「利香、それは睡蓮か」
「うん、そうだよ。今度の文化祭でこれを描こうと思ってるんだけど、どうしてもいい構図にならなくて……」
「ふむ……」
「ねえ、お父さん。何かいい方法はないかなあ」
利香は、絵で困った際には父親にアドバイスを求めることにしていた。父は絵を描くことが苦手で自分で創作はしなかったが、勘だけは鋭く、よくアドバイスをしてくれた。批判的な視線ではなく、自分だったらこうする、ここに何かがあるといい、ここには何かが足りない、そういったことを言ってくれるので、何もかもを否定したがる同級生や美術部の先輩よりも余程頼りにしていた。
「そうだな……まだ、ラフの段階で何かを言おうと思っても、難しいね」
「だよね、まだこれだけじゃね」
スケッチブックに描かれている睡蓮を撫でる。利香の指先に、少しだけ黒鉛が付いた。
「そういえば、利香。この前貸したデジカメ使って写真を撮ってきたよね」
「うん、確か居間にあるパソコンに全部入れたと思うけど」
相沢家で個人のパソコンを持っているのは父と兄だけで、母と利香は、居間に置いてある家族共用のパソコンを使っていた。
母が父親のパソコン好きを快く思っておらず、個人で所有するのをためらっているのだ。居間にあるため、兄や利香が長時間使用していれば母親の注意が入る。今年大学生になった兄は、それが嫌で自分でノートパソコンを買って、自分の部屋で使用するようになった。
利香はパソコンを使って何かをすることに興味がなかった。絵はアナログで描くのが当然だと思っていたし、ソーシャルネットワークサービスにログインをして、日がな友達としゃべろうとも思っていない。
同級生はそういうことをやっていると知っていたが、自分の時間に誰かが入り込むのが嫌で、手を出していなかった。
「この前、貸していたデジカメを見たんだけど、まだ全部データが残っていたよ」
「あれ、ちゃんとパソコンの中に移したのに……」
「ああ、それはね。データを移動したんではなくて、データをコピーしたことになっているんだ」
「……どういうこと?データを選択してフォルダの中にひょいって動かせば、なんかバーが出てきて、それが消えたら移動終了じゃないの?」
「違う違う。あれは、あくまで『コピー』だから」
「よくわかんない」
「それはね……」
父親がコピーと切り取りの違いを教えると、利香はなるほど、と言って納得をした。
「でも、それがどうかしたの?」
「ああ、いけない。話が脱線した。そうそう、利香が撮ってきた写真、いい感じのやつがあったから、いくつか貰ったんだよ」
「そうなの?」
いい感じ、と言われたのが嬉しかったが、そんなことで喜んでいると子供っぽいと思われるのが嫌で、あくまで平静を装って利香が返事をする。
「うん。でね、そこにあった写真を見て思ったんだけど、やっぱり睡蓮っていうのは、シャンバラになっているんだなってね」
「シャンバラ?」
「うん、シャンバラ。本当は、どこかの国にある王国を指す言葉なんだけど、その言葉を知らなかった人が、自分の勘で『シャンバラ』という言葉を作って、意味をつけたことがあってね」
「それって、どういう意味で付けたの?」
「相反するものが同じ空間に存在する、という意味さ」
「どういう場所なの、それ」
「例えば、わかりやすく言うなら水槽に入れられた水と油。絶対に混ざり合わない二つの物質は、互いに干渉せずにその場にいるだろう?」
「うん」
「それをたった一言で表すのが『シャンバラ』なんだよ」
「ふーん……」
「勿論、造語だから辞書にも載ってないし、知らない人に言ってもさっき言ったように、王国を思い出しちゃうだろうけどね」
「それで、それと睡蓮が何の関係があるの?」
またしても話がずれた様だったが、父はそれに気付いていないかのように、満足気に頷いて、話し始めた。
「睡蓮はね、泥の中で咲くんだ。魚の死骸や、枯れた草花を糧にして、水面に顔を出して、太陽を受けて、真っ白な花を咲かせる。あんなに綺麗な白さを持って生まれてきたというのに、その裏側には、いくつもの生物の死がある。醜と美が混在する場所を睡蓮が作り上げているんだ。だから、シャンバラみたいだな、って思ってね」
「ふーん……」
それだけ説明をし終えると、父は席を立って自分の部屋へと行ってしまった。
脇に置いておいた紅茶の入ったコップに口を付ける。すっかりと冷めてしまっていたが、クーラーの効いているこの部屋で飲むのには、ちょうどよかった。
コップの中を覗く。
さっき、台所で適当に入れた砂糖が少しだけ残っていた。それはまるで、利香の中に残っている『シャンバラ』という言葉のように思えた。
「うん、そうだよ。今度の文化祭でこれを描こうと思ってるんだけど、どうしてもいい構図にならなくて……」
「ふむ……」
「ねえ、お父さん。何かいい方法はないかなあ」
利香は、絵で困った際には父親にアドバイスを求めることにしていた。父は絵を描くことが苦手で自分で創作はしなかったが、勘だけは鋭く、よくアドバイスをしてくれた。批判的な視線ではなく、自分だったらこうする、ここに何かがあるといい、ここには何かが足りない、そういったことを言ってくれるので、何もかもを否定したがる同級生や美術部の先輩よりも余程頼りにしていた。
「そうだな……まだ、ラフの段階で何かを言おうと思っても、難しいね」
「だよね、まだこれだけじゃね」
スケッチブックに描かれている睡蓮を撫でる。利香の指先に、少しだけ黒鉛が付いた。
「そういえば、利香。この前貸したデジカメ使って写真を撮ってきたよね」
「うん、確か居間にあるパソコンに全部入れたと思うけど」
相沢家で個人のパソコンを持っているのは父と兄だけで、母と利香は、居間に置いてある家族共用のパソコンを使っていた。
母が父親のパソコン好きを快く思っておらず、個人で所有するのをためらっているのだ。居間にあるため、兄や利香が長時間使用していれば母親の注意が入る。今年大学生になった兄は、それが嫌で自分でノートパソコンを買って、自分の部屋で使用するようになった。
利香はパソコンを使って何かをすることに興味がなかった。絵はアナログで描くのが当然だと思っていたし、ソーシャルネットワークサービスにログインをして、日がな友達としゃべろうとも思っていない。
同級生はそういうことをやっていると知っていたが、自分の時間に誰かが入り込むのが嫌で、手を出していなかった。
「この前、貸していたデジカメを見たんだけど、まだ全部データが残っていたよ」
「あれ、ちゃんとパソコンの中に移したのに……」
「ああ、それはね。データを移動したんではなくて、データをコピーしたことになっているんだ」
「……どういうこと?データを選択してフォルダの中にひょいって動かせば、なんかバーが出てきて、それが消えたら移動終了じゃないの?」
「違う違う。あれは、あくまで『コピー』だから」
「よくわかんない」
「それはね……」
父親がコピーと切り取りの違いを教えると、利香はなるほど、と言って納得をした。
「でも、それがどうかしたの?」
「ああ、いけない。話が脱線した。そうそう、利香が撮ってきた写真、いい感じのやつがあったから、いくつか貰ったんだよ」
「そうなの?」
いい感じ、と言われたのが嬉しかったが、そんなことで喜んでいると子供っぽいと思われるのが嫌で、あくまで平静を装って利香が返事をする。
「うん。でね、そこにあった写真を見て思ったんだけど、やっぱり睡蓮っていうのは、シャンバラになっているんだなってね」
「シャンバラ?」
「うん、シャンバラ。本当は、どこかの国にある王国を指す言葉なんだけど、その言葉を知らなかった人が、自分の勘で『シャンバラ』という言葉を作って、意味をつけたことがあってね」
「それって、どういう意味で付けたの?」
「相反するものが同じ空間に存在する、という意味さ」
「どういう場所なの、それ」
「例えば、わかりやすく言うなら水槽に入れられた水と油。絶対に混ざり合わない二つの物質は、互いに干渉せずにその場にいるだろう?」
「うん」
「それをたった一言で表すのが『シャンバラ』なんだよ」
「ふーん……」
「勿論、造語だから辞書にも載ってないし、知らない人に言ってもさっき言ったように、王国を思い出しちゃうだろうけどね」
「それで、それと睡蓮が何の関係があるの?」
またしても話がずれた様だったが、父はそれに気付いていないかのように、満足気に頷いて、話し始めた。
「睡蓮はね、泥の中で咲くんだ。魚の死骸や、枯れた草花を糧にして、水面に顔を出して、太陽を受けて、真っ白な花を咲かせる。あんなに綺麗な白さを持って生まれてきたというのに、その裏側には、いくつもの生物の死がある。醜と美が混在する場所を睡蓮が作り上げているんだ。だから、シャンバラみたいだな、って思ってね」
「ふーん……」
それだけ説明をし終えると、父は席を立って自分の部屋へと行ってしまった。
脇に置いておいた紅茶の入ったコップに口を付ける。すっかりと冷めてしまっていたが、クーラーの効いているこの部屋で飲むのには、ちょうどよかった。
コップの中を覗く。
さっき、台所で適当に入れた砂糖が少しだけ残っていた。それはまるで、利香の中に残っている『シャンバラ』という言葉のように思えた。