部屋のドアは幸いにも開いていた。しかし出て行った時と同じく、橋本の姿はない。大浴場で友人たちと温泉に浸かっているのを見たけど、俺たちよりは先に上がっていた。ということは、別の友人がいる部屋に遊びに行っているのだろうか。それならしばらく顔を合わせることもないだろう。
 テレビを付けてスポーツ番組にチャンネルを合わせ、自分の家のようにくつろぎ始めた明坂を横目に、ひとまず散らかさないよう自分の荷物を整理することに決めた。そうしてカバンのチャックを開けようとしたところで、あることに気付く。
「……ない」
 天音とお揃いで買ったボーリングのピンのストラップが、いつの間にか消えていた。ひとまず周囲を確認したが、畳の上にそれらしきものは落ちていない。
「どしたん?」
「……いや、ストラップを付けてたんだけど、どこかに行ったみたいなんだ」
「あー高槻さんとお揃いの奴な。あいつ、盗ったんじゃないか?」
「決めつけるのは良くないだろ」
「今まで散々因(いん)縁(ねん)付けられてきたのに?」
 頷く。所詮橋本の行動は、天音への行きすぎた好意が招いていることだから、こんな直接的な窃盗行為をする奴だとは思いたくなかった。嫉妬はすれど、最低限の良識は持ち合わせていると信じたい。
「落としてないか、探してくるよ」
「俺も行こうか?」
「いや、いい。休んでなよ」
 旅館に来た時には、確かに付いてた。ということは、部屋に向かう時に外れて落とした可能性が高い。とりあえずフロントまで戻るだけだから、一人で十分だ。
 本当に失くしたのなら買い直せばいいだけだけど、あれは天音から初めてプレゼントされたものだ。替えが効かないし、落として失くしたと言ったら彼女も悲しむかもしれない。
 どうか、落ちていますように。それだけを祈りながら、部屋を出た。

 初めに通った道の端から端をくまなく確認したけど、ロビーに着くまでにそれらしきものは落ちていなかった。いったい、どこへ行ってしまったのか。明坂は、橋本が盗ったんじゃないかと言っていたけど、やはり信じたくない。
勘違いのせいでいじめられてしまった人のことを、知っているから。俺自身が、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
ひとまず、落とし物のことに詳しそうなフロントに向かった。
「すみません。少しお時間いいですか?」
若い男の従業員に声を掛ける。フロントで作業をしているところだったけど、話し掛けたら手を止めてくれた。
「どうしました?」
「この辺に、ストラップ落ちてませんでしたか? ボーリングのピンの形をしたものなんですけど」
「いや、見てませんね。まだ届いてないだけかもしれないけど」
 わざわざ落とし物ボックスも確認してくれた。けれども、そんなストラップは届けられていないらしい。
すると、夕食の際に料理を運んでくれていた若い女性の接待さんがフロント前を横切った。
「あ、太(た)村(むら)さん。ちょっといい?」
「なんですか、川(かわ)端(ばた)さん」
「この子がストラップを落としたらしいんですけど、見てないかな?」
「あー、知らないですね」
 思わず、肩を落としてしまう。すると太村さんと呼ばれた女性の接待さんが。
「大事なものなの?」
「……はい」
「彼女さんにプレゼントされたとか?」
「まあ、はい。そうですね……」
「それってもしかして、今君の後ろにいる子?」
 言われて、思わず後ろを振り返る。そこにいたのは天音じゃなくて、幸いなことに宇佐美だった。小動物みたいに首を傾げてくる。
「いや、この子じゃないです……」
「そっか。私も探してあげたいのは山々なんだけど、明日も君たちの朝ご飯を用意するために早起きしなきゃいけないから。一応、他の接待さんにも聞いといてあげるね」
「ありがとうございます」
 お礼を述べて、頭を下げた。太村さんは仕事終わりで疲れていたのか、あくびを噛み殺しながら「青春してていいなぁ」と呟いて、帰って行った。
「どしたの?」
「いや、ちょっと落とし物を探してて」
「大事なもの?」
「まあ。天音からプレゼントされたものなんだ」
 正直に答えると、途端に宇佐美の目の色が真剣なものに変わった。
「超大事じゃん。私も探すの手伝うよ」
「いいよ。落ちてそうな場所は、もう全部回ったし」
「それでも、見落としがあるかもしれないじゃん」
 一人より二人だと、彼女は言った。その厚意を無(む)碍(げ)にすることができなくて、それから一緒に落とし物を探した。しかし人数が一人増えても、ストラップは見つからなかった。目につく場所のゴミ箱も開けてみたけど、捨てられたような形(けい)跡(せき)はない。
 捜索が徒労に終わってしまったのが申し訳なかったから、一階奥のゲームセンターにあった自販機で飲み物を奢(おご)った。それから、近くの椅子に座って休憩する。
「ごめんね、見つけてあげられなくて」
「宇佐美が謝ることじゃないだろ」
 コーラのプルタブを開けたことによって、プシュッという炭酸の抜ける音が静けさの漂う館内に響いた。従業員も生徒の姿も、館内の奥まった場所だからか一人も見受けられず、話し声すら聞こえなかった。
「鳴海くん、天音と喧嘩でもしたの?」
 そういえば、宇佐美は二人きりになったら俺のことを名前で呼んでくる。なんだかんだ天音には名字で呼ばれているから、新鮮だった。
「覚えはないけど、なんとなく避けられてる」
「……私が天音に話したことと関係があるのかな。もしかしたら、話さない方が良かったのかも」
「宇佐美が気に病むことないよ。俺も口止めしてないし、そもそも二人きりになったら話すつもりだったから。でも、話した時はどんな顔してた?」
「別に、普通だったと思う。あ、聞いたんだ、みたいな。反応が薄すぎて、逆に拍子抜けしたというか。そのまま、わかったよって言われて会話も打ち切られたし」
 天音の態度が急変した原因が、わかったような気がした。
彼女は何かを誤魔化したり会話を打ち切りたい時、あるいは堪忍袋の緒が切れた時、それまでとは打って変わって冷めた口調になる。
 だからといって天音が怒っているとは思えないけど、俺が宇佐美に話したことに、何か思うところがあるというのは確かだ。体が入れ替わっているという不可思議な現象を他者と共有して、二言三言で会話を終わらせるわけがないんだから。
「天音のことは、こっちでなんとかするよ。宇佐美は気にしてないふりしてて」
「いいの? 間に入らなくても」
「そうだな。あいつが全然話してくれなくなったら、たまに話し相手になってくれると嬉しいかも」
「それ、私の得意分野じゃん」
 歯を見せながら、笑いかけてくる。
 赤色のコーラの缶を両手で包み込むように持つ宇佐美は、残りをあおるように一気に飲み干した。
 それからしばらくの間、何も話さない無言の時間が続く。まだお互いのことをよく知らなくて、探り探りに会話を繋いでいたあの頃が少し懐かしいと感じた。今も、宇佐美のことをよく知っているとは言えないけど。この空白の時間を気まずいと思わなくなるくらいには、距離が縮まったということだろう。
「鳴海くんはさ」
 囁くように宇佐美がまた話し始めたから、耳を傾ける。
「なに?」
「……天音のこと、好きなの?」
「は?」
 瞬間、右肩に微かな重みを感じる。驚いて隣を見ると、宇佐美が頭を乗せていた。なんでそんな思い切ったことをしてきたのか疑問に思ったけど、理由は明白だった。気持ち良さそうな寝息が、わずかに開いた口元から漏れ聞こえてきたから。
「このタイミングで寝るかよ、普通」
 いろいろあって、疲れていたのかもしれない。俺も今すぐ布団に入って寝入りたいくらいには、疲(ひ)弊(へい)していた。けれど今しがた寝てしまった宇佐美を叩き起こせなくて、せめて消灯時間まではそっとしておくことに決める。
「天音のことが好きなの?か……」
 正直、考えたことがなかったと言えば嘘になる。少し前までは、俺を杉浦鳴海だと知る唯一の人物で、問題解決のために協力してくれて、偽の恋人も演じているんだから。そのおかげもあって、少しだけ弱みを見せてくれるくらいには打ち解けて、完璧ではない部分を支えてあげたいと思って……時折どうしようもないくらいに胸が焦がれる。
 特別な感情を抱いていることを、認めたくなかった。認めてしまえば、一定のバランス感覚で保たれていたお互いの関係性が、一気に崩壊してしまう。なぜなら、天音はこの体の宿主である、工藤春希のことが好きだから。
「いったい、いつまでこんな状況が続くんだよ……」
 弱音を吐いても、現状は変わらない。
 けれど、もし偶然でも何でもなく、この状況が誰かの望んだことなのだとしたら。
 一生このまま、工藤春希として生きて行かなきゃいけないのだとしたら。
 いつか必ず、間違いを起こしてしまう予感があった。

 消灯時間の十分前に宇佐美を起こすと、気持ちよさそうなあくびと共に「……ごめん」と謝ってきた。
「私、なんか変なこと言ってなかった?」
「別に、何も。あんまり男の隣で無防備に寝たりするなよ」
「それ、心配してくれてるの?」
「まあ、一応。寝顔とか、写真で撮られたりするかもしれないしさ」
 俺は明坂じゃないから、ストレートには言わず言葉を濁す。
「撮らなかったよね?」
「撮るわけないだろ」
「そ。まあ、鳴海くんは天音のことが好きだからね」
 いきなり断定口調で言われて、言葉に詰まった。
「……ふりをしてるだけだよ」
「あんたを見てたら、本当に好きだってことぐらいわかるわよ」
 女の勘って奴だろうか。だとしたら、認めたくはなかったけど、本当はずっと前から恋に落ちていたのかもしれない。
「ほんっと、しょうがないわね」
 呆れたように言って、宇佐美は立ち上がる。それから腕を組んで、椅子に座っている俺のことを見下ろしてきた。
「全部解決したら、機会ぐらいは作ってあげるわよ。工藤と鳴海くんと天音と私で、どっか出かけよ」
「なんだよそれ、ダブルデートみたいじゃん」
「それもいいかもね。私、幼い頃に工藤と変な約束しちゃってたみたいだし」
 自分で言っておいて、なぜか恥ずかしそうに目をそらしてくる。
「春希みたいな根暗は、嫌いなんじゃなかったのかよ」
「忘れてよ。今度からはちゃんと人と向き合おうって決めたんだから。それに私、よく考えたら嫌いになれるほど工藤のことを知らなかった」
 照れ隠しの裏側に、ほんの少しの後悔が見える。
 人を好きになることも、嫌いになることも短絡的に決めていたらしい宇佐美だが、どうやらいつの間にか変わったらしい。いいことなのか、それとも悪いことなのかはわからないけど、今の彼女は前より清々しい表情をしていた。
「まあ私、おしとやかじゃないから、工藤の好きなタイプの女の子じゃないけどね。料理は、そこそこできるけど」
「別に、出てるところも特にないしな」
 冗談のつもりだったが、宇佐美は顔を真っ赤にしながら「うっさいっ‼」と叫んで赤いコーラの缶をぶん投げてきた。頭に当たって、コツンという小気味の良い音が鳴る。
『死ね』と言われなかったことが、嬉しかった。