あくまでも、契約上の間柄という事で。《序》(※加筆版)

彼女が高校1年生であった頃に、時間は遡る。

「痴漢です!捕まえて下さい!」

駅のホームに響く声を聞いた瞬間、彼女はほとんど反射的に動いていた。

「『伝令神の象徴(タラリア)』。最小出力(スモールレンジ)

トゥリングとして装備している霊具を起動させ、周囲の利用客を突き飛ばさんばかりに走るスーツ姿の男に彼女は肉迫する。同時に取り出していた同様の霊具『ゲイ・ボルグの槍』を、これまた最小出力(スモールレンジ)で起動させた。

『ゲイ・ボルグの槍』と名を付けているが、外見は完全にただの万年筆だし、彼女は日常においては万年筆として使用している。しかし内実は対妖魔用の白兵戦兵器。つまり実体が無い存在を斬る為の武器だ。如何に出力を抑えていても、普通の人間に使用した場合、瞬時に気力体力を削がれる。

傍目から見れば、いきなり近付いてきた女子高生が相手の胸を万年筆で突いたようにしか見えない。しかし男は突然動きを止めたかと思うと、白目を剥いて昏倒した。彼女はその背を片足で踏み付け、「大丈夫ですかー?」と声の方向に呼びかける。少女と、少女に寄り添う声の主と思しき女性が進み出てきた。

「すみませーん!どなたか駅員さん呼んで下さいませんかー!もしくは駅員さんいませんかー!?駅員さーん!」

彼女は思い切り声を張り上げつつ、空いている片手でスマートフォンを取り出し、電話帳から母の番号を呼び出した。数回のコール音後、『どうした?』と母の声がする。

「もしもし。お母さん?いきなりごめんね。私、ちょっと警察の世話になる事になった」
『え!?何!?何があったの!?大丈夫!?』

ざわつく周囲をよそに、彼女は電話口の向こうの母の慌てた声に「大丈夫だよー」と答えた。

「うんとね。痴漢を捕まえた。あ。痴漢『で』捕まったんじゃなくて、痴漢『を』捕まえただよ?」
『貴方がそんな事するとは思ってないから!大丈夫!?怪我は無い!』

慌てた声に彼女は「無いよ」と答えた。

「被害に遭ったのは別の人で、私は捕まえただけ。犯人は…まあ生きてはいるよ。『ゲイ・ボルグの槍』でぶすっとやっただけだから」
『ぶすっとやった!?』
「気絶させただけだって。流血沙汰は起こしてないよ。実体は斬らない仕様だからね」

彼女としては、この手の人間は殺処分で構わないと思っているのだが、対象が生物的及び社会的そして法的に『知性を持った同じ人類』とされている以上、現代社会のルールに則った対処及び対応をしなければいけないと理解してはいる。これは至って穏当かつ無難な対処なのだ。
慌ただしく駆け寄ってくる駅員達に視線を向けつつ、彼女は続けた。

「これからお巡りさんも呼んでもらって色々訊かれると思うから、帰りが遅くなると思う。でも心配しないで。きちんと一人で帰れるから、お母さんはいつも通りお仕事してて」
『…わかったけど、報告は逐一してね』
「家族のLINEグループに送るよ。あ。あと、面接先にも遅れるとか日にちずらしてもらうとか、自分で連絡するから」
『気を付けてね』

彼女は「うんー」と頷き電話を切った。駅員達に「こいつです」と片足の下の男を指して背を踏み付けていた足をどかし、

「起きろ」

その足で、男の局部を渾身の力で蹴り付けた。濁音だらけの悲鳴がホームに響き渡った。
かくして意識を取り戻した、というより取り戻させられた男は駅員達に連行された。少女と女性に彼女も当然の如く同行する。警察も呼ばれ、それぞれ別室で話をする事になったが、その前に彼女は断りを入れた。

「すみません。その前に電話していいですか?バイトの面接先に、遅れるか日にちをずらしてもらうか相談したいので」

構わないとの事だったので、面接が決まった時点で控えておいた代表の電話番号をプッシュする。
途端に、少女に寄り添う女性のスマートフォンが鳴り出した。

「…あれ?」

コール音が響く中、彼女と女性は互いを見合った。
つまりその女性こそが『社長』。彼女の面接先の最高責任者だったのだ。
結果として言えば、彼女は面接をするまでもなく採用。自分の呼びかけに彼女だけがいち早く動いてくれた事から、見所があると思われたらしい。

「何て言うか、『情けは人のためならず』だねえ」

これは、自宅の最寄り駅に彼女を迎えに来た瑠子の発言である。娘が「一人で大丈夫だ」と言ったものの、母親としては心配だったのだ。

「霊術を使えるのも喜ばれた。『うちの従業員を妖魔から守ってくれたら嬉しい』だってさ」

一般人の間では都市伝説程度にしか思われていない霊術士の存在だが、彼女がカミングアウトすると、『社長』――孫江希美社長は、あっさりと納得して受け入れた。混雑した駅の中、彼女が大の男の足にあっさりと追い付いた上に瞬時に昏倒させた事と『霊術』の存在が結び付いたらしい。

かくして『霊術を使えるアルバイト』として働き始めた彼女は、直属の上司即ち中嶋リーダーを通して社長に提案をした。妖魔だけではなく、例えば採用のきっかけとなった不審者のような『生きた人間』からも身を守るアイテムを、社長は勿論スタッフ全員に配るというものだ。何せ彼女の勤務先は、スタッフ全員が女性なのだから。それが彼女が度々口にする『アイギス・シリーズ』の始まりである。

商品として展開するとまでは流石にいかないが、勤務先を頼ってきた女性や子供に渡す分には構わないし、何よりシェルターの良き防御となるであろうと、社長は快くGOサインを出した。
以来、彼女はプログラマー補佐として働く傍ら、せっせと『アイギス・シリーズ』の研究・製作を進めていたのである。
それから約3年の時が経過するとなったある日。社長は「司さん」と彼女に呼びかけた。

「そろそろ進路を決めるとか、忙しくなるでしょ?司さんはどうするつもりでいるの?やっぱり進学?」

彼女が、少なくとも首都圏住まいの人間なら学校名を聞けば「え?『あの』?」と反応が返ってくるような有数の進学校に通っていたからこその問いだが、彼女は「いいえ」と首を横に振った。

「働いて家を支えたいと思います。なので、就職先が決まったら、ここでお世話になるのも終わりになると思います。あ。その時は、ご迷惑にならないように、きちんと言います」

担任や瑠子からも、進学を勧められてはいる。だが彼女としては、お金を使って勉強するよりも、働いてお金を稼ぐ方が切実だと思っていた。
何せ伯母の璃子。働いてこそいるが、家計に一切お給料を入れない。瓊子の「能力まで失ったのにお金を出させるなんて可哀想」という、彼女達3名からすれば全く訳のわからない理屈に甘えて、収入は全てショッピングだ観劇だと自分の遊びに使っている。

つまり、メインで家計を支えているのは母の瑠子なのだ。彼女と瑤太も母の助けになればとアルバイト代を家計に入れているが、何せ所詮は学生の身。入れられる金額には、どうしても限界がある。今や使用人の一人も雇えない財政である以上、彼女が家事全般や庭の整備を始めとする生活及び屋敷の維持を式神達に任せているからこそ、どうにか司家が成り立っている状態だ。

尤も、司家から使用人が一人、また一人と解雇されていって、その代わりのように瑠子と彼女が家事全般をするように瓊子に命じられた時、彼女は言い切った。
「やだね」

このように、彼女はきっぱりと拒絶の意を示した。当時は小学生であったので、もう少し舌足らずだったが。
孫娘の態度に、瓊子は憤然とした。

「あんたなら暇でしょ?瑠子もいつも疲れた疲れたって言ってるけど、仕事と家事を両立させている人は沢山いるのよ?」
「暇なのはお祖母ちゃんだって同じでしょー。ってか、働いた経験すらないお祖母ちゃんに仕事と家事の両立がどーたらとか言われても説得力ないけど」

因みに、この頃の彼女は瓊子を「お祖母ちゃん」と呼んでいた。

「お祖母ちゃんの時代は、お金持ちの奥様は働かないのがステータスみたいなものだったから…」

フォローするような瑠子の言葉に、彼女は「ふーん」と心底どうでも良さそうに相槌を打つ。

「そもそも、どうして私とお母さんだけに言うのさ。こういうのって伯母さんとか瑤太とか、皆でやっていくものじゃないの?」
「何言ってるの!瑤太ちゃんは長男なのよ!?そんな小間使いみたいな事なんてとんでもない!」
「いや長男とか訳がわからないよ。その小間使いみたいな事を私やお母さんにはさせてもいいとかってどういう差別?ひどくない?あと伯母さんは?」

彼女は元より口が達者な上に、そろそろ反抗期に差し掛かり始める年齢だった。なのでああ言えばこう言うし、そう言えばハウユーである。
瓊子は「何て事言うの!」と彼女を再び叱咤した。

「流産したあの子に働けなんて!」
「聞いた事はあるけど何年前の話だっけ?」
「貴方達が産まれる前」

彼女の疑問は瑠子が引き取った。彼女は難しい顔で腕組みをして首を傾げる。

「…小学生の私でもデリケートな問題なのはわかってるけどさ。10年以上経ってもそっとしておかないといけない状態ってあるの?」
「本人すこぶる元気だね」
「あのね。璃子は仕事が大変なのよ?」
「いや働いてるのはお母さんも同じだけど。てか言ってる事めちゃくちゃだって、お祖母ちゃん気付いている?」
「あんた達が家事をしなかったら、ご飯や掃除はどうするの!」

片手を畳に勢いよく下ろし、瓊子は怒鳴った。その音と声に彼女は顔を顰め、深々と溜め息をついて母を見やる。

「お母さん。言う事聞く必要ないからね」
「でも」

彼女は祖母と母を見据えた。

「『シンデレラ』でもあるまいし、無給の召使いってか奴隷としていいように使われるつもりはありません」
「『奴隷』は言い過ぎじゃない?」
「召使いならお給料をもらえます。奴隷はただ働きです」

母の言葉を彼女は斬り捨てた。

「何より、私はやらないって言ったけど、だからと言ってお母さんに全部やらせるつもりもありません。こんな事もあろうかと、作っておいたんだよ」

ひらり、と彼女達の間に何かが浮かび上がった。折り紙で作った人形である。何処からともなく1体、また1体と出てきて、畳の上をぴょこぴょこと動く。目を丸くする瓊子と瑠子に、彼女は淡々と続ける。

「霊術で自律可動式にした人形だよ。これも式神っちゃあ式神なのかな。これからお料理とかお掃除とか、生活全般の作業はこれに任せればいいから。とりあえず『シルキー・シリーズ』って呼ぶ事にした」
「シルキー?」
「『絹の乙女』って意味だよ。イングランドに伝わる、家事をしてくれる妖精さんの名前。お料理担当とかお掃除担当とかお洗濯担当とか、とにかくまあ家事の分だけ担当分けてるから」

母の疑問符にすらすらと答える娘を、瑠子はまじまじと見た。

「貴方、いつの間にそんなのを作ってたの?」

彼女は「うんー」と頷く。

「お母さんが家事を教えてくれたっしょ?それ全部インプットしてあるの。最初は…ほら。お手伝いさんがどんどん少なくなってくから、皆の手助け程度になればいいなーと思って作ってたんだ」

事実、「見た目によらず力持ちなんですねえ」とか「やっぱりお嬢様は大奥様と大旦那様の曾孫様です」だとか感心されていた。言うまでもない事かもしれないが、『大奥様と大旦那様』とは、今は亡き曾祖母の翠子と、曾祖父の慈朗の事である。

「で、皆がいなくなっちゃったから、メインで本格起動させようと思った訳。私が『物に力を込める』とか『力がある物を作る』とかだったらできるのは知ってるでしょ?」

今や司家では唯一の霊術士である彼女。瓊子は「まともな術一つ使えない」と孫娘を恥に思っているが、その孫娘は言うなれば、マジックアイテムを作る事に特化しているのだ。彼女ができるパターンは2つである。キーホルダーやアクセサリー等、既存の器物に霊術を仕込むか、『シルキー・シリーズ』のように霊術を仕込んだ物を自分で作成するか。

「あ。元は紙だけど、濡れて破れないようにするとか燃えて火事にならないようにするとか、その辺の対策もバッチリだよ」
「抜かり無いわね」

瑠子は感心するが、彼女は「うーん」と眉を顰めた。

「まあ、流石に買い物とかは人間(ヒューマン)の目と頭で計算とか判断とかが必要だから、自分で行かないといけないけど。ごめんね。お母さん。この家で買い物に行くって言ったら、どうしてもメインがお母さんでサブが私だからさ」
「それは構わないよ。人の目は何処かで必ず必要になるし」

彼女は「そっか」と安堵したような表情を見せた。

「勿論だけど、お母さんが行くって時は私もお供するから。荷物持ちくらいにはなると思うし。あ。必要だったら、お使いだってきちんと行くよ?」
「わかってるって」

笑う瑠子に彼女は「そうそう」と両手をぽんと合わせた。

「あとね、お料理の後片付けやお皿洗いだけじゃなくて、洗濯物を干したり取り込んだり畳んだり、アイロンかけだってできるようにしているよ。ああいう家事って地味に手間がかかるからね。だから、お母さんは仕事が終わって帰ってきたら、ご飯食べて休めばいいだけ」
「えー!それ凄く助かるー!確かに洗濯物って洗濯機をピッてやるだけだけど、干して取り込んで畳んでって、洗ってからの手間が意外と大変だし!」
「いやちょっと待ちなさい」

口を挟む瓊子に、瓊子の存在を初めて思い出したかのように母娘は振り返った。つられるように『シルキー・シリーズ』も振り返る。尤も、折り紙人形達に顔は描かれていないので、それぞれ体ごと瓊子の方を向いた形になるが。

「そんな式神擬きが作ったご飯なんて、あたしは食べないからね!人の手が入ってないなんて気持ち悪い!」

彼女は呆れた表情になった。

「その『人の手』を全員馘にしたのはお祖母ちゃんじゃん。そもそも、霊術士の家だったら全部が全部を式神に任せていいものを、あえて人を雇っていたのは、戦前も戦中も戦後も、身寄りの無い女の人とか今で言うシングルマザーとかの働き口にする為だってのが、翠子お祖母様と慈朗お祖父様の方針だったって、当の翠子お祖母様が言ってたけど?そういうの、『セーフティーネット』って言うんだってね。社会の授業でも習った」

彼女は翠子・慈朗夫妻を、時々『大お祖母様』『大お祖父様』ではなく、このように名前付きで呼ぶ事がある。
ぐっと言葉に詰まった瓊子であったが、ぼそぼそと口を開く。

「だ、だって、遺産が少なかったから…」

今度は瑠子と彼女、母娘揃って呆れ顔になった。

「大お祖母様の遺産の何処が少ないのさ。お母さんや伯母さんどころか、私も瑤太も相続放棄したのに」
そう。長きに渡り司家の女主人であった翠子が没した後に開封された遺言書には、娘である瓊子を始めとする、司家の全員に財産を分け与えるよう書かれていた。とりわけ、一般人でありシングルマザーである瑠子と、瓊子と瑠子、二代分の力を集めて生まれたような彼女を案じていた翠子らしく、瑠子ら親子にはより多くの財産が行き渡るようにされていた。尤も、彼女と瑤太の分の財産に関しては、彼女と瑤太が成人するまでの管理は、母である瑠子に一任されていたが。これは当然の判断と言える。

しかし、そこでごねにごねたのが瓊子である。少ない年金暮らしの上に遺産の取り分まで削られてはどうやって生活していけばいいのだ、屋敷を維持すればいいのかと喚き始めた。

余談だが、何かにつけ「年金が少ない」と瓊子は不満を口にするものの、その額は世の年金受給者が聞いたら「何処が少ないんだ」と怒り出すような額である。

閑話休題。

さて瑠子であるが、当時未就学児童であった我が子達にも、何か有事の際は、その事柄を噛み砕いて説明する人物であった。要するに「子供だからわからないだろう」と軽んじたりせず、何も言わない・聞かせない訳ではないという事だ。

母から「大お祖母様が2人の為にお金を遺してくれたけど、お祖母ちゃんが困ると言っている」と聞かされた彼女と瑤太は、幼いながらもまず「お金の事で喧嘩をするなんて、何だか凄く嫌な気持ちになるなあ」と思った。また「お祖母ちゃんも色々大変なのかな」と幼子らしく純粋に祖母を案じた事もあり、「お金は要らない」と言う事、即ち相続放棄を選んだ。同じく、遺産の事で争う事を望まなかった璃子と瑠子も相続放棄した。

かくして全遺産は瓊子のものとなった訳だが、そこからが大変だった。あまりにも法外な費用で大規模な葬儀を行なったのは序の口。葬儀の参列者全員に、香典を全額突き返す。会葬御礼に非常に高額な品を用意する。正に湯水の如くお金を使い始めたのである。慌てた璃子と瑠子が結託して母を止めようとしたが、「実の母親を亡くした娘のあたしに、葬儀もまともにさせないつもりなの!?」とまるで聞く耳を持たない。

「まさか参列者全員のホテル代まで支払っていたのは盲点だったわ…」

これは葬儀を終えた後の璃子の言葉である。

「俺、曾祖母ちゃんの時の事は結構覚えてんだけどさあ。祖母ちゃん、めっちゃはしゃいでいなかったか?実の親が死んだってのに」
「そりゃそうだ。『実の母親を亡くした娘』って事で、自分が主役になれる一大イベントだからね。『イベント』って言うのは当てはまらないけど、祖母さんにとっちゃ完全にイベントだよ」
「出棺の時だっけ?すげー泣いてたけど、あれ『母親を亡くした自分が可哀想』で泣いてたんじゃないかって、今になって思う」
「それは私も思うよ。完全に瑤太の言う通りだろうね。しかしまあ、お香典を全員にその場で全額突き返したとか、本当に失礼な話だよ。それだけお金があるって事や、自分の気前の良さをアピールしたかったんだろうけど、方向性が完全に間違ってるね。大お祖母様も大お祖父様も、草葉の陰で頭を抱えているだろうよ」

上記は、高校生になった彼女と瑤太が、当時を思い返しての会話だ。

このような散財が、璃子と瑠子の制止はあっても例えば法事の度に繰り返された。また瓊子の夫、即ち璃子と瑠子の父、彼女と瑤太の祖父たる善一の入院・葬儀でも蕩尽は続き、結果、司家の財政は、あっという間に立ち行かなくなってしまったのである。
そして瑠子と彼女が「使用人代わりに働け」と、現状の全ての元凶たる瓊子に命じられるに至る。
さて、式神達に嫌悪を示す祖母に対し、彼女はあっけらかんと言った。

「じゃあ食べなくていいよ」
「食べなくていいって…あんた、こんな年寄りを飢え死にさせるつもり!?」

わなわなと口を震わせる瓊子だが、彼女はマイペースに軽く息をつく。

「飢え死にとか大袈裟だな。お祖母ちゃんだけ別の物を食べればいいってだけだよ。自分で作るなり、コンビニとかで好きな物買ってくるなり、色々やりようはあるでしょ?」
「買わないわよ!コンビニの食べ物なんて!下賤の食べ物じゃない!」
「いや下賤とかって何目線だよ。コンビニで働く全ての人に失礼だよ」

瓊子は生まれてこの方お嬢さん育ちである事と、時代が時代であったという事も手伝って、コンビニに足を踏み入れた事が一度も無い。どうも『コンビニ=ジャンクフード=下々の食べ物=コンビニは庶民の店』とインプットされているらしい。一般人達を『下々』と認識しているのも大概だが。

この場を借りてコンビニの全関係者と全利用者に謝罪する。本当にごめんなさい。瓊子の考え方が特殊かつ偏重なだけなのだ。

瓊子は『シルキー・シリーズ』をきっと睨み付けた。手近な1体に無造作に手を伸ばす。

「とにかく、こんな物に甘えて怠けようなんて、あたしは許さないからね!」
「因みに『シルキー・シリーズ』に限った話じゃないけど、潰したり破ろうとしたりしたら、手がずったずたになるトラップも仕込んであるから」
「きゃああああ!!?」
「お祖母ちゃん!?」

瑤太が言う彼女の『えげつなさ』は、既に小学生時代から始まっていた。手近な1体を握り潰した片手が切り傷だらけの血まみれになり、激痛と流血に瓊子は悲鳴を上げる。
腰を浮かせかける瑠子とは対照的に、彼女は「あーあ」と半眼で溜め息をつくと、「救援要請。救援要請」と何処へともなく呼びかけた。すると、別の折り紙人形が複数体、救急箱を運んで飛んでくる。

「お母さん。何もしなくて大丈夫だよ。この子達…『パナケア・シリーズ』って呼んでるんだけど。とりあえず応急処置くらいならできるから。不安だったらこの子達に付き添ってもらってお医者さんに行ったら?あ。お母さん。別に車は出さなくていいよー」
「でも…」

司家の大人達の中で、運転免許を持つのは璃子と瑠子のみである。実の母親の傷を案じる瑠子だが、彼女は「痛い。痛い」と泣きながら手当を受ける祖母を眺めつつ、何の事も無さそうに続けた。

「お祖母ちゃんと一緒とか、ひたすら私や式神達の悪口なりお母さんへの文句なりを言われ続けるだけでしょー。お母さんの精神衛生上良くないよ。それで事故ったら洒落にならないし。そもそも、お祖母ちゃんは小さい子じゃないんだから、お医者さんくらい1人で行けるっしょ」
「あんたはどうしてそうも冷たいの!」
「嫌だな。本当に冷たかったら、そもそも手当てなんかしないってば」

一旦握り潰されかけながらも形を取り戻した1体を始め、式神達は一斉に頷いた。

かくして、上記のような経緯はありつつも、家事全般と屋敷の維持は彼女の式神達が担う事になった。
なお一連の騒ぎの後、瓊子は姉娘である璃子に、孫娘がどれだけ怠慢か、どれだけ非道な事をしたかを切々と訴えたが、

「いや…。トラップはやり過ぎだとは思うけど、家事を式神にさせるなんて、大体の霊術士の家では普通だよ?むしろそうしてくれた方が、私としても助かるし…」
「そうよねー!」

一転して唐突に同意を見せる祖母の態度に、彼女と瑤太は一様に、コントの如くずっこけた。

「いやどういう掌返しだよ」
「プロペラだって、そうもクルクル回転しないぞ」
「お祖母ちゃん、昔からお姉ちゃんの言う事…って言うより、立場が上だと見なした相手の言う事だけは聞くから…」
「お仕事とかだったらともかく、家族の中で立場が上とか下とかカースト付けてる辺り、土台おかしな話だけどね」

『沈痛』としか表現できない表情で、全てを諦めたように溜め息と共に告げる母に、彼女は呻いた。

こうして彼女の霊術により、司家の面々は仕事に勉学にと、それぞれ集中できるようになったのである。また彼女は『シルキー・シリーズ』のいわばアップデートも続け、例えば庭の手入れもする機能も式神に搭載した事で、翠子存命時とまではいかずとも、司家の広大な屋敷は『由緒正しき霊術士の屋敷』という体を保つ事ができていた。
そろそろ、時間を彼女の高校時代に戻す。

先述の通り彼女が進学校に通っている事、また数は限られているものの、霊術士を育成する機関を持つ大学もある事から進路の方針を訊いてみたのだが、彼女はあくまで働くつもりでいるらしい。
社長は、かねてより胸の内で温めていた事を口にした。

「なら、このままうちで働かない?」
「はい?」

彼女は目を丸くした。静穏な彼女にしては珍しい表情だと思いつつ、社長は続ける。

「司さんは凄く真面目だし、プログラマーとしては勿論だけど、霊術の面でも活躍してくれているでしょ?うちにいてくれた方が、私達としても助かるのよ。勿論、正社員として相応の待遇を約束するから。お家の人達と相談するだろうし、すぐには答えをくれなくていいよ。考えておいてくれないかな?」
「はい」

彼女は動揺しつつも、ぎくしゃくと頷いた。

「とてもありがたいお話です。ありがとうございます。ただ…仰る通り、私の一存では決めかねる事ですので、一度持ち帰り、家族と検討しようと思います」

彼女は「アルバイトの身なれど仕事は仕事だから」と、瑠子にビジネスマナーは一通り叩き込まれていた。なので、この時代から既にこのような物言いをするようになっていた。

「焦らなくていいからね」

彼女を安心させるように、社長は優しく言った。

さて、帰宅した彼女が社長の言葉を瑠子と瑤太に伝えた所、いい話だと喜ばれた。また帰り際に「あ。これ、うちの条件面ね」と社長に渡された正社員としての待遇一覧を見せたら、良いのではないかとも言われた。
元より、彼女のアルバイト時代から「働きやすい、いい所に就けたね」と瑠子も瑤太も好印象を抱いていた企業である。進路を考える時期という事もあり、正に渡りに船だと2人は言った。
しかし、それでも瑠子は訊いた。

「いい条件だとは思うけど、貴方は就職でいいの?大学に行きたいとか、無いの?」
「無いね」

彼女は即答した。

「一応言っとくけど、無理とか遠慮とかしてる訳じゃないから。単に働く方が楽しいと思ってるだけさ。働いてお金貯めて、早い所この家を出たいってのも大きいしね。あ。勿論だけど、お母さんや瑤太も一緒だよ」
「お姉ちゃん…」

彼女は溜め息をつき、室内を見回した。

「大お祖母様が作って下さった、この離れには愛着があるけど。物理的・空間的に隔たれているとは言えど、あの祖母さんや伯母さんがいる所と地続きだからね」

小さかった双子を抱えた瑠子を案じた翠子が、母子が安らげる場所になればと思い作らせたのが、この離れである。何だかんだで15年以上は住んでいる事になる訳だが、彼女はここを真の『我が家』だとは思った事は、ただの一度も無い。

「いつまでもここにいたら、私や瑤太以前に、お母さんの気が休まらないでしょー」
瑠子は、いわゆる姉妹格差の虐待サバイバーである。
瑠子の姉、即ち彼女と瑤太の伯母である璃子は、幼少期から美少女の誉れが高かった。勉強もスポーツもできた。霊術の優れた素質も、早々に開花させた。正に才色兼備のパーフェクト霊術士。母である瓊子にとって、自慢の娘だった。
対する5歳違いの妹である瑠子は、霊術の覚醒が無い一般人だった。しかも瓊子に言わせれば、非常に不細工な子供らしい。勉強やスポーツの出来も、璃子と比較したら普通。

「いや比較してどうすんだ。姉妹なんて別々の人間なのに。そもそも伯母さんが規格外過ぎるんだよ」
「規格外過ぎて参考にすらならねえよ」

これは、瑠子から姉との扱いの差を聞かされた彼女と瑤太の言葉である。

例として瑠子の学校の成績を出すと、5段階評価で言うならば、『4』の中に『5』がちらほらといった感じだった。しかし瓊子曰く「お姉ちゃんはオール5なのに、何であんたはこんな成績しか取れないの」らしい。

「いや十分いい成績だと思うけど?一体何基準?」
「そもそも祖母ちゃん、学校中退してんだろ?勉強についていけないとかで。お姉ちゃんから聞いた。そんな祖母ちゃんに成績がどうこう言われる筋合いは無いと思うぞ。俺は」

これも彼女と瑤太の言葉だ。ほとんどツッコミと言うに等しいが。
なお、テストで100点満点を取れなかったり、成績表の中に『3』があったりした日には、2時間3時間はひたすら説教が続き、くどくどと詰られたそうだ。

「え?説教してその後は?何の対策も無しかよ。ってか、説教する時間で苦手な所の対策なりさせた方が良くね?」
「瑤太が言う事もそうだけど、よく2時間も3時間も怒り続ける事ができるな…。元から思っていたけど、はっきりしたわ。祖母さんも根っからのDV気質だよ」
「えっ?それってDVなの?つまり私はDVを受けていたって事?」
「おいおい。今まで自覚無しかよ母ちゃん。だって下手すりゃ夕飯抜きとか、もっと悪けりゃ夜中の2時とか3時とかまで怒られていて、寝かせてもらえなかったとかあったんだろ?」
「んで、うっかり舟をこいだりしようものなら、更に怒られるのが続くと。よくまあそんな深夜まで怒り続けるとか、エネルギーが継続するもんだね」
「マジそれな」
「完全にDVにカテゴライズされる仕打ちだけど。そりゃ『ドメスティック』。つまり閉ざされた中で起こる事なんだから、受けている仕打ちが実はどんなものかなんて、当事者には判断しようも無いでしょー。ましてやお母さんは子供だったんだから。お母さんがされていた事は、子供に対しての事だから虐待だね」
「私は今まで虐待を受けていたのか…」

因みに、これはまだ序の口。事あるごとに「姉の出涸らし」「姉の残りカス」「うちの子に似ていない」等々と散々な事を言われ、食べる物から着る物から住む場所まで、徹底して差を付けられたらしい。

「完全に児相案件じゃねえか…」
「そもそも産んだのは祖母さんだっつーのに『うちの子に似ていない』とか訳がわからんよ。いやマジでわからん日本語だよ。どういう日本語?」
「お祖母ちゃんにとって、全ては『自慢できるかできないか』だからね…」
「子供も孫も、ステータスやトロフィーじゃねえっつーの…」
「そういや大お祖母様も、『何で娘があんな風になってしまったのか』って頭抱えてたな…」
「それについては、私も大お祖母様達に謝られた。とにかく、お祖母ちゃんにとって、私は自慢できない子供だったんだよ。大お祖母様達がいなかったら、私はどうなっていたかわからない」

そんな下の孫娘の扱いに待ったをかけたのが、大お祖母様達こと翠子と、当時存命であった慈朗だった。瓊子を厳しく叱咤し、姉妹を平等に育てるようにと説いた。自分達だけでも瑠子の味方であろうと振る舞い、居場所になってくれた。慈朗は今際の際まで瑠子を気にかけていたし、翠子は文字通り司家の中を見守り続けていた。
しかし、それでも瑠子は事ある毎に思っていたらしい。学校帰りも習い事の帰り道でも、「ああ家に帰らないといけないんだな…」と。

進学の為に家を出て(その進学も翠子が全面的に後押ししてくれたのは言うまでもない)、そのまま結婚した時は、これでやっと『自分の帰る家』を築けるのだと希望を抱けた。尤も、彼女と瑤太が生まれて程なくして離婚騒ぎとなり、完全にそれどころではなくなってしまったのだが。

先述の通り、幼子2人を抱えた下の孫娘の苦労を慮った翠子が、娘と上の孫娘による瑠子の扱いも鑑みて、瓊子と璃子と距離を置けるように離れを建ててくれたものの、妹娘を『恥』としか思っていない母と、妹に対する母の扱いを見て『妹はそのように扱って良いもの』と誤学習してしまった姉が『いる』という事実は、常に瑠子に纏わり付いている。
「お母さんをここから出したいんだよ。私は。ここを出て、本当に『我が家』だって思える、皆が心から安らげる場所に移る。その元手を作る為にも、正社員の話は大歓迎なのさ。まあ家族にも影響がある話だから持って帰ってきた訳だけど、お母さんも瑤太も賛成してくれるなら、私はこの話を受けるよ」

姉の話を聞いていた瑤太は居住まいを正し、真摯な顔で母と姉を見た。

「なあ、お母さん。お姉ちゃん。やっぱり、俺も就活した方が良くないか」
「瑤太は大学に行きなさい」

『母ちゃん』ではなく『お母さん』と改まっての呼びかけから成る申し出だったが、ばっさりと切り捨てたのは彼女だった。瑠子も同調し首肯する。
彼女はふーうと息をついてから、鋭い顔付きで弟を見やった。

「祖母さんが『長男だから』とか相変わらず訳わからん理由で大学入学にやたら期待してるから、気乗りはしないかもしれないけど。でも私としては心配なのさ。一応言っとくけど、プレッシャーをかける訳じゃないよ?もしかしたら、瑤太は遅咲きかもしれないでしょ」

これまで一般人として生きてきた瑤太だが、霊術の素質が開花するかもしれない事を彼女は案じている。

「端くれとは言え霊術士の私としては気がかりなのさ。至極少数派(マイノリティ)と言えど周りに能力者がいる事で覚醒が促されるかもしれないし、仮に霊術が覚醒した場合、力との付き合い方を教えてくれる機関が身近にある環境にいた方がいい。瑤太の安全の為にね。まああと何より、履歴書に書ける学歴を作っとけってのもあるが」
「それは私も思うよ。瑤太」

瑠子は諭す口調で息子に語りかけた。

「私やお姉ちゃんの事を考えて言ってくれたのは嬉しいよ。でも、お姉ちゃんが言う通り、履歴書に書ける学歴はあった方がいい。お姉ちゃんは今の社長のお陰で進路は決まったけど、普通の就活の場合だと、大卒っていう実績があれば、かなり違ってくるから。だから、瑤太は大学に行きなさい」
「まああれだ。学費は全額祖母さんが前払いしてるから、少なくとも学費がどーたらとか考えなくていいのはでかい」

そう。期待する長男が推薦で受かった事に大はしゃぎした瓊子は、相変わらずの見栄っ張りぶりもあって、4年分の学費を全額支払ったのである。

「使えるもんは使っちゃえ使っちゃえ。何より、霊術や霊術の歴史の研究をしたいのは本音っしょ?私は好きなようにしてるだけだから、瑤太も好きなようにしなさい」
「むしろ、そうしてくれた方が、親の立場としては嬉しいかな。自分の為に子供がやりたい事や好きな事を我慢させるなんて、親として凄く申し訳ないし、情けなさすぎる」
「…わかったよ。母ちゃんとお姉ちゃんがそこまで言うなら」

こうして彼女は翌日、社長に正社員としての雇用を受ける旨を報告した。
幼稚園及び小・中・高と『似てない双子』と有名だった彼女と瑤太。全く同時に高校を卒業した後の姉弟は、完全に別の道を歩み始めたのである。程なくしてその道は、思わぬ形で合流する事になった訳だが。
上記の経緯もあり、瑠子と瑤太は「『あの』社長?」と反応したのである。
また彼女にとっては『自分がやった事を評価してもらえた』『評価に見合うだけの待遇を受けられるようになった』という点は誇りとすら思っている事柄なので、冒頭でも書いた通り、『高卒で働いている』事は、コンプレックスでも何でもない。何より、祖母の価値観の偏重ぶりを知っているので、何を言われようと聞く耳は最初から持ち合わせていない。鼻先で笑い飛ばせる。

この場を借りて、高卒で働く全ての人にも謝罪する。本当にごめんなさい。瓊子は考えが偏重な上に、極度の世間知らずなのだ。

また一応書いておくが、彼女は決して自分の祖母を馬鹿にしている訳ではない。『子供を怒るな来た道だ。年寄り嗤うな行く道だ』は真理だと捉えているからだ。彼女は単にひたすら、祖母は馬鹿だと思っているだけである。心から「何故あの大お祖母様から祖母さんみたいなのが生まれたのだろう」と疑問に思うくらいだ。

閑話休題。

「そういう訳で、瑤太の大学にお邪魔する事になった。それにあたって、瑤太。お母さん。『大学』を知っている2人に、一つ確認しておきたい事がある」
「何?」
「何だ?お姉ちゃん」

彼女は真顔で母と弟に問いかけた。

「『ゼミ』ってそもそも何する所なのかな…?」
「知らないで話していたのかよ!」