古くなっている机が上げた小さな悲鳴で、彩音は我に返った。
彩音は何か悪いことをした気分になり、誰かに見られていないかを確認するかのように周囲を見渡した。
良かった、誰にも見られていない。
隅にあるエアコンを稼動させ、背伸びをすると、廊下の掃除用具入れの中から雑巾を出して床の掃除を始めた。
この部屋でエアコンを使用していいと許可を貰ったのは、文学部の三代前の部長だったと聞いている。
だけど、それを使うには一つだけ条件があった。
それが、この掃除だった。
近くにある女子トイレで雑巾を濡らし、固く絞る。真夏のこの作業はあまり苦にならないのが幸いだ。真冬になると、氷水の中に手を入れているような感覚の中で雑巾を絞らなければならず、作業自体を辞めたくなる。
部活のある際はほぼ毎回作業をしているのだから、埃があまり溜まらず、顧問である水木に「掃除は終わりました」と言ってしまえば、通ってしまいそうな気もするが、なぜか不思議なことにバレるのだ。
『仏の水木』と呼ばれているこの顧問は、四十五歳という年の割には考え方が若く、柔軟だった。また、男性教諭らしからぬおっとりとした性格から、慕う生徒も多かった。
おっとりとしている、ということから何度か水木を騙そうとする生徒もいたようだが、水木は一度も引っかからなかった。何もかもを見透かすような、その瞳の前に立つと、誰も嘘が言えなくなる。
だから、部活のある日は毎日欠かさずに掃除をしていた。例え、水木の来ない日であっても。
勿論、文学部が、いいや、本が好きだから、ということもある。しかし、なによりも、この場所が彩音にとっての居場所だからだ。
誰も来ない、たった一人でいられる場所。
教室で、さっきのように鞄を音がするように置いたら、自分の家であんな風に置いたら……そんなことを考えるだけで、心に波紋が広がる。自分の中に落ちた妄想の小石が、それを作り出したのだ。
ゆっくりと波紋は広がって、揺らがせるのだ、自己の世界を。
足で踏みしめているはずの世界がぐにゃぐにゃとした物に変わって、自分の位置がつかめない。軸がぶれるどころか、体を真っ直ぐにすることすらも出来なくなる。
このままいけば、世界全体が揺れてしまうような感覚に襲われることはわかっていた。だから、彩音は耳を塞ぎ、目を閉じた。
その世界全てを自分の中の真っ黒な世界に沈めて、なかったことにする。
真っ黒な世界は、いい。
希望も絶望も、愛しさも、憎しみも、なにもかもを全て飲み込んで無にしてくれる。
彩音の中の全てのモノが真っ黒になり、揺れるもぶれるも概念全てが黒の世界に飲み込まれて、ようやく彩音は目を開いた。
目の前には、まだ拭きかけの机と、少し温まった雑巾があるだけだった。耳を塞いでいた両手を離し、音を拾う。
遠くで聞こえる同級生の声に、少し気持ちがざわつく。けれど、それは水面を軽く触るだけで、波紋を作るまでにはならなかった。
さっきスイッチをいれたエアコンがようやく風を出し始めた。その音が、遠くの声を掻き消す。
この部屋で本を読み始める時には、うるさくて仕方ないと思うエアコンの音だが、こういう時は少しだけ頼もしく思える。
雑音を消してくれる有能な機械だとすら思えてくる。
彩音は雑巾を握り、机に円を描くように拭き始めた。昨日は部活がなかったせいか、薄く埃が溜まっているのがわかる。六つある机のうちの全部を拭き終える頃には、少しだけ雑巾が黒くなっていた。
貸し出しカウンターの掃除を終えた後、床を掃いた。
外を見ると、ガランとした運動場が見えた。真っ青な空の下に誰もいないというのは、こんなにも寂しいものなのかと彩音は思った。
いつもならば、向かって左手にあるスペースで、この中学校で一番辛いと言われている野球部が声を張り上げて練習をしていて、右手をサッカー部が、そして、右隅で細々とハンドボール部が練習をしているはずだった。
けれど、その住人の誰もが今、ここにはいない。
同級生は数人知っていたが、年上や年下の人間はほとんど知らない彩音は、今ここにいない人間は、泡となってどこかに消えたのではないだろうかと思った。
ひっそりと自分の知らないうちに、誰かが消した、または、そういう風にプログラミングをしている世界なんじゃないか。
妄想が頭から離れなくなる。けれど、今度はそれを止めることはしなかった。
自分自身が、この妄想は現実ではないことをわかっていたからだ。
人間が泡となって消えることはない。誰かがプログラミングをしたから世界が回っているわけではない。そんなことはわかっているのだ。
ただ、文学部で作品を書いている彩音にとって、その妄想は必要だった。話を発展させて、紙に落とし込む。それをするには、妄想の力が必要だった。
考えごとをしているうちに、一人の生徒がジャージを着て運動場に駆け込んできた。その瞬間に彩音の妄想は消えて、現実の世界に強制的に引き戻されてしまった。自分の世界に介入者が来たことに少し怒りを覚えながらも、ふと、自分の手が止まっていることに気付いた。
貸し出しカウンターの上にある時計に目を向けると、十一時になる十五分前だった。
このまま床掃除を終えたら、あとは好きなことが出来る。
誰もいないこの図書室で、好きな時間が過ごせるのだ。
けれど、今日は昼までしかいられない。水木は午後から出張が決まっており、遅くまではいられない。
彩音は自分の時間を確保するべく、床を大急ぎで掃き始めた。
全てを掃き終えた頃、いつもなら三時間目を告げるチャイムが、ちょうど鳴った。
彩音は何か悪いことをした気分になり、誰かに見られていないかを確認するかのように周囲を見渡した。
良かった、誰にも見られていない。
隅にあるエアコンを稼動させ、背伸びをすると、廊下の掃除用具入れの中から雑巾を出して床の掃除を始めた。
この部屋でエアコンを使用していいと許可を貰ったのは、文学部の三代前の部長だったと聞いている。
だけど、それを使うには一つだけ条件があった。
それが、この掃除だった。
近くにある女子トイレで雑巾を濡らし、固く絞る。真夏のこの作業はあまり苦にならないのが幸いだ。真冬になると、氷水の中に手を入れているような感覚の中で雑巾を絞らなければならず、作業自体を辞めたくなる。
部活のある際はほぼ毎回作業をしているのだから、埃があまり溜まらず、顧問である水木に「掃除は終わりました」と言ってしまえば、通ってしまいそうな気もするが、なぜか不思議なことにバレるのだ。
『仏の水木』と呼ばれているこの顧問は、四十五歳という年の割には考え方が若く、柔軟だった。また、男性教諭らしからぬおっとりとした性格から、慕う生徒も多かった。
おっとりとしている、ということから何度か水木を騙そうとする生徒もいたようだが、水木は一度も引っかからなかった。何もかもを見透かすような、その瞳の前に立つと、誰も嘘が言えなくなる。
だから、部活のある日は毎日欠かさずに掃除をしていた。例え、水木の来ない日であっても。
勿論、文学部が、いいや、本が好きだから、ということもある。しかし、なによりも、この場所が彩音にとっての居場所だからだ。
誰も来ない、たった一人でいられる場所。
教室で、さっきのように鞄を音がするように置いたら、自分の家であんな風に置いたら……そんなことを考えるだけで、心に波紋が広がる。自分の中に落ちた妄想の小石が、それを作り出したのだ。
ゆっくりと波紋は広がって、揺らがせるのだ、自己の世界を。
足で踏みしめているはずの世界がぐにゃぐにゃとした物に変わって、自分の位置がつかめない。軸がぶれるどころか、体を真っ直ぐにすることすらも出来なくなる。
このままいけば、世界全体が揺れてしまうような感覚に襲われることはわかっていた。だから、彩音は耳を塞ぎ、目を閉じた。
その世界全てを自分の中の真っ黒な世界に沈めて、なかったことにする。
真っ黒な世界は、いい。
希望も絶望も、愛しさも、憎しみも、なにもかもを全て飲み込んで無にしてくれる。
彩音の中の全てのモノが真っ黒になり、揺れるもぶれるも概念全てが黒の世界に飲み込まれて、ようやく彩音は目を開いた。
目の前には、まだ拭きかけの机と、少し温まった雑巾があるだけだった。耳を塞いでいた両手を離し、音を拾う。
遠くで聞こえる同級生の声に、少し気持ちがざわつく。けれど、それは水面を軽く触るだけで、波紋を作るまでにはならなかった。
さっきスイッチをいれたエアコンがようやく風を出し始めた。その音が、遠くの声を掻き消す。
この部屋で本を読み始める時には、うるさくて仕方ないと思うエアコンの音だが、こういう時は少しだけ頼もしく思える。
雑音を消してくれる有能な機械だとすら思えてくる。
彩音は雑巾を握り、机に円を描くように拭き始めた。昨日は部活がなかったせいか、薄く埃が溜まっているのがわかる。六つある机のうちの全部を拭き終える頃には、少しだけ雑巾が黒くなっていた。
貸し出しカウンターの掃除を終えた後、床を掃いた。
外を見ると、ガランとした運動場が見えた。真っ青な空の下に誰もいないというのは、こんなにも寂しいものなのかと彩音は思った。
いつもならば、向かって左手にあるスペースで、この中学校で一番辛いと言われている野球部が声を張り上げて練習をしていて、右手をサッカー部が、そして、右隅で細々とハンドボール部が練習をしているはずだった。
けれど、その住人の誰もが今、ここにはいない。
同級生は数人知っていたが、年上や年下の人間はほとんど知らない彩音は、今ここにいない人間は、泡となってどこかに消えたのではないだろうかと思った。
ひっそりと自分の知らないうちに、誰かが消した、または、そういう風にプログラミングをしている世界なんじゃないか。
妄想が頭から離れなくなる。けれど、今度はそれを止めることはしなかった。
自分自身が、この妄想は現実ではないことをわかっていたからだ。
人間が泡となって消えることはない。誰かがプログラミングをしたから世界が回っているわけではない。そんなことはわかっているのだ。
ただ、文学部で作品を書いている彩音にとって、その妄想は必要だった。話を発展させて、紙に落とし込む。それをするには、妄想の力が必要だった。
考えごとをしているうちに、一人の生徒がジャージを着て運動場に駆け込んできた。その瞬間に彩音の妄想は消えて、現実の世界に強制的に引き戻されてしまった。自分の世界に介入者が来たことに少し怒りを覚えながらも、ふと、自分の手が止まっていることに気付いた。
貸し出しカウンターの上にある時計に目を向けると、十一時になる十五分前だった。
このまま床掃除を終えたら、あとは好きなことが出来る。
誰もいないこの図書室で、好きな時間が過ごせるのだ。
けれど、今日は昼までしかいられない。水木は午後から出張が決まっており、遅くまではいられない。
彩音は自分の時間を確保するべく、床を大急ぎで掃き始めた。
全てを掃き終えた頃、いつもなら三時間目を告げるチャイムが、ちょうど鳴った。