「今から、一緒に女の子をナンパしに行こう」
病室へ来るなり、ナルミはそんな提案を持ち掛けてきた。ちょうど画用紙に色鉛筆で絵を描いていた春希は、ナンパという小学生にとっては破(は)廉(れん)恥(ち)な言葉に顔を熱くさせる。
「なんで僕が、そんなことを」
「春希だからだよ。将来を誓い合った女の子がいれば、少しは前向きになるかもしれない」
「そういうのは早すぎるっていうか、無理だよ僕には……」
「無理じゃない。決めつけたら、一生女と付き合えないぞ。この俺が、弱っちい春希のことをなんとかしてやる」
屋上での約束なんて、守ってはくれないと思っていたけど、あれからナルミは宣言通り毎日病室に遊びに来てくれている。荒々しい言葉遣いに、初めは苦手意識を感じていた春希だったが、それも次第に慣れてしまっていた。
「とりあえず、春希の好みの女の子を教えてくれよ」
「嫌だよ、なんでそんな恥ずかしいこと……」
「やっぱり出てるところはちゃんと出てて、優しい女が好きなのか?」
「……知らない」
同い年の友達が皆無に等しい春希にとっては、ナルミから飛び出す単語の一つ一つが刺激的だった。
「そういうナルミくんはどうなの?」
「俺? 俺かぁ。考えたこともないな。とりあえず、一緒に遊んでくれる奴ならそれでいいや」
「そんな適当でいいの?」
「だって、別に女と付き合いたいなんて思わないし。春希と一緒にすんな」
「一緒にしてないし、そもそも付き合いたいなんて言ってないから……」
「というか、俺は話したんだから早く教えてくれよ。卑(ひ)怯(きょう)だぞ」
勝手に話しておいて、卑怯も何もあったものじゃないが、話さなければこのやり取りが延々続きそうな気がして、仕方なく思い浮かんだ単語を口にした。
「女の子っぽい女の子が好き、かな」
「は? 意味わかんね。女は女だろ」
「だから、おしとやかで優しくて、髪が長くて、料理が好きそうな……そんな感じだよ。わかんない?」
「それじゃあ俺が言った通りじゃん。男って、だいたいみんなそんな感じの女が好きだよな」
「優しいしか合ってないし、お胸のことは言ってない……」
「もうめんどくさいから、俺みたいな奴とは正反対の女ってことでいいな?」
「いいよ、それで……」
そもそも君は男でしょと思ったが、疲れたから訂正を入れたりはしなかった。春希の好みの女性は、概(おおむ)ねナルミと真反対のタイプだということに間違いはなかった。
「というわけで、今からそういう女を探しに行くけど、体は大丈夫か?」
横暴な奴だけど、こういう時は一応心配してくれる。言葉にはできないけど、春希はそれが嬉しかった。
「……今は、大丈夫」
「そっか。それじゃあ行くか。倒れても大丈夫なように、手を繋いでてやる」
言われるままナルミの手を掴むと、やわらかく温かい感触に全身が震えた気がした。性格も発言も行動も荒々しいのに、手のひらは驚くほどの慈愛に満ちている。まるで自分の母親のような安心感があった。
それから授業を抜け出すように、コソコソと病室を出る。するとタイミング悪く、母親がお見舞いに来たところに鉢合わせた。
「あら、ナルミくん。春希と遊んでくれてるの?」
「おう。ちょっとそこの休憩室でお話しようと思って」
「ありがとね。ナルミくんみたいなお兄ちゃんがいてくれると、春希も心細くないと思うから。戻ってきたら、リンゴ剥いてあげるわよ」
「任せとけって。春希は一人にさせないから。それじゃあ、また後でな」
他人の母親だというのに、物怖じせずに会話ができるナルミを春希は尊敬している。知らない大人には、いつも委(い)縮(しゅく)してしまうからだ。
病室前で別れる時、母親は笑顔で手のひらを開いて閉じてを繰り返した。これは、昔からの癖だった。なんとなく、周りと違うというのは恥ずかしかったけれど、母親に対しては同じ仕草で返していた。
ナルミには見られたりしないように、こっそり手のひらを開いて、閉じた。
春希の入院している病院のB棟六階病棟は、小児科や眼科、消化器内科や消化器外科など、複数の診療科の混合病棟である。その性質から、同じ階には子どもだけでなく大人の患者も入院している。
迷惑を掛けないよう、いつもより縮こまりながら手を引かれて歩いていると、子どもも利用している休憩所に到着した。そこで何をするのかと思いきや、事前の相談など一切なく、ナルミはソファに座って絵本を読んでいた同い年くらいの女の子に話しかけに行った。
「よう彼女。名前なんていうの?」
「ちょっと、ナルミくん⁉」
行き当たりばったりすぎるその行動に、制止を掛ける暇なんてなかった。黙々と絵本を読んでいた女の子は、ページをめくる手を止めて先ほどの春希と同じように縮こまる。怯(おび)えているようにも見えたが、ナルミはそんなことはお構いなしに、隣の席に座り込んだ。
「ママに、知らない人にはついていくなって……」
「ついてこなくていいから、ここでママが帰ってくるまでちょっとお話しようよ。俺、ナルミっていうんだ。そんでこっちが春希」
椅子に座る女の子を見てみると、ゴツゴツとした大きな眼鏡を掛けていた。それを見つめていると不意に目が合って、彼女は慌てたように掛けていたものを外した。もしかして、恥ずかしかったのだろうか。すると、デリカシーのないナルミが。
「お! これすげえかっこいいじゃん!」
突然テンションを上げたかと思えば、今しがた外した眼鏡を奪い取り、自分の耳に掛けた。
「なんだこれ、目の前がぼやけるぞ!」
「ちょっとかわいそうだよナルミくん! 返してあげなよ!」
女の子が泣きそうな顔をしていたから、ナルミの顔から眼鏡を取り上げて、返してあげる。すると小さくしゃくり上げながら、「ありがと……」と呟いた。
春希は以前にも、この眼鏡を掛けている患者さんを見たことがある。
その時に母親に用途を訊ねていたため、ぼんやりではあるが知っていた。女の子が掛けているのは、眼鏡を作る時に使用する検査用のもので、それを使って何度もレンズを取り換え、視力を測っている。つまり、絵本を読んでいた女の子は目が悪いということで。
代わりにナルミにそれを説明すると、わかってくれたのか「そうだったのか。つまり、それがないと絵本が読めないのか。ごめんな!」と素直に謝罪した。
「これ、しばらく掛けてみてって、お医者様が。もしかしたら、頭が痛くなるかもしれないから」
「ふーん。確かにそんなに歪んでたら、頭も痛くなるな」
「私は、とっても見やすいけど……」
「変な奴だな!」
「ナルミくん、変じゃないよ。この子に合わせて作ってるんだから」
「あ、そうか。春希は頭が良いな」
そんなやり取りを聞いていた女の子は、ほんの少しだけ警戒心を解いたのか、「実は眼鏡、恥ずかしくて……」と心情を吐(と)露(ろ)した。
「なんでだよ。それサイボーグみたいでかっけぇじゃん。似合ってるよ?」
全然褒め言葉になっていない感想に、乾いた笑みが春希の口からこぼれた。
「これ、いつも掛けるわけじゃないからね。ちゃんとお店で眼鏡を作るんだよ」
「持って帰ればいいのに」
「ダメに決まってるじゃん」
思わず突っ込むと、女の子は初めてはにかんだ。それを見逃さなかったナルミがこの好機に乗らないはずもなく、まくしたてるように会話を繋いだ。
「春希はさ、この子にどんな眼鏡が似合うと思う? 恥ずかしいなら、代わりに決めてやれよ」
「え、僕が決めるの?」
話を振られると、女の子は真っすぐこちらを見つめてくる。その姿にドギマギしていると、不意に眼鏡を掛けながら椅子に座って本を読んでいる母の姿を思い出した。お母さんは大人だけど、その眼鏡を掛けるといつもより数倍大人びて見える。そんな母親のことも、変わらずに大好きだった。
「……黒色で周りが太い眼鏡、かな」
「それじゃあこの眼鏡でいいじゃん!」
「全然違うから。ナルミくんはもう黙っててよ……」
いつもの適当な発言に、ため息が漏れる。けれど女の子は声を出して笑った。いつの間にか、不安に押し潰されそうな表情や、眼鏡を掛けている恥ずかしさなんてものは、綺麗に取り払われたようだった。
「なあ、そろそろ名前教えてくれよ。俺たち、ちゃんと名乗ったんだからさ」
すると、今度は躊躇(ためら)うことなく教えてくれた。
「えっと、ウサミ」
「は? ウサミミ?」
「ウサミって言ったじゃん。ナルミくん、そういうのデリカシーないって言うんだよ」
「いいじゃんウサミミでも。かわいいよ。ところでさ、ウサミミは料理できる?」
当所の目的をすっかり忘れていた春希は、彼女になってくれそうな子を探していたということを思い出して顔が熱くなった。
「料理? いつもママが作るけど、たまに手伝うこともあるよ」
「お、将来有望じゃん。体はこれから大きくなるとして、見たところ優しそうだ」
「それって、小さい子ならもう誰でもいいってことなんじゃ……」
「大きい? 優しい?」
ナルミとは違った曇りなき眼に見つめられ、体の中に存在しているすべての罪悪感が噴き出してくる。逃げるように、思わずナルミの手を掴んだ。
「お母さん、リンゴ剥いてくれるらしいから戻ろうよ」
「お母さんより、まずは春希の将来だ。おいウサミミ、頼りない奴だけど、春希と付き合ってやってくれ!」
「付き合う?」
こちらに首を傾げられて、「あはは……」と曖昧に笑った。こんな馬鹿みたいな話、真に受ける子どもはいない。強引に腕を引っ張って退散しようとすると、彼女は急に笑顔を見せて「もう少し大きくなって、お互いに好きだったら、いいよ」と言った。
その曇りなき発言のおかげで、頭の中が真っ白になる。
「やったじゃん、春希。こりゃあ、頑張って病気治さないとな」
「……戻ろうよ」
逃げるように、春希はウサミから離れた。そんな都合の良い話、あるわけがないから。
春希は知っていた。目が悪くてここへ来る人は、入院することなくお家へ帰っていく。仮にここで彼女と仲良くなったとしても、所詮はそれまでの関係なのだ。
また会うことは、たぶんもうない。それをとてもわかりやすくナルミに説明すると、あっけらかんと言った。
「また、どこかで会うかもしれないじゃん。あの子かわいかったし、病気なんて治して今度は健康な状態で会いに行こうぜ」
その前向きさが、羨ましくもあった。どのように生きれば、ナルミのようになれるんだろうとさえ思った。もしかすると、ウサミという少女と再会することがあるかもしれない。そう思わせてくれるような、温かな響きがあった。
病室へ戻ると、母親がリンゴを剥いて待っていた。いつの間にか黒い眼鏡を掛けていて、先ほどの女の子のことを思い出す。もし病気が治るようなことがあれば、また会ってみたいと思ってしまった。
「トイレ!」
元気よくナルミが宣言して、母親が「ついていってあげるわよ」と言った。
待っててねと言われ、春希は行儀よくリンゴに手を付けずにベッドに座って待った。
再び戻ってきた時、お母さんが「ナルミちゃんは、本当にいい子ね」と嬉しそうに言った。
いい子かどうかはわからないけど、一緒にいて楽しいと春希は素直に思った。
病室へ来るなり、ナルミはそんな提案を持ち掛けてきた。ちょうど画用紙に色鉛筆で絵を描いていた春希は、ナンパという小学生にとっては破(は)廉(れん)恥(ち)な言葉に顔を熱くさせる。
「なんで僕が、そんなことを」
「春希だからだよ。将来を誓い合った女の子がいれば、少しは前向きになるかもしれない」
「そういうのは早すぎるっていうか、無理だよ僕には……」
「無理じゃない。決めつけたら、一生女と付き合えないぞ。この俺が、弱っちい春希のことをなんとかしてやる」
屋上での約束なんて、守ってはくれないと思っていたけど、あれからナルミは宣言通り毎日病室に遊びに来てくれている。荒々しい言葉遣いに、初めは苦手意識を感じていた春希だったが、それも次第に慣れてしまっていた。
「とりあえず、春希の好みの女の子を教えてくれよ」
「嫌だよ、なんでそんな恥ずかしいこと……」
「やっぱり出てるところはちゃんと出てて、優しい女が好きなのか?」
「……知らない」
同い年の友達が皆無に等しい春希にとっては、ナルミから飛び出す単語の一つ一つが刺激的だった。
「そういうナルミくんはどうなの?」
「俺? 俺かぁ。考えたこともないな。とりあえず、一緒に遊んでくれる奴ならそれでいいや」
「そんな適当でいいの?」
「だって、別に女と付き合いたいなんて思わないし。春希と一緒にすんな」
「一緒にしてないし、そもそも付き合いたいなんて言ってないから……」
「というか、俺は話したんだから早く教えてくれよ。卑(ひ)怯(きょう)だぞ」
勝手に話しておいて、卑怯も何もあったものじゃないが、話さなければこのやり取りが延々続きそうな気がして、仕方なく思い浮かんだ単語を口にした。
「女の子っぽい女の子が好き、かな」
「は? 意味わかんね。女は女だろ」
「だから、おしとやかで優しくて、髪が長くて、料理が好きそうな……そんな感じだよ。わかんない?」
「それじゃあ俺が言った通りじゃん。男って、だいたいみんなそんな感じの女が好きだよな」
「優しいしか合ってないし、お胸のことは言ってない……」
「もうめんどくさいから、俺みたいな奴とは正反対の女ってことでいいな?」
「いいよ、それで……」
そもそも君は男でしょと思ったが、疲れたから訂正を入れたりはしなかった。春希の好みの女性は、概(おおむ)ねナルミと真反対のタイプだということに間違いはなかった。
「というわけで、今からそういう女を探しに行くけど、体は大丈夫か?」
横暴な奴だけど、こういう時は一応心配してくれる。言葉にはできないけど、春希はそれが嬉しかった。
「……今は、大丈夫」
「そっか。それじゃあ行くか。倒れても大丈夫なように、手を繋いでてやる」
言われるままナルミの手を掴むと、やわらかく温かい感触に全身が震えた気がした。性格も発言も行動も荒々しいのに、手のひらは驚くほどの慈愛に満ちている。まるで自分の母親のような安心感があった。
それから授業を抜け出すように、コソコソと病室を出る。するとタイミング悪く、母親がお見舞いに来たところに鉢合わせた。
「あら、ナルミくん。春希と遊んでくれてるの?」
「おう。ちょっとそこの休憩室でお話しようと思って」
「ありがとね。ナルミくんみたいなお兄ちゃんがいてくれると、春希も心細くないと思うから。戻ってきたら、リンゴ剥いてあげるわよ」
「任せとけって。春希は一人にさせないから。それじゃあ、また後でな」
他人の母親だというのに、物怖じせずに会話ができるナルミを春希は尊敬している。知らない大人には、いつも委(い)縮(しゅく)してしまうからだ。
病室前で別れる時、母親は笑顔で手のひらを開いて閉じてを繰り返した。これは、昔からの癖だった。なんとなく、周りと違うというのは恥ずかしかったけれど、母親に対しては同じ仕草で返していた。
ナルミには見られたりしないように、こっそり手のひらを開いて、閉じた。
春希の入院している病院のB棟六階病棟は、小児科や眼科、消化器内科や消化器外科など、複数の診療科の混合病棟である。その性質から、同じ階には子どもだけでなく大人の患者も入院している。
迷惑を掛けないよう、いつもより縮こまりながら手を引かれて歩いていると、子どもも利用している休憩所に到着した。そこで何をするのかと思いきや、事前の相談など一切なく、ナルミはソファに座って絵本を読んでいた同い年くらいの女の子に話しかけに行った。
「よう彼女。名前なんていうの?」
「ちょっと、ナルミくん⁉」
行き当たりばったりすぎるその行動に、制止を掛ける暇なんてなかった。黙々と絵本を読んでいた女の子は、ページをめくる手を止めて先ほどの春希と同じように縮こまる。怯(おび)えているようにも見えたが、ナルミはそんなことはお構いなしに、隣の席に座り込んだ。
「ママに、知らない人にはついていくなって……」
「ついてこなくていいから、ここでママが帰ってくるまでちょっとお話しようよ。俺、ナルミっていうんだ。そんでこっちが春希」
椅子に座る女の子を見てみると、ゴツゴツとした大きな眼鏡を掛けていた。それを見つめていると不意に目が合って、彼女は慌てたように掛けていたものを外した。もしかして、恥ずかしかったのだろうか。すると、デリカシーのないナルミが。
「お! これすげえかっこいいじゃん!」
突然テンションを上げたかと思えば、今しがた外した眼鏡を奪い取り、自分の耳に掛けた。
「なんだこれ、目の前がぼやけるぞ!」
「ちょっとかわいそうだよナルミくん! 返してあげなよ!」
女の子が泣きそうな顔をしていたから、ナルミの顔から眼鏡を取り上げて、返してあげる。すると小さくしゃくり上げながら、「ありがと……」と呟いた。
春希は以前にも、この眼鏡を掛けている患者さんを見たことがある。
その時に母親に用途を訊ねていたため、ぼんやりではあるが知っていた。女の子が掛けているのは、眼鏡を作る時に使用する検査用のもので、それを使って何度もレンズを取り換え、視力を測っている。つまり、絵本を読んでいた女の子は目が悪いということで。
代わりにナルミにそれを説明すると、わかってくれたのか「そうだったのか。つまり、それがないと絵本が読めないのか。ごめんな!」と素直に謝罪した。
「これ、しばらく掛けてみてって、お医者様が。もしかしたら、頭が痛くなるかもしれないから」
「ふーん。確かにそんなに歪んでたら、頭も痛くなるな」
「私は、とっても見やすいけど……」
「変な奴だな!」
「ナルミくん、変じゃないよ。この子に合わせて作ってるんだから」
「あ、そうか。春希は頭が良いな」
そんなやり取りを聞いていた女の子は、ほんの少しだけ警戒心を解いたのか、「実は眼鏡、恥ずかしくて……」と心情を吐(と)露(ろ)した。
「なんでだよ。それサイボーグみたいでかっけぇじゃん。似合ってるよ?」
全然褒め言葉になっていない感想に、乾いた笑みが春希の口からこぼれた。
「これ、いつも掛けるわけじゃないからね。ちゃんとお店で眼鏡を作るんだよ」
「持って帰ればいいのに」
「ダメに決まってるじゃん」
思わず突っ込むと、女の子は初めてはにかんだ。それを見逃さなかったナルミがこの好機に乗らないはずもなく、まくしたてるように会話を繋いだ。
「春希はさ、この子にどんな眼鏡が似合うと思う? 恥ずかしいなら、代わりに決めてやれよ」
「え、僕が決めるの?」
話を振られると、女の子は真っすぐこちらを見つめてくる。その姿にドギマギしていると、不意に眼鏡を掛けながら椅子に座って本を読んでいる母の姿を思い出した。お母さんは大人だけど、その眼鏡を掛けるといつもより数倍大人びて見える。そんな母親のことも、変わらずに大好きだった。
「……黒色で周りが太い眼鏡、かな」
「それじゃあこの眼鏡でいいじゃん!」
「全然違うから。ナルミくんはもう黙っててよ……」
いつもの適当な発言に、ため息が漏れる。けれど女の子は声を出して笑った。いつの間にか、不安に押し潰されそうな表情や、眼鏡を掛けている恥ずかしさなんてものは、綺麗に取り払われたようだった。
「なあ、そろそろ名前教えてくれよ。俺たち、ちゃんと名乗ったんだからさ」
すると、今度は躊躇(ためら)うことなく教えてくれた。
「えっと、ウサミ」
「は? ウサミミ?」
「ウサミって言ったじゃん。ナルミくん、そういうのデリカシーないって言うんだよ」
「いいじゃんウサミミでも。かわいいよ。ところでさ、ウサミミは料理できる?」
当所の目的をすっかり忘れていた春希は、彼女になってくれそうな子を探していたということを思い出して顔が熱くなった。
「料理? いつもママが作るけど、たまに手伝うこともあるよ」
「お、将来有望じゃん。体はこれから大きくなるとして、見たところ優しそうだ」
「それって、小さい子ならもう誰でもいいってことなんじゃ……」
「大きい? 優しい?」
ナルミとは違った曇りなき眼に見つめられ、体の中に存在しているすべての罪悪感が噴き出してくる。逃げるように、思わずナルミの手を掴んだ。
「お母さん、リンゴ剥いてくれるらしいから戻ろうよ」
「お母さんより、まずは春希の将来だ。おいウサミミ、頼りない奴だけど、春希と付き合ってやってくれ!」
「付き合う?」
こちらに首を傾げられて、「あはは……」と曖昧に笑った。こんな馬鹿みたいな話、真に受ける子どもはいない。強引に腕を引っ張って退散しようとすると、彼女は急に笑顔を見せて「もう少し大きくなって、お互いに好きだったら、いいよ」と言った。
その曇りなき発言のおかげで、頭の中が真っ白になる。
「やったじゃん、春希。こりゃあ、頑張って病気治さないとな」
「……戻ろうよ」
逃げるように、春希はウサミから離れた。そんな都合の良い話、あるわけがないから。
春希は知っていた。目が悪くてここへ来る人は、入院することなくお家へ帰っていく。仮にここで彼女と仲良くなったとしても、所詮はそれまでの関係なのだ。
また会うことは、たぶんもうない。それをとてもわかりやすくナルミに説明すると、あっけらかんと言った。
「また、どこかで会うかもしれないじゃん。あの子かわいかったし、病気なんて治して今度は健康な状態で会いに行こうぜ」
その前向きさが、羨ましくもあった。どのように生きれば、ナルミのようになれるんだろうとさえ思った。もしかすると、ウサミという少女と再会することがあるかもしれない。そう思わせてくれるような、温かな響きがあった。
病室へ戻ると、母親がリンゴを剥いて待っていた。いつの間にか黒い眼鏡を掛けていて、先ほどの女の子のことを思い出す。もし病気が治るようなことがあれば、また会ってみたいと思ってしまった。
「トイレ!」
元気よくナルミが宣言して、母親が「ついていってあげるわよ」と言った。
待っててねと言われ、春希は行儀よくリンゴに手を付けずにベッドに座って待った。
再び戻ってきた時、お母さんが「ナルミちゃんは、本当にいい子ね」と嬉しそうに言った。
いい子かどうかはわからないけど、一緒にいて楽しいと春希は素直に思った。