七月一日。
ベッドの横に置く時計が午前一時を知らせた頃だった。
「完成したぁ……!」
やっと完成したのだ。
あかりと出会ってから書き始め、あかりをモデルにした小説が。
最初に見せる相手は、もちろんあかりだ。
その日の昼、僕は手書きの原稿百数枚をあかりに手渡した。
「やっと完成したんだ。遅くなってごめん」
するとあかりは一瞬で目に涙をたくさん溜めた。
そして、嬉しさを噛み締めた声を発する。
「えぇ……本当に書いてくれたの?泣かせないでよ」
「ゆっくりでいいよ。だから、僕から見たあかりを読んでみて」
「うん……!」
あかりはタオルで涙を拭き、最近乗り始めた車椅子に座り直した。
詳しいことはあれ以来話してくれないけれど、確実に死へと向かっているのだろう。
それは、僕も同じだった。
一時間ぐらい経っただろうか。
あかりは、原稿用紙から顔を上げた。
「……天瀬くんからみた私はこんなにいい子なの?やっぱり作りすぎだよ」
「そのまま書いたつもりなんだけどなぁ」
僕は知っている。
本当にいいものを見たとき時、あかりは素直に「良かった」と言わないことを。
これはきっと、不器用なあかりからの最大の褒め言葉だ。
「……ありがとう、あかり」
「なにが?お礼を言わなきゃなの私じゃん」
「じゃあ、ありがとう、神様、かな」
あの神様嫌いがお礼言った!とあかりはどうでもいいところにツッコんだ。
ふと、僕の目に入ったカレンダー。
後六日経てば七夕だ。
「そう言えば神楽神社で七夕祭りあったよな」
僕の呟きに、あかりはにっこりと笑いながら答えた。
「私も小さい時よく行ったよ?星が綺麗なんだよねー」
行きたいな、あかりと。
でも二人とも外出許可出ないだろうな。
その日の晩ごはんが運ばれてきた時、僕は佐野さんに相談してみた。
「……裏にある神楽神社の七夕祭りにあかりと行きたいんですけど……無理ですよね」
佐野さんは少し唸る。
「私も頑張ってみる。ちょっとだけ待っててくれる?」
気丈な笑顔を見せながら、佐野さんは言った。
「ありがとうございます」
期待はしない。
けど、行けたらいいな。

佐野さんに相談してから二日が経ち、七夕祭りまで後四日になった。
「天瀬さん」
今日は診察の日でもないのに担当医に呼ばれている。
「……外出許可のことなのですが」
「無理なお願いをしてしまい、すみませんでした」
僕は頭を下げた。
佐野さんも、先生も真摯に向かい合ってくれていてとても嬉しく感じる。
「君には外出許可を出しますが、月島さんは車いすです」
「……」
無理だったか、と思った。
まあ元々無理を承知でお願いしていたものなのでそこまでダメージはない。
「天瀬さんがずっと月島さんのそばにいるなら、二人の外出を許可します」
「……本当、ですか?」
僕の手が嬉しさと困惑で震える。
「月島さんの容態はいつ急変するか分かりません。まあこれは月島さん側と相談する必要もありますが、あなたがそばにいるならきっと大丈夫でしょう」
「ありがとう、ございます」
あかりが外に出たくないと言ったら諦めるしかないけれど、許可が出た、ということがとても嬉しかった。
「……あかりはもう、長くはないんですよね」
帰り際、先生にそう聞いてみたが、先生は曖昧に笑って何も答えてくれなかった。
「おかえり〜!」
病室に帰ると、あかりと友梨、そして弘人くんが雑談をしていた。
「お邪魔してます」
「あ、うん……今日ってデートじゃなかったっけ?」
昨日病室を訪れた友梨が、明日はヒロくんとデートなの!と意気込んでいたことを覚えている。
「え、お兄知らないの?今日特別警報が出たとかで行きたかったところ閉まっちゃってさ。まあどうせだからお見舞いに来たの」
「どうせとか言うなよ」
僕が反論すると、友梨はにっこりと笑った。
「まあ来てよかったよ。あかり姉ちゃんにも会えたし!」
僕は結局あかり目当てかよ、と今度は心の中で反論した。
「あかり姉ちゃんがおすすめしてくれたプラネタリウムだったのに」
「まあ今日で世界が終わるわけじゃないし。また二人で行ってね」
「うん!」
僕がいない間にそんな話をしていたのか、と少々驚きつつ、僕はあかりに用があったことを思い出した。
「あかり、もし外出許可が出たら七夕祭り一緒に行ってくれる?」
「そりゃね!私、星見るの大好きだもん!」
あかりは間を挟まずに答えた。
「じゃあ一緒に行こう」
「うん!…………って外出許可は?」
友梨と弘人くんも興味深そうに話を聞いていた。
「あー……それなら取った」
「え!いつ?!ってサプライズ?!」
「……確かにサプライズかも」
あかりはえー、とかマジかー、とかしばらく呟いていた。
「お兄サプライズならもうちょっといい場所でやらないと」
「……サプライズなつもりなかったんだけどなあ」
お兄のその鈍感さ引くわー、と友梨は言った。その言い方は本当に引いている時に使うものなので僕は少し傷つく。
そして自分の世界に入り込んでいたあかりがようやく口を開いた。
「……ありがとう、星夜!」
「……!」
「お兄照れてるー!」
うるさい、と僕は妹に怒りながら思った。
不意打ちの呼び捨ては心臓に悪い。
「あ、雨止んだな」
「じゃあ私たちは戻ろっか。これ以上二人の邪魔できないしねー」
そして友梨と弘人くんは二人で帰っていった。
あんなに騒がしくされていると、帰った途端に病室が少し暗く見える。
「……本当に仲良いね、あの二人」
「ああ。僕も安心して死ねる」
僕がそう言うと、あかりは少し複雑そうな顔をしながら呟いた。
「星夜には、ーほしいなぁ」
「……ん?なんて?」
あかりがとてつもなく小さな声で言ったせいで肝心なところが聞こえなかった。
「……恥ずかしいからもういい」
思えばあかりが本気で恥ずかしがるところを初めて見た。
もっといろんな表情を知りたかったな。
もっといろんなところに出かけて、二人で初めてを共有し合いたかったな。
「星夜、あのさ……」
僕はあかりの方を見て驚いた。
さっきまであんなに恥ずかしがっていたのに、目から大粒の涙を流していたのだ。
「え?なに、え、大丈夫?」
「私、もうすぐ死んじゃうんだ……七夕祭り、行けるかなあ」
「………………」
「なんか、言ってよ」
そう言えば言ってたじゃないか。去年の夏に、余命宣告されたと。
なのに、僕はまだ時間があると思い込んでいた。
あかりの健康的な肌が、青白く、手術による青あざがいくつも出来ていたことを知っていたのに。
綺麗だったあの髪の毛も、医療用のウィッグに変わっていたことに気付いていたのに。
なのに、僕は。
「……僕はあかりを傷つけてばっかりだ」
「…………そんなこと、ないよっ」
あかりはいつも無理をしていた。
あかりはいつも笑顔を偽っていた。
あかりの本心はいつも分からなかった。
「あかり、絶対一緒に、七夕祭りに行こう」
この世に絶対なんてないことを、僕は知っている。
「約束」
叶わない約束があることも知っている。
だけど僕は、小指をあかりに差し出した。
「……うんっ!」
あかりの小さな小指が、僕の小指に重なる。
あかりが病室に帰ってから僕は天に祈った。
ああ、神様。
もしもこの世界にいて、願いごとを叶えてくれるなら。
もう絶対嫌いだなんて言わないから。
僕の願いごとを、叶えてください。
空で輝いていた星が、頷くようにきらりと流れた。

そして迎えた七月七日。
前日からかなり体調に悪そうにしていたあかりも、化粧をしたのか顔色はまだマシに見えた。
七夕祭りは一日中やっているが、僕らが許可されたのは午後の外出だ。
だから、僕の病室でのんびりすることにした。
今日は気を利かせてくれたので、友梨も、弘人くんも、そして母さんもいない。
二人だけの穏やかな時間が、あかりと過ごす時間の終わりを告げているような気がして少し怖かった。
「そう言えばさ、僕、あかりの両親に会ったことないな」
こんな美形なあかりのことだ。きっと両親も美形な顔立ちをしているのだろう。
「お父さんは外国で働いてる。お母さんは専業主婦。でも私がお見舞い来られるのあんまり得意じゃないから毎日ビデオ電話で済ましてるんだ」
「……へえ」
僕なんて断っても毎日お見舞いに来られたな、と呟くと、あかりは幸せそうに笑った。
「私、星夜の家族みーんな好き」
「……ありがとう」
「あったかいよね。私の家はそんなことなかったから。まあ不仲ってことではないよ?お母さんとはすっごく仲良いし」
その言い方はあんまりお父さんが得意じゃないんだろうなと思いつつ口には出さない。
数ヶ月もかかってしまったけれど、かなり友達との関わり方が分かってきた。
いや、あかりは友達ではないか。
「今日のためにね、お母さんに服を借りたの!楽しみにしててね」
「あかりは何着ても似合うと思うけどなあ」
「……っ!時々変なこと言わないでよ!」
最近はよく照れるなあ、と僕はあかりを見つめた。
「で?どんな服なの?」
あかりはこういう時、どういう服かツッコんでほしいはずだ。
「真っ白なワンピース!お母さんがお父さんとの初デートで着た服なんだって!」
「あかりに似合いそう」
「ありがとっ!」
あかりはいつもよりよく笑っていた。
以前の寂しげな笑みではなく、心の底から幸せそうな、そんな雰囲気が滲み出るような笑みは、見ているだけで僕まで幸せになった。
そして僕らは、外出許可が出る午後三時までずっと二人で話し続けた。

そして迎えた午後三時。
一度部屋に戻ったあかりは、午前中に宣言した通り真っ白なワンピースに身を包み、僕の前に現れた。
「どう?似合ってるでしょ?」
ノースリーブで、腰あたりには水色のリボンがついているワンピースは、とてもあかりに似合っていて、あかりのために作られた服なのではないかと錯覚するほどだった。
「……似合っ、てる」
するとあかりは、にっこりと幸せそうに笑った。
「じゃ、行こっか」
真っ白なワンピースを着るあかりだが、僕はジーンズにお気に入りのパーカーだ。
不釣り合いな気がしたが、それも僕らっぽくていいかなと思った。
僕はあかりの車いすをゆっくり押した。
あかりは、文字通り病的に軽いので、ひ弱な僕でも軽く押せる。
それがなにより、死を意味しているようで怖かった。
「……あ、この病院、七夕飾りしてたんだ」
「え?星夜知らなかったの?」
たくさんの短冊が結びつけられた笹は、大きくしなっていた。
僕も後で願いごとを書きにこよう。
神楽神社は、この病院から徒歩五分にも満たないので疲れることなく神社へと到着した。
「うわぁ、久しぶりだー」
祭り仕様の神社は提灯などが美しい光を放っていて目を奪われる。
そして、二人で屋台でも見ようかと車いすを押し出した時だった。
コソコソッ、と僕らを見て何かを言われている気がした。
「……かわいそうに、まだ若いのに、あんなあざだらけ」
「ね」
きっとあかりのことを指しているのだろう。
あざなど気にせず、ノースリーブのワンピースを着ているのだから。
「……あかり」
あかりにそんな視線を向けられるのが嫌で、僕は来ていたパーカーをあかりに着せた。
「何?急に」
「いや、まあ……気にせず着ててよ」
僕の言いたいことに気がついたのか、あかりは一瞬表情を暗くしてから、笑った。
「ありがとう、星夜」
「……うん」
神社は予想した以上に混んでいた。
車いすで境内を散策するのは、少し大変そうだ。
「それなら、裏の丘に行こ」
というあかりの提案で、僕らは神社のすぐ裏にある小さな丘に向かった。
案の定誰もおらず、二人だけの空間が広がる。
「ごめんね、星夜。もっとお祭り楽しみたかったでしょ?」
「僕はあかりといる方が楽しいよ」
あかりはふふっ、と笑った。
七夕祭りに来るのは、もうこれで最後かもしれないけれど、僕はそれでもあかりといることを選ぶと思う。
僕らには、未来がないから。
「……私、星夜と出会えて本当に良かった」
「それは僕の台詞だよ」
だんだん暗くなってくると、星空が見え始めた。
久しぶりの、晴れた七夕だ。
「私、もっと星夜とデートに行きたかったなあ」
「……前は、途中で終わったようなもんだったからね」
でも、これもデートでしょ?と僕があかりの言い方を真似して付け加えると、あかりはお腹を抱えて笑った。
その目には、うっすらと涙が溜まっている。
「いろんなプラネタリウムに行きたかったね」
「いろんなところに出かけてさ。また美味しいハンバーガー食べたかった」
「本物の星空も、二人で見に行きたかったね」
それはどれも、あかりが今まで隠し続けてきた本心だった。
誰も心配させまいと、必死になって自分の弱さや悩みを抱え込んでいたあかりの本心。
「……あかり」
無理しなくていいよ、というニュアンスを込めて言った。
そこまで言わなくても、僕とあかりの関係なら分かる気がしたから。
「星夜っ……私ね、もっと生きてたかった……青春、味わいたかったっ……星夜と、もっと、もっと一緒に過ごしたかったよっ」
僕はあかりの身体を車いすから持ち上げ、抱きかかえた。
「ちょっと星夜?恥ずかしいよ」
そう言いながら、あかりの声は弾んでいた。
「あ、天の川」
夜空を見るあかりは、とても美しく、儚い。
「……綺麗だな」
「ねえ、星夜……私の約束、聞いてくれる?」
聞かないという選択肢は、僕にはなかった。
先立つあかりの後悔や希望を聞くことが、僕の最後の務めだと思ったから。
「まず、ひとつ」
「……約束はいっぱいあるんだね」
えへへ、とあかりは照れる。抱きかかえているが、あかりが夜空を見ているせいで、その表情は分からない。
「私のあの小説で、賞を取って、小説家になってください」
「僕も余命わずかなんだけど?」
「ふたつ」
あかりは僕の言うことを聞く気がないようだ。
「病気を治して、ちゃんと人生を歩んでください」
僕が叶えようと思って簡単に叶えられるものではないのに、無茶な約束だ。
「後は……ちゃんと、家族を作ってね。恋をして、私のことを忘れること!分かった?」
「……納得、いかないんだけど」
「どこが?」
あかりの声は、少し震えている。
無理をしていることは、容易に分かる。
「僕は、あかりのことは忘れたくないし、絶対忘れない。だって、」
あかりは何も言わない。
顔も見えないからどんなことを考えているのかも分からない。
「あかりは僕の、恋人だから」
「……星夜」
「泣いていいよ」
僕の言葉に小さく頷いた後、あかりは泣いた。
星空を仰ぎながら。そして口角を必死に上げながら。
「星夜、大好きだよ」
「僕も、あかりのことが大好き」
僕はあかりをぎゅっと抱きしめた。
あかりは腕の中で、もう一回泣いていた。
「あかり……約束、守れるように、僕頑張ってみるよ」
「……ありがとう、星夜」
午後七時。
僕らは指定された時間通りに病院に戻った。
佐野さんも、担当医も、みんな安堵した顔をしていた。
「じゃあ私、服着替えてくる。終わったら星夜のとこ来るから待ってて」
「うん……そのパーカー、あげるよ。似合ってたし」
「本当?!嬉しい!ありがとう」
本当は父に買ってもらった宝物だったけれど僕が着るよりも、あかりが着るほうが服も喜んでいる気がした。
あかりが戻ってきたら何を話そうか。何をしようか。
ワクワクした気持ちであかりが着替え終えるのを待っていた。
五分、十分と時は過ぎていく。
十五分ぐらい経った後、流石に遅いな、と思って僕はあかりの病室のドアを叩いた。
「あかりー?大丈夫?」
病室の中から、返事はない。
僕の頭の中に最悪の出来事が浮かんだ。
「あかり?あかり!」
あかりはこんなにタチの悪い悪戯はしない。
「ごめん、開けるよ」
ドアを開けた後、僕は一瞬息が止まったかと思った。
「……あかり!おい!しっかりしろ!」
あかりがドアの前で倒れていたのだ。
僕は無我夢中でナースコールを押し、あかりに必死に呼びかける。
「あかり!お願いだから、目を覚ませよっ……」
僕の必死の呼びかけがあかりに通じたのか、あかりはゆっくりと目を開けた。
手を握ると、本当に弱くだけど握り返してくれた。
「せい……や…………約束……守っ……て……ね」
「あかりっ……あかり!」
その瞬間、僕の手を握るあかりの力が抜けた。
「……あかり」
その後医者や看護師が入ってきて、集中治療室で懸命な治療をしたそうだ。
しかし、七月七日午後十時を過ぎた頃。
彼女、月島あかりは、星になった。

やっと見つけた生きる道標を失った僕は、何をする気にもなれなかった。
そして決まった明日の手術。成功すれば病気は完治とは言えないが大分快方に近づくらしい。
でも、そんなことはどうでも良かった。
あかりを目の前で失ってしまったショックがまだ僕の心の中に残っていたのだ。
目の前にいたのに、手の届く範囲にいたのに。
僕には何ができるのだろうか。
トントン、と扉を叩く音がした。
友梨はいつもデリカシーなく扉を開ける。佐野さんはもっと大きな音を鳴らす。
「どうぞ?」
僕の声に合わせて、扉が開いた。
そこには、とても聡明で綺麗な女性が立っていた。
「天瀬星夜くん、かな?」
寂しい笑みの浮かべ方が、とてもあかりに似ている女性は、なぜか僕の名前を知っていた。
いや、病室の名札を見たのか。
「そうですが……」
女性は、ふぅ、と一息ついてから言った。
「私は月島優奈。あかりの母親です」
「あかりの……?」
心臓が、止まるかと思った。
あかりのお母さんとは、会えないだろうと思っていたから。
「今日はあなたにこれを届けにきたの」
優奈さんが差し出したのは、ある一冊のノートだった。
「あかりがあなたに遺したものだから、受け取ってあげて。それと」
優奈さんが手にしていたのは、僕があかりにあげたパーカーだった。
「これはいいです。あかりに渡してください」
「……そっか。ありがとう」
そして優奈さんは、ふんわりと笑った。
「天瀬くんのおかげで、あかりは最期まで楽しそうだった。あの子を楽しませてくれてありがとう」
「……僕の、方こそ」 
優しく首を振った優奈さんは、やっぱりあかりにそっくりな笑みを見せた。
「天瀬くん、いつか病気を治して、あかりのお墓に来てね」
「……はい」
お大事に、と言い残し、優奈さんは部屋を出て行った。
あかりとは正反対だな、と思いつつ、僕は残されたノートを見た。
あかりが僕に遺したもの。
怖い気もしたけれど、僕はノートを開いた。

【小説のーと!】

「小説……?」
それは、ほぼ一冊丸々手書きの小説が書かれた、あかりの小説ノートだった。

【星夜、読んでください。あなたに憧れて、これを書いたのだから】

僕は頷き、次のページをめくった。
愛し合い、結婚を約束した二人がとある運命によって引き裂かれ、しかしまた再会する、という話は読んで少し泣いた。
まるで、僕らのことを書いてるみたいだった。
そしてノートの最後の一ページは、僕に向けての手紙になっていた。

【星夜、小説面白かった?】

「うん。泣いたよ」
どうせなら、あかりに直接感想を言いたかったな。

【星夜、私と出会ってくれてありがとう。
私にかけがえのない青春を運んできてくれてありがとう。
私を笑顔にさせてくれてありがとう。
私のことを好きになってくれてありがとう。
星夜と過ごす時間は、私にとって一生の宝物になりました。
星夜といると、あれほど憎かった世界が、すごく輝いて見えたの。
不思議だよね。
ありがとうって言い切れないほどいろんなことをしてくれて、ありがとう。
先に旅立ってしまって本当にごめんね。
でも、星夜はもっと生きれるって信じてる。
どうか、私の分まで生きて。
私の分まで世界を楽しんでください。
そしていつか天国で、星夜が見た楽しい世界を教えてください。
最後に、無茶なお願いをしたけれど。
あの日は七夕だから別にいいよね。
どうか、私との約束を守ってね。
またいつか星夜と会えることを楽しみにしています。
ありがとう。ありがとう。大好き。
月島あかり】

あかりはいつ、こんな遺書みたいなノートを書いていたのだろうか。
死期を予測していたのだろうか。
それでいて、僕にあんなにも笑いかけてくれたのか。
こっちの方こそ、ありがとう。
僕と出会ってくれて。
腐っていた僕に生きる希望をくれて。
こんなダメな僕の彼女になってくれて。
小説をたくさんたくさん褒めてくれて。
最期まで無理して笑わせてごめんね。
あぁ、あかり。
僕もまた、いつか会えることを願って頑張ってみるよ。
君と交わした約束を叶えるために。
だから、そっちの世界から見ていて。

あかりが星になってから、丸々五年が経った。
僕はちゃんと約束を果たしている。
あの後手術は成功し、治らないとも言われていた病気を完治させた。
そして二年前、あかりをモデルにした小説で新人賞を獲り、小説家デビューを果たした。
今は、一応売れっ子小説家のひとりとして、過酷なこの世界を生き延びようとしている。
「星夜、どう?」
そして、最後の約束を今、叶えようとしている。
「準備万端だよ」 
「これで私は大先生のお嫁さんかあ」
相手は、あかりみたいに真っ直ぐで、とってもよく笑う、同じ歳の女性だ。
「大先生は言い過ぎ」
「いいじゃん、星夜」
新婦様、と言いながら担当の女性が入ってきた。
「いってらっしゃい、ひかり」
ひかりはにっこりと笑いながら担当の女性に着いていく。
僕は空を見上げた。
無理を言って、結婚式は七月七日の夜にすることにした。
「……あかり、僕、最後の約束も叶えたよ」
だから、気長に僕のことを待っててよ。
まあ、僕にはもう一人大事な女性が出来たけれど。
「さよなら、あかり」
空に向かってそう言うと、「ありがとう」と笑っているあかりの声が聞こえた気がした。