食後、キャンプ場からしばらくバスで移動し、ラフティングを行う川の上流へとやってきた。インストラクターから簡単な説明を受けた後、支給されたライフジャケットを羽織る。ボートは八人乗りのようで、インストラクターが一名と、生徒は七名乗るらしい。一グループは五名しかいないため、追加の人員を確保するために、一時的にいくつかのグループが解体された。
幸いにも俺たちのグループはばらけることなく、別グループの人たちが人数合わせで入ってくることになった。予想外だったのは、橋本と一時的に同グループになってしまったことだ。
こちらへ合流した途端、橋本に軽く睨みつけられる。空気を悪くしたくないから離れていると、俺が近くにいないのをいいことに、天音のそばへ行き仲(なか)睦(むつ)まじげに話し始めた。カレーは上手く作れたのか?だとか。明坂がいるから、大変だっただろう、とか。お前は料理が上手だから、俺も食べたかったよ、だとか。聞こえてくる会話の一つ一つに、なぜだか無性に腹が立って、そんな自分のことを気持ち悪いと思った。
「工藤でも嫉妬とかするんだ」
宇佐美は一人になった俺の話し相手になってくれるらしい。
「してるように見えた?」
「今すぐ天音を橋本くんから引き離したいって顔してる」
「そんな顔してたのか。気持ち悪いな、俺」
「いいじゃん、彼女のこと大事に想ってて」
「そういう宇佐美も、嫉妬するんじゃないの?」
「まあ、ちょっと、ね」
複雑そうな表情を見せた宇佐美は小声で「でも、もう振られてるから」と、寂しそうに言った。どうやらまだ吹っ切れてはいないらしい。
「馬鹿だよね。叶わない恋を、諦められないなんて」
「別に。誰を好きになるかなんてその人の勝手だろ。好きなら、好きでいいじゃん」
思ったことを口にすると「……そう言ってくれると、ちょっと助かる」と、礼を言ってきた。
それからも天音は、みんなと頑張ったから、美味しいカレーが作れたよ、だとか。隼人くんも春希くんと一緒に火おこしを頑張ってくれてたよ、だとか。私だけじゃなくて、みんなのおかげだよ、だとか、グループのメンバーのことを立ててくれていた。
八人乗りのボートに乗り込む前に、インストラクターの方から簡単な説明を受けた。
初心者でも、パドルは全員で漕(こ)がなければ川(かわ)面(も)を進まないため、掛け声を決めようと天音が提案する。いくつか案が出たが、結局一番無難な『イチ・ニ・イチ・ニ』に決定した。いざボートへ乗り込むと、常に安定している地上とは違い、足を乗せるだけでぐらついた。体重がかかるから、水面にボートが沈むんだろう。
「きゃっ」
一番前の席に座ろうとした天音が、軽くバランスを崩したのがわかった。咄嗟に体が動いて助けに回ろうとしたが、俺は後方にいるため間に合うはずがない。だから近くにいた橋本が、彼女の肩を掴んで支えていた。
「落ちたら危ないぞ」
「ごめんごめん」
「お前は本当に、たまにおっちょこちょいだな」
また不自然に、心が揺れた。どうしてこんなにも、感情が揺り動かされているのか自分でもわからなかったけれど、宇佐美の言う通り、嫉妬しているのかもしれない。
俺は、天音の彼氏じゃないだろ。そう自分に言い聞かせる。勘違いをすれば、痛い奴になるだけだ。彼女は春希のことが好きだから。俺から向けられる好意なんて、ハッキリ言って迷惑でしかない。それなのに、なんでこんな場所で自覚させられなきゃいけないんだって、思った。
一定のリズムで周りと合わせてパドルを漕いでいると、水面を滑るようにボートは前に進んだ。想像していたよりも忙しく、掛け声を発しながら腕を動かしているため、運動不足の体が悲鳴を上げる。しかし疲れを見せているのは俺と隣にいる宇佐美だけで、後のメンバーはテニス部、サッカー部、バスケ部、運動神経抜群の天音という精鋭揃いのためか、一様に涼しい顔を浮かべていた。
「一番前の嬢ちゃん、漕ぐの上手いね! もしかして経験者?」
「初めてですよ! ちゃんと説明をしっかり聞いてただけです!」
運動神経の良さは、どうやらここでも発揮されているらしい。現役運動部のメンバーを差し置いて、一番上手いと太鼓判を押されていた。
「ちょっと、工藤と真帆、大丈夫? 死にそうな顔してるけど」
「だって私、運動部じゃないし……吹奏楽部だし……」
「吹奏楽部も肺活量鍛えるために、校内走ってるじゃん」
「最近はサボり気味だったのよ! 悪い⁉」
そんなことを、声を荒げながら言われても困る。
「ほらほら兄ちゃん、もっと頑張れ。そんなんじゃ、女の子にモテないぞ。後のみんなは涼しい顔して漕いでるじゃないか」
気合を入れさせるためか、インストラクターが後ろから背中を叩いてきた。正直呼吸も乱れていたため、余計に体に負担がかかる。
「お兄さん、そいつもう彼女いますよ。目の前に座ってる、一番かわいい女の子です」
「なんだと。君、見かけによらないな!」
何が嬉しいのか、笑いながらまるで太鼓のように肩を叩いてくる。疲労で声も上げることができなくて、ただただ痛みだけが体に蓄積されていった。
しばらくすると流れの速い地点までやってきて、パドルを漕がなくても前進していくようになった。
けれどみるみるうちにボートの速度が上がっていき、まるでジェットコースターのように右へ左へと揺られながら川を下り始めた。女の子たちが悲鳴を上げる。
これは危ないんじゃないかと思ったが、インストラクターの人が後ろで方向を調整してくれているようだ。水しぶきを上げながら進むボートの上でも態勢を整えて導く姿は、さすがにプロだなと感嘆のため息を漏らした。
飛び散る水しぶきの向こうで、橋本が天音の肩に手を添えているのが目に入ってしまう。しかしその刹(せつ)那(な)、意識はまったく別の方向へと吸い寄せられた。
「きゃー! 水が目に入った!」
宇佐美の、楽し気にはしゃぐ声。それだけならまだ良かったけど、そのすぐ後に彼女は冷静になって「やば、コンタクト外れた……」と呟いたのが耳に届いた。
探してあげようかとも思ったけど、こんなにも揺れ動くボートの上じゃ身動きも取れないし、そもそも川の中に落ちた可能性だってある。どう考えても、ボートを降りるのを待つ以外に選択肢はなかった。
「片目だけ外れたの?」
しがみつきながら、宇佐美に訊ねる。
「両方落ちた……」
それは一大事だ。確か彼女は酷い遠視を持っているから、既に視界不良に陥(おちい)っているかもしれない。
「とりあえず、降りるまで我慢してて」
「うん……」
インストラクターも察してくれたのか、急流地点を過ぎてからボートを漕ぐのを手伝ってくれた。
岸辺に降りる時、宇佐美の手を握ってあげた。どうやら補正器具がないとまともに歩くこともできないようで、「足、ゆっくり上げて」と指示を出しながら彼女を手助けする。
「ごめん、工藤……」
地上へ降りて、宇佐美は謝罪した。別に謝ることじゃない。ただ、手を離すと危なそうだったから、みんなが周りにいたけれど繋いだままにしておいた。
「真帆、大丈夫?」
一番前にいたが、ちゃんと状況を掴んでいた天音は真っ先にこちらへ駆け寄ってくる。
俺と手を繋いでいることには、何の反応も示さなかった。
「コンタクトないと、ほんと何も見えないんだよね……」
「眼鏡、持ってきてないの?」
「あるけど、バスの中の荷物に入ってるから……」
しばらくは、補正器具なしで歩かなければいけないということだ。
どうしようか思案していると、橋本が近寄ってきて「少しの間くらい、なくても大丈夫だろ。そんなに離れてないんだしさ」と、とても無責任な発言をした。こいつには、人を思いやる心はないんだろうか。
「工藤さ、そのまま手繋いでてやれよ。宇佐美のことが好きだったんだろ? チャンスじゃないか」
そして、ここぞとばかりに以前のいざこざを持ち出してくる。天音はまったく動じていない様子だったが、宇佐美の顔は羞恥で真っ赤に染まっていた。自分から手を離そうとしてきて、けれど俺は力を緩めることができなくて。
そうこうしていると、代わりに声を上げてくれた奴がいた。
「春希って、高槻さんと付き合ってんだけど。もしかして知らねーの?」
「は?」
「俺、二人が休日にデートしてるところ見たことあるぞ。めっちゃ仲いいのに、今さら宇佐美を好きになるはずないじゃん。姫森もそう思うだろ?」
「まあ、そうね。というか、浮気してたら私がぶん殴ってるし」
助け船を出してくれたのか、素でやっているのかは知らないけど、とにかく明坂のおかげで宇佐美の気分は少し落ち着いたようだ。けれど納得してない奴が、一人だけ。
「おいおい、なんだよ。お前たちも知ってるだろ。宇佐美が俺に振られたショックで落ち込んでる時に、工藤が弱みに付け込むみたいに慰めてきたって。気持ち悪いって、宇佐美も言ってたじゃないか」
「……そうだけど」
図星だったのか宇佐美の手の力が徐々に弱まる。本当に、感情の起伏が激しい奴だ。
「お前だって、聞いたことあるだろ? 忘れてないよな、天音?」
「知ってるし、聞いたこともあるけど、春希くんはそんなことしない人だって、私は何度もみんなに説明したよ。康平にも、何回か言ったことあると思うんだけど。忘れたの?」
恐ろしいほどに、冷めた声だった。明らかに怒っていたけど、この期に及んで、やはり橋本一人だけがわかっていないのか、鼻で笑っていた。
「天音がそう思っていても、実際みんな工藤をいじめてたじゃないか。ということは、やっぱり勘違いしてたんだよ」
「みんなの言ってることが正しいから、私の言ってることは間違ってるだなんて、よくもそんなことが平気な顔して言えるね。嫌いになれるほど、康平は春希くんのことを見てきたの?」
「そんなの知らないよ。他の全員が言ってるんだから、実際そうなんだろ。なあ、宇佐美?」
俺のことが好きだったんだろ?とでも言いたげな、人を見下して利用しようとする目だった。宇佐美の口元は震えていて、いたたまれない気持ちになる。彼女は今でも彼のことを想っているのに、その心を利用しようとするのが許せなかった。そして、宇佐美の怯えた姿を見ていると、ざまあみろだなんて、思えなかった。
ここで橋本を殴れば大人しくなって、場が収まるのだろうか。そうすれば、宇佐美も天音も余計な感情を抱かなくて済む。人の心の傷を平気で抉(えぐ)ってくるような奴には、一度痛い目を見てもらう必要があると思った。
こんな奴に一発食らわせるぐらい、何も抵抗はない。けれど引き止めるように宇佐美が俺の手を固く握ってくるから、勝手に思いとどまってしまった。振りほどくこともできたけど、そうすれば定まらない視界の中に彼女を放り出してしまうことになる。
「とりあえずさ、真帆は工藤にちゃんと謝っときなよ」
そんな膠(こう)着(ちゃく)状態で口火を切ったのは、今まで静観していた姫森だった。
「あんたの勘違いだったんでしょ。振られたショックなんかで動揺して、みんなにあることないこと吹聴しなかったら、工藤もいじめられなかったんだしさ。橋本はみんながどうこうとか言ってるけど、真帆が一番悪いからね。工藤は天音みたいに優しいから気にしてないのかもしれないけどさ、あんた面と向かってちゃんと一回謝ったの? いろんな人に、誤解を解く努力をしてきた? してないよね? だって、ここに一人だけ勘違いしてる奴がいるんだから。勝手に許されたって思ってるなら、とんだ最低女だよ」
最初、姫森は橋本の肩を持っているのかと思ったけど、違った。どうすればこの場が収まるのかを理解していたのは、俺や天音ではなく彼女だった。知らなかったけど、春希がいじめられる原因を作ってしまった諸悪の根源は、今俺が手を握っている宇佐美だったらしい。なんとなく、そうじゃないかと薄々察してはいたけれど。
みんなが言っているからという言葉を免罪符にして思考を停止させている橋本を黙らせるには、そもそも最初に勘違いがあったことを認めさせた方がいい。そのためには、やはりきっかけを作ってしまった宇佐美を矢(や)面(おもて)に立たせるしかなくて、天音も本当はそれがわかっていたのかもしれない。でも彼女は優しいから、宇佐美を傷付けるような選択肢を選ぶことができなかったんだろう。
だから代わりに、姫森が罪の所在を明らかにした。宇佐美一人を犠牲にすることによって。
「私……」
その声は、震えていた。
別に、宇佐美の謝罪なんていらない。だって俺は、工藤春希じゃないんだから。最初こそはいがみ合っていたけど、関わりを深めていくうちに彼女のことを理解していった。心の底から憎まなきゃいけないような奴じゃないんだって、思った。だから、宇佐美が真に謝らなければいけないのは春希だけで、本当に、彼女の謝罪は俺なんかが受け取っていいものじゃない。
「……いいよ、もうわかったから。勘違いだったんだろ? この前、保健室で話したじゃん。今さら俺から言われなくても、最初からわかってたって。宇佐美がわかってるなら、別に何の問題もないだろ」
今の宇佐美はきっと、春希をいじめたことを後悔している。それだけで、もう十分だ。それなのに、手を握っている彼女は唇を震わせて、謝罪の言葉を口にしようとしている。
見ていられなかった。気付けば俺は「眼鏡、取りに行くんだろ?」とだけ言って、手を引いて歩き出していた。なんでこんな、寄ってたかっていじめるようなことをしなきゃならないんだよ。いじめの主犯格だったからって、公開処刑みたいに傷付けていい理由にはならないだろ。
天音なら理解を示してくれると思った。だから宇佐美と歩きながら、後ろは振り返らなかった。
幸いにも俺たちのグループはばらけることなく、別グループの人たちが人数合わせで入ってくることになった。予想外だったのは、橋本と一時的に同グループになってしまったことだ。
こちらへ合流した途端、橋本に軽く睨みつけられる。空気を悪くしたくないから離れていると、俺が近くにいないのをいいことに、天音のそばへ行き仲(なか)睦(むつ)まじげに話し始めた。カレーは上手く作れたのか?だとか。明坂がいるから、大変だっただろう、とか。お前は料理が上手だから、俺も食べたかったよ、だとか。聞こえてくる会話の一つ一つに、なぜだか無性に腹が立って、そんな自分のことを気持ち悪いと思った。
「工藤でも嫉妬とかするんだ」
宇佐美は一人になった俺の話し相手になってくれるらしい。
「してるように見えた?」
「今すぐ天音を橋本くんから引き離したいって顔してる」
「そんな顔してたのか。気持ち悪いな、俺」
「いいじゃん、彼女のこと大事に想ってて」
「そういう宇佐美も、嫉妬するんじゃないの?」
「まあ、ちょっと、ね」
複雑そうな表情を見せた宇佐美は小声で「でも、もう振られてるから」と、寂しそうに言った。どうやらまだ吹っ切れてはいないらしい。
「馬鹿だよね。叶わない恋を、諦められないなんて」
「別に。誰を好きになるかなんてその人の勝手だろ。好きなら、好きでいいじゃん」
思ったことを口にすると「……そう言ってくれると、ちょっと助かる」と、礼を言ってきた。
それからも天音は、みんなと頑張ったから、美味しいカレーが作れたよ、だとか。隼人くんも春希くんと一緒に火おこしを頑張ってくれてたよ、だとか。私だけじゃなくて、みんなのおかげだよ、だとか、グループのメンバーのことを立ててくれていた。
八人乗りのボートに乗り込む前に、インストラクターの方から簡単な説明を受けた。
初心者でも、パドルは全員で漕(こ)がなければ川(かわ)面(も)を進まないため、掛け声を決めようと天音が提案する。いくつか案が出たが、結局一番無難な『イチ・ニ・イチ・ニ』に決定した。いざボートへ乗り込むと、常に安定している地上とは違い、足を乗せるだけでぐらついた。体重がかかるから、水面にボートが沈むんだろう。
「きゃっ」
一番前の席に座ろうとした天音が、軽くバランスを崩したのがわかった。咄嗟に体が動いて助けに回ろうとしたが、俺は後方にいるため間に合うはずがない。だから近くにいた橋本が、彼女の肩を掴んで支えていた。
「落ちたら危ないぞ」
「ごめんごめん」
「お前は本当に、たまにおっちょこちょいだな」
また不自然に、心が揺れた。どうしてこんなにも、感情が揺り動かされているのか自分でもわからなかったけれど、宇佐美の言う通り、嫉妬しているのかもしれない。
俺は、天音の彼氏じゃないだろ。そう自分に言い聞かせる。勘違いをすれば、痛い奴になるだけだ。彼女は春希のことが好きだから。俺から向けられる好意なんて、ハッキリ言って迷惑でしかない。それなのに、なんでこんな場所で自覚させられなきゃいけないんだって、思った。
一定のリズムで周りと合わせてパドルを漕いでいると、水面を滑るようにボートは前に進んだ。想像していたよりも忙しく、掛け声を発しながら腕を動かしているため、運動不足の体が悲鳴を上げる。しかし疲れを見せているのは俺と隣にいる宇佐美だけで、後のメンバーはテニス部、サッカー部、バスケ部、運動神経抜群の天音という精鋭揃いのためか、一様に涼しい顔を浮かべていた。
「一番前の嬢ちゃん、漕ぐの上手いね! もしかして経験者?」
「初めてですよ! ちゃんと説明をしっかり聞いてただけです!」
運動神経の良さは、どうやらここでも発揮されているらしい。現役運動部のメンバーを差し置いて、一番上手いと太鼓判を押されていた。
「ちょっと、工藤と真帆、大丈夫? 死にそうな顔してるけど」
「だって私、運動部じゃないし……吹奏楽部だし……」
「吹奏楽部も肺活量鍛えるために、校内走ってるじゃん」
「最近はサボり気味だったのよ! 悪い⁉」
そんなことを、声を荒げながら言われても困る。
「ほらほら兄ちゃん、もっと頑張れ。そんなんじゃ、女の子にモテないぞ。後のみんなは涼しい顔して漕いでるじゃないか」
気合を入れさせるためか、インストラクターが後ろから背中を叩いてきた。正直呼吸も乱れていたため、余計に体に負担がかかる。
「お兄さん、そいつもう彼女いますよ。目の前に座ってる、一番かわいい女の子です」
「なんだと。君、見かけによらないな!」
何が嬉しいのか、笑いながらまるで太鼓のように肩を叩いてくる。疲労で声も上げることができなくて、ただただ痛みだけが体に蓄積されていった。
しばらくすると流れの速い地点までやってきて、パドルを漕がなくても前進していくようになった。
けれどみるみるうちにボートの速度が上がっていき、まるでジェットコースターのように右へ左へと揺られながら川を下り始めた。女の子たちが悲鳴を上げる。
これは危ないんじゃないかと思ったが、インストラクターの人が後ろで方向を調整してくれているようだ。水しぶきを上げながら進むボートの上でも態勢を整えて導く姿は、さすがにプロだなと感嘆のため息を漏らした。
飛び散る水しぶきの向こうで、橋本が天音の肩に手を添えているのが目に入ってしまう。しかしその刹(せつ)那(な)、意識はまったく別の方向へと吸い寄せられた。
「きゃー! 水が目に入った!」
宇佐美の、楽し気にはしゃぐ声。それだけならまだ良かったけど、そのすぐ後に彼女は冷静になって「やば、コンタクト外れた……」と呟いたのが耳に届いた。
探してあげようかとも思ったけど、こんなにも揺れ動くボートの上じゃ身動きも取れないし、そもそも川の中に落ちた可能性だってある。どう考えても、ボートを降りるのを待つ以外に選択肢はなかった。
「片目だけ外れたの?」
しがみつきながら、宇佐美に訊ねる。
「両方落ちた……」
それは一大事だ。確か彼女は酷い遠視を持っているから、既に視界不良に陥(おちい)っているかもしれない。
「とりあえず、降りるまで我慢してて」
「うん……」
インストラクターも察してくれたのか、急流地点を過ぎてからボートを漕ぐのを手伝ってくれた。
岸辺に降りる時、宇佐美の手を握ってあげた。どうやら補正器具がないとまともに歩くこともできないようで、「足、ゆっくり上げて」と指示を出しながら彼女を手助けする。
「ごめん、工藤……」
地上へ降りて、宇佐美は謝罪した。別に謝ることじゃない。ただ、手を離すと危なそうだったから、みんなが周りにいたけれど繋いだままにしておいた。
「真帆、大丈夫?」
一番前にいたが、ちゃんと状況を掴んでいた天音は真っ先にこちらへ駆け寄ってくる。
俺と手を繋いでいることには、何の反応も示さなかった。
「コンタクトないと、ほんと何も見えないんだよね……」
「眼鏡、持ってきてないの?」
「あるけど、バスの中の荷物に入ってるから……」
しばらくは、補正器具なしで歩かなければいけないということだ。
どうしようか思案していると、橋本が近寄ってきて「少しの間くらい、なくても大丈夫だろ。そんなに離れてないんだしさ」と、とても無責任な発言をした。こいつには、人を思いやる心はないんだろうか。
「工藤さ、そのまま手繋いでてやれよ。宇佐美のことが好きだったんだろ? チャンスじゃないか」
そして、ここぞとばかりに以前のいざこざを持ち出してくる。天音はまったく動じていない様子だったが、宇佐美の顔は羞恥で真っ赤に染まっていた。自分から手を離そうとしてきて、けれど俺は力を緩めることができなくて。
そうこうしていると、代わりに声を上げてくれた奴がいた。
「春希って、高槻さんと付き合ってんだけど。もしかして知らねーの?」
「は?」
「俺、二人が休日にデートしてるところ見たことあるぞ。めっちゃ仲いいのに、今さら宇佐美を好きになるはずないじゃん。姫森もそう思うだろ?」
「まあ、そうね。というか、浮気してたら私がぶん殴ってるし」
助け船を出してくれたのか、素でやっているのかは知らないけど、とにかく明坂のおかげで宇佐美の気分は少し落ち着いたようだ。けれど納得してない奴が、一人だけ。
「おいおい、なんだよ。お前たちも知ってるだろ。宇佐美が俺に振られたショックで落ち込んでる時に、工藤が弱みに付け込むみたいに慰めてきたって。気持ち悪いって、宇佐美も言ってたじゃないか」
「……そうだけど」
図星だったのか宇佐美の手の力が徐々に弱まる。本当に、感情の起伏が激しい奴だ。
「お前だって、聞いたことあるだろ? 忘れてないよな、天音?」
「知ってるし、聞いたこともあるけど、春希くんはそんなことしない人だって、私は何度もみんなに説明したよ。康平にも、何回か言ったことあると思うんだけど。忘れたの?」
恐ろしいほどに、冷めた声だった。明らかに怒っていたけど、この期に及んで、やはり橋本一人だけがわかっていないのか、鼻で笑っていた。
「天音がそう思っていても、実際みんな工藤をいじめてたじゃないか。ということは、やっぱり勘違いしてたんだよ」
「みんなの言ってることが正しいから、私の言ってることは間違ってるだなんて、よくもそんなことが平気な顔して言えるね。嫌いになれるほど、康平は春希くんのことを見てきたの?」
「そんなの知らないよ。他の全員が言ってるんだから、実際そうなんだろ。なあ、宇佐美?」
俺のことが好きだったんだろ?とでも言いたげな、人を見下して利用しようとする目だった。宇佐美の口元は震えていて、いたたまれない気持ちになる。彼女は今でも彼のことを想っているのに、その心を利用しようとするのが許せなかった。そして、宇佐美の怯えた姿を見ていると、ざまあみろだなんて、思えなかった。
ここで橋本を殴れば大人しくなって、場が収まるのだろうか。そうすれば、宇佐美も天音も余計な感情を抱かなくて済む。人の心の傷を平気で抉(えぐ)ってくるような奴には、一度痛い目を見てもらう必要があると思った。
こんな奴に一発食らわせるぐらい、何も抵抗はない。けれど引き止めるように宇佐美が俺の手を固く握ってくるから、勝手に思いとどまってしまった。振りほどくこともできたけど、そうすれば定まらない視界の中に彼女を放り出してしまうことになる。
「とりあえずさ、真帆は工藤にちゃんと謝っときなよ」
そんな膠(こう)着(ちゃく)状態で口火を切ったのは、今まで静観していた姫森だった。
「あんたの勘違いだったんでしょ。振られたショックなんかで動揺して、みんなにあることないこと吹聴しなかったら、工藤もいじめられなかったんだしさ。橋本はみんながどうこうとか言ってるけど、真帆が一番悪いからね。工藤は天音みたいに優しいから気にしてないのかもしれないけどさ、あんた面と向かってちゃんと一回謝ったの? いろんな人に、誤解を解く努力をしてきた? してないよね? だって、ここに一人だけ勘違いしてる奴がいるんだから。勝手に許されたって思ってるなら、とんだ最低女だよ」
最初、姫森は橋本の肩を持っているのかと思ったけど、違った。どうすればこの場が収まるのかを理解していたのは、俺や天音ではなく彼女だった。知らなかったけど、春希がいじめられる原因を作ってしまった諸悪の根源は、今俺が手を握っている宇佐美だったらしい。なんとなく、そうじゃないかと薄々察してはいたけれど。
みんなが言っているからという言葉を免罪符にして思考を停止させている橋本を黙らせるには、そもそも最初に勘違いがあったことを認めさせた方がいい。そのためには、やはりきっかけを作ってしまった宇佐美を矢(や)面(おもて)に立たせるしかなくて、天音も本当はそれがわかっていたのかもしれない。でも彼女は優しいから、宇佐美を傷付けるような選択肢を選ぶことができなかったんだろう。
だから代わりに、姫森が罪の所在を明らかにした。宇佐美一人を犠牲にすることによって。
「私……」
その声は、震えていた。
別に、宇佐美の謝罪なんていらない。だって俺は、工藤春希じゃないんだから。最初こそはいがみ合っていたけど、関わりを深めていくうちに彼女のことを理解していった。心の底から憎まなきゃいけないような奴じゃないんだって、思った。だから、宇佐美が真に謝らなければいけないのは春希だけで、本当に、彼女の謝罪は俺なんかが受け取っていいものじゃない。
「……いいよ、もうわかったから。勘違いだったんだろ? この前、保健室で話したじゃん。今さら俺から言われなくても、最初からわかってたって。宇佐美がわかってるなら、別に何の問題もないだろ」
今の宇佐美はきっと、春希をいじめたことを後悔している。それだけで、もう十分だ。それなのに、手を握っている彼女は唇を震わせて、謝罪の言葉を口にしようとしている。
見ていられなかった。気付けば俺は「眼鏡、取りに行くんだろ?」とだけ言って、手を引いて歩き出していた。なんでこんな、寄ってたかっていじめるようなことをしなきゃならないんだよ。いじめの主犯格だったからって、公開処刑みたいに傷付けていい理由にはならないだろ。
天音なら理解を示してくれると思った。だから宇佐美と歩きながら、後ろは振り返らなかった。