天音への尋問は、それからも中休みのたびに飽きもせず続けられた。昼休みも、授業が終わった後の掃除の時間も、彼女の周りには人が集まった。そうこうしているうちに、さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、天音は箒(ほうき)と塵(ちり)取(と)りを持ちながら、納得しないクラスメイトたちにようやく反論を始めた。
 俺はあくまで他人のふりをしながら、掃除がしやすいように机を動かす仕事を続ける。

「それじゃあ芹(せり)華(か)に聞くけどさ、私が仮に芹華の彼氏のこと、束縛強めで重たいから別れた方がいいよって言ったら、怒ったりしないの? 私は恋人のことをそんな風に言われたら、さすがにいい気はしないんだけど」

 今まで『春希くんは、みんなが思ってるよりずっといい人だよ』と、無難な感想ばかりを言い続けてきた天音が、ついにキレた。というより、よく持った方だと思う。今日一日、何度も繰り返し同じことを問い詰められ、傍(はた)から聞いていただけの俺でも、軽くノイローゼになりそうだった。

 天音は、普段あまり怒らないんだろう。今のまごうことなき正論は、一瞬にして聴衆の騒々しい声を掻き消した。

「え、あ、ごめん……」
「風香も、私の彼氏のことをそんなに悪く言うんだったら、今度から仲良くしないからね」
「ごめん……」
「それじゃあ、ちゃんと謝って?」

 テニスラケットの女の子に謝罪を求める天音は、清々しいほどの微笑みをたたえていたけれど、その目は全然笑っていなかった。思えば、俺がまだ春希のふりをしていた時も、似たような表情を浮かべていた気がする。
あの時も内心ぶちギレていたのかもしれないと思うと、今さら背筋が寒くなった。

「ごめん、天音……」
「そうだね。でも私じゃなくて、まずは彼に謝ろっか」
「えっ」

 今まで安全圏にいたはずの俺が、なぜか唐突に槍玉(やりだま)に上げられる。クラスメイトBの立ち位置を死守しようとしていたのに、教室中の視線が一気にこちらへと集まった。隣で掃除もせずにサボっていた明坂は、ご愁(しゅう)傷(しょう)様(さま)とでも言いたげにくつくつ笑っている。

「……工藤に謝る必要なくない?」
「謝らないの? 昨日も昇降口で悪口言ってたのに」
「あの、いろいろ悪口言ってごめん……」

 天音に圧を掛けられたテニスラケットの女の子は、それからすぐにこちらに頭を下げてくれた。ここで誠意を見せておかなければ、彼女から本格的に嫌われると察した周囲の人たちも、まばらにではあったが頭を下げてくる。

「……いや、俺は、別に気にしてないから」
「そんな風に君も強がったりするから、みんな傷付けていいんだって調子に乗って、善悪の区別が付かなくなるの!」
「なんで俺が怒られなきゃいけないんだ……」

 ふと口から漏れ出た愚(ぐ)痴(ち)に、隣の明坂が小さく吹き出した。別に笑って欲しくて呟いたわけじゃない。

「それじゃあ、もう私も許したから早く散って。掃除して。終礼始まるよ」

 まだ煮え切らない態度を見せる人もいたが、天音の号令によって朝から続いた詰問会はようやく解散となった。これで平穏が手に入るわけではないけど、少しは穏やかになってほしいと心から思う。

「マジで、馬鹿みたい」

 そして朝から一度も輪の中に入っていなかった宇佐美は、小さな声で悪態を吐いて机の脚を軽く蹴飛ばしていた。こいつはこいつで、何を考えているのかいまいち読み取れない。友達と屈託なく笑い合っている時もあれば、春希と話す時は過剰なほどに敵意を剥き出しにしてくる。
 彼女のことを横目で観察していると、不意に目が合って舌打ちされる。そして「死ね」と呪いの言葉を吐き捨ててから、別の教室を掃除していたお友達が帰ってきたのか、急に笑顔になってそちらへ歩いて行った。コロコロ表情が変わって、正直気味が悪い。

「なあなあ、マジに高槻さんと付き合ってんのかよ。どうやって落としたんだ? 教えてくれ」

 言いながら、明坂は箒の柄の先端を頬に押し付けてきた。鬱(うっ)陶(とう)しいことこの上ない。

「放課後に、空き教室でお話してただけ」
「放課後に空き教室に呼び出して、仲良くおしゃべりする関係に持って行く方法を教えてくれよ! 一番大事なとこだろ!」
「知らないって。たまたま、修学旅行の係が同じだったんだよ」

 奥歯に内頬が当たって痛かったから、右手で箒の柄を払った。
 白けた視線を向けると、何が面白いのか一人で勝手に笑う。明坂、明け透けな奴。
 掃除の時間であるにもかかわらず、いつまでも実のない話をしていると、ついに終了のチャイムが鳴った。たいして掃除もしていないのに、みんな弾かれたようにやり切った感を出して机を元の形に戻し始める。
 果たして本当にそれでいいのだろうかと疑問に思ったが、集団行動を乱すことなく俺も片付けに入った。

「ねぇ、春希くん」

 さっきまでテニスラケットの女の子と話をしていた天音が、机を戻す作業をしている俺のところへトコトコやってくる。ようやく市民権を得たと思い堂々と振舞っているんだろうけど、未だにこちらに向けられる奇異の視線は収まっていなかった。

「今日も放課後はよろしく。帰らないでね」
「あ、うん……」

 それから天音はやや背伸びをして、こちらに顔を近付けてくる。恥ずかしい話だけど、一瞬キスをされるんじゃないかと錯覚した。周囲から、少しだけ悲鳴にも似た黄色い声が上がったのが遠巻きに聞こえてきて、勘違いをしたのは俺だけじゃなかったんだと安心する。
 不自然なほどに心臓が早鐘を打っていて、何かの拍子に破裂して壊れてしまうんじゃないかと焦った。
 天音の吐く息が、耳たぶを撫(な)でるように通り抜ける。その瞬間、全身が震えた。

「……杉浦くん、迷惑掛けてごめんね」

 迷惑を掛けていると、自覚していたんだ。失礼な話だけど、素直に驚いた。いずれ春希の中からいなくなる俺に、気を使ってくれているとは思っていなかったから。

「別に、気にしてない……」

 だけど、ありがとう。
どうしてか無性に感謝の言葉を伝えたくなった。
けれど声に出したかった言葉は、音として放たれることはなかった。
 突然、体に浮遊感を覚える。そのすぐ後に、ゆっくりと深い水の底に沈んでいくように、意識が朦(もう)朧(ろう)とした。

「――春希くん?」

 最後に聞こえたのは、春希の名前を呼ぶ天音の声。俺はいつの間にか、体から意識を手放してしまっていた。