お決まりの言葉を並べる同級生たちを眺めながら、相沢利香はその姿に疑問を覚えた。

 同じ格好で、同じ仕草をしている彼女達は、まるでデジタルデータのように、コピーアンドペーストを繰り返している様な気がする。

 勿論、少しは違うのだけれど、根本にある物が同じに思えてくる。

『目立たないように、そして、埋没するようにしていないと』

 そんな声を自分の体の中に織り込みながら、日々を過ごしているように思えてくる。勿論、彼女達はそんなことはないと反論するだろう。だけど、どうしてもそんな風に思えてしまう。

 でも、そんな生き方を否定する気力は無かった。

 他人の服装や過ごし方に文句を言うのは、嫌だった。そこには、何も美しさが無いし、創造性が欠けているからだ。

 だから、関係のない人間が過ごしているというだけにして、周囲の無駄な動きをシャットアウトした。

 それよりも自分は、秋の文化祭に展示する絵をどうにかしないといけない。

 夏休みの半ばから制作を始めないと間に合うかどうかが不鮮明になる。だけど、今日は夏休み最後の出校日だ。黒板の右側にある日めくりのカレンダーを見ると、八月二十五日という表示が教室を通り抜ける風に微かに揺れている。

 制作に集中する為に宿題を早めに終わらせたというのに、これでは意味がない。だけど、イメージが固まらないのだ。

 睡蓮を描きたいと思って、夏休みの間に学校の近くにある太田公園に足を運んで、父親から借りたデジカメで何百枚も睡蓮の写真を撮った。構図や、睡蓮の位置を考えたのに、何かが足りなくて、未だにキャンバスは真っ白なままだ。スケッチブックに描かれた睡蓮の位置は、夏休みの日数よりも多いぐらいだが、未だに決定的なモノが出来ていなかった。

 利香はスケッチブックを広げ、今まで描いたラフ画をチェックし始めた。

 ここで、普通ならばお調子者の男子が寄って来るか、噂好きの女子が近寄ってきて『何をしてるの』と言ってくるのが一般的だが、この二年B組の教室内では、それがなかった。

 利香が『近寄るな』というオーラを放っていることもあったが、一年前に利香が今回と同じようにスケッチブックを広げていた際に、男子が勝手にスケッチブックを取り上げたことを罵ったのを、全員が知っているのだ。

 利香は、この教室で浮いていた。

 けれど、それをなんとも思っていなかった。

 ただ自分だけを見つめて、前に進んでいるだけだった。

 でも、そんな生き方を、教師たちは快く思わなかった。

 友達を作れ、皆と行動しろ、個人で行動するな。反論をすれば「それが普通だろう」と言って、彼らは頭ごなしにしか言葉をこちらに投げてこない。

 普通とはなんだろうか。

 正しさとはなんだろうか。

 教科書に書いてあるのは、ただの知識でしかない。その中で作られる普通って何だろうか。

 スケッチブックから目を離して、天井を見つめる。

 石膏ボードで作られた不規則な模様を視線でなぞりながら、終わりのない思考を止めに入る。

 疑問は疑問を呼んで、自分の中に溶けずに残った塩素の様な塊になってしまうことを、利香は知っていた。

 それは、ゴロゴロとした感触を心に残しながら、心を苛立たせる。

 思春期。

 授業で習ったその言葉の中にいた時は、その感触が嫌で、常にイライラとしていた気がする。しかし、それはいつの間にかどこかに消えて、今では穏やかな中に自分がいる。

 自分の怒りは、どこに行ったのだろうか。

 消えて、塩素のように自分の中に溶けていったのかもしれない。心をざわつかせる奇妙なあの感情。

 でも、あの怒りの中に何かを見ていた気がする。それがなんだったのかは、もう、覚えていないけれど。

 少しだけ、何かを手放してしまったという感覚が襲ってくる。

 もう二度と取りに戻れない『それ』は、大事な物の筈だ。

 けれど、もう二度と手には入らないのだろう。

 利香は少しの喪失感を、手を握ることで解消させる。握りつぶした、と言った方がいいかもしれない。考えが奥に行けばいくほど、暗い森の中を彷徨っている感じだけになる。

 スケッチブックへと視線を戻して白紙のページに、大きく睡蓮を描いてみる。

 今まで複数の睡蓮という構成に縛られていたかもしれない。

 描きたい物を大きく描き、インパクトを与える。それは確かに考えていなかった。

 鉛筆の先からスケッチブックに、柔らかな黒が落とされる。輪郭をはっきりと描くのではなく、ぼんやりとイメージした物をなぞる作業だ。手元に参考になる写真も無いし、構図が決まったわけでもないので、メモのように描くだけで十分だった。

 睡蓮の形を軽く描き終えたところで、大きな咳ばらいが聞こえた。

 利香以外の全員が立っており、視線がこちらに集まっている。教壇には、担任の芳川が立っていた。

「おーい、相沢。き・り・つ」

 わざと茶化すようにそう言うと、クラス中がくすくすと笑った。

 それは明らかな嘲笑だった。

 それに対して、利香は何も思わなかった。

 むしろ、それが嘲笑の行動だとも思っていなかった。

 興味がない。

 どこまでも、果てしなく。

「すいません」

 スケッチブックに鉛筆を挟んで閉じ、立ち上がる。目の前の男子が、何か言いたそうにこちらをチラリと見た。

 視線を合わせるのを避けるように、芳川の方へ視線を向けると、芳川はまだ少し笑っていた。

 何がおかしいのか、わからない。

 鼻から息を吐くと、鼻で笑うような音が漏れた。

「礼」

 日直の女子がそう言う。教室内が「おはようございます」という声で満たされる。けれど、それを言っているのは、運動部で徹底的に挨拶を仕込まれている生徒だけだった。文科系の部活に所属している連中は、その大きな挨拶に隠れるように蚊の鳴くような声を出していた。それ以外の人間は、頭を下げるだけにとどめていた。口だけは挨拶をしているという、無駄なことも添えて。

 利香は、その時も自分のトーンで声を出した。

 誰に引っ張られるでもない、自分の声で挨拶をした。

「はい、おはよう」

 芳川の返事の直後に『着席』と言われると、ドヤドヤとなりながら席へと着いた。

「えー、取敢えず夏休みも終わりに近付いてるわけだが、特に何も無かったようでなによりだ」

 何も無かった。

 そういえば、自分の夏休みは何かあっただろうか。

 芳川に向けている視線を少しずらして、黒板を見る。今まで視界の中心に居た邪魔者は、視界の隅で踊るピエロになった。

 誰かが話している内容がつまらない場合、利香はよくこうやっていた。視線は前にあるままで、思考は自分の中の宇宙を飛んでいる。小学生の頃、上手いやり方を知らなくて、窓の外をぼんやりと見ていたら、その当時の担任に怒られた。

 悪い癖だとは思っているが、自分の中で優先されるべきものが出来ると、無意識の内にやってしまう。

 今は、展覧会の絵が自分の優先すべきことだった。

 芳川の後ろにある黒板に、空想のチョークで睡蓮を描く。いくつもの線が同時に出てくるため、瞬時に描かれたそのラフスケッチを何個も頭の中で量産して、パズルのように組み替えていく。

 先程の案である、大きな睡蓮を一つ置いてみることもしてみたが、なかなかしっくりこない。何が悪いのだろうか。

 もしかしたら、角度かもしれない。

 黒板の睡蓮を動かそうとしたその時、後ろの席にいる後藤真夏に背中を指で押された。

「相沢さん、宿題、前に回して」

 小声でそう言ったので、今の状況が把握できた。

 今日提出の宿題を、今集めているのだった。

 また自分はどこかに飛んでいたようだ。後ろから回される宿題を受け取り、自分のカバンから宿題を出すとそのまま前へと回した。

 周囲を見ると、今回はあまり目立たなかったようだ。宿題を忘れた人間が教壇の前で軽い説教を受けている。

 そこに、皆意識が集中していたからだ。

 時計を見ると、まだ九時にもなっていない。今日帰れるのは確か十一時ぐらいだったはずだ。

 あと二時間もこんな風にしていなければいけないと思うと少し参ってしまう。出来るだけ美術室にこもって作業がしたいのに。

 続いていた説教が終わると、芳川が体育館へ移動するよう促す。

 学年集会と言う名の、ありがたい程長い時間のお説教が始まる。

 利香はもう一度時計を見た。

 勿論、時計は一分も進んでいない。

 大きなため息をついた後、椅子から立ち上がり、教室の外へと出ていく。夏休みのことを楽しそうに話しながらだらだらと集団で歩くクラスメイト達を置いていくように、利香は体育館へと歩いていった。