不意に、雪の降る音よりも澄んだ声が耳に届いた。人の気配を感じてはいなかった湖雪は驚いて振り返った。

その拍子に、傘に積った雪が落ちる。

そこにいたのは一人の青年。年の頃は十七、十八。鳶色の髪は丁寧に整えられ、少し長めの前髪から鋭い瞳が覗く。背は高く、傘もさしていないので、頭や肩には雪が積もっている。

「ええ、雪ですから」

驚きを刹那のうちに隠して、湖雪は淡く笑んだ。もう慣れた作り笑顔。

「いや、その桜の樹」

青年は歩み寄って、湖雪に近づく。

その視線が桜の頂点辺りに注がれるので、湖雪も少しばかり顔に雪を受けて、見上げた。

「咲かない、って本当ですか?」

「私が最後に見たのは十年前です。それ以前はわかりませんが……」

青年は湖雪の素性を知って声をかけてきたのだろう。ならばそれだけで察しはつくはずだ。

「気まぐれな桜ですね」

青年が湖雪の隣に立つ、その言葉は自分に向けられている様な気がした。

湖雪は傘を青年の方に向けた。

「君が濡れるよ?」

「私は風邪などひきません」

それは真実だった。湖雪は風邪をひいたことが無い。雨に打たれようが、寒風の中にさらされようが。

青年は傘を受け取って、一歩湖雪に近づいた。

二人が傘におさまる。

肩が触れそうな距離。でも、触れることはないとお互いに知っている。

「はじめまして」

「はい」

青年の言葉に湖雪はそうとだけ頷いた。