目を覚ますと、そこは見慣れない風景が広がっていた。
「起きたかい?」
優しい男性の声。
あ、病院だな、と確信した。
「……はい」
声の主は、僕の主治医だった。
「よかった。先生、星夜の容態は?」
母さんの心配そうな声が聞こえる。
ゆっくりと身体を起こすと、小さな病室に先生も、担当看護師さんも、母さんも、友梨までもが集まっていた。
「少し気を失っただけですね。しかし、いつ倒れるかは分かりませんので入院しておいた方がいいと思います」
「そうですか。じゃあまた手続きをお願いします」
母さんはペコリと頭を下げた。
そして体温やら血中酸素濃度やら色々僕の身体のチェックを済ました後、先生と看護師は部屋を後にした。
「じゃあ、また来るからゆっくりね」
「お兄お大事にー!」
そして僕はつまらない病室で一人きりになってしまった。
以前までは一人が落ち着いていたのだが昨日のこともあるので寂しく感じる。
「あかり……」
「ん?呼んだ?」
「はっ?!」
声がした方を見る。
ドアの付近にあかりが立っていた。
僕は信じられなくて、自分の頬をつねった。
「痛っ」
「馬鹿じゃん。現実だよ?」
頭が追いつかない。
だって、あかりも、僕と同じ入院患者が着る服を着ていたのだから。
「え、待って。何で?」
「いや、私入院してるの。天瀬くんと出会うずっと前から」
「……」
入院している、という衝撃の事実に驚いたが僕はそれよりも気にするべき事実があった。
「何で僕の名前知ってんの」
「何で、ってドアのとこに書いてあるじゃん。いやあ、あれは星を好きにならなきゃダメな名前だね」
どうやら下の名前まで知られてしまったらしい。
「って、それは今どうでもいいでしょ?」
僕にとってはとてつもなく大きな事件なのだが、あかりが入院しているのも事実だ。
「じゃあ何で、僕が更科高の人だって知ってたんだよ」
「あぁ、それ?だって病院にさ、届いたじゃん。クラス写真」
「…………」
言われて思い出した。
確かにもらった気がする。あかりと出会う少し前、多分始業式の次の日ぐらいに。
学校の名前が書かれた茶封筒が突然家に届いたから、何なのかなと思いながら開けたのを覚えている。
「あれさ、私と天瀬くんだけ欠席になってたじゃん」
開けたらそれはクラス写真で、裏には会ったこともないクラスメートからの『頑張れよ』というメッセージが書かれていた。
「私、すごく気になってさ。次の日学校に行って天瀬くんのこと聞いたの。そしたら、あなたの同じ理由で学校に来れないの、って言われて」
ー同じ、理由。
「まさかあかりも……?」
「あ、うん。余命後三ヶ月。七夕ぐらいに死んじゃうんだあ」
ただただ、驚いた。
あかりの笑顔がずっと寂しげだったのは、これがあったからなのか。
僕と同じ理由で青春を奪われてしまったのか。
「まあそれでね。会ってみたくなっていろんなところ探したら、本物がいてさ!もう神様ありがとう!って感じだったよ」
神様ありがとう、なんて僕は思ったことがなかった。
むしろ小さい時から神様という存在を恨み続けてきた。
なのに。同じ境遇に置かれているのに。あかりは。
「何で」
「ん?」
「何で、そんなに笑ってられるんだよ。何で、神様なんかにお礼を言えるんだよ」
あかりはずっとドアの前に立っていた。
強くて、優しくて、寂しげな笑みを浮かべながら。
「……北極星があるから」
「はぁ?」
あかりにしたら、か細い声だった。
「私の生きる希望なの。北極星。それがあるから。だから、私は毎日生きようとするの。一日でも長く、私は笑顔で北極星を見ていたいの」
「そっ…………か」
生きる希望があるかないかの差なのか。僕の弱さと、あかりの強さは。
「ごめん。取り乱して」
するとあかりは、いつものように寂しげに笑った。
「ううん。あ、私の病室隣だから。また明日」
「隣?!」
また取り乱してしまった。 
僕は深呼吸をして、もう一度あかりの方を向く。
嘘をついているようには見えなかった。
「それじゃ、よろしく」
「あ、あぁ」
困惑の中、季節は移り変わろうとしていた。
もうすぐ梅雨の季節がやってくる。

次の日も、その次の日も。あかりは毎日のように僕の病室を訪れ、僕の執筆活動を邪魔し続けた。
「あら、また来てたのね。おはよう、あかりちゃん」
「おはようございます!」
毎日のことなので母さんも友梨も奏と仲良くなってしまった。
「もう、あなたたち仲良いのね。恋人みたい」
母さんのこんな戯言ももう何度聞いたことか。
「やだなぁ、そう見えます?」
「見える見える!お兄とあかり姉ちゃん仲良いもんね!」
僕の前ではあんなにいつも不機嫌にしている友梨も、あかりにはすっかり懐いていた。
「友梨ちゃんも可愛いから彼氏いるんじゃないのー?」
「いるよ、もっちろん」
「え!」「マジ?」という僕と母さんの声が混じった。
「やっぱりさすがだね、友梨ちゃん」
あかりに褒められて、友梨は嬉しそうな顔をしていたが、僕も母さんもそんな話一度も聞いたことがない。
「待って友梨。いつから彼氏なんか」
「え?中一から」
今は中三だからもうかれこれ三年ぐらい恋人だということだ。
「何で教えてくれなかったのよ」
少し拗ねた母さんに、友梨は照れながら説明する。
「だってうるさいじゃん、もう黙っとくことはしないから」
「じゃあ今度会わせてね、母さんに」
「えー!」
バタバタと病室を駆け回る友梨を見て、「病院だから」と落ち着かせつつ、思った。
僕がこんなことにならなければ、今頃彼氏といっぱい思い出作ってたんだろうな。
「……今度僕にも会わせてよ」
「えー、まあお兄ならいいかな」
今は絶賛反抗期中だけど、友梨は昔から僕にすごく引っ付いていた。
「なにそれ!」
母さんは不服そうな顔を見せる。
「友梨ちゃん乙女だねー」
あかりはやっぱり寂しげに笑った。
四人で笑い合っていると、時間は急激に進む。
感覚的にはまだ昼ぐらいだが、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「じゃあね、星夜」
「お兄またねー」
二人が帰ってから夕食が部屋に届けられるまでの三十分は僕とあかり、二人きりの時間だった。
「友梨ちゃんは天瀬くんのこと大好きなんだね」
そうやって寂しく笑わないで。
僕まで寂しくなってしまう。
「ちょっと前まですげー反抗期だったけど」
あかりは最近、車椅子に乗るようになっていた。
本人は何も明言していないが、死期は近づいてきているのかもしれない。
「あかり……あのさ、本当のこと、教えてくれないか」
聞きたくない気持ちもあった。
けれども、聞いて、あかりの全て受け止めてみたかったし、受け止める自信があった。
それは、紛れもない、『あかりが好き』という気持ちがあるから。
僕の道標はあかりだということに、遅いかもしれないけれど、今、気がついたから。
「……天瀬くん」
やっとあかりが口を開いた、と思った時。
「はーい!お楽しみタイムおしまーい!」 
「……佐野さん」
はあ、と僕はため息をついた。
少しウェーブのかかった明るい茶髪。看護師にしては若く感じる二十代という年齢。
僕、そしてあかりの担当看護師である佐野さんだ。
「あ、夏絵さん」
ちなみにあかりはずっと佐野さんにお世話になっていたようで下の名前で読んでいる。
「あかりちゃんはとりあえず病室に戻りなさい」
やっとあかりが話してくれると思ったのに、と名残惜しく時計を見ると六時を過ぎていたので当然だなと思い直す。
「若いね、二人とも」
佐野さんは何か裏があるような顔で呟く。
「佐野さんだってまだ二十代じゃないですか」
僕は空気を和ませたくておどけたふりをした。
「……実はさ、私、高校三年間ずっと入院してて……彼氏にフラれたんだよね」
「……え?」
いつも明るくて、患者さんに優しくて看護師の鏡のような人が、病と闘ってたなんて。
「だから、看護師としては駄目なことなんだけど、あかりちゃんと自分を重ねちゃって……あの子には、恋愛をしてほしいんだ」
「…………」
何で答えればいいのか、分からなかった。
佐野さんがそんなことを思って、あかりや僕に接していたなんて、微塵も気付かなかったから。
「僕は、あかりのことが好きです」
「……うん」
「だから、佐野さんの願いを、僕が、叶えます」
「…………ありがとう」
佐野さんはにっこりと笑った。
幸せそうに、苦しそうに。
後はあかりに気持ちを伝えるだけだ。
六月中旬の生ぬるい風が僕の頬を撫でた。











梅雨の合間の晴れ間、という日。
僕はいつもより少しだけ自分の髪を整えた。
今日は友梨が彼氏を連れてくる日だ。
約束は十時。後十分と言ったところだ。
ふぅ、と息を吐いた瞬間、扉がガラガラっと勢いよく開いた。
「お兄、おはよう!」
「おはようございます」
第一印象、真面目。
さらさらそうな黒髪をした男子は爽やかな笑みを浮かべながら病室に入ってきた。
「お兄、私の彼氏のヒロくんです!」
「どうも、妹さんと付き合ってる藤浪弘人です」
幸せそうに笑う妹と、ペコリと頭を下げるヒロくんさん。
でも二人ともずっと笑っていて、仲がいいことが窺えた。
「あ、じゃあ私ちょっと出てくるからよろしく〜!」
「……え!」
「いってらっしゃい、友梨」
どうやらヒロくんさんは友梨が抜けることを知っていたようだ。
そういうのは先に言ってもらわないともっと緊張するじゃないか。
「えーっと、ヒロくん、さん」
「弘人でいいですよ」
「あ、うん。弘人くん」
ふっ、と頬を緩めると確かにモテそうな顔をしていた。
ていうか僕の方が年上のはずなのに地味にマウントを取られている。
でも、もし二人きりになったら言おうと思っていたことはあった。
「あのさ……友梨と、付き合ってくれて、友梨の、彼氏になってくれて、ありがとう」
「……お礼言われるようなことじゃないでしょ」
親がちゃんと教育しているんだなとすぐにわかる話し方。
「友梨は、昔身体が弱くてさ……なのに、いつも育児なしの僕を助けてくれた」
小さい時の友梨はよく風邪をひいていた。
今でこそ何ともないけれど、本当に身体が弱かったのだ。
「だから、友梨には幸せになって欲しいんだ」
無理しがちで、自分の力を過信して、すぐ突っ走ってしまう友梨には、誰かがそばにいてほしい。
「弘人くん、もし、僕が死んでも、友梨を大切にしてね」
「……不吉なこと、言わないでください。友梨は……すごくお兄さんのこと大切に思ってますよ」
「……そうだよね、ごめんごめん」
気まずい沈黙が流れた後、またガラガラッとドアが開いて、なぜかあかりを連れた友梨が帰ってきた。
「ただいまぁ!」
「おはようー、天瀬くん」
弘人くんはあかりの存在を知らなかったらしく、驚いている様子だった。
「ヒロくん、この人はお兄の親友のあかり姉ちゃん!私のお姉ちゃんです!」
そう言えば、友梨は昔、無駄に姉という存在を欲していたな。
「よろしくお願いします。友梨の彼氏の弘人です」
「よろしく!弘人くん!」
謎の構図になったな、と冷めた考えをしていると部屋の中に佐野さんが入ってきた。
よく考えれば昼ごはんの時間だ。
「あ、じゃあ私たち今から行くとこあるから帰るね!お兄もあかり姉ちゃんもお大事に!」
「今日はお邪魔しました」
わざわざデートの時間を削って来てくれたことに驚きつつ、僕はあかりと話し出した。
最近昼ごはんは僕の部屋で食べるのが習慣となっている。
「友梨ちゃん彼氏いたのね」
佐野さんも友梨の存在を知っているのでとても嬉しそうな顔をしていた。
「そうなの!好青年そうだったね」
ほぼ弘人くんと話していなかったあかりがそう答えた。
「まあ、彼ならいいかな」
友梨を任せても、という言葉は言わないでおいた。
この二人の前で弱音を吐きたくないのだ。
三人で世間話をしていたら、昼ごはんもすぐに食べ終わってしまい、あかりとの二人の時間が始まった。
「天瀬くん、道標は見つかった?」
あかりは道標がないという僕の悩みを覚えてくれていたようだ。
「うーん……まあ、見つかった、かな」
「意味深だなあ。ちなみになんなの?」
ドキン、と心臓が高鳴る。
そして僕は、生きてきた中で一番小さな声を発した。
「…………………………あかり」
「……へ?」
あかりはとぼけた声で素っ頓狂な声を出した。
「僕の生きる道標は、あかり」
「なに、言ってんの?」
あかりの声は少し震えていた。
「あかりに出会って、僕は最後までちゃんと生きようと思えた。まあ、その、つまり……」
頑張れ、僕。
「あかりのことが、好きです」
あかりは顔に手を当てた。
その目からは、うっすらと涙が溢れ出てきている。
「こんなうるさい私が?」
「僕が静かすぎるぐらいじゃないの?」
「天瀬くんに何も本当のこと言ってないのに?」
「それは教えて欲しいな。ゆっくりでいいから」
するとあかりは、ふぅっ、と大きく息を吐いた。
「よかった、嫌われてなかった」
そしてあかりは、ゆっくりと、ひとことひとこと言葉を選ぶように話し出した。
僕が知らない、あかりの本当の話を。

「私が余命宣告されたのは、去年の夏だった」
あかりは、雨で濡れた階段を降りる際、足を滑らして下まで落ちたらしい。
その時腰を強打し、尋常じゃないほどの痛みが走った。
心配になったあかりのお母さんはすぐさま病院へ連れて行き、精密検査をした。
その時に、がんが見つかったのだ。
「ステージ四。もう、遅かったんだ」
宣告された余命は、残り一年。
「そこから私は、学校を休んで毎日色んなところに行った」
水族館や、動物園。有名なテーマパークにも行った。
「でも、何にも満たされなかった」
そんな中転移が見つかり、入院し手術。
「……もう、どうでもよく感じちゃった」
北極星が道標なんて偉そうに言っといてね、とあかりは自嘲する。
「余命が縮まることはなかった。けれど、私の心は病気にどんどん蝕まれていった」
そんな中、近所にある図書館の一部が改装工事されるというニュースを聞いた。
「なんか、そんなに思い入れはなかったんだけど、行かなきゃ、って思って」
この前はちょっと嘘ついてごめんね、とあかりは寂しく笑った。
あかりの静かな涙が、太陽の光に照らされて美しく光る。
「そこからは前に話した通りだよ、天瀬くん」
あかりはそう言って切なく笑った。
いつもとは少し違う、悲しさを含んだ、でもとても優しい幸せそうな笑顔。
今まで見せてくれた笑顔の中で、一番好きな笑顔だなと感じた。
「こんな弱い私でも、天瀬くんは愛してくれるの?」
「もちろん」
そしてあかりは、長く長く息を吐いた。
「ありがとう、天瀬くん。私も好きだよ」
最後に大きな爆弾を残して、あかりは自分の病室へと帰っていった。
「……両想い、じゃんか」
小さくガッツポーズしていると、お皿を取りに佐野さんが部屋に入ってきた。
「ごめんね。話聞いてたよ。よかったね、天瀬くん」
顔を真っ赤にする僕を見て、佐野さんは明るく笑いながら僕の頭をガシガシ撫でた。
それはまるで、自分の飼い犬にする動作のようだった。
「佐野さん痛いですよ」
「あ、ごめんごめん。でもありがとう。私のお願いを叶えてくれて」
「まあ自分の言いたいことを言っただけなんですけどね」
僕が照れ隠しの反論をすると、佐野さんは「このガキ!」とふざけて笑った。
僕の母さんみたいだなとふと感じる。
「もう来週かぁ、七月」
佐野さんは少し寂しげに言った。
早く完成させないと。
あかりのための、あの小説を。