久しぶりに会ったその人は、以前よりも綺麗に見えた。

「母さん…」
「久しぶり、怜」

 夏休みの直前、バイトのない放課後に担任に呼ばれて向かった進路指導室には担任と母がいた。一向に進学を検討しない僕に痺れを切らした担任が母に直接連絡したようだ。母の隣に座るよう担任に促されて僕は渋々椅子に腰かける。

「悪いな山本、やっぱり大事な話だからお母さんにもちゃんと話すべきだと思ってな」

 母に話したところで、無意味なのに。
 そう思いながら、僕は担任に頷く。

「お母さん、怜くんは高校卒業後に就職したいと言っているのですが、それについてはどのようにお考えですか?」
「そうですね…」

 母は、ちらりと僕に目をやる。何も聞いていないことを怒っているのかもしれない。

「私は…、怜の意志を尊重したいと思っていますが…」

 ほらね、と心の中でつぶやく。

「この子が、学ぶことが好きなのは知っていますし、私がふがいないせいで、怜がやりたいことをあきらめるのは、母として見ていてツラいので…、悔いのない選択をしてもらえたらと思っています…」

 表向きには、僕を尊重と言っておいて、その実僕が母にとって「最良」の選択をすることを願っているのだろう。うんざりしながら、僕は床に視線を落とした。そう言えば、サチはもう帰っただろうか、とどうでも良いことが頭に浮かんで消えていった。小さな子どもじゃないんだから僕がいなくたって一人で帰れるのに。
 この前の一件以来も、僕たちは変わらず一緒にいた。サチは、あの後、母親とちゃんと話をしてこれまでの扱いを謝ってもらえたらしい。少しだけだけど、わかってもらえたんだと話すサチはほんの少しスッキリした顔をしていた。

「だからね、怜」

 名前を呼ばれて視線を戻すと、母は顔に笑みを浮かべていた。久しぶりに見た母の笑顔に、言いようのない感情が心を埋め尽くす。

「大学へ行きなさい。家のこともお金のことも、気にする必要は無いの。大学に行かせるお金くらいちゃんと貯めてるんだから」
「え…」

 予想もしていない母からの言葉にぽかんと口を開ける僕に、母は「わかったわね」と念を押した。

「先生、息子に就職させるつもりはありませんので、大学進学の方向でどうかご支援いただけたらと思います。よろしくお願いいたします」

 そういって頭を下げる母の姿は、紛れもなく母なのに、僕の知る母ではないようだった。



「全く、高卒で就職なんて、私と同じ道でも辿るつもり?」

 校舎を出た途端、母は「あんたバカじゃないの」と悪態をついた。一瞬にして僕の知る母に戻って、さっきのしおらしい母は幻だったのだとかと目を疑う。

「どうせ、私や母さん達に遠慮してのことなんだろうけど。担任から電話来た時はビビったわよ」
「ごめん…、忙しいのに…」
「いちいち謝らないでくれる?自分の息子のことなんだから、忙しかろうがなんだろうが時間とるに決まってるでしょう。それと、母さんあんたが大学受かるまで家に戻るわ」
「え…、もしかして、また」

 ダメだったの、と言いそうになって慌てて口をつぐむ。それと同時に、またあの冷たい声が耳にこだました。

ーーーあんたなんか産まなきゃよかった

 あれはまだ僕が小学生のころ、交際していた相手から僕がいることを理由に振られた母がぽつりと放った言葉だった。当時まだ20代だった母からすれば、僕は確かにお荷物以外の何者でもなかったのだと思う。

「ばあか、今の人には早く結婚したいって言われてるんだから」
「そ、そうなんだ…、じゃぁ、尚更帰ってこなくて良いよ。僕にはおばあちゃんたちがいるし、早くその人と」
「つべこべうるさいわねもう…、怜のことが心配で結婚なんておちおちできやしない」

 母の言っている意味が、よくわからなかった。
 立ち止まった僕を振り向いた母は、ため息をついて呆れた顔を向けた。

「家を出て気づいたのよ…、怜と居られるのも、あと少しなんだって」

 ゆっくりとした口調で言葉を探しながら話す母。
 遠くに部活に勤しむ生徒の掛け声が聞こえる。

「今さら何をって思うかもしれないけど…、また怜と暮らしたいの」

 それだけ言うと母は、くるりと踵を返してすたすたと歩いて行ってしまった。置いて行かれた僕は、母の放った言葉を頭で処理するのに必死で遅れて歩き出す。
 駅までの道のりを歩くとともに理解できた母の言葉は、僕の心を真綿で包み込んだ。

 僕が学ぶことが好きだと知っていた母。
 後悔してほしくないと言った母。
 そして、一緒に暮らしたいと言った母。

 言われた言葉は取り消せないし、決して忘れることはできないけれど、今目の前を歩く母は確かに僕の母で、僕を生んでくれた人には変わりはなかった。
 その言葉に嘘はなくて、僕は不思議とそれらを素直に受け止めることができたのと同時に、母が家を出て行ってからずっと感じていた虚しさが嘘のように消えていく。
 結局、僕は母の子どもであって、傷つけられたとしても、嫌いになど、なれないのだと思い知らされる。

「母さん」
「んー」

 振り向きもしない、少し先を歩く母に僕は言った。聞こえるか聞こえないかの声で。



「産んでくれて、ありがとう」








【時雨に濡れる僕ら】  ー完ー