家に帰ると、天音から数件の着信が来ていた。メッセージも何通か届いていて、僕はそれを泣きながら消していった。ついでに連絡先も削除して、もう電話もメッセージも送れない設定に変えた。
 一つずつ、もう一人の僕が積み上げてきたものを清算していく。
 高槻天音、明坂隼人、姫森風香。
 宇佐美真帆の連絡先をタップしようとした時、メッセージが届いた。何の気まぐれか、僕は最後にそれを開いた。
《さっきは、取り乱してごめん。それと、春希に会った時に伝えたかったことを、伝えられてなかった。私のせいで、辛い思いをさせて本当にごめんなさい。償っても、償いきれないことをしました。春希がいなくなった後、いろいろ考えて、精一杯考えて、あなたが望むことをしようと決めました。それが、私のせめてもの償いです。だからもう一度、みんなに嘘を吐きました。天音は取り乱して、保健室へ連れて行かれました。クラスメイトのみんなは、そんな彼女のことを憐れんで、私もいつの間にか許されていました。私は春希だけを、悪人にしました。でもそれが、本当に正しいことなのかどうか、私にはわかりません。けれど天音の周りには、確かに多くの友達がいます。みんなが彼女のことを、心配してくれています。きっとこれが、あなたが守りたかったものなんでしょう。もし迷惑じゃなければ、落ち着いた頃にいろいろ教えてください。鳴海くんのことと、あなたのこと。もし気に入らなかったら、メールごと削除して、いいよ……》
 そのメッセージの末尾には《眼鏡を掛けることになって不安だった時、私のことを慰めてくれてありがとう。あの頃の私は、あなたの言葉で自信が持てて、救われていました》という言葉が添えられていた。
僕は、消せなかった。宇佐美のことを共犯者にしてしまったから。
 彼女はこれから卒業まで、嘘を吐き続けることになる。そんな彼女さえも遠ざけることは、今の僕には、もう……。

 すべての清算が終わった頃には、夜になっていた。お父さんが帰ってきて、学校から連絡があったと教えてくれた。どうやら、今からでも謝罪すれば学校へ戻ってもいいらしい。言いすぎたと、先生も謝罪してくれたみたいだ。でも、首を振った。お父さんは、怒らなかった。
「ごめんなさい。親不孝な息子で……」
「いいよ。それに学校へ行かなくなった時、ちゃんと話してくれたじゃないか。大切な人の居場所を守ってあげたいんだって」
 僕は以前、お父さんに話した。
僕が学校へ行けば、今までの友達をすべて捨てて助けてくれる人がいると。正直なところ、嬉しかったのは確かだ。会わなくなった時からずっと、僕のことを考えてくれていたんだから。
 でも僕のために、彼女が積み上げてきたものをすべて捨てるのは、何かが違うような気がした。守ってもらうのも、違う。僕は今年の冬にお母さんが亡くなって、強く生きようと誓ったんだから。
 病床に伏せるお母さんの手を握りながら、最後にその言葉を聞いた。
『自分が正しいと思う生き方をしなさい。自分の選択から逃げずに立ち向かえば、きっといつまでも幸せでいられるから』
 そもそも僕という人間は、昔から集団生活が苦手だった。病気のせいで、長らくまともに学校へ通えなかったことがきっと一番の原因だ。お父さんとお母さんからは、通信制の学校に通う道もあると教えられていた。それでも全日制の高校を選んだのは、その道の先にナルミくんがいるかもしれなかったからで。だからあの時にはもう、僕が高校へ通う理由はほとんどなくなっていた。彼女と、再会できたんだから。
けれど今にして思えば、僕は心のどこかで、学校に通いながら彼女と向き合いたかったんだと思う。けれどちっぽけな僕にそんな勇気はなくて、だから無意識のうちに杉浦鳴海という人格を作り出した。
心のどこかで、ずっと思っていたんだろう。
僕は、ナルミくんみたいな人に、なりたかったと。
 それも全部、無駄だったんだろうか。心の中の僕に、訊ねた。返答は、返ってきたような気がした。
きっと、無駄ではなかった。
 彼女は少しだけ、家族と向き合うことができるようになったんだから。
 自室へ戻るためドアに手を掛けた時、お父さんは「春(、)希(、)」と呼び止めてきた。振り返ると「おかえり」と言って笑った。
首を傾げたけれど、なんとなく、その意味は伝わった。
 最初から、お父さんも気付いていたんだろう。
 

 天音は僕と話をするために、自宅へ来るようになった。最初のうちは無視を決め込んでいたけど、何度も来るものだからそういうわけにもいかなくなって、お父さんに母方の実家に行ったと嘘を吐いてもらった。そして実際、そうすることにした。いつまでも、家の中に引きこもっているわけにもいかないから。
 宇佐美とは定期的に連絡を取り合った。主に、クラスメイトの動向を教えてもらった。僕の目論見通り、工藤春希は根暗に見えて女を手籠めにする最低な奴だという認識が広がって、その犠牲者である天音も宇佐美も騙されていたんだということで周囲の見解が一致したらしい。
天音はそれでも僕の身の潔白を訴えてくれたみたいだけど、皮肉なことに少数派である彼女の意見は通らなかった。工藤春希に騙されて洗脳されていたという、憐れみの目を向けられるだけだった。だからみんな彼女へ、余計に献身的に接するようになった。
橋本康平は、あれからずいぶん大人しくなったみたいだ。天音に固執することもなくなって、自分の人生を歩み出したらしい。喜ばしいことだと思った。殴ってしまった彼には、今でも申し訳なさを抱いている。
母方の実家に旅立つ日の前日、宇佐美から電話が掛かってきた。出ようか迷ったけど、この杉浦市で話すのも最後だと思ったから、電話に出た。その話の中で、僕はこれからどうするのかを訊かれた。これからのことは、もう決めていた。
「とりあえず、高認の試験を受けるよ。お父さんが、大学に通ってもいいって言ってくれてるから。お母さんの実家で、また一から勉強し直すつもり」
『大学、行くの? どこ?』
「決めてないけど、教職の資格が取れるところ、かな。叶うかはわからないけど、小学校の先生になりたいと思ったんだ」
 病気であまり学校に行けなかったからこそ、僕は一人でも多くの人を救いたいと思った。昔、ナルミくんがそうしてくれたように。
 それに、ふと昔のことを思い出したんだ。僕みたいな人が先生だったら、楽しく学校に通えたのかもと言ってくれた人がいた。その言葉が、結果として未来の僕の背中を押してくれた。
『決まったら教えてよ』
「なんで」
『春希と一緒の大学に通いたい』
「行きたい大学は自分で決めなよ」
『やりたいことなんてないし。それなら、春希のそばにいた方が学べることが多くあると思うの』
 どうせ冗談だろうと思った。だから受けたい大学が決まったら、宇佐美にだけは教えることに決めた。
 彼女は時間が経つにつれて調子を取り戻していった。最初こそ何度も何度も『ごめん』と謝ってきたけど、いつの間にか言わなくなった。その代わり、
『ありがとう』
 そう言ってくれるようになった。どこかの誰かが、その言葉を彼女に教えてあげたんだろう。何度も謝るより、その方がずっといいと思った。
 やがてうだるような暑さの夏が来て、紅葉彩る秋になって、お母さんの亡くなった冬が来た。罪や悲しみを覆い隠すように真っ白な雪が降り積もり、母の命日にだけ僕は杉浦市の実家に帰った。墓前で、手を合わせた。次にここへ来るのは、大学への入学が決まった時にしようと、心に決めた。
 電車に乗って母の実家に帰る時、宇佐美はわざわざ会いに来てくれた。たった数ヶ月会わなかっただけなのに、彼女は随分大人の顔つきになったような気がする。けれど、赤色のタータンチェックのマフラーに巻かれているみたいで、ちょっとだけ笑みがこぼれて元気をもらえた気がした。
「天音、大学は行かないんだって」
 近くのコンビニで買ってあげたホットココアの缶を手のひらで包みながら、また近況を教えてくれる。降り積もった雪で電車がストップして、予定の時間よりだいぶ遅れているらしい。僕らは駅構内の椅子に座って再びそれが動き出すのを待っていた。
「大学に行かないと、たぶん医者にはなれないと思うんだけど」
「それ、なかったことになったんだって。たぶんお母さんと真剣に話し合ったんだと思う」
「そっか。自分の道を自分で決められたなら、良かった。でもなんで、大学には行かないんだろう」
「さあ。相変わらず口が堅いし、何考えてるのか本当によくわかんない」
 でも、最近はまた笑顔が戻ってきたよ。宇佐美は、自分のことのように嬉しそうに話してくれた。笑顔が戻ったなら、少しは安心できる。
「たぶん春希が望んだことを、天音はゆっくり理解していったんだと思う。大切な人のために突っ走っちゃうところはあるけど、あれでちゃんと頭はいいから」
「いつか、わかってくれる日は来ると思ってたよ」
 信じていた。彼女なら、また前を向いて歩き出せると。
「天音のこと、まだ好きなの?」
「うん、初恋だから。気持ち悪いかな」
 恋をしていると言ったことに、後悔はなかった。
「素敵だと思う。両想いなのに、一緒にいられないのはかわいそうだけど」
「もう僕のことなんて気にしてないと思うよ。二度も勝手にいなくなったんだから」
「それじゃあ、私が付き合って欲しいって言ったら、考えてくれるの?」
 驚いた。変なことを言うものだから、言葉に詰まった。彼女を見ると、マフラーの色みたいに顔が赤くなっていた。それは冬の寒さがそうさせているのか、もっと違う要因があるのか。
「……ごめん。今はそういうこと、考えられないかな」
「だよねー」
 傷付いた様子を見せると思ったけど、宇佐美は困ったように笑うだけだった。
「もしかして、冗談だった?」
「ううん。割と本気。でも天音が好きなのに、私と付き合うって言ったら張り倒すところだったかも」
「なんだよ。物騒なこと言うな」
「だって天音は、ただひたむきに春希のことを想ってたんだもん。私は、もう会えないだろうと思って、一回忘れた。それが、私と彼女の決定的な違いだった。だから私なんかに惑わされないで、純愛を貫いて欲しいと思うの」
「純愛ね……」
 もうその恋も、叶うことはないだろうけど。それぞれが、別の道を目指して歩き始めたんだから。
「それはそれとして、付き合ってもいいって思ってくれたら、その時はちゃんと教えてね!」
「今の言葉で台無しだよ」
 地元から離れる時、宇佐美は笑顔で手を振ってくれた。彼女の気持ちが本当はどこに向いているのかはわからないけど、もし僕が天音に好意を抱いていなかったとしたら、たぶんさっきの告白にちゃんと返事をしていたんだろう。
 彼女には申し訳ないけれど、僕という人間は、ずっと昔から天音という女の子に恋焦がれていた。学校を、やめてもいいと思えるほどに。

 無事に高認の試験に合格してから志望することを決めた大学は、地元を選ばなかった。一度、新しい地でゼロからスタートさせたかったからだ。
一応、宇佐美には受ける大学を伝えておいた。告白の返事は断ったから同じ大学は受けないだろうと思って、「受験申込したよ」という言葉も、何かの冗談だと思っていた。
けれど、受験当日の日に彼女は笑顔で僕の目の前に現れた。
「よ!」
「よ、じゃないよ。本当に受けるつもりなんだ」
「言ったじゃん」
「言ったけど、冗談だと思ってた」
「春希のそばで、私もいろいろ学ばせてもらうね」
「僕からじゃなくて、自分の学びたいことを軸に考えなよ」
「じゃあ私も、小学校の先生を目指すことにする!」
 適当すぎる。けれど、本当に考えてはいるんだろう。
「ま、お互い頑張ろうよ。春希」
「……本当に、しょうがない奴だな」
 受験が終わって、思いのほか好感触だった僕とは対照的に、宇佐美は顔面が蒼白(そうはく)になっていた。曰く「落ちたかも……」ということらしい。
「私が後輩になっても、春希は嫌いにならないでね……」
そんな冗談を言っていたけれど、修学旅行の時に買った学業成就のお守りのおかげかどうかは知らないが、宇佐美は大学に合格した。僕も、この一年は大学入試の勉強に費やしたから、もちろん合格した。
春からは、同じ大学に通うことが決まった。

一度、大学の入学式に着るスーツに身を包んで、お母さんのお墓参りに出かけた。お墓を掃除して、「合格したよ」と伝えた。僕はまだ夢の途上だけど、春からは晴れてひとまずの目標だった大学生だ。同い年の人たちと、一緒のタイミングで入学することができる。信じた道を逃げずに突き進んで、本当に良かった。
「……彼女は、どうしているんだろうね」
 奇しくもその日は、高校の卒業式だった。彼女のことだから、学年の総代を務めるのだろうか。全校生徒の前で、答辞を述べるのだろうか。もし叶うなら、それを卒業生の列に交じって聞きたかった。彼女の晴れ姿を、誰よりも先に祝ってあげたかった。
 もう、高校を卒業する。彼女が必死になって作った居場所も、今日という日を持ってなくなってしまう。みんな新しい居場所を作るために、旅立っていくから。
 僕ら大人になり切れていない中途半端な子どもは、自分の居場所を守ることに必死で、時には平気で他者をも傷付ける。守り抜く力を身に付けなければ、いつの間にか淘(とう)汰(た)されてしまう。未だ世界は、大きく分けて家庭と学校の二つしか存在しないからだ。
 そんな僕らは大学生や社会人になって思い知るのだろう。
世界は、自分が想像していたよりずっと広い。
居場所なんてものは、それこそ無数に存在する。むしろその時々に応じて、自分が持っている仮面を使い分けなきゃいけなくなる。その中に、自分という存在を受け入れてくれる場所はきっとあって、だとすれば僕が守りたかったものは、それほど価値のあるものだったのだろうか。
 答えは、未来でわかると思った。過去を振り返る時、あるいは人生の途上で心が折れそうになった時、僕らは戻ることのできない遠い日に想いを馳(は)せ、あの時のかけがえのない居場所で見た笑顔を糧(かて)に、今日という一日を頑張って生きていくのだから。
 人生という長い長い旅路は、きっとそういう風にできている。
 帰りの電車の中で、宇佐美に一通のメッセージを送った。みんなへの思いも、そこに込めた。
「卒業おめでとう」
 しばらくして、一本の動画と一枚の写真が送られてきた。見ると、天音が卒業生の前に立ち、答辞を述べている動画だった。こっそりと隠し撮りをしていたらしい。やっぱり総代を務めていて、なんだか誇らしかった。
イヤホンを付けて、彼女の溌剌とした通りのいい声をBGMにしながら、もう一枚の写真も開いた。それは、卒業式の後に教室で撮ったものなんだろう。写真の中のみんなは、笑っていた。
 宇佐美も、明坂くんも、姫森さんも、天音も。それからもう一人、不器用そうに笑う彼が一緒に映っていた。
「……和解できたんだ」
 どうしようもない人でも、変わることはできるらしい。僕は複雑な気持ちなんて一切抱くことなく、ただ嬉しかった。途端に、涙が溢れた。透明なしずくは頬を滴り落ちて、スマホの画面を優しく濡らした。
 手の甲で涙を拭おうとする。その拍子にイヤホンのコードが腕に当たり、スマホから抜けた。
『――そして、私のことを育ててくれたお父さん、お母さん。十五の春、生意気にも自立していると思い込んでいた私を、この素敵な学(まな)び舎(や)に通わせてくれて、本当にありがとうございました』
 彼女の澄んだ声が、電車内に響いた。慌てて付け直そうとしたけど、周囲には誰もいないことに気付いて、そのまま動画を再生することにした。
『当時未熟だった私は、家族に愛されてはいないのだと思っていました。血の繋がらないお父さん。叱ってくれないお母さん。いつまでも新しい家族を受け入れられなかった私は、勝手に反抗を重ねていました。それでも顔を合わせれば、おはようやおやすみを言ってくれて。私が久しぶりに話し掛ければ嬉しそうに笑ってくれて。今にして思えば、愛そうとしなかったのは、未熟だった私の方でした。人を愛する方法がわからなくて、いつまでも不器用に過ごしていて……そんな私に踏み出すきっかけをくれたのは、今はもうこの学び舎にはいない彼でした』
 心がざわついた瞬間に、スマホのスピーカーから流れる音にも微かなどよめきの声が上がった気がした。その口上は、予定にはなかったのだろう。彼はもう、そこにはいないのだから。厳(げん)粛(しゅく)な空間で、今まで優等生として振舞ってきた彼女の、たった一度のわがままを止めさせる愚行を犯せる人は誰一人としておらず、僕もまた動画のストップボタンを押せなかった。
『まずは友達から始めてみたら? 素直になれない私に、彼はそう言いました。家族にならなきゃいけないと気が急いでいた私には、思いつくことのなかったその案に、気付けば心の中で笑っていました。彼の言葉がなければ、私はきっといつまでも間違え続けたままで、この素敵なお祝いの場にお父さんとお母さんを呼ぶこともなかったでしょう』
 驚いた。お父さんと、お母さんを呼んだんだ。以前までの彼女なら、きっと日程も教えなかっただろうに。
 彼女がわずかに息を吐いたのがわかった。これから先の言葉も、当初の台本になかったことが、わかってしまった。
 だから僕は、また気付けば彼女のその言葉に耳を傾けていた。
『そして、今はもう、この学び舎にいないあなた。あなたのおかげで、私は人と向き合うことの大切さを学びました。あなたが望んでくれたことを考えて、向き合って、私はこの居場所で残りの学生生活を過ごしました。この一年で、本当に多くの人と話をしました。いじめを見て見ぬふりをしていた人。あなたのことを誤解したままだった人。納得してくれない人もいたけれど、それでも本当のあなたのことをわかって欲しくて……みんなに、春希くんの素敵なところを伝え続けました』
 また、お得意の行き当たりばったりなことをしたなと、僕も彼も呆れた。それでまたいじめが起これば、僕らがしたことが全部無駄になってしまうというのに。
それでも彼女は、最後まで意思を曲げなかったんだろう。一度決めてしまったら、最後まで突っ走ってしまう人だから……。僕が病室で救われたように、彼もまたそんな彼女に救われたんだろう。心の中が、じんわりと熱くなったような気がした。
『あの日から、何度も話をしました。その甲斐あって、二年三組の仲間たちは、みんなもっとあなたと話をしたかったと言ってくれました。ちゃんと謝りたかった、とも。私も、もちろん同じ気持ちでした。幼き頃、あなたやあなたのお母様から大切なことを教わったのに、築き上げてきた大切なものを、何もかも捨てようとしてしまったから……。だから、あなたは私の前から姿を消したんだよね』
 彼女の語尾が、震えたような気がした。それでも懸命に持ち直して、涙だけは見せまいと気丈に振舞う姿が容易に想像できて、胸を打たれた。
 僕の方こそ、何も話をせずに二度も姿を消したのに。
だから謝りたいのは、僕の方だった……。
「ごめん……」
届くはずもないのに、寂しく呟く。僕の気持ちだけをあの場所に置いていくように、電車が故郷から遠ざかっていく。戻りたいと願っても、動き出した人生の歯車は、もう都合良く止まったりはしない。
 逃げるな。逃げるな。
 頭の中に、いつかの言葉がこだまする。後押しするかのように、いつの間にか調子を取り戻した彼女が、最後のお別れの言葉を、そこにはいない誰かのために口にした。
『……これから先の人生、辛いことや、逃げ出したくなることがたくさんあると思います。不安なことがいっぱいあるけど、そんな日は時々でいいから、一緒に過ごした日々のことを思い出してください。思い出の中にいる人たちは、みんなあなたのことを、この世界のどこかで応援しているから。私も、この思い出深い杉浦市で、いつまでもあなたのことを変わらずに想っています』
 心残りは尽きませんが、今日まで私たちを導いてくださった方への感謝と、先生方のご健(けん)勝(しょう)を祈(き)念(ねん)して、お別れの言葉といたします。
 令和五年三月十一日 卒業生総代 高槻天音。

 そこで動画の再生は終わった。
 溢れた涙は、目的地に着いた後も止まることはなかった。