ココン、コココココン。アオがいつもの合図をする。
「アオ、入って」
機械で管理された社会において、逃避行は至難の業だ。ありとあらゆる機械にはGPSが埋め込まれ、簡単に居場所が特定されてしまう。車は使えない。個人IDが必要な公共交通機関も当然使えない。
ピアス型端末も外すか電源を切らなくてはいけない。GPSを利用した音声ナビも使えない。今時は誰も使わなくなった自転車に乗って、方位磁石と紙の地図を頼りにアオは私を青い花畑へと連れて行ってくれる。
「ルリ、切るよ」
私の長い髪は、両親や警察に捜索される際の目印になりかねない。だから、アオに切ってもらう。
「うん」
私の髪に触れるアオの手の温もりになら全てをゆだねられる。はさみの音がして、私の髪がばっさりと切られた。昔読んだ童話の中のラプンツェルも、塔から追い出されるときに髪を切られていたことをぼんやり思い出した。
髪の毛はDNA情報の塊だ。それを束ねて簡易的なカツラをつくり、自動歩行ロボットにかぶせ、私のピアス型端末をつける。時間稼ぎ用の囮をアオは用意してくれていた。このロボットは朝の検診の少し前の時間に病院を抜け出して、私たちが向かったのと反対の方向に向かうようにプログラムされている。きっと、ずいぶん前から準備してくれていたのだと思う。
体を動かすと症状が進行するので、私の体の負担にならないようにアオは私を背負うと、病室を飛び出した。非常階段のドアを開けて外に出ると夜風が心地よかった。長い間忘れていた感覚。
アオが階段を駆け下りる。音を立てないように走っているけれども、振動がすごくてアオにしがみついた。アオの背中の広さを実感する。アオは男の子なんだと当たり前のことに今更気づいた。
アオの首元に顔をうずめると、柑橘系の整髪剤の香りがした。髪に関するものはこだわっているんだなあとぼんやり思った。
「アオ、いい匂いがする」
「なんだよ、いきなり」
一瞬動揺したように笑うアオの声。男の子に可愛いなんて言ったら怒られるかな、なんてね。アオがリズミカルに階段を下りていく。頼もしい背中に身を任せた。
「夜景すげえよ。ずっと遠くまで見える。もう見渡す限りの灯りが星みたいで、上と下、どっちが星空か分からなくなるくらい」
アオが息を切らせながら言う。その吐息すらも頼もしい。きっとアオは私の神様だ。
アオの目に映る景色を想像する。私たちは今階段を下りているけれど、同時に希望へとつながる梯子を上っている。少しずつ濃くなっていく夜の空気。小さな足音のリズム。そのすべてが、青い花畑へと繋がっている。きっとそこは天国みたいに綺麗なのだろう。
「よしっ、じゃあ見つからないうちに爆走開始しますか!」
地上に着いたアオは私を自転車の後ろに乗せると、全速力でこぎ出した。
「ルリ、流れ星が見えたぞ。お願いしようぜ。ルリの病気が治りますようにって」
アオは、ほかにも今日は満月だとか、息を切らせながらも夜空を詳細に私に教えてくれた。
体に朝日の熱を感じるようになると、朝の風景を教えてくれた。子どもたちがじゃれあいながら走って行ったとか、猫が2匹ひなたぼっこしているだとか、町の息づかいをどんどん教えてくれる。
アオの声は私の心にすっと入ってくる。その声が心地よくて、アオの声から想像する世界の景色は私が病気になる前に自分で見た記憶の中のそれよりも美しかった。
私の目が見える時間になって、光が戻ると目の前にはアオの大きな背中。周りを見渡すと、見たことのない町並みが広がっていた。ずいぶん遠くまで来たと実感する。
休むことなくアオは自転車をこぎ続ける。めまぐるしく変わる景色。何も見えなかったときも風を感じていたけれど、目を開けるといっそうスピードを感じた。ふと、アオが心配になった。
「怪我、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、もうほとんど治ってて、検査で念のため入院してるだけだからさ」
その日、アオは私に夕日の色を教えてくれた後、疲れて眠りだした。私もアオの体温を確かめるように、アオにもたれかかる。誰かと一緒に眠るのは久しぶりのことで、アオのぬくもりがゆりかごのように心地よくてぐっすり眠れた。
私の方が少しだけ早く目が覚めた。しばらくしてアオが目を覚ます。
「おはよう、ルリ。ごめん、昨日徹夜で自転車こいでたから疲れて寝過ごしたかも。全回復したから今日も飛ばしてくぞ」
そう言うと、すぐに自転車をこぎ始めた。昨日以上のフルスピード。風を全身に強く感じるから、いっそうアオの整髪剤の香りがよく分かった。
子どもと犬がフリスビーで遊んでいるよ、道にタンポポが咲いているよ、雀が民家の屋根にとまっているよ、アオが町の景色を教えてくれる。もし完全に光を失っても、アオが私の目になってくれるのならば怖くないかもしれない。
アオの眠りは不規則だ。その日は夜になっても自転車をこぎ続けた。
「夜は、方位磁石も地図も見づらいけど、星が方角を教えてくれるんだ。カシオペヤ座と北斗七星をたどって北極星をみつけて、それを頼りに進んでる。古代の大冒険みたいだろ?」
アオはしばらくしてまた眠り始める。アオは疲れていたのか、昨日よりも長い時間眠った。けれども、元気だから大丈夫だと言って昨日よりもいっそうスピードを出して自転車をこいだ。
今日見た景色は、昨日よりも少し田舎町の風景だった。カラフルな蝶が私の目の前をひらひらと飛んでいった。私の目が見える時間が何分間なのか正確には分からないけれど、少しずつ短くなっているような気がする。
私の不安をかき消すように、アオは見えない時間も外の景色を教えてくれた。木に赤い実がなっているよ、教会の屋根に風見鶏がいるよ、アオが教えてくれる景色はより自然の色に近づいていった。
アオが眠る時間は、少しずつ長くなっていった。アオの体が心配だったけれど、アオは平気だと笑い飛ばす。ある夜、やがて私たちは海にたどり着いた。波の音が聞こえた。
「今日は体の調子がいいから、俺は寝なくても大丈夫。おぶっていくからルリは寝てなよ」
用意周到なアオは丈夫なヒモを準備していて、私をそれで背中に固定すると、片手で私を支え、片手で自転車を押しながら浜辺の遊歩道を歩き出した。夜の海風は冷たいけれど、アオの背中は温かい。波の音と振動で赤ちゃんの頃に戻ったような気分になり、あっという間に眠ってしまった。
日差しの温度と海鳥の「ピョー」という声で目が覚めた。
「おはよう、ルリ。白い砂浜に青い海が綺麗だよ。東の空に、カモメが鳴きながら飛んでるよ」
それから2時間ほど歩いたあと、アオは思い出したかのように自転車に乗った。
「このあたりまで来ると、さすがに浜辺の雰囲気も変わってきたなぁ。海も砂浜もグレーがかってる」
本当に遠くに来た。またしばらくして、目が見えるようになるとグレーがかった海の景色が広がっていた。ピョーという声に反応して見上げると、トンビが大空を旋回していた。
アオは不眠不休で時には走って、時には自転車に乗りながら海岸を進み続けてくれた。自転車で進みづらい道の悪い場所を歩いているときは体の負担が大きいのか、口数が極端に少なくなった。ただ、時々「虹が出たよ」だとか「仲むつまじい老夫婦が歩いているよ」だとかを教えてくれた。
「アオ、入って」
機械で管理された社会において、逃避行は至難の業だ。ありとあらゆる機械にはGPSが埋め込まれ、簡単に居場所が特定されてしまう。車は使えない。個人IDが必要な公共交通機関も当然使えない。
ピアス型端末も外すか電源を切らなくてはいけない。GPSを利用した音声ナビも使えない。今時は誰も使わなくなった自転車に乗って、方位磁石と紙の地図を頼りにアオは私を青い花畑へと連れて行ってくれる。
「ルリ、切るよ」
私の長い髪は、両親や警察に捜索される際の目印になりかねない。だから、アオに切ってもらう。
「うん」
私の髪に触れるアオの手の温もりになら全てをゆだねられる。はさみの音がして、私の髪がばっさりと切られた。昔読んだ童話の中のラプンツェルも、塔から追い出されるときに髪を切られていたことをぼんやり思い出した。
髪の毛はDNA情報の塊だ。それを束ねて簡易的なカツラをつくり、自動歩行ロボットにかぶせ、私のピアス型端末をつける。時間稼ぎ用の囮をアオは用意してくれていた。このロボットは朝の検診の少し前の時間に病院を抜け出して、私たちが向かったのと反対の方向に向かうようにプログラムされている。きっと、ずいぶん前から準備してくれていたのだと思う。
体を動かすと症状が進行するので、私の体の負担にならないようにアオは私を背負うと、病室を飛び出した。非常階段のドアを開けて外に出ると夜風が心地よかった。長い間忘れていた感覚。
アオが階段を駆け下りる。音を立てないように走っているけれども、振動がすごくてアオにしがみついた。アオの背中の広さを実感する。アオは男の子なんだと当たり前のことに今更気づいた。
アオの首元に顔をうずめると、柑橘系の整髪剤の香りがした。髪に関するものはこだわっているんだなあとぼんやり思った。
「アオ、いい匂いがする」
「なんだよ、いきなり」
一瞬動揺したように笑うアオの声。男の子に可愛いなんて言ったら怒られるかな、なんてね。アオがリズミカルに階段を下りていく。頼もしい背中に身を任せた。
「夜景すげえよ。ずっと遠くまで見える。もう見渡す限りの灯りが星みたいで、上と下、どっちが星空か分からなくなるくらい」
アオが息を切らせながら言う。その吐息すらも頼もしい。きっとアオは私の神様だ。
アオの目に映る景色を想像する。私たちは今階段を下りているけれど、同時に希望へとつながる梯子を上っている。少しずつ濃くなっていく夜の空気。小さな足音のリズム。そのすべてが、青い花畑へと繋がっている。きっとそこは天国みたいに綺麗なのだろう。
「よしっ、じゃあ見つからないうちに爆走開始しますか!」
地上に着いたアオは私を自転車の後ろに乗せると、全速力でこぎ出した。
「ルリ、流れ星が見えたぞ。お願いしようぜ。ルリの病気が治りますようにって」
アオは、ほかにも今日は満月だとか、息を切らせながらも夜空を詳細に私に教えてくれた。
体に朝日の熱を感じるようになると、朝の風景を教えてくれた。子どもたちがじゃれあいながら走って行ったとか、猫が2匹ひなたぼっこしているだとか、町の息づかいをどんどん教えてくれる。
アオの声は私の心にすっと入ってくる。その声が心地よくて、アオの声から想像する世界の景色は私が病気になる前に自分で見た記憶の中のそれよりも美しかった。
私の目が見える時間になって、光が戻ると目の前にはアオの大きな背中。周りを見渡すと、見たことのない町並みが広がっていた。ずいぶん遠くまで来たと実感する。
休むことなくアオは自転車をこぎ続ける。めまぐるしく変わる景色。何も見えなかったときも風を感じていたけれど、目を開けるといっそうスピードを感じた。ふと、アオが心配になった。
「怪我、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、もうほとんど治ってて、検査で念のため入院してるだけだからさ」
その日、アオは私に夕日の色を教えてくれた後、疲れて眠りだした。私もアオの体温を確かめるように、アオにもたれかかる。誰かと一緒に眠るのは久しぶりのことで、アオのぬくもりがゆりかごのように心地よくてぐっすり眠れた。
私の方が少しだけ早く目が覚めた。しばらくしてアオが目を覚ます。
「おはよう、ルリ。ごめん、昨日徹夜で自転車こいでたから疲れて寝過ごしたかも。全回復したから今日も飛ばしてくぞ」
そう言うと、すぐに自転車をこぎ始めた。昨日以上のフルスピード。風を全身に強く感じるから、いっそうアオの整髪剤の香りがよく分かった。
子どもと犬がフリスビーで遊んでいるよ、道にタンポポが咲いているよ、雀が民家の屋根にとまっているよ、アオが町の景色を教えてくれる。もし完全に光を失っても、アオが私の目になってくれるのならば怖くないかもしれない。
アオの眠りは不規則だ。その日は夜になっても自転車をこぎ続けた。
「夜は、方位磁石も地図も見づらいけど、星が方角を教えてくれるんだ。カシオペヤ座と北斗七星をたどって北極星をみつけて、それを頼りに進んでる。古代の大冒険みたいだろ?」
アオはしばらくしてまた眠り始める。アオは疲れていたのか、昨日よりも長い時間眠った。けれども、元気だから大丈夫だと言って昨日よりもいっそうスピードを出して自転車をこいだ。
今日見た景色は、昨日よりも少し田舎町の風景だった。カラフルな蝶が私の目の前をひらひらと飛んでいった。私の目が見える時間が何分間なのか正確には分からないけれど、少しずつ短くなっているような気がする。
私の不安をかき消すように、アオは見えない時間も外の景色を教えてくれた。木に赤い実がなっているよ、教会の屋根に風見鶏がいるよ、アオが教えてくれる景色はより自然の色に近づいていった。
アオが眠る時間は、少しずつ長くなっていった。アオの体が心配だったけれど、アオは平気だと笑い飛ばす。ある夜、やがて私たちは海にたどり着いた。波の音が聞こえた。
「今日は体の調子がいいから、俺は寝なくても大丈夫。おぶっていくからルリは寝てなよ」
用意周到なアオは丈夫なヒモを準備していて、私をそれで背中に固定すると、片手で私を支え、片手で自転車を押しながら浜辺の遊歩道を歩き出した。夜の海風は冷たいけれど、アオの背中は温かい。波の音と振動で赤ちゃんの頃に戻ったような気分になり、あっという間に眠ってしまった。
日差しの温度と海鳥の「ピョー」という声で目が覚めた。
「おはよう、ルリ。白い砂浜に青い海が綺麗だよ。東の空に、カモメが鳴きながら飛んでるよ」
それから2時間ほど歩いたあと、アオは思い出したかのように自転車に乗った。
「このあたりまで来ると、さすがに浜辺の雰囲気も変わってきたなぁ。海も砂浜もグレーがかってる」
本当に遠くに来た。またしばらくして、目が見えるようになるとグレーがかった海の景色が広がっていた。ピョーという声に反応して見上げると、トンビが大空を旋回していた。
アオは不眠不休で時には走って、時には自転車に乗りながら海岸を進み続けてくれた。自転車で進みづらい道の悪い場所を歩いているときは体の負担が大きいのか、口数が極端に少なくなった。ただ、時々「虹が出たよ」だとか「仲むつまじい老夫婦が歩いているよ」だとかを教えてくれた。



