「怜くん、一緒に帰ろっ」

 帰りのHRの終了を告げる鐘の音とともに席を立った僕を呼び止める声。椅子に縛り付けられていた呪縛から解き放たれたかのようにそれぞれ一斉に動き出したクラスメイトは再び固まる。
 一瞬の沈黙と寄せられた視線の中、僕は聞こえなかったふりをして教室を出た。

「無視するなんて酷いじゃん」

 すれ違う人という人が振り向く。違う制服を着ているというだけでも目立つのに、その外見も相まって彼女のところだけスポットライトが当たっているかのような異質さがあった。 でも、不思議と彼女はそのことを気に留める風でもなくいたって普通に見えた。とはいえ、彼女と会うのはこれで2回目だから彼女の普通がどうなのか、僕は知らないのだけど。

「僕たち、知り合いだったかな」

 隣を歩く彼女に、僕は言った。

「知り合いでしょ。え、違うの?私たちあんなに濃い時間を過ごしたのに?」
「ちょっ、誤解を招くようなこと言わないでくれる?!」
「やっとこっち見た」

 くすくすと、焦る僕を笑う君。まるで花が春の暖かさにほころぶ様を見ている錯覚。

「二宮さんは、」
「サチ」
「サチさんは、目立つから、」
「サチ」
「…」
「あ、今めんどくさって思ったでしょ」

 わかってるならぜひともやめてほしい。
 僕は、靴に履き替えて校舎を後にした。今日もバイトだから、彼女には悪いけど相手などしていられない。
 なのに、彼女は僕の後をついてくる。駅に着いて改札を通り、ホームについても彼女は僕にぴったりと。次の電車までまだ5分あった。

「なんでそんな冷たいの」
「僕は静かに過ごしたいんだよ」

 今日1日、どういう知り合いだ、から始まり紹介しろだのなんだの男子から質問攻めにあった、それはもうとんだとばっちりだ。

「君は、目立つから、あまり近づかないで欲しい」

 そう、それが本心だ。目立つ人のそばにいれば、自然と僕にも視線は集まるから、お近づきにはなりたくない。

「…ひどい…っ」

 その声と共に隣にいた彼女が視界から消えた。手で顔を覆ってその場にしゃがみこむ姿に僕はギョッとする。

「ちょっ、二宮さんっ、ど、」
「ひどい怜くん…っく、…ひっ…」

 周りの人の視線がちらちらと向けられていることを視界の端で感じながら、しゃがむ彼女のそばでおろおろする僕。一体どうしろっていうんだ。

「ご、ごめん、二宮さん」
「サチって呼んでくれる?」
「さ…サチさん」
「さん付けはやだ」
「わ、わかった!わかったから!泣き止んでよ、サチ」

「……くくく…あははは」

 僕は呆れて天を仰ぐ。人間不信になりそうだ。
 けれども、どうしてだろう、初めて声を上げて思い切り笑う君を見ていたら、どうでもよくなった。死にたいと言った君が声をあげて笑っている。ただそれだけで、良かったと思えた。

「ここ、僕だけのお気に入りの場所だったんだけどな…」

 結局、バイト先の屋上までついてきたサチは、僕の隣で空を眺めていた。むき出しのコンクリートの床に無防備に伸ばされた足が白くて細くて、目のやり場に困る。

「あら知らないの?喜びは分かち合うことによって倍になり、悲しみは分かち合うことによって半分になるんだよ」
「どっかのことわざだね」
「そう、だから私のおかげで怜くんの喜びは倍になるの。感謝してちょうだい」

 なるほど。そういう解釈の仕方もあるんだな、とすごいポジティブ思考に呆れを通り越して納得してしまった。

「ねぇ」

 透き通る声に呼ばれて、振り返る。今日も風がサチの髪を揺らして、白い肌を滑っている。それだけ見れば涼し気だけれど、日差しは容赦なく僕らに照りつけて、汗を滲ませる。

「どうして死のうとしてたの?」

 あの、光の届かない底なしの目が僕を捉えていた。

「だから…死のうとしてたわけじゃないんだよ。あぁしてフェンスの向こう側に行くことはよくあって…。でも、サチに言われて、確かに死を全く意識しなかったと言えば嘘になるかな」

 死にたいというよりも、生きていることに対して執着がないと言ったほうがしっくりくる。

「…存在を否定されて…」

 話すつもりなんかなかったのに、気づいたら口が動いていた。

「それで、生きてる意味がわからなくなった」

 僕は、そのまま背中から後ろに寝ころんだ。熱されたコンクリートの熱さと空から降り注ぐ日差しに挟まれてトースターで焼かれる食パンになった気分だ。

「そもそも、生まれてきちゃダメだったんじゃないかなって」




ーーーあんたなんか産まなきゃよかった




 眩しさに目を閉じると、聞こえてくる冷たい母の声。
 投げつけられたあの日から、ずっと耳にこびりついて離れない。
 僕が生まれたせいで、幸せになれない人がいる。それなら、僕はいないほうが良いんじゃないかって。
 それでも、死ぬのはなんとなく違う気がして、だったら少しでもはやく離れようって思って大学進学も諦めた。

「怜くんて、ばかだね」
「え?」
「怜くんの命は、この世に生を受けた時点で怜くんだけのものだよ。誰かのためにあるものじゃない」

 目を開けると、こちらを向くサチと目が合う。その顔は、どこか怒りを含んだような表情だ。形のよい唇をキュっと真一文字に結んで、僕を睨みつけていた。

「例え誰かに存在を否定されたとしても、そんなの言わせておけばいいの。そんな人のことを否定する人の方が間違ってる」

 サチは、「だからね」と続ける。

「ーーーー怜くんは、生きてていいんだよ」

 初めて会った時に見た、泣いているのに笑っている顔でサチは言った。
 天の赦しのようなその声に、僕は言葉を失う。


「っ…」


 ーーーーあぁ、そうか

 僕は、誰かにそう言ってもらいたかったんだ。


 ずっと、誰にも言えなかった心の枷が、取り払われていくのを感じた。
 会ってまだ数日の名前しか知らないサチの口から放たれた言葉なのに、それは僕の心にずっしりと居座っていた重石を確かに軽くしてくれた。

 僕は、こみ上げてくるものを押し留めて、声を振り絞る。

「…あ…ありがとう…サチ」

 なんとかそう言うので精一杯で、泣きそうなことを悟られまいと僕は逃げるようにバイトへと急ぐ。