高槻が話し合いの場として選んだのは、校舎四階にある空き教室だった。
今からここで、修学旅行の打ち合わせとやらを始めるのだろうか。それにしてはやけに静まり返っていて、そういう明るい話し合いをするような雰囲気じゃなかった。高槻も、今から向かい合って会話をする気なんて微塵もないのか、椅子に座らず窓際で部活動の始まったグラウンドの方を眺めていた。
「用があるなら早めに済ませようよ。俺も、早く家に帰りたいし」
急かすように言うと、高槻は探るような視線を向けてくる。それから窓際を離れ詰め寄ってきた。綺麗な瞳が近付いてきて、思わず半歩後ろに下がる。
先ほど自分で閉めたドアに、背中がぶつかった。
「君、春希くんじゃないよね?」
「……は? 何言ってんの。春希だけど」
思わず、否定する。
「君が春希くんのふりをしてるのは、わかってるんだよ。だって春希くんは、私と二人きりの時は名前で呼んでるから」
「……久しぶりだから、忘れてたよ。ごめん、天音」
取り繕うように言うと、呆れたように目を細めてきた。
「今さらそんな言い訳するの、苦しすぎない? ここで嘘を重ねるよりも、早めに正直に話した方が今後の自分のためになると思うんだけど」
「自分のためって?」
「嘘を塗り重ねる人に、今度からは優しくしてあげないよってこと。私、口だけの人は嫌いなんだ」
天音は手近な椅子を引いてちょこんと座った。まだ、一応弁解の機会は与えてくれるらしい。
「君が自分の下駄箱の場所がわからなくてあたふたしてたのも、座る席を探してたのも気付いてたよ。見ていてかわいそうだったから、私は善意で助けてあげたのに」
そういう君は、私の恩に仇で返すんだね。
悲しさと失望の入り混じった瞳を向けてくる。なんだかいたたまれない気持ちになって、咄嗟に言い訳の言葉を探してしまった。
「ごめん。別に嘘吐くとか、そんなつもりはなくてさ。気付いてるって、知らなくて……俺も、どうすればいいかわからなかったんだ」
「それは、君が工藤春希じゃないって認めるってこと?」
「あぁ」
「なんだ、やっぱりそっか」
認めると、漂わせていた哀愁を綺麗さっぱり取り払って、気付けば先ほどまでの調子を取り戻していた。
「……今の演技だったの? ちょっと申し訳ないなって思ったんだけど」
「君だって朝から演技してたんだから、おあいこだよね。それに、口だけの人は本当に嫌いだよ」
「ああ、そう……」
少し長い話になりそうだったから、天音にならって椅子に座った。
「君は、春希くんのお兄さん?」
「工藤家は、父さんと春希の二人暮らしみたいだよ」
「だよね、知ってる」
「知ってんのかよ」
「だって私、春希くんとは仲良しだから」
春希のことを名前で呼んでいるあたり、それは本当だろう。面白くもない俺のツッコミにへらへらと笑っている彼女は、頭の中で何を考えているのかわからない。
「俺は、杉浦鳴海っていう名前なんだ」
「……すぎうらなるみ?」
「知ってるの?」
「いや、知らない。誰? 杉浦鳴海って」
一瞬だけ見せた思わせぶりな表情は、どうやら気のせいだったようだ。紛らわしい態度を取るなと思ったが、その言葉は喉の奥へと飲み込んでおく。
身勝手ながら天音に落胆していると、おもむろにカバンの中からファンシーな柄のメモ帳を取り出した。何をするのか見守っていると、ボールペンを取り出して一番上の行に『杉浦なるみ』と俺の名前を記入する。
「ナルミって、成功の成に海って書くの? それとも、海鳴りの方?」
「後者だけど、何してんの?」
「考え事をする時、メモするのが癖なの」
「もしかして、手伝ってくれるの?」
彼女はあらためて『鳴海』と書き直すと、次の行に『元の体に戻る方法』と書き加えた。
「春希くんも、いきなり君の体と入れ替わって困ってるかもしれないからね。見過ごせないよ。別に君のためとかじゃないからね」
最後の一言は余計だったが、元の体に戻る方法を一緒に探してくれるなら、なんでも良かった。変な奴だけど、人並みの優しさはちゃんと持ち合わせているらしい。
しかし名前以外の情報が何もないため、メモ帳に記入されたそれに顔を落としたまま、しばらくお互いに首を傾げた。
「君は、本当に何も覚えてないの? 通ってた学校とか」
「学校に通ってたのかも覚えてない」
「工藤春希っていう名前に聞き覚えは?」
「今日初めて聞いた、と思う……」
「今朝、起き上がった時に頭でも打った?」
後頭部を手のひらでさすってみたけれど、そこにこぶのようなものはできていない。
「これは前途多難だね」
現状ほとんど何もわからないのに、嫌な顔を浮かべず、むしろ楽し気に天音は微笑んだ。
「ごめん。解決の見通しが何も立たなくて」
「君が謝ることじゃないよ。それに、いきなり元の体に戻ることもあるかもしれないし。何年か前に流行った映画で見たよ、そういう展開」
流行った映画というのも、俺にはどんな映画なのかわからなかった。そもそも見ていないのか、忘れているのかも定かではない。
「とりあえず、今日はもうお開きにしよっか」
「修学旅行の打ち合わせって奴は、進めなくていいの?」
「それはもう、春希くんが登校してない間に私の方で勝手に進めておいたから」
「要領がいいんだね」
「面倒くさいことは、早めに終わらせておきたいだけ。本当は、春希くんと一緒に進めたかったんだけどね」
おそらくそれは、一人より二人の方が早いという効率の話ではないんだろう。春希と一緒に進めたかったという言葉の裏に、ほんの少しだけ寂しさのようなものが見て取れた。
「また何か思い出したことがあれば教えるよ」
「役に立つかわからないけどね。一応、連絡先も交換しておこっか。スマホ持ってきてるよね?」
今朝適当に持ってきたカバンの中を漁ってみると、ノート類と一緒に彼女が持っているものと似た形状の電子機器が入っていた。取り出して、とりあえず眺めてみるけれど、使い方がいまいちよくわからない。
「もしかして、原始人?」
「馬鹿にしてんの?」
「冗談だよ。その機種、たぶん顔認証あると思うから、開いたら設定してあげる」
言われた通りに電源を入れると、何もしていないのにロックが解除された。鍵を掛けられるものを、他人が勝手に盗み見てもいいのか迷ったが、問題解決のためだと自分に言い聞かせ、彼女に手渡す。
天音は慣れた手つきでスマホを使いこなし、連絡先を登録してから簡単な説明をしてくれた。
それから途中まで一緒に帰ろうということになり、昇降口へ向かう。外履きに変えている時、テニスラケットを持った女の子が走り寄ってきて、天音はしばらくその人の相手をしていた。
天音は友人が多いようで、ここまでにも何人かの生徒に話し掛けられ、そのたびに隣にいる俺は訝し気な目を向けられた。今回も例に漏れず、ラケットを持った女の子はこちらに聞こえる声量で「工藤と一緒に帰るの……?」と、不満そうに訊ねていた。
隣にいると迷惑が掛かるんじゃないかと思い、何食わぬ顔で離れようとする。家までの帰り道は、今朝記憶したから不安はなかった。それなのに、
「ちょっと待ってよ、春希くん。今日は一緒に帰る約束だったでしょ?」
黙っていればいいのに、わざわざこれみよがしに呼び止めてくる。仕方なく足を止めた。
「……天音、もしかしてだけど、工藤に弱みとか握られてる?」
「春希くんは、そんなことするような人じゃないよ。今日は修学旅行の話し合いがあったから、途中まで一緒に帰ろうかって私が誘ったの」
「そうだったんだ……でもその話、橋本は知ってるの?」
「なんでそこで康平の名前が出てくるの?」
「だって、ほら……」
橋本康平という人物は、終礼後に天音に話し掛けていた男のことだろう。
天音の、彼氏でもある。
「私、何度もみんなに言ってるけど、康平とは付き合う気ないよ」
どうやら付き合っているというのは俺の勘違いだったみたいだ。
「それはわかってる。でも後から一緒に帰ったとか知られたら、たぶんめんどくさいじゃん」
話が長くなることを察し、下駄箱の陰に立ってしばらく待っていると、ようやく解放されたのか申し訳なさそうにこちらへやってきた。
「待たせてごめんね」
「別に、お友達と話してれば良かったのに。一人でも帰れるよ、俺」
「一人でいるより、誰かと話してた方がいろいろ思い出すかもしれないでしょ?」
確かに、一人で悶々とこれからのことを考えるよりは、第三者の意見があった方が考えを整理できるのかもしれない。
徒歩で帰るつもりだったが「春希くんは、バスの定期券持ってるよ」と教えてくれた。カバンを漁ると定期券が入っていたため、いつもどのバスに乗っているのかを教えてもらい乗り込む。どうやら春希と天音はいつも同じバスに乗って通学しているらしい。
後ろの方の席に、並んで腰を落ち着ける。
それから気になっていたことを単刀直入に聞いてみた。
「もしかして、工藤春希ってみんなに嫌われてるの?」
「嫌われているというか、あまりよくは思われていない、というか」
心なしか、言葉を選んでいるみたいだ。傷付けるようなことを言いたくないという、優しい気遣いが見て取れる。
「要するに、いじめられてるってことね」
「なんで濁したのに、そんなハッキリ言うのよ!」
「周りの反応を見てればわかるよ。もしかして、上履きも誰かに隠されたのかな」
「それはたぶん、そうかも。確定じゃないけど」
「どうしてそんなことされてるの?」
「学校って、そういう場所だからじゃないかな」
彼女の言葉に首を傾げると、興味なさげに教えてくれた。
「私たちの世代ってさ、誰かのことをいじめてる時が一番団結力を生むんだよ。春希くんって、なんというか内気な人だから、そういう対象にされやすかったんだと思う」
「もしかして、天音も?」
春希のことを、みんなと一緒にいじめてたんじゃないか。そんな憶(おく)測(そく)が浮かんだけれど、彼女は否定も肯定もしなかった。
「話し掛けられて無視したり、嫌がらせはしてないよ。でもなんというか、どうすれば解決に向かうのかがわからなくて、どうしようもできなかった傍観者。だから周りのみんなと一緒なのかも」
「傍観者、か」
「春希くんにとっての私は、他のみんなと変わらないのかもね。そんなこと、怖くて本人に聞いたりできないけど……不登校になるぐらいなら、何を犠牲にしてもいいから、助けてあげたかった……」
後悔の滲んだその表情を見ていると、偽りじゃなくて本気で天音がそう感じているんだということが伝わってくる。痛くて、怖いほどに。
「そう思ってくれてる人が、一人でもいただけで、春希は嬉しかったと思うよ」
「……どうかな。君が元に戻ったら、その時は思い切って聞いてみようかな」
「ところで、橋本とかいう奴と付き合ってなかったんだな」
「急に話変えるじゃん」
湿っぽい話を続けるのは、やめにしたいと思った。彼女も気持ちを切り替えるように一つ息を吐く。
「康平とはそういうのじゃないよ。ただの中学からの幼馴染。みんな勘違いしてるんだよね」
「付き合う気ないの? 向こうは何だか気がありそうだったけど」
「ないね。ただの友達だし」
悲しいほどに、さっぱりとした回答だ。
「それじゃあ、それをハッキリと説明すればいいのに」
「それはそれで、余計な波風が立つの。康平、案外クラスの女の子から人気なんだよ。顔が整ってるから」
それは同意する。平凡そうな春希とは、対極にいるような奴だ。
しばらくすると停留所にバスが停車した。俺が降りるのは、ここから二駅先で、天音はそこからまた三駅ほど向こうらしい。
なんとはなしに、料金を払ってバスから降りていく人たちを見つめた。最後の人が降りると、「ドアが閉まります。ご注意ください」というアナウンスの後に、前方の扉が閉まる。
せっかちな人が、次の停留所のアナウンスが読み上げられる前に、降車ボタンを押した。ぴんぽーんという、軽快な音が狭いバス内に響き渡る。
「次は、杉浦病院前。杉浦病院前。お降りの方は、降車ボタンを押してください」
偶然だろうか。俺と同じ名前の病院に体が反応して、気付けば思わず背筋を伸ばしてバスの向かう先を凝視していた。
「どしたの?」
「いや、杉浦って名前だから……」
しばらくすると、病院の前にバスが停車する。車窓から、太陽の光に照らされる白い巨塔が見えた。その場所に、見覚えがあるのだろうか。根拠もないのに、その眩いほどの白に視線が釘付けとなった。
「ここら辺じゃ、一番大きな病院なんだよ」
「……そうなんだ」
「周りに住んでる人は、結構お世話になってるんじゃないかな。春希くんも、入院してたことあるし」
「もしかして、どこか体が悪いの?」
普通に生活をしていて、異変を感じたりはしなかった。けれど、どこか悪くしているなら、悪化しないように気を使わなければいけない。
「生まれた時から、心臓が悪かったんだって。中学生の時に大きな手術をして完治したらしいんだけど。それまでは体も弱かったから入退院を繰り返してたみたい」
「そうなんだ……」
なんだかかわいそうだなと、ありきたりなことを思う。内気だという春希の性格は、そんなどうしようもない不運な出来事があって形成されたんじゃないかと、勝手に推測してしまった。
何名かの乗客が降りた後、先ほどと同じようにドアが閉まる。窓の外をうかがうと、そこを歩いている人たちの足取りが、どこか重く見えた。あの人たちも、何か病気を患っているのだろうか。
「杉浦くん」
不意に名前を呼ばれ振り向くと、天音は俺を不思議なものを見るような目で凝視していた。そして、初めて彼女から本当の名前で呼ばれたことに、気付いた。
「どしたの、そんなに窓の外見つめて。もしかして、心当たりでもあった?」
「いや……どうだろう」
「希望を壊すようで申し訳ないけど、あの病院の院長さんは杉浦さんっていう名前じゃないからね。ここが杉浦市だから、杉浦病院」
「杉浦市……」
だとしたら、俺とあの病院に何の接点もないんだろう。天音の想像していた通り、もしかするとあの病院関係者の子どもなんじゃないかとも思ったが、そんなに甘くはなかった。
「そういえば、杉浦くんはどこに住んでたの?」
訊ねられ、無意識に「汐月……」と呟いていた。それが正しいという自信は、あまりなかった。
「汐月っていうんだ。どこかで聞いたことあるような気がするけどなぁ」
「申し訳ないけど、思い出したわけじゃないから正しいかどうかはわからないな」
「でも調べてみる価値はあるよね」
気付けば天音はメモ帳を取り出していて、『杉浦病院』と『汐月町』『汐月市』という名前を記録していた。彼女がスマホを取り出し調べようとしたところで、俺が降りる停留所にバスが停まった。出口の扉が、ぱしゅんという空気の抜けた音と共に開く。
「ごめん、行かなきゃ」
立ち上がると、天音はスマホを膝の上に置いて、手のひらを数回握ったり開いたりを繰り返した。威嚇してるのかと思ったが、どうやら別れの挨拶のつもりらしい。
「また明日。何かわかったことがあったらメッセージ送っとくし、暇な時にでも見ておいてよ。いろいろ大変だろうから、未読無視しても気にしないからね」
未読無視ってなんだよと思いながら、ささやかな気遣いに感謝した。そして、明日も工藤春希であるかもわからないのに、『また明日』と言われるのは、なんだか変な感じがする。
「ありがと。それじゃあ」
気付けば彼女にならい、手を開いて、閉じていた。その仕草がなんだか間抜けに思えて、口元をほころばせる。けれど天音が笑ってくれたから、悪い気はしなかった。
定期券をかざしバスを降りて、自宅への道を歩いていると、ポケットに入っていたスマホが振動した。おそらく彼女からだろうと思い開いてみると、『あまねぇ』というふざけた名前からメッセージが届いていた。
《汐月町、調べてみた》
そんな短い文章の後に、どこからか引用してきた長文が添付されている。
『汐月町は、かつて〇〇県の南部に位置した町である。二〇××年に三船町と共に杉浦市に吸収合併された』
どうやら、俺が不意に思い出した汐月町というのは、数年前まで存在していたらしい。果たして偶然なのか、まったくの見当違いのことなのかわからないまま、気付けば心臓が早鐘を打っていることに気付いた。
立て続けにメッセージが送られてくる。道の真ん中で立ち止まり、そこに表示された文章を声に出して読んだ。
「君はもしかすると、過去から来たのかもね……」
なんちゃって。
面白い冗談でも言ったつもりだったんだろう。『なんちゃって』という文章の後には、女の子が舌を出してとぼけた顔を浮かべているスタンプが押されていた。
翌日、朝食を食べた後、写真立ての中の母親に頭を下げると、新聞を読んでいた父親が機嫌良さそうに「今日も学校に行って、ハルは偉いな」と言った。
「行ってきます」
今日はしっかりと挨拶をして、家を出た。
明日になれば、元の体に戻っているかもしれない。そんな希望的観測はあっけなくも打ち砕かれ、目覚めた時に目に入ったのは、春希の部屋の天井だった。スマホを確認すると、天音から数分前にメッセージが届いていた。
《モーニングコール失礼します。今日はいつもの春希くんに戻ってるかな?》
「戻れなかったよ」
停留所でバスを待ちながら、遅れてメッセージを投げる。それからすぐに、既読というマークが付いた。昨日言っていた未読無視とかいう奴は、おそらくこの既読マークを付けずに無視することを指していたのだろう。
そんなことを家でも常に気にしてなきゃいけないなんて、息が詰まる。
《それじゃあ、今日も一緒に元の体に戻る方法を探そうか!》
たとえ一人でも理解者がいてくれるのは、心強いし何より嬉しい。そう思うのは、今朝起きて、結局のところいつか偶然元に戻るのを待つしかないんじゃないかと、やや後ろ向きなことを考えてしまったからだろう。
もしかすると、俺という存在を思い出すことができれば、この不可思議な現象の解決に繋(つな)がるのかもしれない。それもまた、希望的観測と言うのかもしれない。
やってきたバスに乗り込むと「今日も工藤いるじゃん……」と、誰かに悪(あく)態(たい)を吐かれた。後ろの座席を見やると、そこにはクラスメイトと思しき女性と、天音が一緒に座っていた。
気付けば俺はこっそり手のひらを開いて、閉じていた。意外だったのか、嬉しそうにそっと同じ仕草を返してくる。
「春希くんは、頑張ってて偉いと思うけどな」
精一杯、気を使ってくれたんだろう。彼女の言葉はこちらに届いていたが、隣のお友達には聞こえなかったのか、すぐにテレビで人気のアイドルの話を始めていた。きっと都合の悪い言葉は、あのお友達の耳に入らないんだろう。
心の中では天音に「ありがとう」と感謝の言葉を呟いた。
味方でいてくれることは、素直に嬉しかった。
工藤春希が真面目に登校することで、いったい周囲の人間に何の不利益があるのかわからないけれど、教室のドアを開けると今日も不快な視線が集まった。臆することなく一緒のバスに乗っていた天音の姿を探していると、偶然にもすぐ近くの席に座っていた女と目が合う。
宇佐美というネームプレートを見て、そういえば昨日、一方的に因縁を付けられた相手だったことを思い出す。道端に落ちているゴミを見るような目を向けられていて、一瞬の間の後にはそれが笑顔に変わった。
「やーだー、勝手にドア開いたんだけど! 風でゴミが入ってきちゃう!」
耳の内側に響く、甘ったるく高い声。思わず顔をしかめると、隣で話をしていた別のクラスメイトが、思わずといったように小さく吹き出した。何が面白いのか、それが周囲にささやかな嘲(ちょう)笑(しょう)となって伝(でん)播(ぱ)する。
「やめときなよ、真帆。工藤、また学校来られなくなるよ」
「えー、あー、いたんだ工藤。おはよ」
まるで、今気付いたかのような態度。
清々しいほどの棒読みに、俺も思わず乾いた笑いが漏れた。
「ゴミはどっちだよ」
考えていた言葉が思わず口をついた。無意識に出た侮(ぶ)蔑(べつ)の言葉は、宇佐美だけには聞こえたみたいだ。
「は?」
ドスの効いた低い声を出し威嚇してくる彼女を睨み返そうとしたところで、しかし唐突に後ろから何者かに肩を叩(たた)かれた。
「春希くん! おっはよ!」
天音だった。彼女もどこか慌てた様子なのが気になったが、そのおかげで踏みとどまることができて、少し冷静になる。
「……おはよ」
天音の登場により、しんと静まり返っていた教室内がざわつき始めた。それから彼女は、作ったようなきょとんした表情を浮かべてくる。
「どしたの? 真帆と春希くん、そんな怖い顔して」
「いや、これは……」
居心地が悪くなって、思わず頭を無造作に搔きむしる。同様に、宇佐美もばつが悪そうに口をすぼめていた。すると宇佐美と話をしていた女の子が、みんなの言葉を代弁するように割って入ってきた。
「なんで昨日から、二人ともそんな仲良さげなわけ?」
「普通にお話してるだけだよ?」
「普通じゃないでしょ。だって昨日、あたし二人で学校から帰ってるとこ見かけたし」
目撃されていてもおかしくないとは思っていた。昇降口で、テニスラケットの女の子にも見られていたんだから。
このまま会話を続ければ、いずれ天音もいじめの対象にされてしまうかもしれない。それは、俺の望むところではない。だから他人のふりをして席に着こうと歩き出したところで、
「ちょっと、春希くん」
昨日と同じくこちらの意図を汲(く)んでくれない彼女が、肩を掴んでまで引き止めてきた。振り払っても良かったが、後で何を言われるかわかったものじゃないから、素直に立ち止まる。振り返ると、もう片方の手に持っているものをこちらに見せてきた。
「上履き、落ちてたよ」
「え」
予想外のものに、目を丸くする。彼女が見せた上履きには、確かに工藤という名前が書かれていた。そういえば昨日『探しといてあげるから』と言われたのを思い出す。
「今度からは、なくさないようにしないとね」
わざわざ目の前にかがんで、隣に上履きを置いてくれた。その場で履き直すと、今まで俺が履いていたスリッパを持ってくれる。
それからゆっくり立ち上がると、あらためて宇佐美たちの方へ向き直った。
「一応言っておくと、仲が良いのは私と春希くんが付き合ってるからだよ」
涼しい顔でこともなげに言ったものだから、彼女の発言を一度聞き逃しそうになった。宇佐美も口をぽかんと開けている。俺も、たぶん同じ表情をしていた。
「え、付き合ってるの?」
「うん、隠してたんだけど」
数秒の静寂の後、霧が晴れるように、そこかしこから動揺の声が上がった。
「え、マジ……?」
「さすがに冗談だろ……」
「なんであんな奴と……」
その場にいる誰もが、似たような疑問を抱いた。当事者の俺ですら、どうしてこのタイミングで天音が嘘を口にしたのか、意味がわからなかった。それから断りもなく恋人みたいに手を掴んできたかと思えば、こちらにはにかんで「スリッパ、一緒に返しに行こうか」と誘ってきた。
同意なんてしてないのに、天音が歩き出すと勝手に俺の右足も床から離れ、教室の外へ導かれて行く。手のひらから伝わる生々しい感触が、思考しようとする頭をどうしようもなく鈍化させていった。
手を離してくれたのは、職員室前に着いた時だった。それまで手を繋いでいた俺たちは、偶然通りがかった生徒たちに奇異の視線を向けられ続けた。
「はー緊張したっ!」
いつの間にか彼女の顔は火照ったように赤くなっていて、先ほどまで繋いでいた手をうちわ代わりにして扇(あお)いでいた。
「もしかして、気でも触れたの?」
「どうにかしなきゃと思って、思わず開き直っちゃった」
行き当たりばったりな思考に、思わずため息が漏れた。
「馬鹿だろ。もう言い訳の余地ないぞ。教室に戻ったら、俺たちはそういう目で見られる」
「言い訳する必要なんてないよ。黙って春希くんがいじめられてるのを見てるのも、そろそろ良心が咎(とが)めたし、杉浦くんならその後なんとかしてくれるだろうなって思ったし」
「なんとかしてくれるって……別に、黙って見てれば良かったんだよ。俺は何言われても、いちいち気にしたりしない」
「傷付かないからって見て見ぬふりするのは、やっぱりダメだと思うの。誰かがなんとかしなきゃ、何も変わらないから」
「明日、もし俺が春希に戻ったらどうするんだ」
「その時は、あらためて春希くんに説明するよ。だからとりあえずしばらくの間は恋人のふりをよろしくね! 私もちゃんと合わせるから」
自分の言いたいことだけを伝え終わると、すっきりしたのかノックもせずにずかずかと職員室へと乗り込んでいった。勝手な奴だと思ったが、その行動の裏には確かに現状をどうにかしたかったという思いが含まれているのかもしれない。
それが春希に対してなのか、俺に対してなのか。おそらく前者だろうなと思いながら、仕方なく彼女のことを追い掛けた。一緒に担任教師にスリッパを返すと、俺たちを見て呆れたように「浮かれるのもいいが、ほどほどにしておけよ」と釘を刺してきた。浮かれているのは、突然故意に日常を壊して興奮している、天音だけだ。
「私、こう見えて彼氏作ったの初めてなんだよね」
修羅場の巻き起こっていた教室へ戻る彼女の足取りは、なぜか先ほどよりも軽やかになっていた。対照的に、俺の足は靴下の中に鉛が入っているんじゃないかというほどに重たい。
「目玉焼き作ったの初めてなんだよね、みたいなテンションで言われても困るんだけど。というか、付き合ってないからな」
「わかってるって。一時の気分だけでも味わわせてよ」
「天音なら、わざわざ選ばなくても彼氏ぐらいすぐに作れるだろ。なんでそこまでハードルが高くないことに、いちいちテンションぶち上げてんだよ」
「私だって誰でもいいわけじゃないもん。こう見えて、昔から純愛を信じてるんだから」
何が純愛だ。そういうのは小学生を境に卒業しておくべきだろ。
思うだけで言葉にはせず、密かにため息を吐いた。
二人仲良く職員室から戻ってくると、口裏を合わせていることを知らないクラスメイト達から、再びどよめきの声が上がった。
「……マジで付き合ってんの?」
「だって私、さっき聞いたもん」
「なんで工藤みたいな根(ね)暗(くら)と……」
真偽の定まらない情報と、ほんの少しの春希に対する侮蔑の言葉が入り混じる混(こん)沌(とん)とした空間は「お前ら、早く席につけー」という気(け)怠(だる)そうな担任教師の一声によって一旦調和を取り戻した。
これ幸いと思い、言われた通り席に座って辺りを見渡してみると、ちらちらとこちらの様子をうかがうような視線が散見される。こんなにも荒っぽく教室に爆弾を落とすことが、本当に正しかったのかはわからない。わかるはずもない。
その答えは、きっと天音にしかわからないのだ。
ほどなくして朝礼が終わり、担任教師が教室から出て行った。すると案の定、立ち上がってどこかへ行こうとする天音を取り囲むように、クラスメイト達の輪ができた。
「ちょっと、私トイレ行きたいんだけど!」
「ねえ天音、本当に工藤なんかと付き合ってるの?」
昨日、昇降口で鉢合わせたテニスラケットの女の子が、真っ先に天音の身を案じている。胸元にネームプレートを付けていないから、名字はわからなかった。
「本当だけど」
「あいつに騙(だま)されてるんじゃないの……? なんか弱みとか握られてた? 失恋して弱ってるところを付け込まれたとか?」
「失恋って。私、春希くんが初めての彼氏だよ?」
工藤春希の扱いが、まるで昨日テレビで見た、不倫の発覚した芸能人のようだ。
どうして他人の色恋沙汰に、そこまで必死になって盛り上がることができるんだろう。確かに春希は内気な奴で、クラスの人気者らしい天音ではつり合いが取れていないのかもしれない。けれど、それで周囲の人間が不利益をこうむることがあるのだろうか。
ここにいる人たちは、他人の物差しを認めてあげることができない人たちばかりだ。
そのことに軽く苛立ちを覚えながら窓の外を眺めていると、話し掛けてきた奴が一人だけいた。
「おい工藤、マジに高槻さんと付き合ってんの?」
首だけをそちらに向けると、『明(あけ)坂(さか)』と書かれているネームプレートが目に入る。明け透けな態度が印象の男だ。
「そういうことは、天音に聞いてよ」
「だって、向こうは男子禁制の記者会見みたいになってんじゃん。男の俺にはハードル高いって」
横目で輪の方を見てみると、未だに人だかりが絶えていない。人の壁の隙間から見えた天音は、困ったような表情を浮かべつつも、どこか楽しそうに笑っている。
「高槻さんは、橋本と付き合ってるって説が有力だったのにな」
「俺が、なんだって?」
気付けば今しがた噂(うわさ)をしていた橋本康平が、明坂の後ろに立っていた。薄く笑みを浮かべているその表情の意味を、読み取ることはできなかった。
「これまでにも、何度か天音が言ってただろ。俺とは付き合ってないって。俺も、ちゃんとみんなに説明してたけど?」
「いや、だって信じらんないじゃん。二人とも仲良さげに話してるし、たまに一緒に下校してるし」
「それは天音と俺が幼馴染で、誰よりも一番あいつのことを理解してるからだよ」
今のセリフは明坂に説明しているようで、なぜかこちらを見つめながら言ってきた。わざとらしく首を傾げると、勝ち誇るように薄く笑ってくる。もしかすると、マウントを取られたのだろうか。
それなら、橋本は大きな勘違いをしている。俺と天音は、別に付き合っていない。
「橋本は悔しくないのかよ。やっぱり狙ってたんじゃないの?」
「どうだろうね。ああ見えて、気難しい奴だからな。家庭内のこともあって」
「そうなん?」
「母が、いわゆる毒親なんだ」
「毒親って?」
聞き慣れない単語に言葉を挟むと、そんなことも知らないのかとでも言いたげに、わかりやすくため息を吐いてきた。
「天音の将来に過干渉気味なんだよ。いい大学へ進学して、いい職場に就職することがすべてだと思ってる。怒る時は、ヒステリーを起こすそうだ」
「うわ、いるよなぁ。そういう親。うちもそれだわ。飯食ったらゲームの前に勉強しろって」
「お前はいつもテストが赤点スレスレだからな。構ってくれてるうちが華だよ」
「なんだよそれ。俺はスポーツで推薦取って、しっかり大学に行くんだよ」
「スポーツの推薦も、そんなに甘くないけどな。ところで、お前はどうするつもりなんだ?」
いきなり、話の矛先がこちらへと向いた。春希の将来のことなんて知ったこっちゃない俺は、最低限嫌みを言われたりしないように、無難な回答を頭の中で組み立てた。
「これから勉強頑張って、少しでもいい大学に進学するよ。ちゃんと親孝行もしたいし」
工藤家のことは、まだよくわかっていない。けれど、男手一つで高校生の息子を育てるのは想像しているよりずっと大変だろう。昨日も、夕食はオムライスを用意してくれた。どうやら、春希の好物らしい。
そんなささやかな幸せに満ちていた食卓のことを知る由(よし)もない橋本は、また俺の回答を一笑に付してくる。
「それじゃあ、これからは気軽に学校を休めないな。そのうち、授業にもついてこれなくなるぞ。そんなことを続けてたら、毎日ご飯を作ってくれている母親が悲しむ」
「そうだね」
隙あらば棘(とげ)を刺してくる彼に呆れ、適当な相(あい)槌(づち)を打つ。いけ好かない奴だ。彼は言葉を口にするたびに嫌みを吐き出さないと、気が済まない性(しょう)分(ぶん)をしているらしい。
言いたいことだけ言って満足したのか、目の前から早々にさっさと立ち去ってくれたから、いくらか溜(りゅう)飲(いん)を下げることができた。
「お前、雰囲気変わった?」
しかし明坂はまだ話があるのか、先ほどまで天音が使っていた椅子を横に向けて、断りもなくそこにどかっと座り込む。
「それ、やめた方がいいと思うよ」
「何が?」
「人のこと、お前って言うの」
俺には杉浦鳴海という名前があって、春希には工藤春希という名前がある。百歩譲って、君と呼ばれるなら悪い気はしないけれど。
お前、お前、お前。先ほどまでそこにいた橋本の声が頭の中をちらついて、不快感が込み上げてくる。
「わりい、そういうこと今まで気にしてなかったわ」
とても小さなことだけど、すぐに軽く頭を下げてくれた明坂は、素直な奴だと思った。それからあらためて「工藤は――」と訊ねようとしたところで、タイミング悪くチャイムの音が鳴り響く。
「ちょっとー! トイレ行けなかったじゃん!」
言いつつも、天音は輪の中から飛び出して行き、教室のドアを開けて走り去っていった。その必死さに、思わず笑みがこぼれる。あらためて、明坂の方に視線を戻した。
「もし俺が、工藤じゃなかったとしたらどうする?」
「は? 何言ってんの、おま……」
お前と言い掛け、すんでのところで言葉を奥歯で噛み潰した明坂は、誤魔化すように頭を掻きながら笑って「工藤は、工藤だろ」と言った。
「でも、少し親しみやすくなったよな。前までは、話し掛けないでオーラがぷんぷん出てたし」
「そう?」
「自覚なしだったのかよ。あれか、工藤が変わったのは彼女さんの影響って奴? 俺はまだ、いまいち信じてないけど」
「信じてないのかよ」
「だって、工藤は宇佐美のことが好きだったんだろ?」
「……なんで?」
思わず、宇佐美がいる教室後方へ視線を向けた。初対面の時から印象最悪だった彼女は、チャイムが鳴っても教師が来なければ問題なしだと言わんばかりに、お友達と賑(にぎ)やかに談笑している。
「この前、気になっていた洋服をママに買ってもらったの!」
嬉しそうにお友達と話す彼女は、そこだけ切り取れば確かにかわいげがあるのかもしれない。けれど、笑顔の裏にある性悪な部分を、俺は知っている。
「一時期、女子の間で噂になってたぞ。工藤が宇佐美に、アプローチ掛けてたって」
「……ただの噂だよ、そんなのは」
もし明坂の話が眉(まゆ)唾(つば)ものじゃなく事実だとしたら、春希の女性の好みに疑問を感じてしまう。
くだらない話をしていると、教師が遅れて入室してきた。それと同じくらいに、こっそり天音が戻ってくる。走ってきたのか、肩で息をしながら明坂と交代するように席に着いた。
「大変だったね」
「まったく、他人事みたいに言わないでよ……君も私と一緒に説明してくれれば良かったのに」
「嫌だよ、面倒くさい。天音が撒(ま)いた種だろ」
不服そうに唇を尖(とが)らせながら、引き出しの中から現代文の教科書を取り出す。その横顔を見つめていると、先ほど橋本が口にしていた『毒親』という単語が頭の中をリフレインした。
あれは、聞かなかったことにしよう。誰にでも、知られたくないことの一つや二つはある。それが仮に母親のことだったとして、誰に聞いたのかを問い詰められたら、橋本から聞いたと話さなければいけなくなる。あいつはいけ好かない奴だけど、わざわざ告げ口することに意味はない。
知らないふりをして、いつか天音が話をしてくれた時に相談に乗ってあげるのが、一番正しいんだろう。
天音への尋問は、それからも中休みのたびに飽きもせず続けられた。昼休みも、授業が終わった後の掃除の時間も、彼女の周りには人が集まった。そうこうしているうちに、さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、天音は箒(ほうき)と塵(ちり)取(と)りを持ちながら、納得しないクラスメイトたちにようやく反論を始めた。
俺はあくまで他人のふりをしながら、掃除がしやすいように机を動かす仕事を続ける。
「それじゃあ芹(せり)華(か)に聞くけどさ、私が仮に芹華の彼氏のこと、束縛強めで重たいから別れた方がいいよって言ったら、怒ったりしないの? 私は恋人のことをそんな風に言われたら、さすがにいい気はしないんだけど」
今まで『春希くんは、みんなが思ってるよりずっといい人だよ』と、無難な感想ばかりを言い続けてきた天音が、ついにキレた。というより、よく持った方だと思う。今日一日、何度も繰り返し同じことを問い詰められ、傍(はた)から聞いていただけの俺でも、軽くノイローゼになりそうだった。
天音は、普段あまり怒らないんだろう。今のまごうことなき正論は、一瞬にして聴衆の騒々しい声を掻き消した。
「え、あ、ごめん……」
「風香も、私の彼氏のことをそんなに悪く言うんだったら、今度から仲良くしないからね」
「ごめん……」
「それじゃあ、ちゃんと謝って?」
テニスラケットの女の子に謝罪を求める天音は、清々しいほどの微笑みをたたえていたけれど、その目は全然笑っていなかった。思えば、俺がまだ春希のふりをしていた時も、似たような表情を浮かべていた気がする。
あの時も内心ぶちギレていたのかもしれないと思うと、今さら背筋が寒くなった。
「ごめん、天音……」
「そうだね。でも私じゃなくて、まずは彼に謝ろっか」
「えっ」
今まで安全圏にいたはずの俺が、なぜか唐突に槍玉(やりだま)に上げられる。クラスメイトBの立ち位置を死守しようとしていたのに、教室中の視線が一気にこちらへと集まった。隣で掃除もせずにサボっていた明坂は、ご愁(しゅう)傷(しょう)様(さま)とでも言いたげにくつくつ笑っている。
「……工藤に謝る必要なくない?」
「謝らないの? 昨日も昇降口で悪口言ってたのに」
「あの、いろいろ悪口言ってごめん……」
天音に圧を掛けられたテニスラケットの女の子は、それからすぐにこちらに頭を下げてくれた。ここで誠意を見せておかなければ、彼女から本格的に嫌われると察した周囲の人たちも、まばらにではあったが頭を下げてくる。
「……いや、俺は、別に気にしてないから」
「そんな風に君も強がったりするから、みんな傷付けていいんだって調子に乗って、善悪の区別が付かなくなるの!」
「なんで俺が怒られなきゃいけないんだ……」
ふと口から漏れ出た愚(ぐ)痴(ち)に、隣の明坂が小さく吹き出した。別に笑って欲しくて呟いたわけじゃない。
「それじゃあ、もう私も許したから早く散って。掃除して。終礼始まるよ」
まだ煮え切らない態度を見せる人もいたが、天音の号令によって朝から続いた詰問会はようやく解散となった。これで平穏が手に入るわけではないけど、少しは穏やかになってほしいと心から思う。
「マジで、馬鹿みたい」
そして朝から一度も輪の中に入っていなかった宇佐美は、小さな声で悪態を吐いて机の脚を軽く蹴飛ばしていた。こいつはこいつで、何を考えているのかいまいち読み取れない。友達と屈託なく笑い合っている時もあれば、春希と話す時は過剰なほどに敵意を剥き出しにしてくる。
彼女のことを横目で観察していると、不意に目が合って舌打ちされる。そして「死ね」と呪いの言葉を吐き捨ててから、別の教室を掃除していたお友達が帰ってきたのか、急に笑顔になってそちらへ歩いて行った。コロコロ表情が変わって、正直気味が悪い。
「なあなあ、マジに高槻さんと付き合ってんのかよ。どうやって落としたんだ? 教えてくれ」
言いながら、明坂は箒の柄の先端を頬に押し付けてきた。鬱(うっ)陶(とう)しいことこの上ない。
「放課後に、空き教室でお話してただけ」
「放課後に空き教室に呼び出して、仲良くおしゃべりする関係に持って行く方法を教えてくれよ! 一番大事なとこだろ!」
「知らないって。たまたま、修学旅行の係が同じだったんだよ」
奥歯に内頬が当たって痛かったから、右手で箒の柄を払った。
白けた視線を向けると、何が面白いのか一人で勝手に笑う。明坂、明け透けな奴。
掃除の時間であるにもかかわらず、いつまでも実のない話をしていると、ついに終了のチャイムが鳴った。たいして掃除もしていないのに、みんな弾かれたようにやり切った感を出して机を元の形に戻し始める。
果たして本当にそれでいいのだろうかと疑問に思ったが、集団行動を乱すことなく俺も片付けに入った。
「ねぇ、春希くん」
さっきまでテニスラケットの女の子と話をしていた天音が、机を戻す作業をしている俺のところへトコトコやってくる。ようやく市民権を得たと思い堂々と振舞っているんだろうけど、未だにこちらに向けられる奇異の視線は収まっていなかった。
「今日も放課後はよろしく。帰らないでね」
「あ、うん……」
それから天音はやや背伸びをして、こちらに顔を近付けてくる。恥ずかしい話だけど、一瞬キスをされるんじゃないかと錯覚した。周囲から、少しだけ悲鳴にも似た黄色い声が上がったのが遠巻きに聞こえてきて、勘違いをしたのは俺だけじゃなかったんだと安心する。
不自然なほどに心臓が早鐘を打っていて、何かの拍子に破裂して壊れてしまうんじゃないかと焦った。
天音の吐く息が、耳たぶを撫(な)でるように通り抜ける。その瞬間、全身が震えた。
「……杉浦くん、迷惑掛けてごめんね」
迷惑を掛けていると、自覚していたんだ。失礼な話だけど、素直に驚いた。いずれ春希の中からいなくなる俺に、気を使ってくれているとは思っていなかったから。
「別に、気にしてない……」
だけど、ありがとう。
どうしてか無性に感謝の言葉を伝えたくなった。
けれど声に出したかった言葉は、音として放たれることはなかった。
突然、体に浮遊感を覚える。そのすぐ後に、ゆっくりと深い水の底に沈んでいくように、意識が朦(もう)朧(ろう)とした。
「――春希くん?」
最後に聞こえたのは、春希の名前を呼ぶ天音の声。俺はいつの間にか、体から意識を手放してしまっていた。
生まれつき、心臓に穴が空いていた。手術によって治すことはできるけれど、十三歳になるまで生きられないかもしれない。幼い頃から体が弱く、心臓に欠陥を抱えていた工藤春希は、市立病院へ入退院を繰り返していた。
自宅や学校で過ごすよりも、病院のベッドで横になっている時間の方が長かった春希は、必然的に周りの子供たちとの会話についていけなくなっていた。たまに小学校へ登校しても、いつも独り。彼の生きる世界で信頼のおける相手は父親と、底抜けに明るくポジティブな母親だけだった。
「僕の病気は、治らないの……?」
小児科病棟のベッドで横になり、いつも不安に押し潰されそうになりながら春希は訊ねる。まだ幼かったが、彼は自分の病気がとても重いものなのだと自覚していた。
「大丈夫! きっとお医者様が治してくれるわよ!」
リンゴの皮を剥いてくれていた母が手を止めて、温かな優しい手のひらで頭を撫でてくれる。
「だってお母さんも、子どもの頃はハルとおんなじだったもん」
「おんなじ……?」
「お母さんも、体が弱かったの。でもほらこの通り、今はハルのお母さんになってるでしょう? だから、大丈夫!」
「でも、怖いよ……大人になれないかもしれないのは」
「大丈夫、大丈夫よ。ハルは立派な大人になれるから」
言い聞かせるように、小さな体を抱きしめてくれる。母の声は温かみに満ちているけれど、体はやせ細って骨ばっていることを春希は知っている。母の体から浮き出た肋(ろっ)骨(こつ)が、抱きしめてくれる時にいつも頬に当たるのだ。
だから本当は治ってなんかいなくて、自分のために強がってくれていることも薄々察していた。それでも春希は、そんな母の愛にいつも救われていた。
ある日、病院を一人で徘(はい)徊(かい)していると、屋上の扉が開いていることに気付いた。扉には赤い文字で『立ち入り禁止』と書かれているが、漢字の読めない春希にその意味はわからなかった。
この頃はあまり外に出ていないから、久しぶりに薬剤の臭いが混じっていない、新鮮な空気が吸いたかった。春希は重たい鉄扉を小さな体で押し開けて、こっそりと屋上に足を付ける。
昨日降った雨なんて嘘のように空は青く澄み渡っていて、ここ数日沈んでいた心がほんの少しだけ晴れたような気がした。大空を見上げていると、この悩みがあまりにもちっぽけなものに思えてきてしまうのは、自分だけだろうか。もし叶(かな)うのなら、遠くの空を自由に飛び回っているあの鳥のように、どこか知らない場所へ行きたいと強く願った。
朝目が覚めたら、名前も知らない誰かになっていたらと空想してしまうこともある。そうすれば、何もかもが上手くいくのかもしれない。
けれど屋上の端には、それらの思いを阻害するかのように大きな鉄の柵が張り巡らされている。飛んで、どこかへ行きたいと願っても、幼い子どもの体ではここを乗り越えることなんてできやしない。誰かと入れ替わることも、できるはずがない。
それでも鉄柵にしがみつき、精一杯背伸びをして地上を見下ろしてみると、色とりどりの車の群れがそこからは見えた。病院の敷地内へ、救急車が入ってくる。遠くを見渡すと、自分が通っている汐月第三小学校も見えてしまった。
一気に憂(ゆう)鬱(うつ)な気分が心を支配する。
ここから飛び降りれば、いなくなることができるのだろうか。ふと考えたけれど、まだダメだと思った。今いなくなれば、こんな自分を愛してくれている両親が悲しんでしまうから。
だから、鉄柵から手を離そうとしたところで。
「おいお前、そこで何してるんだよ」
突然、後ろから誰かに話し掛けられた。悪いことをしているような気がして慌てふためいた春希は、逃げるように鉄柵に背中を張り付ける。
「何だよお前、今死のうとしてたのか?」
「えっ?」
そこにいたのは、悪いことを咎めに来た大人ではなく、自分と同い年くらいの子どもだった。それが春希にとっては、余計に都合が悪かった。学校でも上手く周囲の人間と話すことのできない春希は、自分と同じ子どもに若干の苦手意識を抱いていたからだ。
黙っているのは印象が悪いと思って、精一杯の声を絞り出す。
「……そんなことしないし、それに乗り越えられるわけないよ」
「こんな高さ、余裕だろ」
宣言するとこちらへ近寄ってきて、春希は鉄柵から離れた。今度は謎の子どもが柵に指を掛け、迷うことなく片足を上げる。
「危ないって。それに、お医者さんに怒られちゃう……」
「平気だよ。お前が黙ってさえいてくれれば」
なんで見ず知らずの子どもの悪行に加担しなきゃいけないんだと思ったが、それを主張する前にその子はもう片方の足も地面から離してしまった。まるで蜘(く)蛛(も)のように鉄柵に張り付き、ゆっくり上っていこうとする。
春希も、もしやこれは行けるんじゃないかと思い始めた時、案の定すぐに右足が滑った。お尻から落下したら危ないと思って、後ろ向きに躓(つまず)いたりしないように、反射的に間に入って受け止めに入る。
体で止めた衝撃は想像していたよりも随分軽くて、やわらかくて、初めて同世代の子どもに故意に触れた春希は、やや拍子抜けした。後ろから抱きしめる形になってしまったから、遅れて緊張がやってきてすぐに解放する。
「だから、危ないって言ったのに……」
「ごめんな、受け止めてもらって」
素直に謝るその横顔は、ほんのり赤く染まっていた。できると言って結局できなかったから、恥ずかしいのだろうか。別に、失敗して笑ったりはしないのに。
「これは無理だな。子どもの俺には、高すぎる」
「最初からそう言ってるのに」
「でも無理だと思って、初めから挑戦しないのは良くないと思うんだ。そんなんじゃ、どこにも行けない」
いったいどこへ行きたいんだろう。見つめていると、履いていたズボンを軽く手で払った。
「どこへ行きたいんだろって思っただろ?」
「え? あ、うん……」
「教えてやるよ。どこへでも、さ」
意味がわからず首を傾げると、なぜか「へへっ」と得意げに笑った。
「だからもう少し俺たちが大きくなったら、一緒に行こうぜ。どこへでも」
「……無理だよ。たぶん、僕の病気は治らないから」
「何言ってんだよ。早く病気を治すために、ここへ来てるんだろ?」
「そうだけど……」と、春希は煮え切らない態度を見せる。誰もが君みたいに、前向きに考えることはできない。お腹の底から湧いてきた負の感情を慌てて沈めた。
するとこちらへ、小指を差し出してくる。
「それじゃあ、約束だ。お前の病気が治るまで、俺が付き合ってやる。今度からはいっぱい、遊びに来てやるから」
それから「助けてくれたお礼だ」と言った。それでも未だうじうじしていると、強引にこちらの手を取って、勝手に小指を絡めてきた。
「指きりげんまん嘘吐いたらはりせんぼんのーます。指切った!」
合図と共に、契りは断りもなく切られる。春希はただ茫(ぼう)然(ぜん)と、自分の小指を見つめていた。なぜだか、悪い気はしなかった。
「そういえば、名前」
訊ねられて、春希は『ハルキ』と名乗った。
「ハルキか。かっけぇじゃん。俺、そういうかっけぇ名前好き。お前の名前、羨ましい」
自分の名前がかっこいいと思ったことのない春希は、どういう反応を見せればいいのかわからなくて、曖昧に微笑んだ。それからずっとチクチクと胸に小さな棘が刺さっていたことに気付いて、思い切って口を開いた。
「お前って言うの、やめて欲しい……」
「なんで?」
濁りのない瞳を、ぱちくりさせて訊ねてくる。正直に胸がチクチクすると話すと、すぐに「ごめん」と謝ってくれた。それから一度たりとも、こちらのことをお前と呼ぶことはなかった。
「そういえば、君の名前は?」
「俺?」
訊ねると、しばらくの間の後に答えがあった。
「ナルミ」
俺の名前は、ナルミっていうんだ。
君の名前も、十分かっこいいじゃんと、春希は少し羨ましく思った。
まぶたを開けると、無機質な白い天井がそこにあった。もしかすると元の体に戻れたのかもしれない。期待しながらゆっくり体を起こすと、ベッドの軋(きし)む音が鳴った。
「あ、起きた」
声のしたすぐ隣に顔を向けると、宇佐美が本を読む手を止めてこちらを見つめていた。不機嫌そうに眉を寄せていて、なぜか今は黒いふちの眼鏡を掛けている。体が元に戻っていないことには落胆したけど、知っている顔がすぐそこにあって安心した。
「眼鏡、似合ってるじゃん」
正直な感想を伝えると、宇佐美はすぐに眼鏡を外して「うるさい、死ね」というお礼の言葉をくれた。小顔にその大きな眼鏡は、かわいげがあるのに。
彼女は本を閉じる。
「それじゃあ、私もう行くから」
「ちょっと待てよ。せめて説明してくれ」
「私、保健委員。とても不本意だったけど、天音から一時的にあんたのこと任されたの」
「じゃなくて、なんで俺がここにいるんだ」
「覚えてないの?」
正直に頷くと、持ち上げかけていた腰を下ろして、これまでの経緯を教えてくれた。
「掃除が終わったら、あんたがいきなり情緒不安定になったの。僕は、なんでここにいるんだー!って、大声で叫んでて、それを近くにいた天音がなだめてた」
「そんなことが……」
推測でしかないが、もしかすると一時的にこの体に春希の意識が戻っていたのかもしれない。俺に記憶はないけれど。その代わり、夢の中で春希の思い出を見ていたことは、覚えている。
「天音のおかげであんたが落ち着いて、それから意識を失ったんだよ。救急車を呼ぶ話も出たけど、眠ってただけみたいだったから。でも、先生が親御さんに一応電話するって。天音は、私が事情を説明してくるからって言って、そっちに行った。もうそろそろ来るんじゃない? あんたのママを連れて」
宇佐美の説明が終わると、タイミングよく保健室のドアが開いた。そこには父親と天音の姿があり、俺を見ると彼女は一目散にこちらへと走ってきた。
「春希くん! 大丈夫⁉」
「ああ、うん。ごめん、天音」
「頭とか打ってない? 気持ち悪いとか、ない?」
「別に、どこも。ただ……」
宇佐美がいる手前本当のことを言えずに口ごもると、それだけで察してくれたのか頷いてくれた。
「それは、今はいいから。ありがとね、真帆。春希くんのこと見ててくれて」
「別に私は何も……てか、あんたたち本当に付き合ってたんだ。そっちの方が驚いた」
宇佐美はそれから、様子をうかがっている父親と、天音のことを交互に見てから「帰るね」と言って立ち上がった。
「ありがと、宇佐美」
お礼を言って、また悪態を吐かれるかと思ったが、宇佐美は何も言わなかった。荷物を持って保健室を後にする時、父親から「息子と仲良くしてくれて、ありがとね」と言われ「……ごめんなさい」と、謝罪の言葉を口にして去っていった。
保健室を出て行く彼女の背中には、申し訳なさが滲んでいるような気がした。ああ見えて、性根のところでは優しい奴なんじゃないかと、勝手に想像してしまう。
「ハルは女の子にモテモテだな」
「そんなんじゃないって」
「とりあえず、どこも異常がなさそうで安心したよ。一応万が一のことはあるから、病院には連れて行くけどね。天音さんも、家まで送ってあげるよ。息子とのこと、いろいろ聞かせてくれ」
「春希くんのことが心配なので、お言葉に甘えさせていただきますね」
それから気を使ってくれたのか、父親は先生に挨拶をしてくると言って、一旦若者だけにしてくれた。戻ってくるまでに話を済ませなければと思い、単刀直入に先ほど夢で見たことを話した。
「杉浦くんが、春希くんの夢を見てたってこと?」
「そうなんだ。それで宇佐美から聞いたんだけど、俺は教室でいきなり取り乱したんだろ? その時、この体に春希が戻ってたんじゃないかな」
「それは、たぶんそう。雰囲気的に。でも杉浦くんは、元の体には戻ってなかったんだ」
「……忘れてるだけなのかも。でも、収穫はあったんだ。俺は幼い頃、春希と会っていたかもしれない」
「というと?」
「夢の中に、ナルミっていう男の子がいたんだ。病院の屋上で落ち込んでたら、その子に励まされた。根拠はないけど、夢で見たあの子が俺なんだと思う。そうじゃなきゃ、意味もなく春希の思い出を見たりしないから」
自分という存在を掴めるんじゃないかと、ほんの少し興奮していた。だから一度そうと決めつけたら、本当にあの子が俺なんだという確信めいた予感が心の内に渦巻いた。
「後で、父親に春希が入院してた病院のこと、聞いてみるよ。その病院の屋上に行ってみたら、また何か思い出すことがあるかも」
気付けば、いつの間にか天音はメモ帳を取り出して、俺が熱く語っていたことをまとめていた。
『春希くんの夢。病院の屋上で会ったナルミくん=杉浦くん?』
その文章の前に、杉浦市、汐月町、三船町とメモしてあるのが目に入る。一人の時も、俺のことを考えてくれていたみたいだ。
「そういえば汐月町って、昔ここにあったんだろ?」
「そう。私も忘れてたんだけど。二つの町が杉浦市に吸収合併されて、今の杉浦市になったの。そういえば、大人たちが文句言ってたの覚えてる。俺たちの町をなくすなって」
「……そうだったんだ。それなら、余計にこの推測が信(しん)憑(ぴょう)性(せい)を増すよ。たぶん俺も、この辺に住んでた。だから汐月町の名前を覚えてたんだ」
点と点が、線で繋がったような気がした。ただ、俺という存在を思い出したとしても、どうすれば元の体に戻ることができるのかは、皆目見当もつかない。
でも、記憶さえ取り戻すことができれば、もしかしたら……。
「杉浦くん、体に障(さわ)るかもしれないから。ちょっと興奮した脳を落ち着けて」
突然、天音が人差し指を額に押し当ててくる。そのおかげか、寝起きから動き続けていた脳の回転が急にストップする。俺と比較して、彼女は驚くほどに冷静だった。
「……ごめん」
「そんなに焦らないでね。ゆっくり、そのうちまた勝手に戻るかもしれないから」
「……そうだね。ちょっと、急ぎすぎた」
「ところで、屋上のナルミくんは、君の目にどんな風に映った?」
問われて、正直な感想を口にする。
「自分で言うのもなんだけど、春希の支えになれてたと思う。あいつ、めちゃくちゃ落ち込んでたから。誰かが強引にでも引っ張ってあげなきゃいけないんだ。その相手が、俺で良かった」
「そっか」
拙(つたな)い感想を聞いた天音は、どこか嬉しそうだった。
「もし、元の体に戻れたら、その時は俺と春希と天音の三人で会おう。俺たちがいたら、きっと春希は寂しくなくなるから」
「そうだね。杉浦くんの言う通りだ」
そんな口約束を忘れないためにか、天音はメモ帳に『三人で会う』と書いてくれた。
それが、ただ純粋に嬉しかった。
帰りの車の中で、並んで後部座席に座っている天音に「良かったら、今度お家にいらっしゃい」と父親が誘った。いきなりそういうのは早すぎるし、そもそも付き合っているふりをしているだけなんだから、彼女は断るだろうと思っていた。
それなのに、
「ぜひ」
と、満(まん)更(ざら)でもなさそうな表情を見せた。何を考えているのか、いまいちよくわからない奴だ。
「その時は、ご迷惑じゃなければ手を合わせさせてください」
「なんだ、聞いてたんだね」
おそらく母親のことを言っているんだろう。俺も、おおむね父親と同じような感想を抱いた。どうやら春希は、天音にだけは家族のことを話していたらしい。わざわざクラスメイトの母に手を合わせるなんて、優しい奴だ。
天音を家まで送り届けてから、その足で病院へ向かった。到着したのは杉浦病院で、どうせなら屋上へ上りたかったけど、今日は診察に来ただけだから抜け出すことはできなかった。
簡単な診察の結果、体に異常は見られないとの診断が下された。どうやら、医者でも俺と春希の間に起こっている不可解な現象に気付くことができないらしい。ということは、自分たちでどうにかしなければいけないということだ。
杉浦病院という大きな手がかりとなりそうな場所へ来れたというのに、結局何の収穫も得られないまま家に帰ることとなった。
その帰り道、車で夜道を走りながら、何げない風を装って訊ねた。
「子どもの頃に俺が入院してた時、一緒に遊んでた子がいたでしょ? 覚えてるかな」
「遊んでた子? あぁ、もしかしてナルミちゃんのこと?」
いきなりナルミという名前が出て、ほんの少し腰を浮かせた。
「そう! その子の名字とか知らない? もしかしたら、杉浦とかじゃなかった?」
「名字は知らないな。ナルミですとしか、挨拶されなかったから」
「そっか……」
「あの子はお母さんによく懐(なつ)いてたね。お母さんも、あの子のことをハルと同じくらいかわいがっていたよ」
「そうなんだ……」
俺が春希の母親に懐いていたことがわかっただけで、一応は収穫だと言えるのかもしれない。それに、父親とも面識があったみたいだ。果たしてこれを、偶然と片付けてしまってもいいのだろうか。
「それで、そのナルミちゃんがどうしたんだ?」
「今、どうしてるのかなって。病院に行ったから、ちょっと思い出した」
「なるほどね。あの子、突然遊びに来なくなったから。元気にやってるといいな」
それからまた、思い出したように話す。
「そういえば、二人で画用紙に絵本を描いて遊んでただろう? 今も持ってたりしないの?」
「絵本?」
自分が絵を描いて遊んでいるところなんて想像ができなかった。けれども仮にその絵本を春希が所有しているのだとしたら、何か手がかりになるかもしれない。
「ちょっと探してみるよ」
「そうしてみなさい」
家に帰りご飯を食べ、夜眠る前に母親の写真の前で手を合わせた。息子のように慕ってくれていたと知って、嬉しかったのかもしれない。その記憶が、俺の中に存在しないことが、とても悲しかった。
春希の部屋を物色することに抵抗はあったけど、一度だけと言い聞かせて絵本がないか軽く探させてもらった。
しかし、そう都合良く物事は運ばないことを思い知らされる。
結果だけ言うと、春希の部屋にその絵本は存在しなかった。
それからしばらくの間、特に目新しい情報が見つかることもなく、穏やかに学校生活は過ぎていった。
当初、俺と天音が付き合っていることに懐疑的な目を向けていたクラスメイトたちだったが、彼女のマメな説明が功を奏したのか、未だに歓迎されてはいないものの、二人は付き合っているという共通認識が得られた。そのおかげもあってか、春希に対するクラスメイトの扱いも変わったような気がする。
上履きを隠されることもないし、教室にいても注目を集めるような存在ではなくなった。宇佐美からは、目が合うと未だに睨まれてしまうけれど。
何も情報が集まらなければ二人で話し合う意味もないため、必然的に天音と放課後に話す機会は少なくなった。そもそも彼女は放課後、アルバイトに勤(いそ)しんでいるみたいだ。ずっと、暇人なのだと勘違いしていた。
勤務先を訊ねたが、恥ずかしいからと言って教えてはくれなかった。アルバイトをしていたことよりも、彼女の辞書に羞恥心という言葉があることに驚いた。そういうものが欠落していると思っていたから。
以前、焦らずにゆっくり考えようとアドバイスをもらったが、こうして春希として振舞う生活を続けていると、いつまでこの生活が続くのだろうと焦(しょう)燥(そう)感(かん)に駆られる。
「それにしても、春希って本当に高槻さんと付き合ってんの?」
体育の時間。バスケの試合を観戦しながら、次の自分のチームの番が回ってくるまで隅で待機していると、明坂がふらふらとこちらへ駄(だ)弁(べ)りに来た。器用に指先でバスケットボールを回しながら。
「もう納得したんじゃなかったの?」
「その時は納得したけど、あれから特に二人とも話してないじゃん。同じクラスにいるのに」
「なんで俺が率先して天音と話さなきゃいけないんだよ」
「だって恋人同士じゃん。最近、本当は付き合ってないんじゃないかって女子がまた噂してんぞ」
その噂好きな女子たちは、体育館のもう半面を使ってバレーの試合をしている。ちょうど天音はコートに出ており、チームメイトがトスしたボールに合わせて跳躍し、相手コートにスパイクを叩きつけた。ボールが地面にぶつかった音か、天音の着地した際の衝撃かはわからないけれど、こちらの床までもがほんの少し揺れたような気がする。
天音はコミュ力があって勉強ができるだけでは飽き足らず、スポーツまでそつなくこなせるらしい。天は二物を与えずとは言うけれど、神様はいったい天音に何を与えなかったのだろう。
「毎日メッセージでやり取りはしてるよ」
「何回くらい」
「一回か、多くて三回くらいだけど」
そのメッセージも基本的には天音が律(りち)儀(ぎ)に送信してくる《おはよう》と《おやすみ》にスタンプを返し、時折互いの情報を交換しているだけだ。これでも多い方だと思うけれど、明坂はそんな俺に憐(あわ)れむような視線を向けてきた。
「こりゃあ、時間の問題だな」
呆れたように明坂が言った瞬間、体育館内に女子の黄色い歓声が上がった。どうやらこちらでは、橋本がロングシュートをゴールに入れたらしい。
「俺も、あんな風にモテたいよ」
悔しさを噛みしめるようにぼやく。
「明坂も、サッカーでいいところ見せればいいじゃん」
「男子がサッカーやってる時は、女子は屋内でバドミントンやってんだよ! それぐらい知ってるだろ!」
残念ながら、この学校の体育事情なんて俺は知らない。
それから試合を圧勝した天音と目が合って、いつもの個性的な挨拶をされた。俺も、無意識に手を閉じたり開いたりして返事をする。それを明坂が見ていたようで「いちゃついてんじゃねーよ」と、脇腹を肘で小突かれた、
しばらくすると、俺と明坂のチームの試合が回ってくる。相手チームには橋本がいて、向かい合って挨拶をした時、見下すような目で「天音に、格好いいところを見せれたらいいな」と挑発された。とりあえず「へへっ」とだけ笑っておいた。
持ち場について試合開始のホイッスルを待っていると、それが吹かれるよりも先に「頑張ってねー!」という天音の声援が体育館に響く。それが俺一人に向けられたものだと誰もが察し、チームメイトから白けた視線を送られる。向こうのコートの橋本は、露(ろ)骨(こつ)に苛立ちを滲ませた表情を浮かべていた。
彼が天音に好意を抱いているのは、普段の態度からわかりきっている。どうやら横から奪った形になった俺は嫌われているらしい。早く別れろとでも思っているんだろう。とても残念なことに、それはきっと元の体に戻る時までおそらく叶わない。
仮に元に戻ったとしても、春希のことを気遣って天音はこの偽装交際を続けるだろう。それを思うと、彼のことが途端に不(ふ)憫(びん)に思えた。俺に苛立ちをぶつけるのは、無意味な行為だからだ。
やがて試合が開始される。しかし、こちらにボールが回ってくることがあっても、橋本がディフェンスに入ってきて、シュートはおろかドリブルもさせてもらえなかった。それだけならまだしも、彼が強引に迫ってくるものだから、思わず尻もちをついてしまうことが多々あった。そのたびに授業をサボっている天音が「ドンマイドンマイ!」と、声を掛けてくる。正直、恥ずかしいからいい加減やめて欲しい。
「高槻! お前はバレーの方を応援しろ!」
さすがにその行為は教師の目に余ったのか、一喝された天音は唇を尖らせながらバレーの観戦へと戻る。それから静かになっても妨害をされ続け、チームに貢献はおろか足を引っ張る結果となった。試合終了後、気遣ってくれたのか「橋本はバスケ部の次期エースだから、しゃーないよ」と明坂が肩を叩いてきて、すっと頭が冷えた。
我ながら、理不尽な仕打ちを受けてほんの少しだけ憤(いきどお)っていたらしい。
「やっぱり、橋本くんかっこいいなぁ」
コートを出る前に、そんな羨望の声が耳に届く。口にしたのは宇佐美のようで、授業をサボって友達と観戦してたみたいだ。曇りのない、キラキラとした目をしている。もしかすると、彼のことが好きなのかもしれない。
「それに比べて、工藤ときたら」
「ねー格好悪いよね」
不意に目が合った俺には、相変わらず憐れみを含んだ声をぶつけてくる。
これでも、顔を合わせるたびに『死ね』と言われていた頃からは、いくらかマシになったような気がする。何が彼女の態度を軟化させたのかは、皆目見当もつかないけれど。
時折、俺はいったい何をしているんだろうと思う。
春希のふりをして、体育の時間はバスケに勤しんで。もっと他にやることがあるんじゃないか。本来の目的を忘れたわけじゃないが、情報がなく変わり映えのない日々に嫌な焦燥感を覚える。春希の不登校と、この現象が関係しているんじゃないかとも考えたけど、それらを結び付けられるような材料も不足していた。
幸いなことに明日は休日だから、思い切って杉浦病院に行ってみようかと、着替えをしながらふと思う。
しかし決意が固まった放課後に、久しぶりに天音から「今日は一緒に帰ろうよ」と誘われてしまった。最近の彼女と言えば、仲の良い友達と一緒に下校していたというのに。偽装交際をしている手前、断るわけにはいかなくて、気付けば首を縦に振っていた。
それからタイミング悪くテニスラケットの女の子がやってきて、
「ねえ天音、今日は……」
「ごめん! 今日久しぶりに春希くんと帰るんだー」
「あぁ、そうなんだ」
いつの間にか、一緒に帰るということにいちいち騒ぎ立てるクラスメイトはいなくなっていた。今日は部活が休みなのか、天音に声を掛けてきた女の子は、俺を一(いち)瞥(べつ)して「それじゃあ、工藤と帰った後に遊びに行かない?」と代替案を提示する。
「それも、ほんっとにごめん!」
「えー放課後も工藤?」
「そこは、彼は関係ないんだけど。私個人の用事で」
その用事というのは、きっとアルバイトのことだ。この学校は基本的に生徒のアルバイトを禁止しているが、天音は友達にも隠して働いているらしい。そんな事情は知らないテニスラケットの女の子は、断られて唇を尖らせる。怒っている、という風ではなく、単純に拗ねているように見えた。
「最近、天音ノリ悪くない?」
「ちょっといろいろ忙しくてさ」
「へぇ、そうなんだ。それじゃあ、また今度ね」
天音を誘うことに失敗した彼女は、それからまた一瞬だけこちらを見て、軽くひらひらと手を振ってくる。挨拶のつもりだろうか。会(え)釈(しゃく)だけすると、教室から出て行った。
「それじゃあ、行こっか」
声を掛けられて、頷きと共に立ち上がる。
クラスメイトからの敵意のこもった視線はなくなった。
けれども一人だけ、橋本は未だに俺のことを忌々しく思っているのか、ふと偶然視線が合う前から軽く睨まれていた。
こればかりは、時間が経っても解決してくれないらしい。
放課後すぐのバスは部活動をしていない帰宅ラッシュの生徒に揉(も)まれるため、歩いて帰ろうと天音が提案した。正直徒歩は面倒くさかったが、反論を唱えた方が後々面倒なため、素直に従って隣を歩いた。
桜はもうほとんど散ってしまい歩道のわきでくすんでしまっているけれど、五月の空は青く澄み渡っていて心が爽(そう)快(かい)な気持ちになる。そんな穏やかな心で歩いていたというのに、天音は仏頂面で単刀直入に切り出してきた。
「最近、杉浦くんが恋人のふりをしないせいで、クラスメイトから本当に付き合っているのか怪しまれています」
「別に、もういいんじゃないの? 続けることに何か意味があるのか疑問に思ってきたところなんだけど」
「もうちょっと乗り気になってよ! お互い恋人同士の関係でいた方が一緒にいて違和感ないし、気軽に春希くんのこととか相談できるんだから!」
「だからって、クラスメイトの前で恥ずかしげもなくいちゃつくのは嫌だよ。体育の時間に白けた目で見られてたんだぞ」
バスケの試合を思い出して、胃にむかむかしたものが溜まる。見様見真似でやっていたから、上手くいかないのは当然のことだと割り切れるけど、さすがにあそこまで橋本に粘着されると穏やかにはいられない。
「そういえば、康平にボコボコにされてたね」
「思い出させるなよ。それに君がうるさいせいで、余計に注目を浴びた」
「なに? 私が悪いって言いたいわけ!」
「どう考えても注目されたのは天音のせいだろ」
思わず正論を吐き出すと、言い返せなかったのか押し黙った。
仕方なくため息を吐いて、溜飲を下げる。
「天音の口からも、何かあいつに言ってやってくれよ。敵意剥き出してきて、正直面倒くさいんだけど」
「それ無理。だから、ごめん……」
思いのほか真剣な表情で顔を伏せてくる。そんな風に落ち込むのは珍しいことだから、逆にいたたまれない気持ちになった。
「もしかして、天音も困ってるの?」
「困ってるっていうか、なんというか。いいところはもちろんあるんだけど……」
この様子だと、おそらく彼から好意を向けられていることを理解しているんだろう。だから、それをあえて言葉にはしないであげた。
「私より魅力的な女の子なんて、周りを見渡せばたくさんいるのにね」
「知らないけど、橋本には天音のことを特別に思える何かがあるんじゃないの?」
「どうだろ。昔から、なんだかんだ仲は良かったけど。ちょっといろんなことを話しすぎちゃったからかな」
不意に『毒親』という単語を思い出して、それを頭の隅に追いやる。付き合いの長い彼は、きっと天音のことを俺よりたくさん知っているのだろう。試合に負けて悔しくはなかったけれど、その事実だけはいつまでも心の中で引っかかっていた。
「いろんなことって?」
記憶も何も持っていないけど、話し相手くらいにはなれるかもしれない。だから思い切って、踏み込んだことを訊ねてみた。彼女は歩みを進めていた足を止めて、こちらではなく道の先を遠い目をしながら見つめる。
春希の偽物である俺に話せることなのかどうか、思(し)案(あん)しているのだろうか。数秒の空白の後、出てきた言葉はどこか諦めたような「いろいろ、だよ」だった。まだその『いろいろ』の境界線を、越えることができていないらしい。
「……橋本に恋人でもできたら変わるんだろうね」
「高校二年に上がる前に告白されたけど、康平は断ったのよ。あんまりいい話じゃないから、ここだけの話ね」
まあ、みんな知ってることなんだけど。冷めた口調で話して、天音は再び歩き出した。俺も、遅れて彼女の隣に並ぶ。
「それで話を戻すんだけど、みんなに怪しまれてるから明日は恋人らしくデートしようよ」
「まだその話って続いてたんだ」
「場所は明日集まってからのお楽しみってことで。一応、動きやすい服装でね!」
「遊園地にでも行くの?」
「お昼のことは考えなくてもいいからね。私の方で用意するつもりだから」
どうやら明日の予定は何一つ教える気がないようで、笑顔でこちらの質問は無視された。拒否権なんてものは、もちろんないんだろう。病院へ行くつもりだったけど、その予定は後日にあらためることにした。
翌日早朝、メッセージで集合場所は駅前だと言われ、渋々『了解』と書かれたスタンプを押した。文字を打つのが面倒くさい時、こういうスタンプは重宝する。
事前に彼女から言われた通り、動きやすい服装を部屋のクローゼットから探してみたけれど、ちょうどいいものがなかった。そもそも春希は服をあまり持っていないようで、仕方なく白いTシャツにジーパンというデートらしくない服装で家を出る。
約束の時間より二十分ほど早く着いたつもりだったけれど、天音は既に待ち合わせ場所の駅前ショッピングモールの前に立っていた。上はマウンテンパーカーを着て、下はショートパンツを履いている彼女は、制服姿を見慣れているせいかどこか新鮮だった。普段はハーフアップで長い髪をまとめているけど、今日はポニーテールで一つ結びにしている。頭には、つばのついた帽子をかぶっていた。
こちらに気付くと「おはよ!」と元気良く挨拶して、いつもの笑顔を見せる。
「ごめん、待ち合わせ時間、間違えた?」
「ううん。時間より二十分も早いよ。杉浦くんは律儀だね」
こいつはいったい何分前からここにいたんだろう。
「一応聞いとくけど、天音に限って楽しみで夜は眠れなかったから早く来たとか言わないよな?」
「ううん。普通に寝たし、いつも通りの時間に起きたよ。ただ杉浦くんはここら辺のこと覚えてないだろうから、待たせると不安にさせちゃうかなって。だから、ここに来たのは今から十分ほど前」
どうやらこちらのことを気遣ってくれていたらしい。素直にお礼を言うと、彼女は威嚇するみたいに両手を左右に広げた。いきなりどうしたんだろうと、身構える。
「ところで、私服姿の私を見た感想は?」
「今から野球の応援にでも行くの?」
「何そのくそつまんない感想。面白くないからやり直し」
理不尽にもやり直しを要求され、思わずむっとする。満足する回答が得られなければ、このやり取りは永遠に続くのだろうか。
「制服姿の方が見慣れてるから、新鮮だった」
「普通。それも面白くない」
何も面白いことを言えなくて、いつの間にか冷めた視線を向けられていた。ここで機嫌を取っておかなければ、この後のデートで尾を引きそうだったから、少しは真面目に考えることに決めた。
「……セーラー服も女の子っぽくていいけど、今日の爽やかな服装もいいと思ったよ。なんというか、普段着崩さずにちゃんとしてるから、そういう一面もあるんだって少し意外だった。薄っすら化粧をしてるし、ボーイッシュな服装なのに、今日も同じくらいかわいいね」
満足してもらえるような言葉を選びはしたけれど、それは紛れもない本心だ。
ほとんどの女子生徒がスカートのウエストを折り曲げたりしている中で、天音だけは普段から何も校則を違反していなかった。規律を無視してまでかわいさを作る必要もないくらい彼女は整っていて、その正しさのようなものを貫くのが天音の本質なんだと思っていた。だから肌の露出の多い格好で来るなんて想像もしていなかったし、人並みにお洒(しゃ)落(れ)に気を使っていることも今まで知らなかった。
そんな、精一杯の拙い感想。最悪気持ち悪がられるかもと思ったが、天音は化粧の載った薄桃色の頬を両手で隠して、それから体ごと後ろを向いた。
「えっ、どうしたの?」
「……ちょっと、休憩」
待ち合わせ場所からまだ一歩も動いていないというのに、おかしなことを言う。もしかして、照れているのだろうか。再び天音がこちらを向く。綺麗な頬がほんのり上気して汗が滲んでる。その証拠に、手のひらで自分の顔を扇いでいた。
「そんなに恥ずかしがるなら、変なこと言わせるなよ」
「ちょっと待って、今のは不意打ちでびっくりしただけだから!」
かわいいという言葉なんて、いくらでも言われ慣れていると思っていた。だからあえて濁したりせずストレートに言ったのに。その反応のせいで、こちらまで調子が狂わされる。
「とりあえずさ、行くなら早く行こうよ。バカップルに思われるのも嫌だから」
「そういうこと、思ってても言わない!」
憤(ふん)慨(がい)した彼女に苦笑すると「まったくもう」と、照れていたのを誤魔化すように笑った。それから帽子をかぶり直すついでに、しばらくの間指先で前髪を整える。
彼女の気が済むまでそれを見守り、目的地へと歩き出した。
休日に呼び出され連れていかれた場所は、巷(ちまた)の高校生が集うお洒落なカフェやショッピングモールなどではなく、ラウンドスリーという複合型エンターテインメント施設だった。
アミューズメントコーナーのけたたましい音が遠くで鳴り響く中、彼女は慣れた手つきで受付の機械を操作し、お昼十二時までスポーツ・アミューズメント施設で遊び放題という土日プランを二人分選択した。
お金を渡すために財布を取り出そうとすると「これちょっと持ってて」と言われ、肩に提げていたサイドバックを手渡してくる。そうして手を塞がれているうちに、彼女は手早く二人分の料金を支払ってしまった。
「よし。このレシートを係員さんに見せれば、リストバンドと引き換えてくれるから」
「よし、じゃないよ。そういうのは男がやるもんだろ」
「誘ったのは私だから。それに、そのお金は春希くんのでしょ? 杉浦くんが使うのは泥棒だよ」
ぐうの音も出ない主張だが、払わせてしまうのは申しわけないなと考えていると、「アルバイトしてるから、巷の女子高生よりはお金持ってるよ、私」と胸を張った。
「それって、友達と遊ぶためのお金だろ。俺に使ってもいいの?」
「杉浦くんは、一応私の彼氏だよね。それに君が思ってるより、お金がたくさん余ってるんだよ。友達と遊ぶためにアルバイトしてお金貯めてるのに、アルバイトの人手が足りなくて最近友達と遊べてないから」
最近ノリが悪くなったねと言われていたのを思い出す。
「それ、本末転倒じゃん」
「だよね、私も最近そう思うんだー」
「君は友達が多そうだから、財布からどんどんお金が逃げていきそうだね」
「そうそう、そうなの。お金ないって断ればいいのに、一年の頃はお誘い全部受けちゃってて。そのおかげで、お友達はクラスメイト以外にもたくさんできたんだけど。優先順位を付けるのがとても難しいね」
友達があまりいない人からしてみれば、それはとても贅(ぜい)沢(たく)な悩みに聞こえるんだろうけど、彼女からしてみれば深刻な悩みなんだろう。人気者ゆえの、葛(かっ)藤(とう)。
「というわけで、私のわがままに付き合ってくれてるお礼に、今日のお代は私に持たせてね。普段からも、申し訳ないことさせてるなって自覚あるし」
「自覚あったんだ。ないのかと思ってた」
思わず皮肉を言うと、笑顔で無視される。
というより、むしろこちらの方がお世話になっている。彼女のおかげで、春希のふりができているんだから。
「ありがとう」
素直にお礼を言うと、彼女は「どういたしまして」と微笑んだ。
リストバンドを引き換えて入場し、「最初は何する?」と俺が訊ねる間もなく、天音は「バッティング行こうか!」とノリノリでエレベーターの方へ向かって行った。今日は一応、彼女のことをエスコートしなきゃいけないのかと不安に思っていたけれど、どうやらその必要はまったくないらしい。この調子じゃ、俺がいなくても勝手に一人で満喫しそうなテンションだった。
屋内最上階にあるバッティング場は、雨が降っている時でも屋根があるので問題なく遊べるようになっている。今日は晴天だけど、そのおかげで日光に悩まされる心配はなさそうだった。
バッティング場では自分たち以外にもカップルが何組か遊んでいて、そのほとんどは彼氏がバッターボックスに立ち、彼女が外で応援しているか興味なさそうにスマホを触っている。
うちの彼女と言えば、彼氏を差し置いてバッターボックスに立ち、金属のバットを握っていた。百三十キロの球を軽々と打ち返す姿は、周囲のカップルの視線を集めていた。
「君、野球経験者なの?」
「まさか、昔ちょっと弟と遊んでただけだよ」
ちょっとのレベルじゃないようにも見えるけど、それはきっと天音の運動神経がずば抜けて高いからだろう。反射神経が特に優れているのかもしれない。何はともあれ、俺には彼女の打つボールをしっかり目で捉えることすらできなかった。
一ゲームが終わると、客が並んでいないのを確認して「それじゃあ、もう一回やってもいい?」と律儀に訊ねてくる。こちらは実際にプレイするよりも彼女の姿を見ている方が楽しいから、譲ってあげた。
四ゲームを続けて打った後「あー楽しかった!」と言って、ようやくバッターボックスから退出する。けれど、まだ打ち足りなさそうだ。代走を誰かに任せれば、彼女一人で野球の攻撃を担当できるんじゃないだろうか。
「杉浦くんも、やってみなよ」
「俺はいいよ」
「私が教えてあげるから」
「やるにしても、この球速は無理だ。少し下げよう」
情けない話だが、からかわずに了承してくれて、九十キロ設定の場所へと移動する。他に客が並んでいないのを確認して、まずはゲームを始めずに彼女から簡単にバットの持ち方や体重移動のコツを丁寧に指導してもらった。どこをとは言わないけれど、彼女は男みたいな性格をしているのに、出るところはちゃんと出ているため、あまり集中はできなかった。
「ちょっと、真面目に聞いてる?」
「聞いてるよ。左足から右足に体重移動するんだろ?」
「それじゃあ、前に進まなくて後ろに下がるから」
確かに、言われてみればそうだ。素直に納得していると、呆れたようにため息を吐いてくる。
「クラスの人気者の天音さんが手取り足取り教えてるっていうのに、杉浦くんときたら」
「……ごめん、次はちゃんとやるよ」
しかしそれからもいまいち集中はできず、なんで天音に心を乱されなきゃいけないんだという理不尽な思いが胸中に渦巻いた。きっと男というのは、総じてそういう生き物なんだろう。
邪念を払いつつ真面目に話を聞いて、彼女に「一回やってみ」というお許しをもらったため、一人でバッターボックスに立った。
「最初は打てなくていいから。言ったこと意識して、飛んでくる球だけはちゃんと見てるんだよ」
あの行き当たりばったりな性格の天音をして、案外面倒見はいいんだよなと上の空で思う。それは弟がいるからこそ、なんだろうか。
彼女が教えてくれたことを体で思い出し、それなりの速さで飛んでくる球を一打目から当てることができた。芯でミートしたのか、先ほどの天音のように高く白球が打ち上がる。それをぼんやり眺めていると「やるじゃん!」と、彼女の方が嬉しそうにガッツポーズしていた。
しかし、高く打ち上がったのは最初と次の二球目くらいで、二十球のうち六割ほどしかバットに当たらなかった。教えてくれたのに、がっかりさせるだろうなと思いながら打席をから退くと、思いのほか天音の機嫌がよくて「初めてにしては、上出来だよ!」と慰めてくれた。
「杉浦くん、運動神経良いかもね」
「天音の教え方が上手いからだよ」
実際、本当にそう思う。これも勝手なイメージでしかないけれど、彼女はバレーも野球もすべて感覚でやっていると思っていた。それは大きな間違いだったようで、おそらく基礎の部分は理論的に理解しているし体に染みついているんだろう。
「なんで部活やってないのに、そんなに上手いの?」
当然の疑問をぶつけると、特に誇ったりせずに「だって、授業で先生がちゃんと教えてくれるから」と答えた。この人はたぶん、本当に素直な人なんだ。
「もしかして、弟さんが野球部だったり?」
「昔って、小学生の時だからね。私が年上だったから、いろいろ自分で調べて教えてあげてたんだよ。そういう習慣が染みついているから、基礎だけはいつもしっかり覚えてるの。だから君みたいに初見で驚いたり、部活動に勧誘してくる人はいるけど、結局は物事の上澄みをすくってるだけだから、一本真面目にやってる人からしたら、鼻で笑われるレベルなんだよね」
まったく嫌みのない言い方に、感心すらした。よく誰かに教えている時に一番物事が身に着くと言うけれど、それを習慣的に無意識にやってきたんだろう。それでも運動神経に恵まれていなければ、できないとは思うけど。
懇切丁寧に指導してくれた時は、自分で打つよりも楽しそうにしていた。これがごく一般的なデートなら、立場は逆だろう。それでも、楽しんでくれているなら俺は気にしない。
「もし良かったら、今度はバスケを教えてくれない?」
「バスケ?」
「どうせ上手いんだろ? 昨日、実は悔しかったんだ。ちょっとは見返したい」
「あー杉浦くんめちゃくちゃかっこ悪かったからね」
「言うなよ、ほとんど初めてだったんだから」
言い訳をすると、珍しく声を出して笑った。とても不覚にも、そんな彼女のことをかわいいと思ってしまう。
「君が上手くなりたいって言うなら、私なんかで良ければ教えてあげるけど。でも康平は中学の頃からバスケ部だから、見返すのは難しいかもよ?」
「それでも、バスケはチーム競技だろ? ちょっとでも上手くなっておけば、一応は試合に貢献できる」
「それもそっか」
天音は帽子をかぶり直し、執拗(しつよう)に位置を整え始める。
それをしばらく見守っていると、チラと一瞬こちらの様子をうかがってきたと思えば「それじゃあ、私に振り落とされないように頑張るんだよ」と楽し気に言った。
彼女と本当に付き合う人は、きっと毎日が華やいで、楽しいんだろう。
ふと、思った。
天音によるバスケの指導は時間ギリギリまで続けられた。他のスポーツを楽しむ余裕もなくなってしまい、時間を使ってしまったことを謝ると「気にしないで」と微笑んだ。これはこれで楽しかったようで、満足はしているみたいだ。まだ少しだけ打ち足りないとぼやいていたけれど。
それから受付でリストバンドを返した。そのまま施設を出るのかと思いきや、彼女は出口ではなく物販コーナーの方へと吸い寄せられていく。着いていくと、ストラップが売っているコーナーの前で立ち止まった。
「これ、お揃(そろ)いで買おうよ」
迷いなく手を伸ばして取ったのは、ボーリングのピンの形をしたストラップだった。
「なんで、ボーリングしてないのに」
「だって、野球のバットとかバスケットボールの形だったら、部活動やってる人と被りそうでしょ?」
「別に被ってもいいんじゃない?」
特に考えもせず意見を言うと、信じられないといった風に口をぽかんと開けた。
「杉浦くんは女心をわかってません」
「本当に付き合ってるわけじゃないから、気にしなくてもいいと思うけど」
「うわー白けるなぁ。女心を勉強するチャンスなのに。そんなドライに振る舞ってたら、本当の彼女ができた時に長続きしないよ」
決してその言葉を真に受けたわけではないけれど、合わせておかなければへそを曲げるかもしれないと思って、仕方なく乗ってあげることした。きっとこれが、女心をわかってあげるということでもあるんだろう。
「わかったよ。じゃあそれで」
「じゃあ、って何?」
「君は案外、細かい奴だな」
オブラートに包まず言うと、彼女はなぜか声を出して笑った。なんだか気味が悪くなって、一歩距離を取る。
「え、どうしたの……?」
「いや、そんなストレートに言われたことなくって嬉しかったの。私って、実は細かい女の子なんだよね」
「みんなストレートに言わないのは、君がクラスの人気者だからだよ」
「うん、自覚ある。でもそういうの、ちょっと気にする時もあるんだよね。他の誰かに相談しても、贅沢な悩みだなって思われるのが関の山だから話したことなかったけど」
「それじゃあ、どうして俺に話したの?」
「杉浦くんは口が堅そうだから。悩んでることが、ぽろっと口からこぼれ落ちそうになるんだよね」
「悩みがあるなら、言ってくれてもいいのに」
ちょっとしたお悩み相談室なら、いつでも無料で開講できる。だけど彼女は、また笑顔でのらりくらりとかわしてきた。
「それじゃあ、杉浦くんが記憶を全部取り戻したら、その時は相談に乗ってもらおうかな」
とても遠回しな、今はまだ無理という意思表示。どうして話してくれないんだろうと、心の内側にモヤモヤしたものが溜まったが、勘違いも甚だしいのかもしれない。俺は、天音の本当の彼氏じゃないんだから。
「ストラップ、今はお金ないから代わりに買ってもらってもいい? 元の体に戻ったら、ちゃんと返すから」
不自然に話を転換させたが、天音は気にした様子もなく「返さなくてもいいよ。私って案外尽くすタイプなのかも」と冗談混じりに言った。彼女と関わる上で、詮索するという行為は最大のタブーなんだと、遅ればせながら理解する。
天音がそれを望むなら、お節介を焼こうとせずに鈍感な男でいよう。その方が、今みたいな不自然な空気にならずに済む。
お揃いのストラップを購入すると、さっそく「学校のカバンに付けようね!」と、はしゃぐように言った。
「嫌だよ。なんでそんな目立つようなことを率先してやらなきゃいけないんだ」
「見せつけるために買ったの! 私たちだけ楽しんでも、証拠がなかったらみんな信じないでしょ?」
そういえば、今日の目的をすっかり忘れていた。周りのクラスメイトが交際していることを疑い始めているから、こうやってデートをしているんだった。確かに、証拠がなければ信じてはくれないかもしれない。そんなに都合良くはいかないと思うけど。
「天音は案外頭が回るね」
「デートが楽しかったからって、当初の目的を忘れたりしたらだめだよ」
「そうだね。本当に、すっかり忘れてた」
正直に言うと、目を丸くした後、今日一番なんじゃないかというほどに、彼女がはにかんできた。
「忘れちゃうほど楽しかったんだ。そっか、良かった」
そのホッとした表情が、あまりにもかよわい少女のように映ったから、橋本が天音に固執する理由がなんとなくわかってしまった。彼も、そんな天音の姿を見たことがあったのかもしれない。
出口へ向かう時、彼女は「ありがとね」とお礼を言ってきた。鈍感なふりをして首を傾げたけれど、その感謝の意味はなんとなく理解できた。どうやら、聞かないでいることは正解だったらしい。
施設を出た後、ほんの少しだけ心が高揚していたことに気付いて、変な勘違いをする前に早く帰らなければとぼんやり思った。だからせめて恋人らしいことを最後にやろうと決めて「駅までは送ってくよ」と、隣で帽子を整えている天音に提案する。彼女は、不思議なものを見るようにこちらを凝視してきた。
「お昼は用意するからって、昨日言ったけど」
そんなことも、いつの間にか忘れてしまっていたらしい。
今日は休日だけど、家族は夜ご飯の後まで遊びに行って帰ってこないから。
頬を赤く染めながら、恥ずかしそうに天音は話す。
それなら、俺に付き合わずに天音も遊びに行けば良かったのに。
そこはまあ、高槻家の複雑な家庭の事情があるから。察して欲しいな。いつも迷惑を掛けちゃってるから、今日はお昼ご飯も御(ご)馳(ち)走(そう)してあげる。
そんな提案をすることに、おそらく彼女も相当の勇気が必要だったはずだ。もし断られたりしたら恥ずかしいどころの騒ぎではないし、ようやく自分で口にした『家庭の事情』とやらも抱えているはずだから。
一番見られたくない場所にわざわざ俺を招待したのは、きっと彼女なりの深い理由があるんだろう。もちろん断ることもできたし、断る権利もあったけど、天音が傷付いてしまうのはわかりきっていたから、頷く以外の選択肢がなかった。
高槻家の玄関の鍵を開ける時、逡巡するように少しの間、固まっていた。決意がまとまるのを待つと、自分の家だというのに恐る恐るといった風に、緩(かん)慢(まん)な動作で開錠する。
「どうぞ。今、スリッパ出すから」
中は薄暗かった。本当に家族はいないようで、天音は近くにあったスイッチを押して廊下を明るくする。リビングに案内されると、彼女の匂いが濃くなったような気がして、不自然に鼓動が速まった。
「そこの椅子、どこでもいいから座ってて。すぐに用意するから。杉浦くん、食べられないものとかないよね?」
「あ、うん……」
言われた通り椅子に座る。キッチンは部屋を見渡せる開放的な造りになっていて、食事の用意をしている天音の姿もばっちり視認できる。全体的に綺麗に片付いていて、椅子はちゃんと四つあって、家庭の問題なんてどこにもないんじゃないかというほどに整然としていた。整いすぎていて、不気味に思えてしまうくらいに。
「料理してる間、暇だから何か話してようよ」
キッチンから天音の声が飛んでくる。なぜか、背筋を正した。
「よそ見できるぐらい、料理の腕は上手いの?」
「まあね。必要な時は自分で料理してるから。今日みたいに家族が出かけてる時とか」
「そうなんだ」
「今日みたいな日、基本的に私は一緒に行かないから。別に杉浦くんを優先したわけじゃないし、気に病まなくてもいいからね」
玉ねぎを荒く刻む音が、リビングに寂しく響く。不意に天音が一人で料理を作っている姿を想像してしまって、心がきゅっと縮まったような気がした。いつも教室でみんなに囲まれている姿ばかりを見ているから、かもしれない。
「こういう時ってさ」
「んー?」
「逆に、何話したらいいかわからなくなるよね。いつも天音とは教室で話してるのに」
本当のデートでこんな沈黙が起きたら、相手に好印象は持たれないんだろう。
「実は私も、基本的には聞き手に回ることが多いから、相手がどんどん話してくれないと、間が持たないタイプなんだよ」
「それはちょっと意外だな」
とは言いつつも、天音は基本的に自分のことをあまり話したがらないから、その自己評価は正しいのかもしれない。彼女はいつも、相手の話を引き出すのが上手いんだ。
「実は昨夜、杉浦くんと会話が続くか不安だったの」
「君に限って、そんな乙女みたいな悩みを抱えないだろ。今朝、ちゃんと眠れたって話してたじゃん」
「ちゃんと眠れたのは本当。でも、不安は不安だったよ。朝、一番初めの会話は何にしようとか」
「そうやって悩んだ結果が、あれだったんだ」
「会話は繋がったでしょ? まあ、杉浦くんが気付かなかったこともあるんだけど」
おそらくハンバーグを作っている天音は、言いながら一生懸命タネをこねていた。
「手伝おうか?」
「いいよ、今日は全部私がやるから。それより、昨日の私とは違うところを探してみてよ」
「そんなこと言われても、いつもまじまじと見てるわけじゃないからな」
彼女の機嫌を取るため、仕方なく観察してみる。ハンバーグのタネをこね終わったのか、一度水道水で手を洗う天音の頬は、なぜかいつもより紅(こう)潮(ちょう)していた。
「さっきメイク直したの? 顔が赤いけど」
「君がじろじろ見てくるからだよ!」
探してよと言ったのはそっちなのに、憤慨してため息を吐きながら濡れた手をタオルで拭く。それから指先で、乱れてしまった前髪を整え始めた。そういえば、今日は何度か帽子と一緒に前髪も整えていたような気がする。
「そんなに前髪が鬱陶しいなら、切ればいいのに」
何かこだわりがあるのかと思って触れずにいたことを言葉にしたら、口をぽかんと開けて、次の瞬間にきりりと眉を内側に寄せた。
「切ったの! 昨日の夜!」
「あぁ、そうなんだ……」
「君はたぶんモテないね」
きっぱり言われてしまうと、本当にそうなんじゃないかと思ってしまう。モテるかどうかはわからないけど、これからは意識的に気を付けることを心に誓い、帽子をかぶってたから気付くわけないだろという言い訳は、喉の奥へと飲み込んだ。
「今、細かい女だって思ったでしょ」
「そこまで酷いことは考えてない」
「それ以下のことは考えてたんだ」
人の揚げ足を取ってくるのは、細かいというよりも面倒くさい。これも、ため息を吐くことでやりすごして言葉にはしなかった。
「大変だね。これから天音と付き合うことになるかもしれない男の人は」
「それは暗に、私のこと面倒くさい女だなって言ってるのと同じだよ」
そうやって再び揚げ足を取ってくると、途端にハッとした表情を浮かべた。
「こういうこと言うから、細かくて面倒くさいって思われるのか……」
「別にクラスメイトからそんな風に評されてるわけじゃないんだから、いいんじゃない?」
「……そう?」
機嫌の上がり下がりの激しい彼女は、心を落ち着かせるためか長く息を吐いた。おそらく自分に対して不器用なんだろう。
それからハンバーグを焼いている間、再び沈黙が降りてきた。香ばしい肉の焼ける匂いをかぐのに集中していても良かったが、ふと思い出して相談事を投げ掛ける。
「近いうちに、病院に行ってみようと思うんだ」
「病人でもない人が、そんなに都合良く散策できるかな」
「黙ってたら少しはウロウロできると思って」
焼き上がったハンバーグをお皿に移し替える天音が、初めよりもどこか他人事のように話を聞いている気がするのが、なぜか引っかかった。
結局のところ、天音にとっては他人事でしかないけど。それに手がかりが何も見つからないんだから、仕方がないと言えば仕方がない。
「本当は私も行ってあげたいんだけど、実はあの病院で知人が働いてるの。だから私が行ったら目立つだろうし、迷惑掛けたらその人に悪いかなと思って。ごめんね」
「いや、いいよ」
身勝手にも一方的に寂しさを感じていると、ご飯をよそいながら理由を説明してくれた。その心遣いだけで、十分だった。
「わかったことがあったら、すぐに教えてね。私なりのペースで考えてるから。申し訳ないことに、時間が解決するのを待つしかないかなって思い始めてるんだけど」
「気に掛けてくれるだけで嬉しいよ」
キッチンから運んできたお皿の上にはハンバーグと、いつの間に作ったのかポテトサラダが載っていた。ご飯とお味(み)噌(そ)汁(しる)も二人分よそってくれて、向かい合ってテーブルに座る。拙い感想だけど、彼女の作った料理はとても美味しそうだ。
「ほら、食べなよ」
急かすように言う彼女は、箸を置いたまま食べようとはしない。どうやら先に感想が欲しいようで、お腹が空いているだろうから「いただきます」と言って、遠慮なくハンバーグを一口頂くことにした。口に入れて、咀(そ)嚼(しゃく)して、飲み込む。
「どう?」
「驚いた」
「それだけ?」
「いや、想像していたよりも、ずっと美味しくて。肉汁が内側から溢れてくるね。家庭料理でも、こんな風に作れるんだ」
「それは粉ゼラチンを混ぜてるからだよ。よくわかんないけど、保水してくれるんだって。ネットに書いてあったの。あと、牛乳の代わりに豆乳を入れてるから、ちょっと健康的なの」
先ほどまでと比べて、わかりやすいほど饒(じょう)舌(ぜつ)に話してくる。初めて料理を褒めてもらった子どものような無邪気さだった。
「料理、上手なんだね。意外だった」
「上手、なのかな。でも、ずっと練習はしてるの。だけど友達はおろか家族の誰にも食べさせたことないから、わかんないや」
珍しく控えめなその言葉の裏には、確かに自信のなさがうかがえる。いつもの彼女だったら、意外って馬鹿にしてるでしょと、揚げ足を取ってくるところだ。耳に入らないほどに感想が気になっていたらしい。
しかしこれは、おそらく誰に食べさせても美味しいと言われる出来だろう。
「そんな恐る恐る訊ねずに、自信持っていいと思うよ」
「持てたらいいんだけどね。今まで自分のために作ってたから、私の好みの味付けがみんなの好みとは違わないかなって、ちょっと不安で。まあこれからも、誰かのために作ることはないんだけど。とりあえず、杉浦くんのお口に合って良かったよ」
ホッとしたように言ってから、ようやく遅れて料理に箸を付けた。なんだか今日の彼女は、どこか遠慮がちで、自身なさげで、ほんの少しだけよそよそしく見える。この家に入ってから、隠れていた弱さが露(ろ)呈(てい)したような、そんな感じだ。
「こんな美味しい料理だったら、毎日食べたいくらいだよ」
「そう言ってもらえるのが嬉しいことなんだって、今日初めて知った。お世辞でも、ありがとね」
決してお世辞なんかじゃなかったけど、それを言ってしまえば今の言葉が愛の告白に捉えられてしまうような気がして、訂正はしなかった。
最後の一口まで味わい「ごちそうさま」と伝える。すると彼女は動かしていた箸を止めて、空になった茶(ちゃ)碗(わん)の上へと置いた。
そのあらたまった所作に、何か大切な話を切り出されるんだという予感を覚えた。
「もし大事な話があるんだったら、食べ終わってからにしなよ。せっかくの美味しい料理が、終わった頃には冷めるかも」
「杉浦くんは、案外鋭いね」
「君ほどじゃないよ」
俺が春希じゃないと気付けたのは、天音だけだったから。
それからしばらく、お皿の上の料理がなくなるまで、これからのことを考えていた。
目下の不安は、修学旅行の日までに春希に戻らなければ、俺が参加しなければいけないということだ。旅行へ行くぐらいなら、この場所で少しでも手がかりを探していたい。けれどそれは、同じ修学旅行のクラス委員をしている天音に迷惑を掛けるということだから、自分の目的を優先させるわけにもいかない。
思案していると、天音は手を合わせて「ごちそうさまでした」と、食事終了の言葉を口にした。
「ところで、麦茶飲む?」
「長くなるならお願いするよ」
一旦落ち着かせるための小休憩を挟んだから、先ほどよりも緊張感のようなものは取り払われていた。けれど麦茶を持ってきて再び向かい合った時、思い出したように背筋を正してくる。
茶化したりせずに、俺も話を聞く体勢を取った。
「話してなかったんだけどさ」
「うん」
「今、恋人のふりをしてるのは、私の個人的な都合のためでもあるの」
「それはもしかして、橋本のこととか?」
言いづらそうにしていたから核心を突いてみると、当たったのかぎこちなく笑った。
「やっぱり、気付いてたんだ」
「気付いてたというか、今予想した。天音に都合の良いことがあるとすれば、仮の彼氏を作ってそういう目で見られないようにすることぐらいだったから」
「そういう目で見られないようにというか、もっと単純に言うと彼に諦めて欲しかったんだよね。私に恋人ができたら、また前みたいに普通の友達に戻れるかもって思ったから」
「願望を否定するようで申し訳ないけど、無理だと思うよ。橋本はたぶん、さっさと別れろと思ってる」
「うん。だから、迷惑掛けてごめんねってこと」
手持ち無沙汰になったのか、居心地が悪くなってしまったのか。天音は無意味に机の上で指先をいじり始めた。しかしすぐ後に、意を決したのかお祈りをするように両手を握り合わせる。
「昨日のバスケの試合を見てたら、さすがに申し訳なくなったの。だから、私から始めておいて、とても勝手なのはわかってるけど、君が続けたくないって言うなら、それに従おうと思う。またいじめられたりしないように、私も頑張るから」
「頑張るって、何を?」
「たとえば春希くんのいいところを、みんなにわかってもらう、とか」
肝心な時に、いつもの行き当たりばったりが出てきて苦笑する。なんだか久しぶりに思えて、懐かしさすら感じた。
「いいよ、別にこのままで。今の君にはいろいろ思うところがあるのかもしれないけど、一番最初は、いじめを見て見ぬふりしてるのが嫌で始めたんだろ? それがたまたま、天音の方にも益があったってだけなんだから。利害関係が一致したって考えればいいじゃん」
「なんで。昨日は、もうやめたいって言ってなかった?」
「言ったっけ、そんなこと。まあいいや。君にバスケを教えてもらったし、次に試合をする時は、そこまで一方的にやられないよ。もしそんな情けないことを本当に話してたなら、たぶんいけ好かないあいつにむしゃくしゃしたんだ。たぶん、きっと、それだ。忘れてよ。男として恥ずかしいから」
我ながら、苦しい言い訳を並べたと思う。けれど、ここまで必死に彼女のことを擁護して、この関係を繋ぎ止めようとしているということは、やっぱり俺も今のままがいいと心のどこかで考えているんだろう。だから今だけは自分に嘘を吐かないでいようと決めた。
「それにさ、中途半端にやめるなら、なんでストラップ買ったんだよ。俺、家に帰ったらさっそく付けるつもりだったんだけど。俺だけ楽しみにしてたの? 馬鹿みたいじゃん。初めて君からもらったものだから、嬉しかったのに」
つい、言わなくてもいいことまで口走ってしまったことに、気付く。まくしたてるように言ったから聞き逃してくれても良かったのに、耳ざとく細かい彼女は、ちゃんと言葉尻までを捕らえていた。驚いたように目を見開いたのが、何よりの証拠だった。
「……嬉しかったの?」
「いや、そんなこと言ったっけ……」
「言った、絶対言った。嫌そうだったのに、ほんとは嬉しかったんだ」
「だから、人の揚げ足ばかり取るのやめろよ。細かいんだよ、天音は」
「それじゃあ、このままでもいいの?」
期待のこもった綺麗な眼差しで見つめられて、首を横に振れる人なんているのだろうか。少なくとも俺には、無理だった。
「……いいよ。元に戻るまでの間だけど」
「やった!」
先ほどまで握り合わせていた両手でガッツポーズをしてくる。子どもかよ。
最後はなんだか言わされたような気がして、どことなく腑(ふ)に落ちない。天音のことだから、最初からこうなることを予想していたんじゃないかと疑ってしまう。けれど、さすがにそこまで都合の良いことはないだろう。
「好きな人ができたらちゃんと言えよ。その時は、一方的にこの関係も解消するから」
「好きな人ができたらって、私こう見えて好きな人ちゃんといるよ?」
高揚したテンションがそうさせたのか、彼女は珍しく自分のことを話した。しかもその内容は、俺がまったく予想もしていなかったもので。
自分が動揺しているのがわかった。その理由までは、よくわからなかった。
「……そうなの?」
「まあね。私も、こう見えてちゃんとした感性持ってるし、何より華の女子高生だから。でも安心してよ。今すぐどうにかできるような話でもないから」
「……その相手って、一応聞いてもいいの?」
完璧な天音が、好きになった相手。純粋に、興味があった。わざわざ仮の恋人を立てるんだから、そういうことには疎いんだろうと勝手に想像してた。
意中の相手がいるなら、こんなことをしていていいのだろうか。
「杉浦くんは、口が堅いから」
あらためて確認するように言った天音は、今日は二人だけの空間だというのに、囁(ささや)くようにその名前を言葉にした。
「私の好きな人は、工藤春希くんなんだよ」
恥じらいながら口にしたその名前を聞いて、今すぐにどうにかできる話じゃないという言葉の意味を理解した。