*
住宅街の中にポツンと小さな公園がある。遊具は鉄棒とブランコがあるだけで、あとは全面に砂のグラウンドが広がっている。
グラウンドの中央に一本の古い桜の木が生え、その下に大人二人分ほどの木組のベンチが置かれている。
一体いつからあるのかも分からないそのベンチに、とある青年が座っていると、そこに一人の老婆がおぼつかない足取りでやってきて、隣の空いたスペースにゆっくりと腰を下ろした。
「……あぁ、ごめんなさいね。お邪魔かしら」
老婆は座ってから隣の青年に気が付き、申し訳なさそうな微笑を浮かべた。
綺麗なピンクをたたえたひとひらの桜の花びらが、頭上からヒラリヒラリと踊るように舞い落ち、老婆の白髪にピタリと止まった。
「いいえ、全然」
青年が微笑を返す。黒のスーツを着て、首にはやはり黒色のネクタイを締めている。誰かの法事帰りといったところだろうか。二十代後半から三十代前半。くたびれた様子だが、目元に溜まった涙は新しい。
「泣いているの?」
老婆が心配そうに青年の顔を覗き込む。
「あぁ…、すみません。ちょっと」
青年はその涙を指先で拭った。
「誰かと待ち合わせ?」
「ええ、まあ」
「私もなのよ」
老婆が頷くように顎を引く。
「でも、はっきりとは覚えてないの。ダメねぇ、歳を取るって。最近じゃ家の住所も、自分の名前だってなかなか思い出せない。ただ、ここで待ち合わせの約束をしていたような、そんな気がして」
老婆はすでに齢九十を超えていそうな見た目をしている。いかにも周りから愛されて生きてきたような愛嬌と、育ちの良さそうな上品さを漂わせ、恥ずかしそうにくしゃっと笑うその顔は、無垢な少女のように可愛らしい。
「そうですか」
青年は相槌を打って、正面を見据えた。ほとんどなにもない砂のグラウンドで、小さな男の子とその父親がサッカーをしている。
目に見えて運動不足な父親がハァハァと息を上げている一方で、男の子の体力はいつまでも尽きることがなさそうだ。
「あなたは、どなたと待ち合わせているの?」
「僕は、妻と」
「あら、いいわね。これからデートかしら」
「今日はね、結婚記念日なんです。もう何回目かの結婚記念日。年に一度、この日だけは、いつも決まってここで待ち合わせをしてるんです」
「へぇ、そろそろ来る頃かしらねぇ」
「ふふふ…、そうですね」
そう言って笑う青年の表情には、ただ妻を待ち侘びているだけではない、さまざまな意味合いを帯びた万感の想いが溢れている。
「奥さんとは、どこで出逢ったの?」
「小学校からの幼馴染だったんです。同級生で。初めて話したのも、この桜の木の下でした」
「それじゃあ、思い出の場所ってわけだ」
「そう、思い出の場所。大切な場所。だから、ここにいれば、彼女は必ず来てくれるんです」
青年が昔を懐古するように顔を仰ぐ。ピンク色の向こうに春の青空が澄んでいる。
ちょうど真上の枝に咲いていた花びらが、天命を尽くしたかのように枝の端から離れ、喪服を着た青年の肩にも、ヒラリヒラリと落下した。
*
「なにしてるの?」
背中から突然、麻衣に話しかけられたのは、当時小学三年生の寛太が学校帰りにこの公園で道草を食っていた時のことだった。
当時は冬の盛りで、裸の桜の木が風に吹かれて、寒そうに梢枝を揺らしていた。
「蟻、探してた」
寛太は地面に腰を屈めた格好で答えた。
「蟻?」
「前にね、この木の根元で蟻の大群が喧嘩をしてたんだ。右の巣と左の巣からウジャウジャ出てきて、合戦みたいに喧嘩してた」
「蟻って喧嘩するの?」
「分かんないけど、僕が見た時はしてた」
「ふぅん」
「でね、すごいんだよ。当然そこには死んだ蟻もいるんだけど、その死んだ蟻たちを、生きている蟻たちが端っこの方に移動させていたんだ」
「偶然じゃないの?」
「偶然かもしれないけど、偶然じゃないかもしれない」
「ふぅん」
「君は?」
「私は喧嘩なんてしないよ」
「いや、そうじゃなくて」
寛太はゆっくりと立ち上がり、後ろにいる麻衣に向き直った。
「君の名前だよ。名前、なんていうの?」
「あ……」
麻衣は途端に恥ずかしくなって、顔を赤らめた。寛太のことは学校で見て知っていたから、てっきり自分のことも知ってくれていると思っていたのだ。
「私は、麻衣」
「麻衣ちゃん。僕は寛太。よろしくね」
「うん…、よろしく」
それが、二人の出逢いだったーーーー。
「素敵な出逢いねぇ」
老婆が顔の前で両手を合わせて感嘆した。キラキラと目を輝かせるその表情は、やはり少女のようなあどけなさがある。
「素敵、ですかね?」
青年が照れるように口を歪める。
「素敵よ。とっても」
「でも、そのあとすぐに怒られちゃって」
「どうしてまた」
「彼女が言うにはーーーー」
恥ずかしそうに前髪をいじくる麻衣は、その恥ずかしさを無理やりごまかすように、ムスッとした顔を浮かべて、すぐ目の前の桜の木を指差した。
「てか、蟻の話はどうでもいいの。とにかく、この桜の木を傷つけたりしないでね」
「別に傷つけるつもりはないけど、どうして?」
「だって、この木は神聖な木だから」
「シンセイ?」神聖という漢字がすぐには浮かばない。
「この木には死んだ人の魂が宿っているんだって、私のお婆ちゃんがそう言ってた」
「タマシイ?」魂という漢字も浮かばない。
「そう、魂。この町に生まれた人はね、死んだら必ず、魂になって、この木に宿るんだってさ。だからこの町の人はみんな、死んだ人に会いたくなったら、ここに来るの。まず先にこの木があって、そこに人間が公園を作ったらしいよ」
「嘘だぁ」
寛太は小馬鹿にするように言った。幼いながらに、死んだ人間がこの木に棲みつくなんてありえないと思った。
「嘘じゃないよ」
麻衣が少々ムキになる。
「寛太くんもさ、自分の家が知らない人に傷つけられたら嫌でしょ? それと同じ。だから、この木は傷つけちゃダメなの」
「嘘だよ、そんなの」
「嘘じゃないって」
「嘘だってば」
「嘘じゃないの!」
「ふふふ」
寛太は可笑そうに笑った。
「君は嘘つきだ」
「嘘じゃないのに」
麻衣がいよいよ涙目になる。
「そうじゃなくてさ。麻衣ちゃん、さっき喧嘩はしないって言ってたじゃん。でも、僕と今、喧嘩してる」
「……あ」
麻衣は涙で少し潤んだ目をポカンと丸め、やがてクスクスと、次第にケタケタと口を広げて笑った。
*
「まぁ、そんな風に僕たちは出逢って、すぐに仲良くなったんですけど、付き合うようになったのは中学三年生の時だったかな。高校受験の勉強を二人でしているうちに、いつの間にか」
「告白はどっちからしたのかしら」
老婆はすっかり興味津々の様子で、青年の方に体を傾けている。
「どっちだったかなぁ」
恥ずかしそうにこめかみを掻いて、ごにょごにょと言葉を濁す青年だが、本当に答えを忘れているわけでは、もちろんない。
告白してきたのは相手の方で、それを青年が了承したのだ。場所はやはり、この桜の木の下だった。
二人並んでベンチに座って、夕焼けに染まる遠くの秋空を眺めていた。
「寒いね」
寛太はぼんやりと言いながら、実は心の中では今日こそは麻衣に告白しようと鼻息を荒立てていた。
麻衣のことは出逢ったあの日からずっと好きだった。多分、麻衣も同じ気持ちだ。あとはお互いの想いを伝えるだけだった。
「寒いね」
麻衣がすげなく返す。
「あのさ」
と、寛太が意を決して告白しようとすると、それを阻むように、麻衣が寛太の声量を上回る声で、
「あのさ」
と言った。
「……なに?」
「私たち、付き合おうか。寒いし」
「……寒いし?」
「イヤ?」
「イヤじゃないけど…、てか、むしろ嬉しいけど……。寒いしってなに?」
そうして二人は、恋人になった。
「随分と変な子ねぇ、その子も」
老婆が不思議がるように眉を折る。
「でも、分かるわ。寒いと人肌が恋しくなるものだから」
「付き合っていようが、友達のままでいようが、ずっと一緒ではあったんですけどね」
「そういう問題じゃないの。実際の距離じゃなくて、心の距離なのよ、大事なのは。心の温もりが欲しいの」
「その子も当時、同じことを言っていました」
すると、グラウンドでサッカーをする男の子が蹴ったボールが、軌道を逸れて、二人の足元に転がってきた。
老婆はそれを拾い上げ、取りに来た男の子に手渡した。
「ありがとう!」
男の子はベンチに座る老婆に溌剌な声で礼を言う。
「元気ねぇ、坊や」
「お婆ちゃん、ここでなにしてるの?」
「この男性に、昔話をしてもらっているのよ」
「ふぅん……」
「ほら、お父さんが待ってるよ。早く行きな」
「うん、分かった! ボールありがとうね!」
男の子はギュッと破顔して、再び父親のもとへと駆けていった。
「可愛いねぇ」
老婆が慈しみに満ちた目を三日月に細める。彼女の左手の薬指には、くすんだ銀色をした結婚指輪が嵌められている。
青年の薬指にも指輪は嵌められているが、彼女のものと比べるとデザインが少し違うのがよく分かる。
「僕が妻と結婚したのは」
自分の指輪に視線を落としながら、青年が話の続きをしようとすると、老婆はキョトンとした顔になって、
「え?」
と青年の方に目を向けた。
「……えっと、なんの話だったかしら」
「僕の話です。僕と妻の話」
「あなたと奥さんの」
「ええ。もう少しだけ続けてもいいですか?」
「そうね、じゃあ、お願いするわ」
老婆がゆっくりと瞬きをする。青年は話の続きを再開する。
*
中学三年の秋に付き合い始めた二人は、その後、特に大きな喧嘩や別れの危機を迎えることもなく、そのまま別々の大学に進学した。
一緒の大学に行った方がよくないかという話にもなったが、大学くらいは自分のしたいように謳歌しようということで一致した。
とはいえ結局、それまでと変わらずほとんどの時間を二人で過ごし、お互いに別の異性に目移りすることもなく、暗黙に同棲をしているような状態ではあった。
暗黙に、というのは、それぞれ別のアパートを契約していたし、親や友人に同棲をしているのかと問われれば、同棲はまだしていないと答えていたからだ。
大学卒業後は寛太は中小企業の営業職に、麻衣は小さな広告代理店に就職した。
社会人になって二、三年が経ち、仕事にも慣れ、今の環境にもようやく順応してきた頃、いよいよ暗黙の同棲から暗黙を取り除こうかと話し合っていた矢先、事件は起きた。
麻衣が、過労で倒れてしまうのだ。
「ちょっと頑張りすぎたのかもね」
病室のベッドに横になる麻衣に、寛太が窓際のパイプに腰を下ろしながら、労りの声をかけた。
特別に重たい病気に罹ったわけではないが、麻衣はこの日から二日間、入院をしなければならないとのことだった。
「そんなに頑張ってないよ、私」
麻衣はしょげるように口を尖らせ、寛太の後ろにある窓の方に視線を逸らした。
「職場で倒れたんでしょ?」
「うん」
「ごめんね、もっと僕も気をつけていればよかった」
「気をつけようがないでしょ。私自身、こんな風になるとは思わなかったんだから」
「そうかもしれないけど……」
「私さ」
窓に目を向けたまま、ぼそりと言う。
「今日、はじめて自分が死ぬかもしれないって思ったんだ。あぁ、もうダメかもって」
「縁起でもないこと言わないでよ」
寛太は泣きそうな目をして狼狽した。麻衣が死ぬだなんて冗談でも想像したくはなかったし、たしかにそれは人として生まれた以上、避けることのできない未来なのかもしれないけれど、まだそれを受け入れられるほどの度量は寛太にはなかった。
「覚えてる?」
と麻衣はさらに言った。
「私たちが初めて会った、あの桜の木。あの木には死んだ人の魂が宿るって言ったでしょ?」
「え? ……ああ、うん、そういえば、そんな話をしたね」
「だからさ、いつかもし私が死んだら、たまにでいいから、あの桜の木の下に会いにきてね。私もきっとそこにいるからさ」
「だから、縁起でもないこと言うなってば……」
今にも泣きそうだった寛太の目からいよいよ涙がこぼれる。
それを見て、麻衣は可笑しそうにクスクスと笑った。
「ふふ、冗談だよ。ごめんね、私もちょっとセンチメンタルになってるのかも」
二日後、麻衣は無事に退院した。
病院からの帰り道、寛太と麻衣はそれぞれのアパートには戻らず、懐かしい地元の町に足を向かわせた。
二人の生まれ育った町は、都心から電車で一時間ほどの場所にあった。
住宅街の入り組んだ通りをしばらく歩き進めていくと、鉄棒とブランコと砂のグラウンドしかない小さな公園を見つけた。
中央にでんと桜の木が生え、その下に相変わらず古びた木組のベンチが置かれている。
「ねぇ」
麻衣が桜の木を指で差し、寛太はそれに無言で頷いた。
季節は春だが、吹く風はまだ寒い。桜もまだ五分咲きといったところで、白とピンクと、ほんの少しの緑が入り乱れている。
ここに二人で来るのは、一体いつぶりだろうか。少なく見積もっても三年ぶり。社会人になってからは、めっきり足を運ばなくなってしまっていた。
寛太は近くの自動販売機でホットの缶コーヒーを二本買い、先にベンチに座って待っていた麻衣の隣に腰を下ろした。
「はい」缶コーヒーを麻衣に渡す。
「ありがとう」
麻衣はあちちと言いながら、礼を言った。
グラウンドで小さな少年たちがボールを蹴って遊んでいる。寛太は、その少年たちの姿をジッと見つめた。
自分たちにもあんな時代があったんだよなぁ…と思わず感傷に浸ってしまう。
誰にだって少年少女の時代があり、そしてそこで自分たちは出逢い、大人になった今でもこうして一緒にいる。
よくよく考えてみると、奇跡だなと思った。
生まれてから死ぬに至るまで、一度だって出会わない人がこの地球上には何億といるのに、たった一人の相手と偶然出逢い、ずっと一緒にいるなんて。
麻衣が入院して改めて気付いた。こんな奇跡、手放したくないと。
「ねぇ、麻衣」
「なに?」
「結婚しようか」
「……え、今ぁ?」
麻衣が拍子抜けしたように眉を折る。
「え、ダメだった?」
「ダメじゃないけど、プロポーズのお供が缶コーヒー?」
「缶コーヒー。指輪じゃなくてごめん」
「缶コーヒーかぁ」
麻衣が顔を上に傾げて息を吐く。
「でも、いっか」
寛太に視線を向けて、相好を崩す。
「ちょうど寒いし」
「ふふふ、そうだね。ちょうど寒いし」
それに釣られて寛太も笑った。
翌日、二人は午前中のうちに両親への挨拶を済ませ、午後には役所に出向いて、婚姻届を提出した。
三月の二十二日だ。その年から、この日が二人の結婚記念日になった。
*
「ごめん、待った?」
桜の木の近くにしばらく一人で立っていた女性のもとに、汗だくになった男性が息を切らして走ってきた。
デートの待ち合わせだろう。大昔からそこにあり、よく目立つので、この町に住む多くの人たちにとってこの桜の木は、ちょうど良い待ち合わせスポットになっていた。
「ううん、私もいま来たところ」
女性が愛想良く笑顔を見せる。青年の隣に老婆が来るよりも前から彼女はそこに立っていたから、いま来たところというのは、男性に対する優しい嘘である。
「よし、じゃあ行こうか」
女性の嘘を真に受けたのか、男性はホッと安堵の息をついて、女性の手を握った。公園をあとにし、二人して住宅街の中へと姿を消していく。
「結婚記念日はいつも必ず、お互いの仕事が終わると、この桜の木の下で待ち合わせをして、そこから二人で食事に行ってました。無駄といえば無駄ですけどね。わざわざ都心から電車を乗り継いでここに来るなんて。けど、その無駄が愛おしかった」
「分かるわ、その気持ち」
老婆が控えめな拍手でそれに同意する。
「一回目の結婚記念日には、二人でイタリアンに行きました」
「あら、素敵」
「二回目は、二人で寿司を」
「それも良いわね。三回目は?」
「三回目は……」
青年は、歯痒そうにこめかみを掻いた。
「ーーーーごめん、本当にごめん!」
寛太が大急ぎで麻衣のもとへと駆け寄ってくる。時刻はすでに夜の九時半。夜桜の下のベンチに座って待っていた麻衣は、血相を変えて現れた寛太にもスンとした表情のまま、手持ち無沙汰にいじっていたスマホをカバンの中に戻した。
「お疲れ様、予約してた店、キャンセルしておいたよ」
「うん…、ありがとう。本当にごめん」
この日は夜の七時にこの公園で待ち合わせをして、有名なフレンチレストランに赴き、そこで食事をする予定になっていた。
ところが寛太の仕事が当日になって立て込んでしまい、押しに押して、今の時間になった。二時間半の遅刻。キャンセルは致し方ない。
「しょうがないよ。そんなこともある」
「どうする? 今から別の店、探す?」
「ううん」
麻衣はかぶりを振った。
「私、おでんが食べたい」
「おでん?」
寛太の目が丸くなる。
「いいけど……、おでんでいいの?」
「おでんでいい。ここで一緒に食べよ。コンビニで買ってきてさ」
結局、二人は近くにあったコンビニでおでんを購入し、桜の木の下のベンチに座って、プラスチックの温かい容器をつつき合った。
「本当におでんでよかったの?」
ちくわを食べながら、寛太が忍びなさそうに訊ねる。
「いいじゃん、おでん。おいしいでしょ?」
「おいしいけど……」
「来年もさ、またここで二人で食べようよ、おでん」
「うん、じゃあ、そうするか。また来年。ここで」
麻衣は、高級なレストランで食事をするより、寛太と二人でこの桜の木の下で食事をすることに意義を見出しているようだった。
コホン、コホンと、半分に割った大根を熱そうに頬張りながら、麻衣が咽せるように咳き込んだ。鼻をズルズルと啜り、再び咳き込む。
「大丈夫? 風邪引いちゃったかな。そろそろ帰ろうか」
「大丈夫大丈夫。ちょっと熱かっただけ」
「そう? でも帰ろう。今日はもう」
「あとちょっと。この大根だけ食べさせて」
来年もここで一緒におでんを食べよう。この日、二人が交わした約束は、しかし、この先二度と守られることはなかった。
*
翌年の二月、寛太と麻衣は新婚旅行の相談をしていた。
結婚して四年目になるが、お互いに仕事が忙しかったせいで、旅行らしい旅行をしたことがなく、どこかのタイミングで行けたらいいよねと話してはいたのだ。それがようやく結実した形だった。
「やっぱり海外じゃない?」
休日の日曜日、淹れたばかりのコーヒーを飲みながら、二人は意気揚々と数冊の観光ガイドブックをめくっている。
窓から照り注ぐ太陽の光が、ダイニングテーブルの椅子に腰かける二人の黒目をキラキラと輝かせている。
「さすがにそんなに時間取れないんじゃないかなぁ」
「じゃあ、国内?」
念願の旅行。新婚旅行。二人が高揚しないわけがなかった。
しかし、そこに事態の暗転を告げる音が鳴る。
ブルルルル……。
寛太のスマホのバイブレーションが悪寒のように震える音だった。先輩社員からの着信。
そこはかとない不吉な予感がした、わけではない。先輩から電話が来るのはしょっちゅうだったし、休日に突然というのはたしかに珍しいが、取り立てて気にすることもなく、寛太はスマホを耳にやった。
「もしもし。…ーーーーえ?」
一瞬、声を飲み込んだ。それは、会社の上司の奥さんの訃報を知らせる電話だった。
寛太が今の会社に入社した当時から世話になっている直属の上司の奥さんで、自宅にお呼ばれした際には、上司が酔っ払って寝静まったあとも、夜遅くまで仕事の愚痴に付き合ってくれもした。大恩ある女性だった。
五十二歳で、くも膜下出血による急死。今夜に通夜が執り行われるため、休日に悪いが、可能ならば参加してくれとの連絡だった。
その日の夕方、寛太は急いで葬儀場に向かう準備をした。
玄関のへりに腰をつき、履き古した革靴の中に足を押し込み、意気阻喪と溜息をつく。あまりに突然の出来事に、正直、気持ちの整理はまだついていなかった。
「気丈に、しっかりとお見送りしてきてね。亡くなった人を悼むことができるのは、生きている人だけだからね」
麻衣が、悄然と撫で落ちた寛太の肩に手を置き、優しい微笑みを寄越した。ほら、埃、ついてるよと、黒スーツに悪目立ちをする灰色の糸切れを指先で取り除く。
「うん、ありがとう。行ってくる。帰る時にまた連絡するよ」
通夜は、しめやかに執り行われた。焼香を終え、棺の前で手を合わせ、上司に挨拶をして、葬儀場をあとにしたのは、夜の八時頃だった。
いつの間にか小雨が降り出していたが、傘は持ち合わせていなかった。
バスに乗るため、駅に向かって歩いた。途中、大通りの横断歩道が赤になり、そこで足を止めた。目と鼻の先に駅の明かりが見えている。スマホをポケットから取り出し、俯き加減で麻衣に電話をかけた。二コール目で麻衣は出た。
「今から帰るね」
「うん、待ってる」
信号が青に変わった、ような気がした。
寛太は足を一歩、前に踏み出した。
パーッ! 濁った夜空を切り裂くようなクラクションが聞こえた。
ハッとし、顔を横に向けると、雨で輪郭を滲ませた車のヘッドライトが、こちらに向かって走ってきていた。
「ーーーーそこで僕は死にました」
青年は正面のグラウンドをジッと見つめて、言った。
「そうだったのね、あなた、もう亡くなっていたの」
老婆が憐憫の眉を垂らす。
「それ以来、僕はずっとこの桜の木の下にいます。ひとり残してしまった最愛の妻をずっと見守っていたくて。死者のエゴというやつかもしれません」
「そんなことないわ。奥さんだって、きっと今でもあなたの愛情を感じているはず」
「そうだといいですけど」
「あら」
と、老婆が青年に手を伸ばした。
「桜がついてるわよ」
そう言って、青年の肩についた桜の花びらを指先でつまみ取る。
すると、その瞬間、彼女の目から、ボロボロと涙がこぼれ始めた。
「あれ、あれ」老婆は狼狽した。
「泣かないで」
青年も老婆に手を伸ばし、彼女の白髪についた花びらを取り除いた。
「私、どうして泣いているのかな」
「今日は桜が満開だから」
「またここに来てもいいかしら」
「もちろん。僕はいつだってここにいる」
と、その時、公園の入り口の方から、若い女性の声が聞こえた。
「あ、麻衣お婆ちゃん!」
若い女性がベンチに駆け寄ってくる。安心した様子で、老婆の手を握る。
「すごい、本当にここにいた。お爺ちゃんの言ったとおりだ。ほら、お婆ちゃん、おうち帰ろう」
「あぁ…、うん、そうだねぇ」
老婆が戸惑いながら立ち上がる。彼女はよく理解していないようだが、どうやら若い女性は老婆の孫娘らしい。
「お婆ちゃん、こんなところで一人でなにしてたの?」
「桜を、桜の木を、見にきたのよ」
「ふぅん。ここの桜、綺麗だもんね」
孫娘に腕を引かれて、老婆は公園をあとにした。
ちょうど入り口を出たところで、ふと後ろを振り返る。
年老いた桜の木の下に、誰もいない小さなベンチがポツンと見える。
まだ少し冷たい春風に吹かれてユラユラと揺れる木漏れ日がベンチにかかり、そこに暖かい人影を作っている。
そんな気がした。