夏桜院湖雪となって、もうすぐ十年になる。
雪のよく降るこの街にやってきたのが五歳の頃。それまでの苗字は憶えていない。知り合いからは、『湖雪』という名前の方でよく呼ばれていたから、記憶していなかった。
長屋の四畳半ほどの一室を借り母と暮らしていたが、母は昼夜問わず働いてばかりで、湖雪と過ごすのは夕食のわずかな時間だけだった。淋しかったが、大家のおじいさんとおばあさんが湖雪の面倒を見てくれていたので、独りになることはなかった。
子供がいない老夫婦は、母と自分に本当によくしてくれた。四人で公園に出かけた思い出もある。おじいさんと降りしきる桜の花びらで遊んでいたら、おばあさんが『孫がいるみたいで嬉しいわ』と呟き、母は泣きそうな顔になっていたことをよく憶えている。
そんな二人の存在を知っているから、湖雪は人間に絶望していない。旧家の養子になり、名前を呼ばれることさえなくなった今も、優しい人はいるのだと知っている。
血に縛られ地に縛られた人間ばかりがすべてではないと、信じている。
母屋から渡り廊下で繋がれた離れの一室に設えられたのが湖雪の部屋だ。学校に行く以外の時間を、湖雪は大抵この部屋で一人で過ごす。
縁側に面した庭には桜の古木がある、雪の降る音もない無音の部屋。湖雪は薄っすらと瞼を持ち上げる。
目を覚ました湖雪は、一度耳を塞いだ。
「あー……疲れた」
今日は一気に膨大な夢を見過ぎた。どのくらい先まで見たのだろうか――夏桜院の名に相応しく零れんばかりに植えられている桜の蕾が膨らんでいたから、二ヶ月分くらいはあっただろうか。
そんな憶測をつけながら布団から起き上がり、頭の中を整理する。
「今日は敬人(たかひと)様が来る日だったわ……。そのせいね」