
 なんて柄にもなく感傷的になってしまったのは一瞬で、あたしの胸の内以上に滅茶苦茶にかき乱されたウルウの面倒を見ているうちに、なんだかどうでもよくなってきてしまった。
 何がどうあれ、あたしは誰かをお世話しているときが一番落ち着くものらしい。

 揺れに揺れる飛竜空路。
 もう間もなく辺境へとたどり着く。
 もう間もなくこの旅も終わりに近づく。

 いつまであたしたちは旅を続けられるだろうか。
 あたしのぼんやりとした不安を置いてけぼりに、竜車は往く。

 北の果て、辺境へと。




用語解説

・「はあ?」
 頻出語の一つ。
 たいていの場合、反射的な問い返しの他に、複数の意が込められている。

・恋バナ
 恋の話の略。
 自分の恋の話をしている時よりも、他人の恋の話をしている時の方がたいていの場合盛り上がる。