気付けば僕は、真っ暗な部屋に居た。
後ろから差し込む唯一の光源である窓の外に、先程まで居た筈の小部屋が見える。
どうなっているのかと辺りを見回すと、そこには、今まで一方的に語りかけてきた彼女が立って居た。
僕より少し背が高くて、思っていたよりもずっと綺麗な髪をした、美しい少女。何も映さなかった夜色の彼女の瞳が、僕を見詰める。
そうか、ここは絵の中だ。そう自覚した途端、彼女の声が直接脳に響いた。
『ええ、そう。ここは絵の中、私の部屋』
喋らずとも伝わったことに対する驚きは、恐怖ではなく、これがテレパシーなのだと新鮮な喜びに変わった。そんな歓喜も伝わったのか、彼女は更に笑みを深める。
『ねえ、私とたくさん、お話ししてくれる?』
彼女の提案に、勿論だと頷く。彼女に会えて、話が出来る。此処に来てずっと願っていたことだ。
『嬉しい。私、ずっと一人で寂しかったの』
窓……恐らく額縁から、更に窓越しの外しか見えない、何もない空間。こんな場所で一人きりなんて、僕なら気が滅入ってしまう。
彼女の寂しさが紛れるように、僕は色んな話をした。声にしなくても伝わっているというのは、何とも面白い。
『……凄い、虹色の蝶なんて本当に居るの?』
彼女に伝えるために思い返す何気無い日常は、好奇心で彩った冒険譚のような思い出だ。キラキラと夜色の瞳に星を輝かせて、彼女は僕の話を楽しそうに聞いてくれる。
日頃大人に注意されがちな自分の行動や感覚を認められているような、誇らしげな気持ちだった。
『ずっと聞いていたいな……』
そうだ、ずっとこのまま絵の中に居よう。
そうすれば、彼女とたくさん話すことが出来る。彼女はそれで喜ぶし、僕は彼女と居られてとても楽しいのだ。
声を使わなくても言葉を交わすことが出来るから、疲れることもない。何て素晴らしいんだろう。
*****
外に出られないことを除けば、絵の中の生活は快適だった。暑さも寒さも空腹も感じず、窓の外はあっという間に明るくなったり暗くなったりするから、時間の経過もわからない。もう数日経ったのか、或いは数年過ぎたのか。
彼女は変わらず微笑んで、僕の話に楽しそうに耳を傾けてくれた。しかし、暫く過ごしていく内、ある日唐突に、話すことがなくなってしまった。
小学生の思い出話なんて、たった数年。所詮その程度だ。思い出話に空想の物語を足して、現実と幻想をない交ぜにして。それでも、もう僕の中には、新しい物語は生まれなかったのである。
それもその筈だ、もう外での日々よりも、絵の中で過ごした時間の方が長い気がする。その間僕には語るだけの刺激も、新しい出来事も無かった。
あれだけ溢れて止まらなかった魔法の土壌が、すっかり枯れ果ててしまったのだ。
幾つか言葉を絞り出してみるけれど、窓の外の窓から見える長方形の世界は、永久に語るには狭すぎた。
言葉をなくした僕を、彼女は不思議そうに見上げる。いつの間にか、彼女の背丈も追い越していた。
『どうしたの?』
「……僕、……」
暫くぶりに声を出して、その嗄れた響きに目を見開く。あれだけ持て余していた好奇心も行動力も、衰える筈だった。目の前の彼女は、出会った時から何一つ変わらないのに、僕はすっかり、年老いていたのだ。
『嗚呼、もう……時間切れなのね』
彼女の言葉に、寒くない筈の身体は何故か背筋が冷たくなった。
時間切れ。それは、何を指しているのだろう。時間の概念なんて、絵の中には、否、彼女にはなかった筈だ。
終わりを迎えるのは、此処に居られる時間なのか、それとも……
『もっと、一緒に居たかったな……』
伏せられた瞳と寂しそうな声に、思わず僕はしわしわの手で彼女を引き寄せ抱き締める。
きみと離れたくない。この暗闇に、一人になんかさせたくない。
きみは、外には出られないのか。どうして思い付かなかったのだろう、僕を中に招けたのだ、外にだって出られる筈だ。
僕の心の声を聞いて、彼女は静かに、首を振る。
嗚呼、そうだ、それなら、このまま二人で旅がしたい。絵ごと誰かに運んで貰おう。旅先で色んな物を一緒に見て、楽しんで、そしてそこからきみの望む物語を、きっと紡ぐから。
だから、時間切れだなんて、言わないで。おしまいだなんて、言わないで。
喉はとうに使い物にならなくて、いつものように強く思うのに、もう彼女は返事をしてくれなかった。届いているのかわからぬまま、するりと、彼女は腕の中から離れてしまう。
「ま……」
待って、と、それすら言えなかった。突然暗闇から、眩しい世界へと突き落とされる。目が焼かれそうだ。とても開けてはいられない。
そのあまりの暑さと眩しさに、意識が陽炎のように揺らぐ。混濁する意識の中、不意に、誰かに名前を呼ばれた気がした。
嗚呼、そういえば僕は語ってばかりで、彼女の名前すら聞けなかった。聞きたいこと、たくさんあった筈なのにな。
僕は意識を手放す間際まで、彼女のことを想った。
*****
目を覚ました時、あの部屋とは異なる、眩しいくらいの白い天井が広がっていた。
彼女を置いて天国にでも来てしまったのかと思ったが、嗅ぎ慣れない消毒の匂いや、僕の名前を呼ぶ両親の泣き声に、此処が現実だと理解した。
僕は炎天下で倒れていたのを近所の人に発見されて、そのまま近くの病院に運ばれたらしい。両親には散々泣かれて、叱られた。
点滴に繋がれた僕の手はしわしわではなく、あの夏と同じように子供の小さな手だった。
僕は直ぐに、絵の少女について両親に尋ねた。混乱より何より、彼女のことが気掛かりで堪らなかった。
けれど、絵なんてなかった、それどころか、あんなに大きな塔すら、近くにはなかったと言う。
点滴を交換しに来た看護師に聞いても、この町には塔どころか、町全体を見下ろせるような高い建物はないとのことだった。
暑さにやられて、長い白昼夢でも見たと言うのだろうか。
絵の中の記憶はこんなにも鮮明で、暗闇で語り聞かせた話のひとつひとつを、それを聞く彼女の瞳の美しさを、心踊る冒険譚よりも愛しい二人の世界の穏やかな時間を、目蓋を閉じればそれだけで事細かに思い出せるというのに。
混乱する頭を整理しようと寝返りを打つと、不意に、視界の端に見慣れた黒が映った。
看護師か誰かの髪が、偶々枕元に落ちただけかもしれない。けれど、それでも、きっと最後に抱き締めた時に付いたのだろう、肩口に一本だけ残った長い黒髪だけが、彼女の居た証だった。
長い時の中で忘れかけていた『きっと』の魔法を、僕は彼女に使った。
*****
退院して、あれから何度もあの町に行ったけれど、あの塔にも、彼女にも二度と出会うことはなかった。
あの夏を境に、僕は好奇心旺盛な夢見がちな子供には戻れず、然れど語る言葉を持たない年寄りにもなれない、何とも歪なものになってしまった。それが成長だというのなら、あまりにも残酷だ。
絵の中に入るなんて不思議な体験をしたのに、消える塔の謎を追うなんて面白い目標を持てたのに。たった一人好いた少女と、永遠に添い遂げられる愛がないことを知ってしまったのだ。
現実の世界は酷く眩しくて、けれど散々語った記憶の中の景色よりも色褪せた。あれだけ退屈だった夜の暗闇が、一番心を落ち着かせた。
彼女の好みそうな物語を紡いでは、それを聞かせる術がないことを嘆き、世界はあんなにも輝いていた筈なのに、暗闇に何度も彼女を想っては、呼ぶ名前すら知らないことを悔いた。
気付けば芽生えていた彼女への恋心も、恋と言うにはあまりにも醜い執着も、あの夏の日に迷い込んだ塔のことも、生涯忘れることなど出来やしない。
僕の心は、彼女と過ごす絵の中に、あの夜色の瞳に、今も尚、囚われ続けている。