ココン、コココココン。病室のドアを2回、5回の計7回彼がノックする。
「アオ、入ってもいいよ」
「ルリ、調子はどう?」
「また短くなっちゃった。見える時間」
 いくら医学が発展しようとも、病魔と人類の戦は終わらない。私は奇病によってほとんど視力を失っていた。1日のうち何も見えない時間がどんどん長くなる病気。ついには1日1時間ほどしか私の目は光を映さなくなっていた。この病気は、激しい運動によって急速に進行するらしい。
 耳につけたピアス型の端末は音声をいくらでも流してくれる。視力が完全になくなっても、GPS機能やセンサー、音声ガイドがあれば生活は出来る便利な世の中。それでも失明するのは怖い。

 私は難病患者の集まるこの国最大の病院に入院している。でも、これは一向に治療法が見つからない難病。医学の叡智の集大成であるこの場所でも、私はただベッドで安静にしているだけ。治療法が見つかるまでの時間稼ぎをするだけの毎日だ。
 目に映るのは白い壁だけ。自殺防止のため窓もない。でも、残り少ない見える時間で美しいものが見たかった。そんな中、白い無機質な病室に現れた美しい人。それがアオだった。

 アオは怪我をしてこの病院に入院しているらしい。ヒマを持てあまして私の病室をたまたま訪れ、話すようになってから仲良くなった。美容師を目指していたというアオは、私の腰まである長い髪で色々なヘアアレンジをしてくれた。今も私と話しながら、私の髪の毛を楽しそうにいじっている。
 お医者さん達にはアオが遊びに来ていることは秘密にしている。アオは以前、ここを抜け出そうとして怒られたことがあるので、病室を抜け出していることがばれたらまた脱走を警戒されるからと口止めされている。
 2回ノックのあと5回ノックのリズムは、アオが入るときの秘密のサイン。医師、看護師、お見舞いに来た両親と間違えたり、鉢合わせたりしないようにということでアオが合図を決めた。「アオ、入ります」という意味らしい。単純すぎてちょっと笑ってしまった。
 アオのノックの仕方や強さ、部屋の前の足音で、わざわざ7回も叩かなくても、なんとなくアオだとは分かる。それでも、秘密の暗号みたいなこの合図が好きだから、このことはアオには教えてあげない。

 私の目に少しずつ光が差し込んでくる。ほんのひとときだけの、目が見える時間。アオの姿が見える。アオはピアス型の端末を派手にデコレーションしている。美容師を目指していただけあって、おしゃれには気を遣っているらしい。元々サッカーをしていた彼は、細身ではあるものの筋肉質な腕と器用な指先はいまいち結びつかない。
「アオのこと見えるようになった。今日もかっこいいねえ」
 アオははにかむと、私に鏡を見せてくれた。三つ編みが丁寧に編み込まれていて、今日も新しい自分になれた気がする。
 でも、実はアオがヘアアレンジをしてくれた後の姿を鏡で見るよりも、アオが髪を触っているあの時間の方が好きだったりするのはアオには内緒。
「やっぱり、アオは天才だね」
「当たり前だろ?俺に不可能はないんだから」
 得意げに笑うアオの笑顔がまぶしい。
「ほらっ、お姫様にプレゼント」
 アオが私に青いバラを差し出した。私が昨日「青い花が見たい」とわがままを言ったのを覚えてくれていた。青い花を見ると、奇跡が起こって病気が治る。そんなジンクスが数百年前にはあったらしい。科学技術の発展によって品種改良が容易になった現在、大昔には珍しかった青い花は今ではありがたみを失っている。それでも、私はおとぎ話のようなジンクスに縋りたかった。
「ありがとう。嬉しい」
 白い病室に、青い花。その花は毎日一輪ずつ増えていった。それとは裏腹に、病魔はどんどん私を蝕んでいった。

 私の目はいつまで光を映してくれるんだろう。完全に光を失ったら、私はどうなってしまうんだろう。夜なのか昼なのかよく分からない時間に私は時々怖くなる。
 最近、眠っている時に見る夢が色を失っていくのを感じる。現実世界で見える時間が短くなるのとリンクするように、夢の世界から色が消えていった。
 最後に外の世界を見たのはいつだっけ?綺麗な景色を見たのはいつだっけ?もう思い出せない。
 私の記憶の中から色という概念が消えるのが怖くて、青いバラを見つめ続ける。この青を記憶に刻みつければ、私の目が光を失ってもせめて色のついた夢が見られる気がしたから。
 残酷な運命に抗っても、私の夢の中から最初に消えたのは青色だった。海の色も空の色も忘れたくないのに。

「こんな所で光を失いたくない」
 私が漏らした小さな弱音をアオは聞き逃さなかった。
「ごめんな、こんな人工的な花しか持ってきてやれなくて」
 遠い昔に品種改良で作られた青い花は人工的な色だ。でも、都会で育った私は本当の自然の色を知らない。だから、これで充分。無機質な白い空間に咲いた青い花は、アオの優しさそのものだから。
「ルリは、もしどんな景色でも見られるとしたら何が見たい?」
 願うだけなら自由だから、私は答える。
「一面に青い花が咲いてるお花畑。最後に優しい色が見たい」
「俺が見せてやるよ」
 アオが即答した。
「できるの?そんなこと」
 叶うわけがないと思って口にした夢。もし、ここを抜け出して最後に青い花畑を記憶に刻めるのならば、光を失っても生きていける気がする。
「俺が明日ルリを誘拐する。俺に不可能はないって知ってるだろ」
 アオの声は頼もしくて、馬鹿げた夢物語を絶対に本当にしてくれると信じられた。いつも私の髪を触る手、束の間だけでも私を可哀想な病人じゃなくてお姫様にしてくれる魔法の手を握ってお願いする。
「私をさらって」
 ドアのノックを合図に、私たちは明日白い牢獄を抜け出す。