ココン、コココココン。このノックの合図が「アオ、入ります」なんて嘘だ。2番目についた嘘がこの嘘だった。俺はたくさんの嘘をルリについてきた。

 髪の長い女の子が俺と同じ病気で入院しているという噂を頼りに個室を訪れ、ルリと出会った。長い入院生活を送っているというのに、彼女の髪は綺麗だった。
 まるでたちの悪いナンパのようだが、髪を触らせてほしいと頼むと、優しいルリは快く承諾してくれた。いずれ失明する難病によって美容師になる夢を断たれた俺の、馬鹿げた悪あがきだった。
 彼女は俺がセットした髪を見てキラキラした笑顔で喜んだ。その笑顔に俺は一目で恋に落ちた。
「アオなら絶対に美容師になれるよ」
 ルリのキラキラした瞳は、もうすぐ光を失うとはとても思えなかった。ルリの優しい声は、俺の夢を奪った悪夢も嘘にしてくれるような気がした。
「アオはなんで入院しているの?」
 ルリといるときの俺は病気のことを忘れることができた。ルリといるときだけは、現実を忘れたかった。好きな人の前では、格好つけたかった。夢を追う男でありたかった。
「サッカーやってて怪我した」
 これが、ルリについた初めての嘘。俺とルリの関係を同病相憐れむような関係にしたくなかった。

 ラプンツェルの長い髪をたどるように、ルリの病室に遊びに行った。誰かと鉢合わせると気まずいので、ノックで俺だと分かるようにした。病院の関係者や見舞いの人間は普通3回ノックをするので、俺は2回叩いたあと5回叩くという方法をとった。
「ルリ、あいしてる」
 言葉に出せない気持ちをノックにこめた。いつも心の中で「ルリ、あいしてる」と呟きながらドアを叩いた。そんなことをルリに言えるわけがないので「アオ、はいります」という、とってつけたような理由でごまかした。これが2番目の嘘。

 脱走しようとしたのは本当。どうせ治らないのだからとルリに出会う前の俺は自暴自棄になっていた。
「好き勝手に生きてるサンプルがいた方が病気のデータ集まるんじゃねえの?」
 主治医に対してはそう正当化した。ルリと違って、俺の両親は見舞いに来ない。病気が仮に治らなくたって主治医は誰から責められるわけでもない。防犯カメラの死角は覚えた。好き勝手に振る舞う俺に、職員は匙を投げた。

 そんな俺にとってルリは女神だった。ルリを1日でも長く見ていられるように、ルリの髪を1日でも長く触っていられるように、無茶な脱走を試みるのはやめて、ルリの部屋に行く以外は安静にしていた。病状の進行は落ち着いた。
「俺に不可能なんてない」
 この虚勢はおそらく最大の嘘。美容師になる夢は絶対に叶わないし、そもそも俺は好きな人に好きだと伝えることすらできないヘタレなのだ。
 俺の見えない時間はまだそこまで長くなかったので、その時間に眠れば生活に支障はなかった。1日中ずっとベッドの上で過ごすルリは俺より病気の進行が遅いとはいえ、見える時間は確実に減っていった。

「青い花を見たい」
 ルリの願いを聞いてすぐに、俺は青いバラを取り寄せた。ルリは喜んでくれたけど、100%の笑顔じゃない。ルリの笑顔のためなら、何でもしたかった。
 調べたところ、天然の青い花が一面に咲いている場所がこの国に1カ所だけあるらしい。ここからはだいぶ遠い。花の名前はネモフィラというらしい。小さくて可憐な青いその花は、多くの名前で呼ばれていた。小さな森の愛の花、ベイビーブルーアイズ、そしてルリカラクサという別名があった。ルリと同じ名前の花。絶対に見せてあげたい。
 警察の目をかいくぐって、ルリを遠くにつれていく。うまくいく自信なんてなかった。それでも、俺は人生最大のハッタリをかますしかない。どうせペテンにかけるのならば、できる限り優しい夢を見せたかった。
 そのためなら俺の病気が進行することなんて怖くなかった。俺が見ていたいのはルリの笑顔だから。ルリのためなら、俺の視力くらい全部くれてやる。
 おそらく生涯最初で最後。ルリの髪を切った。ルリの長い髪を自在にアレンジするのも好きだったけれど、ルリは小顔だから、ショートヘアの方が似合うと思った。我ながらうまく切れたと思う。愛する人の髪を切った。その髪型を君が喜んでくれたから、美容師になる夢にもう未練はない。