朝食を食べ終わっても、まだ俺と宇佐美に軽(けい)蔑(べつ)の視線が向けられていた。当事者意識の低い、日本人らしい奥ゆかしさのある陰湿ないじめのやり方だ。言いたいことがあるなら、ハッキリと言えばいいのに。安全圏から人を叩けるのが、最高に気持ちいいんだろう。
 一応の被害者である天音が許しているのに、第三者が非難をやめないという構図は理解に苦しむ。俺たちが周りにいったい何の不利益をもたらしたというのだろう。
 もはや考えても仕方のないことだから、さっさと部屋に戻って身支度を済ませ、集合場所であるロビーへと向かった。今日は、みんなで回る場所を決めた自由行動の日。
 グループごとに行動する予定なのに、宇佐美は俺たちを避けるように遠くで縮こまっていたから、手を引いて無理やり輪の中へ入れた。手を繋いだ瞬間にまたどよめきが上がったような気がしたけど、いい加減無視した。
「パフェ食べたいんだろ? それじゃあ、一緒にいないと迷子になって食べれないぞ」
「置いてってもいいよ、迷惑掛けたくないし……」
「それがもう迷惑なんだよ。何も悪いことしてないんだしさ、堂々としてろって」
「そうだよ真帆。それに、真帆が春希くんと幼い頃に会ってたことも知ってるし。幼馴染みたいなものなんだから、別にあれくらいなら気にしないよ」
 それから天音は急に真面目な表情を作って。
「気まずくて、離れたいって気持ちもわかる。でも、向き合わなきゃ。逃げてても、いつまで経っても解決しないよ。春希くんは、真帆にちゃんと向き合った。そのおかげで今、みんな一緒にいるの。誰かが変わるのを待ってるんじゃなくて、自分が変わらなきゃいけないの」
「……自分が?」
「そうだよ。真帆だって、本当はわかってるでしょ? 変わりたいって思ったから、一度は眼鏡を外したんだもんね。それを馬鹿にする人もいるけど、私は美しいと思う。変わりたいと思って行動に移せた真帆は、本当に強い。私が保証する。ずっと昔から、真帆が知らないだけで、私は真帆のことを見てたんだから。だから真帆も、春希くんみたいに向き合うことができるでしょ?」
 本当に、いつだって天音は正しいことを言う。誰よりも、どんな時だって相手を心の目で見つめているから、気持ちに訴える会話ができるんだ。だから彼女は、きっと誰のことも裏切ったりはしないのだろう。
 同い年の高校生たちがひしめき合う中、悪意の視線が絶えず俺たちに降り注ぐ。それでも宇佐美は、今度こそハッキリと頷いた。逃げたりせずに、悪意に立ち向かう覚悟を決めた。その姿に、勇気をもらえたような気がした。
 だから俺も、どうしようもない理不尽な現実に直面したとしても、逃げずに戦いたいと思えるようになった。

 自由行動が始まれば、そこからはもう安息の時間だった。息苦しかったことを忘れるために、大きく深呼吸をする。南の地域の空気は、ほんのりと潮の香りが漂っているような気がした。海なんて、どこにも見えやしないけれど。
 一番初めに向かったのは、戦争の歴史を写真や資料で知ることができる平和祈念館だった。今ここにいるのはただの旅行ではなく、学びを修めるためだから、後でレポートに学習内容をまとめなければいけない。
そのために訪れた歴史的な場所だが、過ぎ去りし時に興味はないのか、明坂は受付をしている時にあくびをするという罰当たりなことをしていた。
「もうちょっとさ、勉強をしに来たって意識を持ちなよ」
「無理だって。俺、暗記科目とか苦手だし。後で写させてくれよ」
「俺じゃなくて、他の人に頼んでね」
 まあ、天音はおろか宇佐美も姫森も断るだろうけど。
 そんなやる気のない彼だったが、展示されている巨大な戦闘機を前にして「かっけぇ!」と、子どものような感想を口にした。その戦闘機が後に特攻のために使用されたものだということを知ると、無邪気な顔から一転して珍しく険しい表情へと変わった。それからは、まるで人が変わったかのように口を閉ざし、特攻隊員の遺書や戦争の記録を観(かん)覧(らん)して、まだ新品だったメモ帳に一生懸命文字を書き込んでいた。
「これがきっかけで、少しは勉強に身が入ってくれればいいんだけど」
 一通り見て回ったのか、姫森が親みたいな感想を口にする。寝て忘れるような奴じゃなければ、前向きに取り組むだろう。つまり、修学旅行が終わってからの行動次第で、姫森の明坂に対する評価が変わるということだ。いい機会なんだから、せめて歴史の勉強ぐらいは頑張って欲しいと思う。
 それから俺も、明坂にならって見たことや感じたことをメモしていく。体が元に戻っても、春希がしっかりレポートに取り組めるよう詳細に書いた。
真面目な天音は、そこら辺を歩いている従業員を引き止めて質問していた。その行動力を少しは見習いたいけど、さすがにそこまで真剣にはなれなかった。
「鳴海くん」
 俺にだけ聞こえる控えめな声で、宇佐美が名前を呼んでくる。
「どうした?」
「ちゃんと、もう一回謝っておいた方がいいと思って」
「そんなことより、見て回ったのか? 自分のことで悩んで適当やってたら、レポート書けなくなるぞ」
「明坂が頑張ってるんだから、レポート書けるくらいには回ったよ。風香と一緒に」
 なんだかんだ、あいつも面倒見がいい奴だ。
「あの、それで。ごめ……」
「最近さ、宇佐美は謝りすぎ。本当に一番謝らなきゃいけなくなった時に、ごめんねの価値が下がるよ」
「だって、迷惑ばかり掛けてるから……」
「そういう時は、ありがとうでいいんだよ」
 月並みな言葉だと思った。この前リビングで父親と観たドラマの主人公も、同じことをヒロインに話していた。けれど、今の宇佐美に一番必要なセリフだと思った。
「……ありがとう」
「うん」
「本当に、いつもありがとう」
「わかったって」
 今度はありがとうの回数が増えそうで、おかしかった。けれど言葉を覚えたインコのようにごめんを言い続ける宇佐美よりかは、ずっとマシだ。
「……私、工藤の気持ちが少しだけわかったような気がする。当事者になるまでわかんなかったのが、すごく恥ずかしいけど、誰も味方になってくれる人がいなかったら、死にたくなってたかも」
「そんな物騒なこと言うなよ」
「だって、毎日クラスメイトと顔を合わせるんだよ。学校も、行けなくなるよ……私が、行けなくさせたんだ……」
「また謝るのか?」
 宇佐美は必死に首を振った。艶やかで、何色にも染まっていない黒髪も左右に揺れる。
「それは、工藤が戻ってきた時のために取っておく。今の私にできるのは、私がやったおこないを受け止めて、これからどう生きていくか考えることだから」
「そっか。それは見つかりそう?」
 まだ、訊ねるのは早かったかもしれない。けれど宇佐美はわずかな間の後に、未だ真面目にメモを取り続けている彼女を見て言った。
「私は、天音みたいな人になりたい」
「行動を見習うのはいいと思うけど、宇佐美は宇佐美だよ。別に、それこそ俺は今の君のままでもいいと思う」
「そう?」
「気付いてないだけで、宇佐美はもう十分変わったよ。変わりたいって思うこと自体は前向きでいいと思うし、もう少しだけ気楽に考えてみたら?」
「……わかった」
 それからぎこちなくだけどはにかんで、あらためて「ありがとう」と言った。
きっとこの子はもう、自分から間違った道に進むことはないだろう。

 お昼の代わりにパフェを食べて、一行は次の目的地の神社へと向かった。高校二年生で学問の神様のいる場所へお参りに行くのは、いささか急ぎすぎているような気もしたが、これからの成績が伸びるようにお願いするとすれば悪くはないだろう。
成績なんて、結局は自分の頑張り次第ではあるけれど。
 鳥居をくぐる時、天音が礼儀良く頭を下げたから、それにならって頭を垂れた。しばらく歩くと、明坂が立ち止まり「なんか、牛の像が置かれてるぞ」と指を差す。
「護(ご)神(しん)牛(ぎゅう)って言うんだって。たとえば足の具合が悪かったら、牛の足を撫でた後に自分の足を撫でれば快復に向かうって言い伝えがあるらしいよ」
 事前に調べてあったのか、メモ帳を開きながら天音が説明してくれる。
「マジか、すげえ。ここら辺に住んでたら薬とかいらねえじゃん」
 こいつはいつか、怪しい宗教に引っかかるような気がした。先ほど少しは汚名を返上したというのに、姫森は呆れたようにため息を吐く。
「そんじゃあ、頭良くなりてーからたくさん撫でとこ!」
「あんた、他力本願だと何も変わんないからね」
「わかってるって。一応、念のためにだよ」
 本当に念のためかはわからないけど、とても念入りに頭を撫でているから、もしその手が欲望にまみれているのだとしたら、いつか罰が当たるだろう。
 本殿でお参りを済ませた後、各々行きたい場所に行って、しばらく経ってから集まろうという話になった。姫森はお守りを買いに行くと言い残し、明坂は護神牛があと十体いることを知ると、「探してくるわ!」と言って元気に走って行った。
 宇佐美はというと、なぜか俺の隣で棒立ちになったままフリーズしたように動かない。
「見て回んないの?」
 訊ねると、同じく動き出さない天音と俺とを交互に見つめて。
「三人で回りたいって言ったらダメ?」
「私は別に構わないけど」
 一秒も迷うことなく天音は即答する。俺はと言えば、特に回りたいところもないから頷いておいた。
「さっき出店があったから、何か食べたい」
 宇佐美が提案してくれたから、とりあえずそこへ向かおうということになって、天音は手に持っていたメモ帳をサイドバッグの中へしまおうとした。そのタイミングで、たまたま彼女の背中が通行人と接触し、こちらへよろめく。俺は、反射的に体を受け止める。けれどメモ帳が地面に落ちた。
「あ、すみません!」
先に彼女が謝った。しかしぶつかってしまった人は、気にした様子もなく歩いて行く。ほんの少しだけむっとしたが、天音は歩いて行った人の方を見つめているだけで、特に気にしていないようだったから忘れることにした。
代わりに、メモ帳を拾ってあげる。拾い上げた時、落ちた衝撃で適当に開かれていたページが目に入った。本当にたまたま、そのページは俺に関してのことが書かれている箇所だった。
杉浦市、汐月町、三船町。懐かしいなと思った。汐月町と三船町が杉浦市に合併して、今の杉浦市となった。俺は過去から来たんじゃないかと、天音が冗談みたいに言って、なんちゃってと、おどけたようにメッセージを送ってきて。あれから少しだけ時間が経ったけど、知らない間に記述が増えている。一人の間にも、考えてくれてたんだろうか。
「鳴海くんの名前、書いてある」
 偶然目に入ったのか、宇佐美が横で呟いた。基本的には秘密主義者の天音のことだから、見られるのは心情的に良くないだろうと思い、一応気を使ってページを閉じてすぐに返した。
「ごめんね、ありがと」
「今までいろいろ考えてくれてたんだね」
「何もできないけど、ずっとなんとかしたいって思ってるから」
 そう言って、メモ帳をバッグの中へとしまった。
「ねえ天音、DIDって何?」
 宇佐美が突然、聞き慣れない単語を口にする。
「なんだよそれ」
「いや、たまたま目に入って」
 聞き覚えがないのだろうか。首を傾げるそぶりを見せた後に、「気のせいじゃない?」と天音は言った。
「そう?」
「うん、書いた覚えもないし。それよりさ、私あれ食べたいんだよね。梅(うめ)ヶ(が)枝(え)餅(もち)」
「それ、私も食べたかった奴!」
 疑問なんて、餅菓子の前ではたちどころに霧(む)散(さん)する。
「行こっか、杉浦くん」
 天音に名前を呼ばれて、俺も二人の後をついていった。