消灯時間に一度だけ橋本は部屋へと戻ってきたけど、点呼が済むと早々に出て行った。どうやら睡眠時間であっても慣れ合う気はないらしい。気にしないことを覚えた明坂は「早く寝ようぜ」と言って布団の中へと入って行き、俺もそれにならった。
その日は旅の疲れのおかげか、よく眠ることができた。
しかし翌朝、自然に目が覚める前に体を揺すられて、強制的に意識を覚醒させられる。目を開けた途端、視界いっぱいに明坂の顔があって、正直言うとこれまでの中で一番最悪の目覚めだった。
「おい、起きろよ。気持ち良く寝てる場合じゃないぞ」
「起きてるよ。明坂のせいで、気分は最悪だけど」
「それは悪い……でもとにかく大変なんだよ」
「……寝坊でもした?」
 部屋の掛け時計を見たが、まだ起床時間の三十分も前だった。安堵していると、明坂は持っていたスマホの画面をこちらに見せてくる。
「これ」
 その画面に映っていたのは俺と、俺に寄り掛かって寝ている宇佐美の姿だった。
「盗撮してたのかよ。最低だな」
「違う、俺じゃないって。クラスのみんながいるグループメッセージに送られてたんだよ」
「……なんだって?」
 起きがけでまどろんでいた意識が、途端に覚醒する。
それは、まずいんじゃないか。こんな場面を見たら、勘違いをする奴がいてもおかしくない。慌ててグループのメッセージを確認したけど、時既に遅しと言うべきか、クラスメイトの半数ほどの既読が付いていた。画像が投稿されたのは、深夜の二時だというのに。
「寝とけよ、深夜なんだから……」
「みんな浮かれてるからな。起きてたんだろ」
 話をしている間に、既読の数が一つ増える。大ごとになる前に、投稿した奴に消させるべきだと思った。誰がこんな週刊紙の記者染みたことをしたのか確認すると、驚くことにそいつは橋本だった。
「知らないアドレスから送られてきたって書いてるけど、そんなんぜってー嘘だろ。てかさ、この写真も本物なわけ? さすがに作り物だろ」
「いや、本物だよ……」
 明坂に昨日の経緯を説明し終わると、いつの間にか起床時間になっていた。すると玄関のドアが開き、あくびをしながら橋本が部屋へと入ってくる。その能天気な姿に苛立ちを覚えたのか、明坂は彼に掴みかかった。
「おいお前、マジで最低だな」
「は? 何の話?」
 とぼけたように返す。明坂は持っていたスマホを彼の顔の前に突き出した。
「こんな写真バラまいてさ、楽しいかよ」
「あぁ、寝ぼけてたみたいだ」
「はぁ?」
「宇佐美に送るつもりだったんだよ。これ、本当にお前と工藤か?って。知らないアドレスからメールが来てたから」
「そんなん言い訳にならねぇぞ」
「本当だよ。信じてくれないと困る」
 明坂は俺のためにヒートアップしてくれているようだが、ここで言い争いを続けても埒(らち)が明かないし意味はないと思った。真実はわからないけど、現状どうするのが一番なのかを考えなきゃいけない。
「とりあえず、それ消してよ。それぐらい、今すぐできるでしょ?」
「できるけど、意味ないと思うぞ。もうクラスメイトの半分以上が見ちゃってるからな」
「それでも、消して。そんな写真がいつまでも残ってたら、悪気はなかったのかもしれないけど、君まで趣味の悪い奴だって思われるから。嫌だろ? 勘違いされるのは」
 一応彼の心配をしておくと、それが癪(しゃく)に障ったのか苛立ちを隠しもせずに舌打ちした。しかし、画像はこちらの要望通り消してくれるみたいだ。
「ほらよ、これで満足か」
「そうだね。それでいいよ」
「ところで、さっきの写真は本当か? 高槻天音っていうかわいい彼女がいるのに、根暗野郎じゃなくてとんだプレイボーイだな」
「よく、どこの誰に送られてきたかもわからない写真のことを、そこまで気にしていられるね。自分のアドレスが流出したことを、真っ先に心配した方がいいんじゃない?」
「なんだと?」
「それと一応言っておくけど、ただ話をしてただけだから」
「こんな館内の奥まった場所でか? 寄り添い合ってて、密会みたいに見えるけどな」
「よくこの写真だけで、どこで撮られたものなのかがわかったね。まるでその場で見てたみたいだ」
 天音のように揚げ足を取ると、橋本はもう一度舌打ちした。毎度のごとく天音に付き合ってあげている俺は、もしかするととんでもなく優しい奴なのかもしれない。
「行こう、明坂」
「ちょ、春希。いいのかよ」
「やってないって言ってんだから、責め立てるのも良くないだろ」
「でもさ……」
 納得しない明坂の手首を掴んで、玄関を出ようとした。するとまだ何か用があるのか、橋本は「おい」と呼び止めてくる。
「これ、ゴミ箱に捨てられてたぞ」
 橋本は、汚れでくすんだボーリングのピンのストラップを投げてきた。取り付けるための紐(ひも)は無造作に千切れていて、心が痛んだ。
「これ、どこのゴミ箱に捨ててあったの?」
「この階のゴミ箱だよ。たまたま深夜トイレに行った時見つけたから、拾っておいてやったんだ」
「そうか、ありがとう。何度も確認して、それこそ宇佐美にも探すのを手伝ってもらったんだけど、見つからなかったんだ。失くしたって言ったら、天音に怒られるところだった」
「そんなことより、もっと別のことを気にした方がいいんじゃないか?」
「そうだね」
 短く返事をして、明坂と共に部屋を出た。何か言いたげな雰囲気だったが、無視をする。
すれ違うクラスメイトたちから、奇異の視線を向けられた。懐かしいなと、思った。
 勘違いをされるのは、これで二度目だった。

 朝食会場に着くと、宇佐美が泣きそうな顔で「ほんとにごめん……」と謝ってきた。その隣には、天音がいる。同部屋だから、おそらく辛かっただろう。期せずして三人が揃ったことによって、周りから「マジ、修羅場じゃん……」という声が聞こえてきた。割合的に宇佐美を貶(けな)す言葉が多くて、彼女の表情は青ざめている。
 俺からあらためて経緯を説明しようとすると、天音は「真帆から全部聞いたよ」と、先に教えてくれた。
「気にしなくてもいいよって言ってあるんだけど、この通りで。落としたストラップを一緒に探してくれてたんでしょ?」
「まあ、うん。一応、見つかりはしたんだけど……」
 橋本からもらったという言葉を添えて、ポケットの中から黒ずんだボーリングのピンのストラップを取り出す。申し訳なさで心が痛んだ。ついでに、聞いた話をかいつまんで話す。
「そっか。ゴミ箱に捨てられてたんだ」
「橋本が言うには」
「春希くんは、康平が言っていることを信用してる?」
 問われて、言葉に詰まる。正直なところ、八割くらいはどちらも彼がやったことだと思っている。ストラップに関しては二人でゴミ箱の中も確認したし、そもそも購入してまだ数か月も経っていない。経年劣化によって紐が千切れるにしては、あまりにも早すぎる寿命だ。
 写真に関しては、もはやボロが出すぎていた。映っていたのは、撮る時に拡大でもしたのか、俺と宇佐美が椅子に座っている部分だけだった。
 その考えを、素直に天音に伝えても良かった。けれど、伝えてしまったら最後、彼女は橋本康平と確実に縁を切るだろう。二人の関係性がどうなろうと興味はないが、たとえ許せない相手だとしても、彼女が誰かを明確な敵と断定するのは嫌だった。
放っておいても、いずれ崩壊する関係だとしても。
今度は彼が、天音に牙を向けるかもしれないから。
それに、二度も誰かが傷付くのも、傷付けられるのも、見たくなかった。
だから俺は、言った。
「信用、したい」
 天音は、天音だけは最後まで、春希のことを信じていたから。たとえ偽善でも、信じる人が馬鹿を見る世の中だったとしても、彼女が信じようとしているものを俺も信じてみたいと思った。春希に向けられた勘違いを解くことも、宇佐美の心だって、変えることができたんだから。
 答えに満足したのか、天音は急に笑顔になって「信用したい、か」と、噛みしめるように俺の出した言葉を唱えた。
「酷いことされたのに、それでもやってないって信じるんだ」
「だって、クラスメイトはみんな友達なんだろ。天音の友達を信じるの、ダメかよ」
「ううん、嬉しい。わかったよ。それじゃあ、真帆と春希くんの誤解を解くことから始めなきゃね」
「どうするか、決めてるの?」
 訊ねると、天音は当然だと言わんばかりに胸を張った。昨日から感じていた違和感は、いつの間にか綺麗になくなっていた。
「私たちが真帆のいいところを、みんなにわかってもらえるように説明すればいい、でしょ? そうすれば、人の彼氏を寝取るような人じゃないって、みんながわかってくれるよ」
 今度は一本取れたと言うように、したり顔を浮かべてくる。かなわないなと、思った。そして同時に、俺はやっぱりこの女の子が好きなんだということを、ハッキリ自覚させられた。
 それから、寝坊でもしたのかあくびをしながら姫森がやってくる。宇佐美の死にそうな表情と、周囲の視線で察したのか、天音に小声で「もしかして、何かあったの?」と訊ねる。
「風香はさ、真帆が人の彼氏を寝取ろうとする人には見えないよね?」
「は? いきなり何言ってんの?」
「春希くんが、浮気するような人だと思う?」
 周りの人たちにも聞こえるように、いつもより声を張って言った。
「真帆はともかく、工藤はそんなことできるほど器用な男じゃないでしょ」
「真帆も、実はそんなに器用じゃないよ」
「まあ、そっか。真帆って高校デビューだったもんね」
「高校デビューって何?」
 知らない言葉に口を挟むと、申し訳なさで沈黙していた宇佐美の頭に姫森が手のひらを乗せた。
「中学では目立たなかった人が、高校生になってから一念発起でイメチェンをして明るくなろうと頑張ることかな。中学の頃の真帆って、どちらかというと暗かったし、コンタクトじゃなくて今みたいに眼鏡だったし、まあ工藤みたいな奴のことだね」
「へーそうなんだ」
 宇佐美にも、そんな過去が。だから根暗が嫌いだったんだろうか。同族嫌悪って奴かもしれない。やはり仲良くなったつもりでいても、知らないことばかりだ。暗い過去は隠しておきたかったのか、宇佐美は頭に手を乗せられたまま顔を赤くさせる。
「言わないでよ、隠してたのに……」
「みんな知ってるって。知らなかったの工藤くらいだよ」
「なんかごめん、隠してたこと知っちゃって」
 ただ、今のは本当に不可抗力だと思う。
「遅かれ早かれ、というか数分後には黙ってても耳に入ると思うから先に私の口から説明するけど、昨日真帆が春希くんに寄り掛かって寝てたんだって」
「へぇ、そんなことが」
「それをわざわざ盗撮した人がいるみたいで、浮気してるって二人とも疑われてるの」
「なるほどね。だからそんなこと聞いてきたんだ。というかそんな大変なことになってるなら、起こしてくれれば良かったのに」
「だって気持ち良さそうに寝てたから」
「危うく寝過ごすとこだったよ。それでまあ、浮気してるとかいう話だっけ。本当に浮気してるなら、私が工藤のことぶっ殺すけど」
「してないって」
 物騒な発言が聞こえてきたから、慌てて訂正した。
「それじゃあ、真帆はどうして寄り掛かって寝ちゃったの」
「ねむたかったから……」
 子どもかよと、呆れる。天音も苦笑いを浮かべた。けれど昨日は怒(ど)涛(とう)の一日だったから、仕方ないと言えば仕方がないのかもしれない。
「あのさ、工藤だったからまだ良かったけど、真帆はちゃんと気を付けな? 大学生になってからそんなことやらかすと、普通にお持ち帰りされるからね。知らない人の家とかホテルで、裸のまま朝を迎えたくないでしょ?」
 昨日は気を使って濁したというのに、姫森の発言はストレートすぎる。もしかすると彼女も、明坂並みにデリカシーがないのかもしれない。俺の気遣いが無に帰してしまった。
「気を付ける……」
「とにかく、言わせとけばいいのよ。だからそんなに凹むな。私はあんたたちがそんなことする奴じゃないって信じてるから、しばらく黙って大人しくしときなさい。そうすればたぶん収まるし、私も真帆の味方でいるから。でもまあ、一応加害者だったんだから、手痛いしっぺ返しが来たんだと思って反省しなさいね。人を呪わば穴二つ、って奴よ」
 厳しい言葉だが、節々に宇佐美への優しさが溢れていた。俺の時は、私もいじめられたくないからと言って多数派に合わせていたのに。そう考えるとやっぱり、嬉しくもあった。
「ありがと、風香……」
「俺も俺も」
「明坂も……」
 姫森のついでのように言われた明坂だったが、どこか嬉しそうだ。単純な奴だが、そこがいいところでもある。
無事に仲間内での話がまとまったところで、天音は仕切り直しだと言うように手を叩いた。
「それじゃあ、今日はみんなでご飯食べよっか。昨日は女子会だって言って、男性陣を蔑(ないがし)ろにしてごめんね」
理由はどうあれ、いつの間にか機嫌が戻ったようでホッとした。本当に、嫌われたんじゃないかと少し不安だった。
 朝食の席は、みんなで話し合って俺と天音で宇佐美を挟むようにして食べた。最初こそ迷惑を掛けるから離れて食べると言って聞かなかったけど「一緒に食べなかったら絶交する」と天音が笑顔で言うものだから、宇佐美の発言権は消失した。
 俺たちが仲良く席を囲んだおかげで、周りのクラスメイトたちは一様に首を傾げた。本当に、工藤と宇佐美は浮気をしていたのだろうか、と。それでも宇佐美のことを『尻軽女』だとか、『高校デビューしてから調子乗りすぎ』と揶(や)揄(ゆ)する人は一定数いた。その人たちは、きっと宇佐美のことを何もわかっていない。
 真実かどうかもわからないのに、不確かな情報に踊らされる奴らが、とても滑(こっ)稽(けい)に見えた。いったい、何度間違えれば自分たちの過ちに気付くのだろう。
 理想論かもしれないが、いつかみんなにわかって欲しいと思った。見てみぬふりをする人も、便乗する人も、すべからく人を傷付ける行為に加担しているということを。
 そしてそれは、誰かが勇気を振り絞って立ち上がって手を上げれば、驚くほど簡単に解決に向かうかもしれないのだ。いつか、天音がそうしてくれたように。