偏差値72の僕らが、百点の恋に出会うまで


「本当に? 神谷くんってつばきのこと大好きだったじゃん」

「それは最初の話よ。ここ最近はずっと私の方が好き度が大きかったし」

「え!」

 照れながらもそう言うつばきはいつもより女の子らしい気がする。普段は姉御肌な彼女も恋人のことになれば普通の女の子というわけだ。

「そうだったんだ。なんか意外だな」

「そう? 今まで気づかなかったの?」

「はい、気がつきませんでした」

「まったく、カナは鈍チンね」

「うう……」

 恋愛に対して鈍い、と言われたのは初めてだ。自分では敏感なつもりだったんだけどなあ。

「そんでさ、どうしたら真斗が前みたいにあたしのこと追いかけてくれるのかって話よ」

 ここで店員さんがミートドリアとマルゲリータを運んできた。

「ありがとうございます」

 もう何回目かになるマルゲリータを、つばきは「美味しそう」などと感激する間もなくかぶりつく。私もつばきの勢いに呑まれてミートドリアを口に運ぶ。しかし、モウモウと湯気を立てるドリアは予想外に熱く、「あつっ」とすぐに口からスプーンを離す羽目になった。

「大丈夫? 気をつけなよ」

「はーい……」

 小学生みたくシュンとした私を見てつばきは小さく微笑む。よかった、まだ笑う余裕はあるんだ。つばきが恋愛で傷つくところなんて想像したくなくて、つばきの笑顔にほっとする。

「つばきはいつから神谷くんと付き合ってるんだっけ?」

「一回生の秋から。だから今ちょうど3年ってとこ」

「そっか。“3の倍数は危ない”って聞くもんね」

「まったくその通りすぎて何も言えないわ」

 恋愛において、三ヶ月や半年、三年といった「3の倍数」期間に破局の危機に陥りやすいというのは有名な話だ。単純に付き合い始めてマンネリ化し始める時期がちょうどそのくらいなのだろうけれど、まさにこの危機を体現したような二人の関係が不憫に思えてきた。

「神谷くんって最初、本当につばきのこと本当に大切にしてる感じだったから、その彼がまさかつばきのこと放っておくような事態になるなんて思ってもみなかったよ」

「それ、あたしが一番思ってる」

「そうだよねー……」

 ふうふうと息を吹きかけて、ようやく食べられるくらいの熱さになったミートドリアを口に運ぶ。ジューシーなお肉とトマトの香りが鼻の奥を突き抜ける。つばきが本気で恋愛相談をしてきている際に呑気に料理を味わって申し訳ないが、やっぱりこの店のミートドリアは一味違う。
「あんまりこんなこと言いたくはないんだけどさ、もしかして他に好きな人ができたり……そういうことはない?」

 つばきが神谷くんと上手くいっていないと聞いて真っ先に思いついたのがこれだった。私自身、高校の頃の元彼に浮気された経験があるため、男が急に態度を変える理由について、浮気を疑ってしまうのはもう病気みたいなものだ。

「そうね……実はあたしも、同じことを考えてた」

 マルゲリータを食べるつばきの手が止まる。さすがに、深刻な相談をしながらご飯を味わう気にはなれないようだ。私もここらで一度手を止め、もう一度真剣につばきの話を聞くモードへと入った。

「思い切って聞いてみるのは勇気がいるよね。そこで関係が終わりかねないし」

「ええ。だからこっちから証拠を掴むのが早いんだけど」

 そう言うと彼女は目を細めて、私の背後をぼんやりと見つめた。

「なんだか虚しいの。彼の目を盗んで浮気を突き止めて、待っているのは破局だけだなんて。あたしはまだ別れようなんて心の準備、できていないのに」

 虚しい。
 確かにつばきの言う通りだ。
 神谷くんが仮に浮気をしていたとしても、つばきが彼を好きな気持ちが変わらなければ、真実を見破ったところでただつばきが苦しくなるだけだ。

「……難しい問題だね」

 恋人のいない私には縁のない悩みだが、当の本人からしたら今後の人生を左右する大問題だ。

「あたしさ、真斗と結婚してもいいって思ってるんだよね」

「そうなの?」

 結婚、というワードに私は思わず口にミートドリアを入れようとしていた手を止めた。

「なに、そんなに意外?」

「いや、意外っていうか……でもそうか。もう結婚なんか考えないといけない歳なんだ」

 私たちは今年で22歳。結婚なんてまだ先の話だと思っていた。そもそも私は結婚云々の前に恋人さえできないのだから。

「20代なんてあっという間よ。早いとこ相手見つけとけないと30手前で男に捨てられる未来なんてあたしは嫌だもん」

 そんな人は世の中にごまんといるだろうけれど、将来計画に抜かりがないつばきが考えていそうなことだ。私は目的のためなら手段を選ばないタイプなので、もし30手前で独り身だったら結婚相談所でもお見合いでもなんでも使うだろう。だができれば結婚相手とは自然に出会いたい——それはすべての女子が願うことではないだろうか。

「とにかく、カナももし真斗と会うことがあったらさ、それとなく様子を探ってみてくれない?」

「会うことがあればね。でも神谷くん理系だからな。あんまり会わないと思うけど」

「いいのよ。もし何かの偶然で会ったら、ということで」

「分かった」

 私は普段は勇ましい親友が珍しく追い詰められているのだと悟って、頷いておいた。

「カナは最近どう? いい男は見つかりそう?」

「うーん、全然。マッチングアプリは続けてるけど。あ、そういえばさっきマッチングした人どうなったかな」

「なになに、誰かとマッチングしたの?」

「アプリだからね、マッチング自体はすぐにできるの。ほら」

 私は図書館でメッセージを送った「ユカイ」のプロフィールをつばきに見せた。「ほう」と探るような眼差しで彼の写真をじっと見つめるつばき。

「あれ、この人……」

 ユカイの写真を見たつばきが、どういうわけか首を捻る。

「え、知り合いか何か?」

「いや知り合いではないと思う。うーんなんでだろう? 顔は見たことないのに、なんか既視感があるわ」

 つばきは腕組みをしてしばらく何かを思い出そうとしていたみたいだったが、結局「分からん!」と組んでいた腕を解いた。

「それよりメッセージ来てるみたいだけど返さなくていいの?」

「あれ、ほんとだ」

 ちゃんと見ていなかったから気がつかなかった。たしかにユカイから新着メッセージが届いている。つばきの前だしどうしようか迷ったが、今更何も隠すことなんてないなと思い至りユカイからのメッセージを開いた。

『初めまして! メッセージくださって嬉しいです。よろしくお願いします』

 初めましての挨拶だったが、チャラそうな見た目に反して文面はいたって真面目で驚いた。

「ねえ、どんな感じ?」

「普通だよ。挨拶してくれた」

 マッチングアプリを使ったことがないというつばきはユカイからのメッセージに興味津々らしく、こちらに身を乗り出して聞いてきた。しかしもう何度も同じようなやりとりをいろんな男と行っている私は、淡々と「返信ありがとうございます」と返事をしておいた。

「ふーん、意外とあっさりしてるのね」

「最初から飛ばし過ぎたら上手くいかないよ」

「そんなもんか」

 実際、一度目のメッセージで明らかにやりたいだけというのが見えすいた内容を送ってくる人だっている。そういう人には返信をせずにお蔵入りにするだけだが。
 ユカイ氏がどんな人かはまだ分からないが、少なくとも第一声でくだらない誘いをしてくるような人ではないと知ってほっとした。

「進展したら教えてよね」

「上手いこといったらね」

 ほとんどの場合で上手くいかないことが多いのだけれど、新しい出会いに夢くらいは抱いてもいいだろう。
 その後つばきは気分が乗ってきたのかアルコールを頼み、ひたすら神谷くんの愚痴と、それでも好きだという愛を語ってくれた。顔を赤く染めて徐々に酔っ払いになっていくお姉さんに「そっかそっか」と慰めるのが私の役目。なんだかんだで神谷くんと離れたくないんだろうな。神谷くんがもし浮気をしていると知ったら、つばきはどう立ち回るんだろう。できればそんな場面には立ち会いたくない。

 私もつばきの熱に呑まれてお酒を一杯注文する。お酒にはあまり強くないから、宴会をすするとか、よっぽどのことがない限りは飲まない主義なのだけれど、今日ぐらいはつばきに付き合ってあげたいという気持ちだった。
 アルコール度数の強くなさそうなカシスオレンジを飲み、いい感じにほろ酔い気分に浸った。ミートドリアはとっくに食べ終えてしまい、つまみがないのでゴクゴクとお酒を飲んでしまう。甘いお酒なのでなおさら止まらない。

「もう一杯ください」

「カナ〜大丈夫〜?」

 すでにヘロヘロのつばきに心配されたところで笑うしかないのだが、この時の私は「だいじょーぶ」とつばきよりも頼りない口調で手をひらひらと横に振った。
 果たして結果は大丈夫ではなかった。

「あれえ……なんかぐらぐらする」

 ぼわん、ぼわん、と頭がぐらつき始め、やばいかもと本能が察知した。しかしそう感じた頃にはもう時すでに遅し。今度は急激な眠気が襲ってきて、その場につっぷしてしまう。

「カナ!?」

 さすがのつばきもこの時ばかりはハッとした様子で私の名前を呼んだが、薄れゆく意識の中で彼女の声は雲よりも遠かった。

 学が旅から帰ってきたのはNFが終わった翌日、11月21日月曜日の夜だった。彼は帰ってきてそうそう大きな荷物もそのままに、北白川にある僕の家に転がり込んできた。ちょうど図書館で西條さんに会った帰りのことだ。
 うちにやってきた学は、いつもの学とはテンションが全然違っていた。表情はニヤついているし、全身からふわふわとしたオーラが漂っている。その変わりように驚いたが、鼻を突くアルコールの匂いで原因が分かった。こいつぁ、かなり飲んだな。

「荷物、置いてくれば良かったのに」

「はっは〜そんな時間が惜しかったんだよ〜一刻も早く恭太に会いたくてさ」

 僕に抱きつこうとしてくる学の身体を押し除けて、その辺に座らせる。恥ずかしながらまだ真奈ともハグしたことがないのに、学と身体を重ねるなんて想像するだけで身震いするわっ。

「はあ。とにかくこれ飲みいや」

「あ〜りがとう〜」

 僕はコップいっぱいに注いだ水道水を彼に渡す。普段は天然水しか飲まないくせに、水道水とは知らずにゴクゴクと喉を鳴らして一気飲みをする学。

「んで、どうやったん。傷心旅行は」

「わいは『旅に出る』って言っただけで『傷心旅行』とは言ってないぞ」

「でも実際そうやろ。三輪さんに振られたんだし」

「あれは振られたんじゃなくて、正当な理由をもとに断られたんだ」

 断固として自分が拒否されたとは認めない学は、もしかしたら僕よりも恋愛下手なのでは。

「まあまあ。とにかく傷が癒えたならええんよ」

「そうだな。旅はやっぱりいいね。目的地も決めずに電車で行けるところまで行ってみたんだ」

「で、どこまで行ったん?」

「長野」

 おお……それりゃまた大移動だな。てか、長野なら新幹線も乗ったのか。行き当たりばったりにしては大金をつぎ込んでら。

「気の赴くままに旅すると心が浄化されるのさ。君も江坂くんに振られたら旅に出るが良い」

「……アドバイスはありがたいけど、別れる前提なのはやめえや」

「おっと危ない。失言失言」

 なんだか学の酔いが覚めてきたようだ。いつもの容赦ない口調に戻っている。こんなことならもう少し酔っ払ったままでいてもらうべきだったわ。

「恭太の方はどうだったんだい? 江坂くんとNFに行ったんだろう?」

「まあ楽しかったよ」

 僕は彼の残した水をかっさらいひと飲みすると、クールぶって答えた。

「あれ、なんか反応薄いな。君ならもっとしゃあしゃあと惚気てくると思ったんだが」

「しゃあしゃあと惚気てほしいの?」

「いや、遠慮しておく」

 右掌をビシッとこちらへ向け、彼は前髪をかきあげた。うわ、もう完全に酔いからさめてやがるな。

「冗談は置いておいてさ、聞いてくれよ」

「ふむふむ、何だい」

「なんかさ、真奈が西條さんや三輪さんに嫉妬してるみたいでさ」

「ほう」

 いつものごとく僕が学に相談をもちかけ、学が恋愛マスターであるかのように余裕の構えで聞くという構図ができる。

「ちょっと挨拶しただけやねんけど、『他の女の子とは仲良くしないでほしい』って言われてんねん」

顎に手を当てて難しい哲学でも考えているかのような素振りを見せる学だが、会話の内容は友人の彼女の嫉妬についての相談だ。
響いているのかいないのか分からない曖昧な学の反応が面白くなくて、僕は真奈がどれだけ他の女子に嫉妬しているのかを語ってみせる。

「他の女の子と連絡もしないでってさ。可愛くない? 人生で初めて彼女ができたけど、こんなに妬いてくれるなんてさあ。あ、
ごめん学には分からへんよね」
 側から聞けば確実に嫌味なのだが、学は眉をひくつかせることも、僕に反抗してくる様子もない。なぬ、これだけの惚気攻撃が効かぬと……!

「し、しかもさ、NFで西條さんたちと会ってからずっと拗ねてて。ちょっと口利いてくれへんくなったけど、それもまた可愛いねん」

 彼女が他の子に嫉妬をして有頂天になっていたあの時の気分を思い出す。一時は微妙な空気になったけど、最終的には彼女ができて良かったと心から思った。
 さすがの学も僕の数々の攻撃に黙り込む。しまった、ちょっとやりすぎたか? まあ彼も失恋をして傷心旅行から帰ってきたばかりだし、いつものようなツッコミの切れがないのは仕方がないか。
 と勝手に納得して話題を変えようかと思ったのだが、黙り込んでいた学がようやく口を開いた。

「それ、重くない?」

「え?」

 予想外の発言だった。重い、というのは恋愛用語で相手の愛情が大きすぎて苦しい、ということだろうか。そんなこと考えてもみなかったが、学にはそう映ったらしい。

「そう? あまり思わへんかったけど」

「いやいや、鈍いよ恭太くん。他の女の子と仲良くしないでほしいとか連絡もとっちゃだめだとか要求してくる女の子を、世間では『重い』って言うのさ。だって、浮気心がなくたって、どうしても他の子と連絡しなくちゃいけない場面だってあるだろう? それもいちいち咎められてたら生きづらいじゃないか」

「……そう言われると確かに……」

 いつになく真顔で諭してくる学に、僕は納得せざるをえなかった。自分が例えば同じゼミのメンバーに連絡をとっている場面を思い浮かべる。内容はそうだな、「明日の6時から研究発表の練習だからよろしく!」といったような業務連絡だ。もしそういった連絡すら真奈は嫌だと感じるのなら、確かに学の言う通り「重い」と思ってしまうかもしれない……。
 自分が考えているよりも、ことは重大なのだということをこの時初めて思い至る。

「はあ。そんなことにも気づかなかったなんて、君はやっぱり彼女ができても変わらないな」

 むむ、そんな哀れみの目で見ないでくれよ! 第一、アドバイスだけして実践を積んだことのない学から言われる筋合いはないはずなんだけどな。しかしそれでも彼の言うことはいつも的を射ているため、ぐうの音も出ない。

「僕は一体どうすれば……」

「そんなのわいが知ったこっちゃないよ。まあ、江坂くんに『もうちょっと条件を緩めてほしい』とお願いするか、そもそも他の女子とまったく付き合うななんていう要求は無謀すぎるからやめてほしいと訴えるか。どちらにせよ、喧嘩になる可能性は高いだろうね」

 以上、コメンテーターからの見解でしたと言わんばかりに学は前髪をさっと撫でた。

「どっちもハードル高いな……。この間の様子じゃ、真奈の気持ちに反抗したら一気に嫌われそうな気がする……」

「わいから言わせてもらうと、そんなことで崩れるような関係は遅かれ早かれダメになるのさ」

「うわ、辛辣やなっ」

 今日の学は容赦ない。でも、自分の恋が儚く散って傷心旅行から帰ってきたばかりの身だから仕方ないか。ちょっと学をいじめすぎたかもしれない。これはきっと他人の気もしらずに惚気た僕への制裁なのだ。く……辛いなあ。

「とにかく忠告しておくよ。このままだと君たちの関係は簡単に崩れる。だから恭太の方から何か行動をとるんだな」

「御意……」

 ああ、なんてことに気づいてしまったんだ。しかし有頂天のまま真奈と交際を続ければ必ず破滅がくるという学の言葉には一理ある気がする。早々に問題解決しなければ。よおし、次のデートで真奈に提案してみよう。浮気心がない限りは他の女子との付き合いもOKにしてほしいって。話せばわかるはずだ。うん、大丈夫大丈夫。なんとかなる!

「健闘を祈りまする」

 学はもう、自分の失恋のことなど忘れたように、今までどおり僕に上から助言をする仙人に戻っていた。まあ彼が彼らしくいられることが一番なのだから、今日は大人しく言うことを聞いておくことにしよう。

 はは、僕って友達想いのええやつやなあ。


 さて、翌日の夜に早速真奈と会う予定のあった僕は昨日学から言われたことを頭の中で反芻し、真奈に正面きって伝えようと意気込んでいた。

「真奈、相談があるんやけど」

「ん、どうしたの?」

 二人で流行りの恋愛映画を見た帰りだった。映画は不治の病にかかり自暴自棄になった女の子が大切な人と出会い、生きる希望を取り戻していくという王道のお涙頂戴ストーリーだった。真奈はこういったロマンスが好きらしく多くの観客と同様、終始鼻をすすっていた。
 そんな心温まる映画を見終わり、二人で夜の鴨川を散歩しているときに僕は切り出したのだ。

「この間の、『他の女の子と仲良くしないでほしい』っていうお願いなんやけど」

「うん」

「ちょっと大変やなって……。いや、もちろん僕は真奈のことしか見えてへんよ? でも、業務連絡とかまで制限されるとやりにくいというか」

 あくまで彼女の気持ちを尊重しつつ自分の要求を主張するのにはかなり苦労した。「下から、下から」を意識して超低姿勢で臨んだお願いだったのだが。
 真奈は突然、ピタリと歩みを止めた。手をつないでいたので、僕の方が一歩前へ進んだところで彼女がついてきていないのが分かった。

「どうしたん?」

「……やだ」

「え?」

 俯いて自分の足元を見つめながらそう呟く彼女。

「嫌って、僕が他の女の子と仲良くすること?」

 今度は黙ったままこっくりと頷く。

「待ってや。そんな、仲良くするってことはないで? 真奈だって、ただ友達として男と話さないかん時もあるやろ?」

「ない。女子大だもん」

「そ、そうか……」

 うーん。
 そこまで反論されてしまうと何も言い返せない。論理的に考えれば絶対に僕の方が正論なのだけれど。これは理屈ではなく感情の問題なのだ。これ以上僕が意見を突き通せば、彼女の機嫌を損ねかねない。

「分かった、分かった。ごめんやで。やっぱ真奈の言う通り連絡とかせーへんから許してや」

 両手を挙げて「参りました」のポーズをとる。すると真奈は急に顔を上げてぱっと花が咲いたように笑う。彼女が笑ってくれて良かったと思う。もうこの件で彼女の言い分を否定するのはやめよう。
 それから僕たちはまた手をつないで鴨川を歩き始めた。昼間は日差しを反射してキラキラと煌めく鴨川が、夜は真っ暗で底無しのように見える。

 ああ、やっぱり僕は彼女には逆らえんのや。
 脳内の学が「これだから恭太は」と呆れ顔で頭を抱えている。いやあ、仕方ないやん。だって、僕にとっては真奈を失うことが一番怖いんやから。堪忍せえ。脳内学を必死に追い払う。けれど、彼を追い払う手にだんだんと力が入らなくなっていることに気づいた。
 本当に、本当に僕は真奈とこのままやっていけるんだろうか——。
 初めて頭によぎった不安がもくもくと雲の形になり仙人のような学を乗せて飛び始める。『そうだよ恭太くん。君はいずれ、彼女のことを疎ましく感じるようになるさ』

『そんなことあらへんわっ。せっかくできた彼女なのに、大切にせえへん意味が分からん』

『頭で思ってることと、心で感じることは別なのさ。まあ、そのうち君も理解できるって』

『なぬ〜』

 脳内の学は僕の妄想の産物に過ぎないのに、実際の学が本当に言いそうなことばかり告げてくる。

『ええから見とけ。僕は絶対に真奈を手離さへん』

『そうかい。まあせいぜい頑張りたまえ』

 もわわわん、と雲と一緒に霧散した脳内学。気がつけば僕は肩でぜえぜえと息をしていた。

「恭太くん大丈夫? 顔色悪いみたいだけど」

「大丈夫……ごめんやで」

「なんで? なんだか、今日は謝ってばかりね」

「そうかな? ご、ごめん」

「ほらまた」

 真奈が「何か辛いの?」と僕の頭をぽんぽんと撫でる。ああ、なんて温かい手だ。僕はこんなに優しい真奈の想いを踏みにじろうとしていたのか——。

「ありがとう。もう大丈夫や」

「よかった〜」

 大丈夫、大丈夫。
 何度も自分に言い聞かせる。これだけ彼女のことが好きなのだから、僕は大丈夫。
 けれど、この時点で僕は気づいていなかった。そもそも、自分に言い聞かせなければならないくらい、心が「大丈夫」を保てていないということに。
 彼女の想いが、ちょっとずつ心に重くのしかかっているということに。


 それから約一ヶ月後、クリスマスを一週間後に控えたタイミングで、僕のHPはほとんど尽きかけていた。

「だから、言わんこっちゃない」

「嘘だ……こんなのは嘘だ……」

 アポも入れずに突然押しかけた学の家のコタツに肩まで埋めながら、僕は深くため息をついた。
 この一ヶ月間、真奈との間に実にいろいろなことが起きた。「いろいろなこと」なんて濁して言わなければならないほど、僕は心にダメージを負っている。

「で、何があったんだい?」

 心の傷を容赦なく抉ってくる仙人・学を怨みつつ、しかしこうなったのはすべて自分のせいなのだと悟り、彼に洗いざらい話すことにした。

「……小学校の同級生の女の子から久しぶりに連絡が来てさ」

「君に女の子の友達がいたなんて意外だな」

「さっそく失礼なやつだな。とりあえず最後まで聞けよ」

「うい」

 その返事……真面目に聞く気はあるのかと問いただしたい。でも、今の僕には真奈との間に起こった事件を話す以外に体力を使うことができない。

「いきなりの連絡だったからテンパったわけよ。それも、真奈とのデート中やったし。内容は年明けに同窓会をしないかっていう
お誘いやったんやけどさ」

 コタツに埋もれているはずなのに、背筋が冷たい。ああ、きっとあのおぞましい事件を思い出して鳥肌が立っているのだ。

「ちょうど真奈が隣にいて、スマホを見て驚く僕に不信感を抱いたんやな。『いま、女の子から連絡が来たでしょ』っていきなり
核心をついてくるもんで、とっさに『あ、うん』って頷いてしもたんよ」

「……素直なやつだな」

「仕方ないやろ。学も知ってる通り、僕は不器用なんよ。とっさの立ち回りがまったくなってなかった」

 もっとも、こういう時に上手く立ち回れる器用さを持ち合わせていたら、きっと僕はスマートで賢い男として女の子にモテる人生を歩んでいただろう。

「とにかく、女の子から連絡が来たことがバレてもうて、それからはもう話すのも憚られる……」

 僕はぶるぶるっと身震いした。さっきからコタツに入っているというのに寒すぎる。
 あの時のことを思い出すと本当に背筋が凍る。女の子と連絡をとらないという約束を破った僕に、真奈はまったく口をきいてくれなくなった。普段は女の子らしくて朗らかな真奈が、デート中ずっと無言でいることはかなり堪えるものだった。そして、そのお通夜デートが終わってから一言、

「スマホ、預からせてもらうね」

 と淡々と言い放った真奈は僕のズボンのポケットからスマホを抜き取り、そのまま自分の鞄に入れてしまったのだ。
 それが、一昨日のこと。

「ああ、だから今日連絡もなしにうちにやってきたわけだ」

「ご名答。だって、連絡手段がないんやもん!」

 それ以前にも、スマホにGPSをつけられたり、単発バイトの間中バイト先の入り口で待たれたり、大学に行くのにも後をつけられたり。それはもう、まごうことなきストーカーとしか言いようのない行為を真奈は繰り返していた。

「も、もう限界なんや……。さすがに、どんなに好きでもこれは耐えられへんっ」

「……」

 心の悲鳴を上げる僕に、さすがの揶揄戦士・学もおちょくることができないご様子だ。「ちょっと失礼」とその場を立った。トイレにでも行くんだろう。
 真奈のことを考えれば考えるほどに、心がざわついて苦い味が胸いっぱいに広がるような心地がした。あんなに好きだったのに、今は真奈のことを疎ましいと思っている。その事実が、とんでもなく苦しいし、彼女にも申し訳ない気持ちになる。でもやっぱり耐えられないものは耐えられないのだ……!

「これでも飲みなはれ」

 カタン、と彼が焦げ茶色の陶器のコップに入れたお茶をコタツの上に置いた。

「みかん茶だよ。柑橘の香りは気分を落ち着けてくれるからね」

「あ、ありがとう」

 トイレに立ったわけじゃなかったのか。わざわざ僕のためにみかん茶なんて珍しいお茶を淹れてくれたんだ。
 温かいお茶を口に含むと、ほんのりと香るみかんの香りが鼻腔をくすぐった。しつこすぎない匂い。意識しなければみかん茶だと気がつかないくらい、お茶の味に溶け込んでいて、控えめで美味しい。
 僕が惚れた真奈も、控えめで可愛らしい女の子だったはずだ。それがいつしか僕を締め付ける存在へと変わってしまった。あの可憐な真奈はきっともう帰ってこない。

「別れても、いいんやろか……」

 付き合った当初、別れることになるなんて微塵も想像していなかった。しかも自分から別れを切り出そうなんて。自分に彼女ができたことが奇跡みたいなもんで、この子を手放せばもう一生恋人なんかできないと思っていた。
 しかしちょっと付き合っただけで、簡単にボロは出た。彼女は僕のことを好いていてくれるがゆえに、重たい女だと思われるようになった。それで振られる彼女は可哀想といえばそうだ。悪い人ではないのだ。ただ好きという気持ちが、彼女を暴走させているだけなのだから。

「仕方ないさ。恋なんて、最初から最後まで自己満足に過ぎないよ」

 遠い目をして呟く学。三輪さんへの恋を失恋したからか、以前よりも言葉に説得力が増している。
 彼の格言を聞いて、僕はよくやく決意を固めた。
 来週はクリスマスだ。こんな気持ちのまま、真奈とクリスマスを過ごすのは真奈に失礼だと思う。なんとかそれまでに決着をつけるんだ!

「クリスマス・クライシスだね」

 キラーンという効果音でも聞こえてきそうな切れ目をして、彼は格好良く言い放つ。

「決め台詞みたいに言わんでええから」

 おそらく今すごく気分が良くなっている学とは反対に、僕は大きなため息をついた。


 本格的な冬の寒波が身体の芯から抉るように刃となって襲いくる。なんとか目的地まで辿り着くと、緊張感で一気に身体が萎縮した。
 僕は、肩で息をしながら恋人の揺れる瞳を見つめて、呼吸を整える。

「別れて、欲しいんや」

 あのあと、善は急げだ恭太くん! と首根っこを掴まれてブンブンと身体を揺すられた僕は彼の勢いに負けて、その日の夜に自転車を漕いで真奈に会いに行った。

「今、なんて……?」

 突然彼女の住むマンション前までやって来た僕に、真奈は心配そうな表情を浮かべていた。そりゃそうだ。連絡もなしに突然恋人がやって来たとなれば、本来は嬉しいはずなのに、その恋人の口からまさかの別れ話が飛び出して来たのだ。もっとも、連絡できなかったのはスマホを取り上げられているからだが。
 そして、彼女の懸念通り僕は彼女が一番聞きたくないであろう台詞を放ったのだ。
 僕と彼女の間に冬の冷たすぎる夜風が吹き抜ける。コートを一枚羽織っただけの僕は、はああっくしゅんっ! と盛大なくしゃみをした。普段なら真奈がポケットからティッシュを差し出してくれるのだが、この時ばかりは彼女も硬直していて眉一つ動かさない。

「僕さ、真奈と付き合えて本当に幸せやったんや。本当ならずっと幸せなまま付き合っていたかったんやけど」

 言わなくちゃいけない。彼女が僕のことを本気で好きでいてくれた分だけ、僕も本気で彼女を振るんだ。

「最近、ちょっと気持ちが重なってきて……僕は真奈の気持ちの大きさに応えられへんっ。このままじゃ真奈のこと傷つけてまう。やから、別れて欲しい」

 彼女は、僕の必死の別れの言葉を無言で聞いていた。泣くことも喚くこともせず。まるでそれは何が起こっているのか分からないという戸惑いのようでもあったし、この時が来るのを予感していたからこその落ち着きとも感じられた。

「嫌……」

 彼女がふるふると身体を震わせる。殴られるか、泣きつかれるか——どちらに転んでもおかしくない。だって僕は、僕を大好きでいてくれる彼女を振って、傷つけたのだから。僕は息をのみ、覚悟して目を瞑った。

「嫌だって、言いたい……でも、もう決意は固いんだよね」

 予想外の言葉に、僕はゆっくりと目を開ける。
 目の前には、潤んだ瞳から涙がこぼれないように必死に我慢している真奈がいた。

 彼女のことだから、もっと泣きついてくるのかと思っていた。
 別れたくないと僕を引き止めてくると覚悟していた。
 しかし、僕の言葉に小さく頷いた彼女は、諦めたように眉を下げて笑う。だから僕も、ゆっくりと頷いた。

「分かった。やっぱり重かったんだ」

「自覚あったん?」

「うん、ちょっとは。実はね、前の彼氏から振られたのも浮気って言ったけど……私が重かったのが原因なの。。私、ちっとも成長してなかったんだね」

「そんなことは……」

 意外だった。彼女が自分の行いを客観的に見つめていたということ。女の子と付き合うのが初めてだった僕には、同じ理由で二回も恋人に振られた彼女の気持ちを完全に理解することはできない。でも、僕の意思を受け入れてくれた彼女のことを思うと、胸がツンとした。ああ、僕は真奈のことが本気で好きやったんやな。だからこそ、辛さを必死に噛み殺している彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになってるんや……。

「ごめんね、恭太くん」

「謝らんでええよ。むしろこっちこそごめん」

「ううん。私、次は頑張るから」

「うん」

「もしまた会ったらさ、成長した私を見てよ」

「分かった。期待してるで」

 泣き笑いを浮かべる真奈に、僕もつられて泣きそうになった。でも僕が泣くのは違う。僕が泣いたら、この後真奈は一人で泣かれへんくなる。

「あ、そうだ。スマホ返すからちょっと待ってて」

「ああ」

 家の中に戻っていく真奈。僕は遠ざかる真奈の背中をぼうっと見つめる。
 しばらくして戻って来た彼女は僕の手にスマホを握らせた。

「はい、クリスマスプレゼント」

「何やねんそれ」

「ふふっ」

 最後まで可愛らしい彼女でいることを怠らなかった真奈は、「遅いから早く帰った方がいいよ」と僕の背中を押した。

「真奈」

「ん?」

「ありがとうな」

 最後にそれだけ伝えたかった。
 真奈と恋人になれたことで、少なくとも僕の灰色の大学生活は色を取り戻した。たった数ヶ月の付き合いだったけれど、真奈との紡いだ思い出は僕の人生にとって必要不可欠な宝だ。
 真奈は淡く微笑んで頷いた。きっと今傷ついているはずなのに最後まで気丈に振る舞うなんて、やっぱり君はすごいよ。
 彼女に背を向けて僕は自転車に跨る。
 背後からくちゅん、という可愛らしいくしゃみの音が聞こえたけれど、僕は振り返らない。

 12月の京都の夜は、独り自転車で駆ける僕にはあまりに暴力的な寒さを運んでくる。顔面に凍てつくような寒さの風が突き刺すたびに、ヒリヒリとした痛みを覚える。手袋をしているはずの両手の感覚がなくなっていく。それでも必死に漕ぎ続ける。いち早く彼女から遠ざかりたい一心で。だってそうしなければ、彼女が早く一人で泣けないと思ったから。


「ぷはっ」

 熱い。身体がむずむずと熱を帯びているのを感じながら、私は布団から跳ね起きた。今、たぶん37度はいっているだろう。しかし前後の記憶がない私は、なぜ自分がいまベッドから起き上がったのかすら分からず不思議だった。しかも、よく見ると私の部屋じゃない。理路整然と並んだ家具や本棚にずらりと並べられた心理学の本を見る限り、ここはつばきの部屋、だと思う。

「わ、びっくりした。大丈夫?」

「……つばき」

 ああ、そうだ。私は確かつばきとご飯を食べていて、途中で頭がぐらぐらしてきて——たぶん倒れたのだ。

「えっと……家に運んでくれたんだ。ありがとう」

「運んだ? いや、ずっと家で飲んでたんじゃん。それでぶっ倒れるからベッドに寝かしといただけよ」

「家で……?」

 あれ、なんか記憶が混乱している。
 私はさっきまでイタリアンレストランでつばきとご飯を食べていたんじゃなかったっけ……? それが、つばきの家で宅飲みをしていたことになっている?

「つばき、今日って何日だっけ」

「12月17日」

「……え」

 おかしい。私の記憶では今日、11月21日なんだけれど。なぜ1ヶ月も記憶が飛んでいるんだ。

「もしかしてまた記憶が飛んだの?」

「……そうみたい」

 これまでもちょくちょく記憶が飛ぶことがあったが、こんなに長い期間の記憶が空白なのは初めてだ。

「熱があるみたいだし、苦手な割に結構お酒飲んでたから混乱してるのよ、きっと」

「そっか、そうだね」

 つばきはいつも冷静で、私を落ち着けてくれる。こういうところが本当に頼れるお姉さんという感じで、私は彼女の世話になりっぱなしだ。

「あ、そういえば」

 私はポケットから自分のスマホを取り出し、例のマッチングアプリを開く。
 私の記憶がどうにかなっている間、「ライク」をしてくれている人が百人以上溜まっていた。ずっと放置していたのだから仕方ない。「ライク」をしてくれた男性のプロフィールを覗く前に、私は「ユカイ」とのメッセージ画面を開いた。

『初めまして! メッセージくださって嬉しいです。よろしくお願いします』

 前回ユカイがメッセージを送ってくれてからというもの、私は何も返事をしていなかったのだが、さらにユカイから新しいメッセージが来ていた。

『奏さん、ここで色々とやりとりするより、会って話がしてみたいです。もしよければ返信ください』

「おお……」

「どうしたの、カナ」

 スマホの画面を見て固まっている私を訝しく思ったのか、つばきがそう聞いてきた。

「いや、例のマッチングアプリの人からメッセージが来てた」

「へえ、どんな?」

「なんか、会いたいって」

「え!」

 マッチングアプリを使ったことのないつばきは分かりやすく驚いているが、「会いたい」と言われること自体は特にびっくりすることはない。
 それよりも意外だったのは、ユカイが見た目のチャラさに反して本当に丁寧なメッセージを送ってくることだ。前回のメッセージに返信していない私にうざがられないように気を遣っている様子が窺える。

「展開が早いのね。で、会うの?」

「うーん、どうしようかな」

 私としてはもう少しメッセージでやりとりをしてから会いたいというのが本音だ。しかし彼の言い分もよく分かる。散々ここで
やりとりをして結局会ってくれない女の子もいるだろうし、そうなるぐらいなら最初から会える人かどうかを確かめたくなるものだ。

「来週クリスマスだし会っちゃえば?」