朝の7時半に家を出て、いつもと同じ通を通って、同じ時間の電車に乗って学校へ行く。
 通り過ぎていく、変わり映えのしない景色。
 今日も、街ゆく人は何かに追われるかのように先を急いでいる。
 それは、僕も右にしかり。

 いつもと変わらない日常には、色がまるでない。
 それは、モノクロームの映画のように情緒的だと言える綺麗なものではないし、よくあるラノベの特殊能力によるものでもない。
 ただ単に、つまらない毎日ってこと。
 さらに問題なのは、僕にはそれを色とりどりなきらびやかな日常に変える術は持ち合わせていないし、どうにかしてその術を手に入れたいと願う心もない、ということ。

 惰性で生きている。
 そんな言葉が一番お似合いだった。

 学校に着いて、上履きに履き替えて、友だちと呼んで良いかもわからない人たちと挨拶を交わしながら、僕は自分の席に座った。

「おっはよう、山本。今日も相変わらず無気力感たっぷりだな」
「おはよう」

 真っ先に僕に挨拶をしてくれたこの男子は、クラスメイトの賀川寿哉(かがわとしや)。3年ではじめて同じクラスになったのだが、なぜだか何かにつけて僕のことを構ってくる不思議男子。こんな根暗な僕に話しかけてくるなんて、一度挨拶した相手はみんな友だちだとでも決めている陽キャに違いない。
 事実、彼はクラスでもいつも笑いを取っているムードメーカーだ。

「お前、おはよう以外になんかないのかよ。会話が続かないじゃんか。キャッチボールしようぜキャッチボール!」

 会話をする気がないから、投げられても投げ返さないんだよ。と言ったら角が立つから、僕は一言「ごめん」と言って支度を続けた。

「おい賀川、山本は一人が好きなんだよ、放っておいてやれって」

 そう言ったのは、2年から同じクラスの男子。あくまで僕のために気遣って言っているかのような言葉の裏には嘲笑が張り付いているのを、僕でも知っている。

「まぁ、そうかもしれないけどよー、俺は山本と話したいんだから良いんだよ。なぁ山本、今度学校帰りにどっか寄ってこうぜ。モックとかシャイゼとか」
「あー、ごめん、バイトが忙しくて無理なんだ」
「そっかーバイトなら仕方ないよなぁ。ってかバイトもそろそろ終わりなんじゃね?俺ら受験生だぜ」

 もっともなところを突かれて、頭の中を2つの選択肢がめぐる。適当にごまかすのか、正直にいうのか。僕はめんどくさくなって前者を選んだ。

「そうだね、そろそろ本腰入れないとだよね」

 笑顔を張り付けてそう言えば、賀川くんは「あー受験やだなー」と呟きながら去っていった。
 嵐のあとのような静けさを取り戻した僕の周りには、またいつもの日常が訪れてざわついた心が平穏を取り戻した。


 僕の家は、ひとり親家庭だ。
 離婚とか死別ではなく、未婚の母だった。19歳という若さで僕を身ごもった母は、実家の援助を受けながら産み育ててくれた。僕の父親のことは良く知らない。けれど、祖母たちが「認知すらしないろくでなし」と愚痴っていたのだけは聞いたことがある。
 母は、父親のことを口にしたことは一度たりともない。だから僕も、母に父のことを聞くようなことはしなかった。母の機嫌を損ねるか、思い出させて傷つけてしまうかのどちらかだろうとわかっていたから。
 それに、聞いたところで、父が僕を捨てたことに変わりはないのだ。
 いや、そもそも、僕は拾われもしなかったんだ。
 認知すらせずに、僕と母を選ばなかった人のことなんか顔も見たくない。

 そういう家庭の事情もあって、大学に進む金銭的な余裕がない僕は高校卒業後の進路に就職を選んでいた。3年になって初めての進路希望調査にもそう書いた。
 すぐさま担任から呼び出されて考え直せと言われたけれど、僕は家庭の事情もあるのでと言って首を縦には振らなかった。
 奨学金制度を使えば行けないことはないだろうけど、僕は早く一人で生きていけるようになりたかった。
 母にも、祖父母にも、誰にも頼らずに、一人で。
 僕は、早くこの狭くてつまらない世界から抜け出したい。



 学校が終われば、僕は一目散にバイト先へと直行する。
 家の近くのマンションの地下に入っているカフェバーだ。たまたま通りかかった時に求人を見つけて駆け込んだらそのまま採用してもらった。
 もう、かれこれ1年近く働いていて、気さくな店長にはいつも良くしてもらって居心地のいい空間と化していた。
 そして、店長はこのマンションのオーナーでもあるらしく、僕はマンションの屋上の掃除も頼まれている。週に数回、土埃などを掃く程度という簡単な任務だ。
 そして、屋上の鍵も自由に使えた僕は、掃除をしなくて良い日でも屋上に行っては風に当たったり景色を眺めたりして、いつしかそれが日課のようになっていた。

 今日も店の開店までまだ時間があった僕は、エレベーターで最上階へと向かう。廊下の突き当たりの外へと続くドアノブに掛けられている暗証番号で開錠するタイプのキーボックスから鍵を取り出してドアを開けて外へ出た。

「うわ、あっつ…」

 まだ梅雨の明けきらない6月の中旬、もわっとした熱気とコンクリートに照りつける日差しが僕を出迎えてくれた。もう夕方だというのに外はまだ陽が高くて明るい。

 フェンスに手をつき、どこまでも続く街並みを眺めた。空と、街がつながるかのように見えるこの景色が好きだった。
 僕はフェンスに足をかけ、金網を跨ぐとフェンスの向こう側に降り立つ。毎回フェンスを握る手には力が入るし、足は竦むけど、目の前に遮るものがなくなった景色は最高だ。

 時間を、嫌なことを、全部忘れさせてくれる。僕の悩みなど、ちっぽけで取るに足らないことだと、この景色を見るとそう思えた。


「死ぬの?」

 突然、背中に乱暴に投げつけられたような声に、僕は顔だけ振り向く。
 そこには、見たことのない制服を着た知らない女の子が立っていた。
 こんなところに人が来るとも、誰かに声を掛けられるとも今まで無かったし、考えてもいなかった僕は驚いた。

「きみには関係ないだろ」

 かろうじて口にした僕の返事に、彼女は鼻でフッと笑う。その人を小バカにしたような態度に、ムッとした。

「確かにね」

 そして、一歩を踏み出したかと思うと僕のそばまでやってきて、さっき僕が乗り越えたフェンスをさっと乗り越えた。短いスカートがひらりと浮いて、思わず目を逸らす。

「あ、危ないよ」

 彼女は柵をしっかりと握っていたけれど、強い風が吹いていたので思わず彼女の肩に手を伸ばした。触れたそれは、とても細くてドキリとした。女の子は、こうもか細いものなのか。普段、異性と接することのない僕には知らない情報だった。

「そっちこそ」

 風に乱される髪を片手で押さえながらこちらを見て笑う彼女は、とても綺麗だった。
 線の細い華奢な体、真っすぐ伸びた黒髪、色の白い肌。実家に飾ってある市松人形を思わせる。

「このビル8階建てだから、まぁ、落ちたら間違いなく死ねるね」

 白い横顔は、眼下をまじまじと見つめていた。それにつられるように、僕も恐る恐る目を向ける。心臓がきゅっと縮こまる、あの感覚に襲われる。
 この辺りで一番高いこのビルから見る住み慣れた街はとても小さく見えた。ビルの前の道路は、車がまばらに行き交うだけで歩く人影はほとんどない。
 事実、小さな街なのだ。

「一緒に死んであげようか」

 横から飛んできた声に我に返り、振り向くと、下を見ていた彼女の漆黒の瞳は僕を捉えていた。