「ありがとう……。俺も湖雪がすきだ。きっと湖雪よりすきだと思うぞ?」
意地悪気に囁く惣一郎。
「わっ、私の方がすきですよっ!」
「俺も負けない。俺、湖雪のことずっとすきでいると思うんだ。だって、すきだって思った日より今の方がもっとすきなんだ」
惣一郎は腕を緩めて、そっと身体を離した。湖雪は離れた体温に不安を感じたが、惣一郎は湖雪の顔を覗きこんで、そんな不安も吹き飛ばす微笑みを見せた。
「だから湖雪……改めて言うよ。早子様もいらっしゃるし、正式に申しこむ。……大すきな湖雪。俺と結婚してほしい」
そっと両頬を捉え、恥ずかしさに視線を泳がせることも許さなかった。
「……はい。私を、惣一郎様のお嫁さんにしてください……ずっと」
「ああ。愛してるよ、湖雪」
湖雪の大すきな微笑みとともに囁かれ、湖雪は真っ赤になった。
「そうっ」
恥ずかしさに焦って口を動かすと、舌を噛んでしまった。
「~~~~~っ」
「湖雪っ、大丈夫か?」
口を押さえて顔をしかめる湖雪を心配して惣一郎も慌てた。
「だいじょうぶです……すみません」
「謝らなくていいよ」
惣一郎はそっと湖雪に手を差し出した。
湖雪は惹かれるようにその手を取った。そのまま、惣一郎は湖雪を抱きこむ。
「湖雪は甘い香りがするなあ」
そう言われた時、ふっと早子の存在を思い出した。
「あの……っ」
お母様がみているのに! そう心で叫んだけど、口は緊張に硬直してしまい動かなかった。
「……私も幹人様の子がほしかったわ」
ぽつり、早子は呟いた。……望めなかった、愛した人との子供。……この子には、その願いを叶えてほしい。
腕の中の湖雪を見下ろす惣一郎の優しい瞳に、ああ……この子は出逢えたんだ……、そう思った。
早子も幹人を慕っている。すき、愛している。……けれど。
「……仲よくね」
二人のように想いを通わせあうことはなかった。幹人が想うのは、妹と知っていたから。
早子は音を立てずに部屋から出た。
「惣一郎様……」
「うん? どうした?」
「は……恥ずかしいのですが……」
「俺は恥ずかしくないよ?」
「私は恥ずかしいです……」
「ん~、恥ずかしがる湖雪が可愛いからもっと見たい」
「!!!」
「顔真っ赤だ」
「……のせいです」
「誰の所為?」
「惣一郎様の……」
「湖雪、嬉しすぎる」
ぎゅうっと一層強く抱きしめられる。
――母が幹人の妹とは、湖雪はまったく知らなかった。
先代が産ませた子、というのならば、幹人の異母妹になる。
湖雪が初めてこの家に来た日、母に罵声を浴びせたのは当時存命だった幹人の母……先代の正妻だ。おそらくだが、母が幹人の異母妹だと知っての態度だったのだろう。
そんな湖雪を夏桜院の跡取りとして引き取るなんて、幹人は批難を受けるかもしれない決断をするなんて……。
実際、幹人には外に妾が複数いる。その相手の間に、何人か子供がいることも周知の事実だ。なのに、なぜ幹人は自身の子ではなく、妹の子供――姪を跡取りとして引き取ったのだろう……。
わかったことがあって、またわからないことが増えてしまった。
でも、湖雪は今、この家に来てよかったと思っている。桃花と――旭日と、出逢えたから。そうだ、旭日だ。さっきまでわからなかった、湖雪を守ってくれていた人の名前。
旭日、そして桃花。
桃花が生まれ変わる鬼になったのは、もう一度逢いたかったからだと言っていた。
そして最期に……。
ああ、また記憶が遠くなっていく、旭日の顔が思い出せない。これはなぜなんだ? 旭日が桃花であり鬼だから? それとも早子にかかった呪詛を桃花が引き受けたから? わからない。でも、ひとつだけ予感がする。このままでは、遠からず旭日の記憶を失ってしまう。
周りに人たちはどうなのだろう。旭日のことを憶えているのか……確認、しなければ……あれ? だれのことを、訊くつもりだったんだっけ……? ―――――。
+++
いつからすきだったのだろう。自覚したのは、その雪のような頬に口づけた瞬間だった。
前日に初めて婚約者と対面したときは、この子が……くらいにしか思わなかった。
家同士が決めた結婚。惣一郎の一言ごときでは覆らないのをわかっていたから、大した反論もせずにこのまま結婚するのだろうと思っていた。だから自分も、父や母のように外に恋人を作るのだろうと……。
でも、淡雪のような少女を見て、不意に手を伸ばしたくなった。
触れたい、と思った。
誰かのぬくもりを求めたのは初めてだった。
その気持ちの正体を知るために、翌日早朝、夏桜院に忍び込んだ。もちろん、ならぬことだと知っていた。端的に言ってしまえば、不法侵入なのだから。
雪の中、桜の古木を一人見上げていた。この雨戸の向こうに、婚約者の少女が眠っている。……昨日、一緒に桜を見上げた湖雪という少女。
そう思うと、ふっと口元が緩んだ。
そして、名家のお嬢である湖雪は自ら扉を開け、その姿を自分にさらした。そのときの驚きよう……今でも思わずクスリと笑いがもれてしまう。前日に逢った跡取りとしての仮面はなく、ただの湖雪がそこにいた。
……この子、すきだな。
最初はそんな感情でしかなかった。可愛い動物を愛でるような気持ちだけだった。この子なら結婚してもいいか。政略結婚の打算を抜きにして、そう思えた。
……だけだと思っていた。自分の本当の気持ちは、心より先に身体が理解していた。
湖雪に口づけたい。
そして、頬に触れた。真っ赤になった湖雪は湯気を出しそうなくらい紅くて。
可愛い、と。愛おしいと思った。気づいた。何だ、一目惚れだったんじゃないか。
雪の中で桜を見上げる湖雪に、その瞬間に恋していた。
もしかしたら、初恋かもしれない。知らないんだ、こんな気持ち。
こんな、あたたかくしめつけられそうな、苦しい想い。
だから―――……もっと近くにいたいと思った。
本当は……ずっと傍にいられると思って疑わなかった。
湖雪も、同じ気持ちだと知って……。
桜が――雪に照らされるように咲いた。
「………残酷に咲いたものよ」
桜の古木の幹に腰をかけた櫻は、一瞬にして咲き誇り花びらを散らせた桜を見て、呟いた。
この障子戸の向こうには、仲睦まじく寄り添う恋人がいるのだろう。……桜の運命に翻弄される鬼の子孫。
一人は自分の血を引き、一人は他の鬼の血を引いた人間。
「………」
櫻は湖雪を《ゆき》だと思っていた。しかし、彼女は違う。湖雪は《ゆき》ではない。それはもちろん同一人物ではないという意味に止まらず、彼女は《ゆき》の転生した魂ではない。
櫻は、湖雪が《ゆき》だと思っていた。彼女が《夏桜院湖雪》になった日、この桜は咲いた。櫻を宿したこの古木は、鬼の求めるものを見つけた瞬間に花を開かせる。湖雪がやってきた日を最後に、桜は花を実らせていない。湖雪以前は、櫻に記憶がない。櫻は残留思念であり、生きていた櫻の一部でしかない。花が咲く度に樹が呑みこんだ《櫻》の一部が零れ出てくる。
彼女を探して。添えなかった愛しい人を探して。
「………ん? 俺はゆきに何をしたいんだ?」
ふと、疑問に思った。
こんなにゆきを探して――俺はあの子に何をしたいんだ?
助けてくれたことの礼が言えなかった。だからそれを伝えたい。……うん。まあ、それもあるんだけど。
「それだけで俺は千年も生きてきたのか?」
それだけで? 永遠を生きてもいいと思った。ゆきにもう一度逢えるなら――もう、人間になれなくてもいいと思った。
ゆきは、願い続けた希(ねがい)より大事だった。……櫻の生きる理由になった。
「……俺が今いるってことは、今までの俺はゆきに逢えなかったってことだよな……?」
自分の手のひらを見ながら、櫻は自分に問いかける。
俺は何度古木に導かれたんだ? ゆきを探して何度も生きたはずだ。では、俺は願いが叶えられたら消えるのではないのか? ……今いるのならば、叶えられていないと考えられる。
「………」
わけわからん。俺は、頭はよく動かないんだ。言葉もよく知らないし。名前すらなかった自分に総てをくれたのは、ゆきだった。
「……俺はまたゆきに逢えなかったのか……」
湖雪は、別の鬼のものになった。以前に、櫻には彼女がゆきではないという確信があった。
《ゆき》ではない。その確信ひとつで十分過ぎた。しかし、ならばという疑問がある。俺は……どうして今に生きている?
桜が導くのは《ゆき》の許へ。湖雪がそうでないならば、自分が再びこの世に喚(よ)ばれた意味がわからない。
「…………?」
考えるも、五秒で放棄する櫻。やっぱり頭を使うのは苦手だ。幹から雪に飛び降りる。実態を持たない櫻に、降り積もった雪は動かない。
今、そんな自分のことより重大なことがあるんじゃないか。
言葉を果たそうとしている虹琳寺惣一郎――。
『俺の、命尽きるまで』――……。
惣一郎の命は、尽きようとしている。
「残酷なのは……誰なのだろうな」
櫻は、枯れ樹のようになった古木を見上げた。
俺は一番――この桜が罪深く見える。
+++
早子の危機の脱出、そして仲睦まじくお互いを見る跡取り娘とその許嫁。夏桜院の家は、今までになく穏やかな時間が流れていた。
長く湖雪についている使用人の秋葉(あきは)は老齢で、湖雪と惣一朗を孫のように見守っていた。ただ、たまに記憶が混乱することがある。湖雪のそばには、自分よりもっと近い使用人がいた気がする……のだが、自分はずっと湖雪付きだった記憶もある。
わからない、が、夏桜院は魔怪とも呼ばれる家だ。知らないことのひとつやふたつあるかもしれない。秋葉はそう結論づけて、日々の仕事をしていた。
秋葉が雪を踏みながら、門まで郵便物を取りに出たときのことだ。ひとりの訪ね人があった。明かされた身分を聞いて、秋葉は早子のもとへ急いだ。幹人が留守にしている今、早子は当主の代わりでもある。
その人物のことを秋葉から聞いた早子は、思案するような顔をしたあと、秋葉を伴って離れに向かった。
+
「湖雪、惣一郎さん。ちょっといいかしら?」
ふすま戸の向こうから早子の声がした。湖雪と惣一朗は、離れの隣り合う二つの部屋をそれぞれの私室として使っている。が、学門をするときも休憩するときも、大体は同じ部屋にいた。今も二人並んでそれぞれの学校の課題をやっていた。早子の声がかかり、二人とも文机から身を離して戸の方へ向ける。
「何でしょう」
湖雪が答えると、ふすまが開けられて早子が姿を見せた。最近の早子は穏やかな表情でいることが多かったが、厳しい顔をしている。
「お母様……いかがなさいましたか?」
湖雪は不安になって問いかけた。また自分が何か失敗してしまったのでは――
しかし早子は、ちらっと惣一朗を見た。惣一朗もその意味がわからず瞬く。