身体が震える。顔から、いっそ全身から、一気に血の気が引いていく。
殴られた痛みを思い出す。
蹴られた痛みを思い出す。
煙草を押し付けられた痛みを思い出す。
冬にかけられる冷水の冷たさを思い出す。
部屋に撒き散らされた生ゴミを思い出す。
食事とも言えないような餌を床にばら撒かれ、食えと命じられたことを思い出す。
ヒステリックに叫ぶお母さんを、何もしないで笑っているお父さんを、思い出す。
――ああ。
そうだ。私は。
数年前の兄と――お兄ちゃんと、同じような状況に置かれているのだ。
彼もずっと、子供を子供とも……否、人を人とも扱いを、実の両親から受け続けていた子供だった。
だから数年前、兄は、私を置いてこの家を出ていった。
彼は逃げたのだ。
虐待を続ける両親から。
「――悪かったと思ってる」
ぽつりと零された声に、私は俯いていた顔を上げた。
「お前を置いて逃げたこと。俺がこの家から出ていったら、次の標的はお前になるってことは薄々わかってたんだ。それでもあの時はどうしてもここから逃げ出したくてたまらなくて、そうでないとおかしくなりそうだった」
置いて逃げた俺を憎んでるか。
兄はそう言って、私を見た。
「何、言ってるの……?」
意味がわからない。
兄の言っている意味がわからない。
だって、
「憎んでるのは、お兄ちゃんでしょ?
あの時、お兄ちゃんを助けることもできず、見てるだけだった私が憎かったから、お兄ちゃんは、お兄ちゃんは……、
お父さんとお母さんだけを殺したんでしょ?」
許せなかった。
許せなかった。
両親だけを死なせた兄が。両親だけをこの世から逃がした兄が。
両親だけを、死という事実によって罪から解放した兄が。
どうして?
――どうして、私も一緒に殺してくれなかったの?
「……あの二人が死ぬ理由があっても、お前が死ぬ理由なんてないからだ。どうしてお前が、何も悪くないお前が死ぬ必要がある?」
「お兄ちゃんを助けられなかった。ただ見ているだけだった」
「それは、お前が子供だったからだ。あの時お前にできることはなかった」
「子供でも周りに助けを求めることはできた! 私は両親が怖くて、自分が可愛くて、誰にも言えなかっただけ……!」
何も悪くない? 何を馬鹿なことを。
私も両親と同じくらい罪深い。
ああ、しかし。
殺して欲しかったと言いながら、怒りにまかせて兄を殴る自分の、なんと勝手なことだろう。
私は兄に復讐して欲しかった。両親と一緒に殺されたかった。
――両親に苛まれ続けた兄に何も出来なかった罪から、私も解放されたかった。
それが望みだったのに、望みが叶えられなかったからと、兄を殴った。
私も所詮は利己心と嗜虐欲の塊のような、あの両親の娘なのだ。そして兄はあの両親の息子なのだ。
兄は人殺しで、私は人殺しの妹で、二人とも人でなしなのだ。
「ないの」
私にはないの。
「生きている理由が」
――生きている価値さえも。
「そうかぁ」
兄が、ぽつりと呟いた。
それはどこか呆れたような、諦めたような笑いを含んだ声だった。
「そうかぁ。俺はお前を両親から解放してやるつもりだったけど、あの二人殺しただけじゃ、お前は自由にはなれなかったんだな」
「お兄ちゃん……」
そうだ。私には私の罪がある。それから解き放たれるためには死ぬしかない。
私は世界に望まれていない。そして私も同じように、世界を望んでいない。
本当の意味で私には、これからを生きる意味などないのだ。
「同じだな」
「え」
「俺も、同じだ。生きる理由も価値もない。未来を望む理由もない」
なら、と兄が笑う。
兄は痛々しい傷を負う顔に、美しい笑顔を浮かべた。
「――いっそ俺と一緒に、“ここ”から逃げてしまおうか?」