あれから数年経っても私はあの日にとらわれたままだ。死んだように過ごし、無気力に只1日1日をやり過ごすだけ。大学には行けと言う親に抗う気力もなかったので、現役の頃よりも3ランクほど低い地元の大学に入学した。
数学は1次関数のグラフ、英語はbe動詞から講義をしているような大学だったので、最低限の出席をしていれば単位は取れた。何年生の時だったかは覚えていないけれど、たまたま少人数制の授業がいくつか被っていた男の子に告白された。
まどかに告白された時とは違って、驚くほど心が動かなかった。ふと、まどかが大阪で可愛い彼女を作ると意気込んでいたことを思い出して、私も新しく恋をすればこの苦しさから抜け出せるのかもしれないと希望を抱いた。最低だとは分かっているけれど、まどかを利用するよりは、何も関係ない彼が相手の方が罪悪感はなかった。
彼のことを知ろうと思ったけれど、うまく行かなかった。大教室の授業で最初に目に入るのは彼ではなく、緑川君と私服の雰囲気が似ている人だった。緑川君の私服なんてほとんど見たことが無いのに。
次第に連絡を返すのも億劫になった。口には出さなかったけれど、何も知らないくせにと理不尽な憤りを感じたこともある。私が一向に心を開くことが出来なかったせいか、次第に彼とは疎遠になった。もう彼の顔も下の名前も思い出せない。
毎月、月命日には緑川君のお墓参りに行っていた。学校以外で外出するのはそれだけだった。花を供えても、お墓に向かって好きだと言ってももう遅い。そんなことは分かっているのに、灰になって冷たい土の下で眠る緑川君に会いに来た。学校外で会った回数が、緑川君が生きていた時よりも多くなっても何かが変わるわけでもなかった。
毎年10月にだけ、いつも緑川君の家族が供えている花とは随分雰囲気が違う花と一緒に星型のクッキーが供えられていた。当たり前だけれど、まどかと緑川君は幼馴染だったからまどかだって辛いはず。まどかならこの痛みを分かってくれるかもしれないと期待したことがある。
自分でも最低だとは思う。それでも、私は誰かに助けてほしかった。まどかなら助けてくれるかもしれない、そんな期待に縋りたかった。
地元の零細企業に一般事務での就職が決まった年の10月、私は数年ぶりにまどかのSNSを覗いた。数年分の投稿を遡ると、美味しそうなスイーツの写真を毎日欠かさず投稿していた。フランス語で書かれたケーキの名前は何と読むのか分からなかった。新進気鋭のパティシエールとしてまどかが紹介されているWEB記事へのリンクもあった。甘い香りが漂ってきそうなSNSを見ただけでは恋人がいるかいないかは分からなかった。ただ、毎年10月13日だけは喪に服すように何も投稿していなかった。
緑川君のアカウントは長年更新されていないということで凍結していた。私は辛くなってアカウントを消して、アプリをアンインストールした。その後のまどかに連絡することも、まどかの名前を検索することもなく今日まで過ごしてきた。
前に進もうとしても結局進めなくて、社会人になってもそれは変わらなかった。安月給ながら趣味なし実家暮らしで夢も希望もなく生きている。普段お金を使わないので、佐藤先輩への御祝儀もなんとか捻出できた。
きちんとヘアセットをして、まともな服を着るのも数年ぶりだった。それどころか、友人知人にプライベートで会うのも久しぶりだった。
人と話さないせいか、頭の回転もだいぶ遅くなっていたが、まどかがフランスに行くと聞いて、フランスが同性婚を認めている国だと思い出した。
「結婚するの? 今、彼女いるの?」
私から聞くのは酷く無神経な気もしたけれど、聞かずにはいられなかった。まどかはキョトンとしていた。一瞬の沈黙が流れた後、まどかは笑い出す。
「まっさかー! ずっとフリーだよ。今は仕事が恋人だから、男も女もノーセンキュー! なんとなくだけど、一生独身貴族貫く気がする」
まどかはその後、いかに仕事が充実しているかを語った。スイーツのコンテストで賞をとったことで、フランスの洋菓子店からヘッドハンティングされたらしい。
まどかの口から飛び出してくるのは今と未来の話ばかり。まどかは前に進んでいくのに、私だけがずっと不完全燃焼のままに終わった初恋にとらわれている。
私が緑川君に恋をしていたことも知っているのは私とまどかの2人だけ。緑川君がいなくなった今、まどかが私に恋をしていたことを知っているのも私たちだけ。恋愛相談をLINEでしていたスマホは買い換えてしまったので、恋をしていた証は目に見える形では何も残っていない。
私たちがともに過ごした科学部はなくなってしまった。相互フォローだったSNSも消えてしまった。あの日々も初恋も全部幻なんじゃないかと夜が来るたび怖くなった。言いようのない、誰にも相談できない不安を抱える日々の中、今日まどかと再会した。自分勝手だとは分かっているけれど、私はつい確認してしまった。
「私、あの頃緑川君のことちゃんと好きだったよね?」
唐突な質問に、まどかが足を止める。しかし、優しい声で諭された。
「うん、あの頃のみちるは世界で1番可愛い、恋する乙女だったよ。いっくんに恋してるみちるのことがあたしも大好きだった」
私たちの初恋はどうしたって過去形にしかならない。それでも、私の初恋が確かに存在したのだと人に言ってもらえて初めて安心できるような脆弱な恋だった。それでも、好きだった。
「でもさ、あたしみちるに幸せになってほしい。これは親友としてね」
「無理だよ、忘れられないもん。緑川君のこと。今更他の人を好きになんてなれないよ」
まどかを牽制する意図はないが、そういう意味にとられないか言った後に少しだけ失言が心配になった。まどかもまた、私を口説く意図はないと予防線を張っているかのように見えた。私たちの間には、恋の痕跡が確かに存在した。
「恋だけが幸せじゃないよ」
それは真理だ。恋だけが人生の全てじゃない。現にまどかは今、充実して幸せな日々を送っている。
きっと、まどかはもし私が明日死んだら、弔って悲しんではくれるだろうけど、それでもちゃんと好きだった人の死を乗り越えて前に進んでいくのだと思う。
でも、それはまどかが私と違ってちゃんと告白したから言えることだ。まどかは自分の恋に決着をつけて、ちゃんと初恋を卒業した。私は決着をつけられなかった。
恋に決着をつけることが怖くて、いつか告白すると自分に言い訳をしていた。その「いつか」は来ないまま、想い人は灰になった。私の恋心は行き場がないまま、再び燃え上がる術を永遠に失った。
自分本位で幼い恋だった。真実の愛とは何か聞かれても答えられないのに、私の気持ちは本物だと言い張るような未熟な恋だった。あの感情の答え合わせをしていないので、私の初恋における正解は何だったのか、未だに分からないままだ。
もし、まどかのように告白していたら運命は変わったのかな。お試し期間だけでも恋人になれたのかな。ちゃんと振ってもらえば吹っ切れたのかな。それとも、運命の歯車がどこかで違う回り方をして、緑川君は死ななかったのかな。でも、人生に「もし」はない。だから、こんなに悲しいんだ。
「幸せになってよ、みちる」
別れ道に差し掛かると、まどかはもう1度同じことを繰り返した。
「うん、そうするよ」
私はまどかに初めての嘘をつく。この5年間、私の時間はずっと止まったままだったけれど、作り笑顔だけはうまくなった。
私はこれからも緑川君が好きだ。明日からもずっと不完全燃焼の初恋を引きずり続ける。でも、そのことはまどかには言わない。好きだと言うのがまどかの十八番なら、言わないのは私の専売特許。まどかは親友だからこそ、前にも後ろにも進めない私は、前に向かって走り続けるまどかを巻き込めない。初恋を卒業できなかった私はひとりぼっちで一生後悔を抱えて生きていく。
「最後に、ひとつだけ」
去り際にまどかは今までで1番清々しい笑顔を私に向けた。
「あたしのこと、きっぱり振ってくれてありがとね」
そう言って手を振ったまどかの手は、あの頃とは違う職人の手だった。何度も火傷と切り傷を作っては治した、仕事に生きてきた強い掌だった。
きっともう2度と会うことのない親友の背中が小さくなるまで私は見送った。ピンヒールを鳴らして颯爽と歩くまどかは1度も後ろを振り返らなかった。
fin
数学は1次関数のグラフ、英語はbe動詞から講義をしているような大学だったので、最低限の出席をしていれば単位は取れた。何年生の時だったかは覚えていないけれど、たまたま少人数制の授業がいくつか被っていた男の子に告白された。
まどかに告白された時とは違って、驚くほど心が動かなかった。ふと、まどかが大阪で可愛い彼女を作ると意気込んでいたことを思い出して、私も新しく恋をすればこの苦しさから抜け出せるのかもしれないと希望を抱いた。最低だとは分かっているけれど、まどかを利用するよりは、何も関係ない彼が相手の方が罪悪感はなかった。
彼のことを知ろうと思ったけれど、うまく行かなかった。大教室の授業で最初に目に入るのは彼ではなく、緑川君と私服の雰囲気が似ている人だった。緑川君の私服なんてほとんど見たことが無いのに。
次第に連絡を返すのも億劫になった。口には出さなかったけれど、何も知らないくせにと理不尽な憤りを感じたこともある。私が一向に心を開くことが出来なかったせいか、次第に彼とは疎遠になった。もう彼の顔も下の名前も思い出せない。
毎月、月命日には緑川君のお墓参りに行っていた。学校以外で外出するのはそれだけだった。花を供えても、お墓に向かって好きだと言ってももう遅い。そんなことは分かっているのに、灰になって冷たい土の下で眠る緑川君に会いに来た。学校外で会った回数が、緑川君が生きていた時よりも多くなっても何かが変わるわけでもなかった。
毎年10月にだけ、いつも緑川君の家族が供えている花とは随分雰囲気が違う花と一緒に星型のクッキーが供えられていた。当たり前だけれど、まどかと緑川君は幼馴染だったからまどかだって辛いはず。まどかならこの痛みを分かってくれるかもしれないと期待したことがある。
自分でも最低だとは思う。それでも、私は誰かに助けてほしかった。まどかなら助けてくれるかもしれない、そんな期待に縋りたかった。
地元の零細企業に一般事務での就職が決まった年の10月、私は数年ぶりにまどかのSNSを覗いた。数年分の投稿を遡ると、美味しそうなスイーツの写真を毎日欠かさず投稿していた。フランス語で書かれたケーキの名前は何と読むのか分からなかった。新進気鋭のパティシエールとしてまどかが紹介されているWEB記事へのリンクもあった。甘い香りが漂ってきそうなSNSを見ただけでは恋人がいるかいないかは分からなかった。ただ、毎年10月13日だけは喪に服すように何も投稿していなかった。
緑川君のアカウントは長年更新されていないということで凍結していた。私は辛くなってアカウントを消して、アプリをアンインストールした。その後のまどかに連絡することも、まどかの名前を検索することもなく今日まで過ごしてきた。
前に進もうとしても結局進めなくて、社会人になってもそれは変わらなかった。安月給ながら趣味なし実家暮らしで夢も希望もなく生きている。普段お金を使わないので、佐藤先輩への御祝儀もなんとか捻出できた。
きちんとヘアセットをして、まともな服を着るのも数年ぶりだった。それどころか、友人知人にプライベートで会うのも久しぶりだった。
人と話さないせいか、頭の回転もだいぶ遅くなっていたが、まどかがフランスに行くと聞いて、フランスが同性婚を認めている国だと思い出した。
「結婚するの? 今、彼女いるの?」
私から聞くのは酷く無神経な気もしたけれど、聞かずにはいられなかった。まどかはキョトンとしていた。一瞬の沈黙が流れた後、まどかは笑い出す。
「まっさかー! ずっとフリーだよ。今は仕事が恋人だから、男も女もノーセンキュー! なんとなくだけど、一生独身貴族貫く気がする」
まどかはその後、いかに仕事が充実しているかを語った。スイーツのコンテストで賞をとったことで、フランスの洋菓子店からヘッドハンティングされたらしい。
まどかの口から飛び出してくるのは今と未来の話ばかり。まどかは前に進んでいくのに、私だけがずっと不完全燃焼のままに終わった初恋にとらわれている。
私が緑川君に恋をしていたことも知っているのは私とまどかの2人だけ。緑川君がいなくなった今、まどかが私に恋をしていたことを知っているのも私たちだけ。恋愛相談をLINEでしていたスマホは買い換えてしまったので、恋をしていた証は目に見える形では何も残っていない。
私たちがともに過ごした科学部はなくなってしまった。相互フォローだったSNSも消えてしまった。あの日々も初恋も全部幻なんじゃないかと夜が来るたび怖くなった。言いようのない、誰にも相談できない不安を抱える日々の中、今日まどかと再会した。自分勝手だとは分かっているけれど、私はつい確認してしまった。
「私、あの頃緑川君のことちゃんと好きだったよね?」
唐突な質問に、まどかが足を止める。しかし、優しい声で諭された。
「うん、あの頃のみちるは世界で1番可愛い、恋する乙女だったよ。いっくんに恋してるみちるのことがあたしも大好きだった」
私たちの初恋はどうしたって過去形にしかならない。それでも、私の初恋が確かに存在したのだと人に言ってもらえて初めて安心できるような脆弱な恋だった。それでも、好きだった。
「でもさ、あたしみちるに幸せになってほしい。これは親友としてね」
「無理だよ、忘れられないもん。緑川君のこと。今更他の人を好きになんてなれないよ」
まどかを牽制する意図はないが、そういう意味にとられないか言った後に少しだけ失言が心配になった。まどかもまた、私を口説く意図はないと予防線を張っているかのように見えた。私たちの間には、恋の痕跡が確かに存在した。
「恋だけが幸せじゃないよ」
それは真理だ。恋だけが人生の全てじゃない。現にまどかは今、充実して幸せな日々を送っている。
きっと、まどかはもし私が明日死んだら、弔って悲しんではくれるだろうけど、それでもちゃんと好きだった人の死を乗り越えて前に進んでいくのだと思う。
でも、それはまどかが私と違ってちゃんと告白したから言えることだ。まどかは自分の恋に決着をつけて、ちゃんと初恋を卒業した。私は決着をつけられなかった。
恋に決着をつけることが怖くて、いつか告白すると自分に言い訳をしていた。その「いつか」は来ないまま、想い人は灰になった。私の恋心は行き場がないまま、再び燃え上がる術を永遠に失った。
自分本位で幼い恋だった。真実の愛とは何か聞かれても答えられないのに、私の気持ちは本物だと言い張るような未熟な恋だった。あの感情の答え合わせをしていないので、私の初恋における正解は何だったのか、未だに分からないままだ。
もし、まどかのように告白していたら運命は変わったのかな。お試し期間だけでも恋人になれたのかな。ちゃんと振ってもらえば吹っ切れたのかな。それとも、運命の歯車がどこかで違う回り方をして、緑川君は死ななかったのかな。でも、人生に「もし」はない。だから、こんなに悲しいんだ。
「幸せになってよ、みちる」
別れ道に差し掛かると、まどかはもう1度同じことを繰り返した。
「うん、そうするよ」
私はまどかに初めての嘘をつく。この5年間、私の時間はずっと止まったままだったけれど、作り笑顔だけはうまくなった。
私はこれからも緑川君が好きだ。明日からもずっと不完全燃焼の初恋を引きずり続ける。でも、そのことはまどかには言わない。好きだと言うのがまどかの十八番なら、言わないのは私の専売特許。まどかは親友だからこそ、前にも後ろにも進めない私は、前に向かって走り続けるまどかを巻き込めない。初恋を卒業できなかった私はひとりぼっちで一生後悔を抱えて生きていく。
「最後に、ひとつだけ」
去り際にまどかは今までで1番清々しい笑顔を私に向けた。
「あたしのこと、きっぱり振ってくれてありがとね」
そう言って手を振ったまどかの手は、あの頃とは違う職人の手だった。何度も火傷と切り傷を作っては治した、仕事に生きてきた強い掌だった。
きっともう2度と会うことのない親友の背中が小さくなるまで私は見送った。ピンヒールを鳴らして颯爽と歩くまどかは1度も後ろを振り返らなかった。
fin