白い雲が浮かぶ青い空のゼリー。粉雪のようにふわふわとしたかき氷に降り落ちる苺のシロップ。バニラアイスの乗せて、ガラスのブーツを満たすクリームソーダ。
 流行りのドラマを飾る、涼やかな歌声。イヤホンを耳につけたまま、制服のポケットにスマホを仕舞う。サラリーマンを追いかけて、僅かな隙間を飛び越えた。
 田舎という人もいれば、都会という人もいる、地方の電車。いつも通り、それなりに空いていた。同じ制服を着た子は、長い席の端に腰を掛けた。
 終着駅までは、十九分くらい。同じ制服の子とは反対側の端の席に座る。
 スマホを取り出してボタンを押すと、閉じたばかりの写真が映る。指を滑らせていく。画面がころころ変わる。けれど、変わらない。
 どこにも、見つからない。
 目を閉じて、小さく息を吐く。誰にも聞かれないように、静かに。
 がたんごとん。揺れに背中を預けて、またボタンを押す。画面から消した写真を思い浮かべて、ふっと瞼が重くなる。
 あと十分だから抗おうとしたそれは、異常なほどに膨らんで、微睡みに溺れていった。
 深い海の底みたい。本物を見たことはないけど、そう思った。
 暗くて、音がぼんやりとくぐもって響く。それに、触れていないのに冷たいのが分かる。
「おとうさん」
 幼い少女の声がした。振り向くと、親子がいた。
「おとうさん」
 呼ばれて、構えたカメラを少女に覗かせた。映る世界に、少女は笑顔を見せる。
「おとうさんのおしゃしん、だいすき」
 息を呑む。思わず吐いたと思った息は、胸の辺りで濁って、煙草の煙のように苦くなる。
 吐き出したい。薄く口を開いたら、眩い光が世界を包み込んで、親子の姿を消した。
「……ふっ」
 がたんごとん。固い震動に、浅く息が漏れる。
 涼やかな歌声。誰もいない車内。そこで、気付く。
 今のは、夢。戻れない時間の夢。
 気持ちが悪い。柔らかな異物が、胸の辺りにこびりついている。リュックに手を伸ばして、耳が引っ張られたような感覚があって、直後、鈍い音が落ちた。
 溜息を吐いて、揺れる地面にしゃがむ。心の中で謝って、ケース越しにスマホを撫でて、ついでに時間を確認する。
 一時間と少し、寝過ごしていたと知る。
 また溜息を吐きかけて、深く息を吸う。不思議と焦りは生まれてこない。だから、考えた。
 リュックを肩にかけて、アプリを立ち上げる。現在地を調べようとした。
「あれ」 
 うっかり、漏れていた声にまた動揺する。電波が繋がらない。スマホを上下左右に振ってから、窓の外に目を向ける。トンネルの中にいるような暗さではなかった。けれど。
 不思議に思いながら、リュックから財布を取り出す。折り畳み財布を開いて、計算する。
 寝過ごした時間的に、隣町の間くらいだろうか。降りて、お金を下ろした方が安心出来る。
 もう一度眠ってしまわないように、つり革に指をかける。瞬間、体が大きく揺さぶられた。自然と、流れるように二、三歩足が行き来する。
 すぐに、アナウンスもなく扉が開いた。音声アナウンスにトラブルでもあったのだろうか。リュックを背負い直して、扉に向かう。
 ――「降りないで」
 突然、腕を掴まれ、耳元で聞こえた声に振り向く。
 きっと青い空がよく似合う、爽やかな空気を纏った青年がいた。
「降りちゃだめ」
 少し掠れた低い声で、青年は告げる。真剣な目と、柔らかな笑みを湛えて。
「ここは良くない場所だから、戻ってこれなくなる。降りるなら、次の駅がいいよ」
「……」
 何故か声が出てこなくて、ただ一度頷く。「よかった」と安心した顔をして、私の手を引いて青年は歩き出す。ただ同世代ということだけは分かる背中は頼もしくて、小さな疑問を問いかける気もなくなった。
 促されるままに席に腰を降ろすと、青年はようやく私の腕から手を離した。
「勝手に触っちゃって、ごめんね」
「いえ」
 また、アナウンスもなく閉まっていく扉を眺めてから、掴まれた腕を見る。
 温もりは残ってる。けれど、隣にいるのに、目を離したら消えてしまいそうな気がした
「あの」
「うん?」
 ふと思いついて、青年の顔を覗く。何てことのないような穏やかな口元に、夢を見た気持ち悪さが和らいでいくのが分かった。
「もし良かったら、スマホを貸していただけませんか? 何故か、電波が繋がらなくて」
 初めて出会った人にする頼み事ではないと知っていた。それでも、スマホが頼りだった。それに、今いる場所だけでも知りたい。案の定、青年は困ったような表情を見せた。
「ごめんなさい。スマホ持ってなくて」
「大丈夫です。何とかします」
「えっと、スマホは頼りにしない方がいいよ。ううん、したくてもできないんだ」
「どういう意味ですか?」
 場違いで変なことを言っているのは、私なのだろうか。青年は余計に難しそうに、申し訳なさそうに眉を顰める。
「ここは、電波が繋がらなくて。インターネット環境もない、から」
 それほど場所が悪いのだろうか。生まれたときから住み続けている県内に、そんな場所があるとは思えなくて、窓の外に答えを求める。
 陽が落ちて、けれどそれだけではない暗さ。濁った煙に染められているような、そんな不思議な暗がり。突如、深い闇が窓ガラスを満たした。
「トンネル過ぎたら、そろそろだよ」
「地元の人なんですか?」
 やけに詳しいから、そう思った。青年の唇が、グミを噛むようにもごもご動く。悩んで、言葉を選んでいるみたいな、そんな誠実な間を置いて答えてくれた。
「地元の人じゃない、かな。でも、何度も行ったり来たりして、ここはよく知ってるから、安心して」
 何かが引っ掛かった。落ち着いた笑みを浮かべる青年の前で、その曖昧さは隠した方がいいと思った。だから、無言で頷く。
 それから間もなく、青年が言った通り、トンネルを通り過ぎて電車は停まった。
「じゃあ、気をつけてね」
 降りると、人懐っこい笑顔で青年は言った。
 頭を下げてから、ビニール袋を差し出す。青年は、愛らしく首を傾げた。
「お礼です。お口に合うか、分かりませんが」
 首を振って遠慮する青年は、それでも私が車内に戻ろうとすると、慌てた様子で受け取った。微かに指先が触れ合って、離れていく。
「ありがとうございました」
「どーいたしまして」
 もう一度頭を下げて、青年に背を向けて歩き出す。戻れなくなる場所というのは、一体どんなところだったのだろう。
 頼りにならないというスマホのライトを念のためにつけて、扉から出てすぐそばの階段に足を踏み出す。
「あの!」
 青年の声に、ホームの地面の上に一旦足を戻した。振り向くと、青年は眩しそうに目を細め、それから躊躇うように口を開いた。
「本当に、くれぐれも、気をつけて」
「はい」
「知らない人、えっと、不審な人にはついていかないで」
「はい、分かりました」
 知らない他人の私を助けてくれた青年が、そんな心配をしてくれることが面白くて、表情筋が緩んだのが分かった。つられたように、青年の顔に浮かんでいた不安が和らいでいく。
 私達を隔てる扉が再び静かに動き出したのと、青年がおかしな言葉を放ったのは、不自然なくらい自然に重なった。
「銃を持った人は、味方だよ」