「猫缶だって、猫缶!」
「いや、だからなんで猫缶……つか、俺は」
「みゃあ」
 唐突に猫の声がした。
 怪訝に思って彼女をよく見れば、腕の中に白黒のパンダのような斑模様の仔猫を抱いていた。
「この子のための猫缶! ダメ?」
「みゃあみゃあ」
 まだ生まれて数ヶ月ほどの仔猫だった。
「……はぁ。分かったよ。少し待ってろ」


 *** *** ***


 名前も知らないその少女の命令を律儀に聞く理由なんてないはずなのに、俺は、気が付けば高級猫缶が入った袋を手に河川敷の橋の下に再び立っていた。

「おぉー、ご苦労!」
 ぴっと調子よく手を挙げ、軽い声色で労ってくる少女。俺は猫缶と牛乳の入った袋を渡しながら訊ねた。
「……あの、君、誰? こんなとこでなにしてるの? 学校は?」
 買い物中、冷静になったらいろいろと聞きたいことがあふれてきたのだ。タダで猫缶をやったのだ。それくらいは許されるだろう。

 すると、少女はころころとした幼い笑い声を上げた。
「あはは! お兄さん今さらー? というか、私だよ、私!」
 少女は自分を指さして、じっと俺を見つめてくる。俺はきょとんとなった。
「は? え、なに、俺たち会ったことあった?」
「……うそ! 本当にわかんないの? うん、まぁわかんないか」

 その少女を改めてじっと見てみるけれど、やはり見覚えはまったくない。

 蒸した橋の下を猫缶の油っぽい匂いが満たしていく中、少女はじっと俺を見上げ、かすかに微笑んだ。

「そっかぁ。じゃあ自己紹介! 私は葉月(はづき)つばめ。つばめでいいよ、お兄さん」

 なんだ、やっぱり知らない子じゃないか、と思う。
 名乗られた名前には、まったく聞き覚えがなかった。

 風が彼女の香りを運んでくる。数年ぶりに感じる異性の匂い。さらりとした細い首元に、長い睫毛。筋肉のないふわふわと柔らかそうな太ももに、男とは違う甘ったるい声。

 俺は目のやり場に困って、咄嗟に川の反対側へ顔を向けた。
 改めて呆然として、ハッとする。
「……学生がこんなところでなにしてるんだ?」

 すると、少女――葉月はさらに笑った。
「もーそんなのどうだっていいじゃん! それよりこの子、なんて名前にする?」
 この子、と言いながら、少女は猫缶にかぶりつく仔猫を見つめた。
「いや待て。この猫、君の猫じゃないの?」
「うん。今さっきここで見つけたー」
「野良猫かよ……」

 なんてことだ。俺は野良猫のために猫缶を……しかも高級な、結構いい値段がしたやつを貢いだのか。

「あーっ! そうだ! いいこと考えた! この子、お兄さんが飼ってよ!」
「はぁっ!?」
 なにがいいことなのか、さっぱり分からない。
「なんでだよ。俺は無理だって……」

 即刻拒否すると、少女はムッと口を尖らせて女の匂いという武器をまといながら詰め寄ってくる。

「じゃあ、この子をこんな場所に置いてけぼりにするの? それでお兄さんの良心は痛まないの!?」
「いやいやいや。いきなり無茶振りしてくんな! 悪いが、俺はこの猫缶と牛乳で精一杯だ!」

 初対面で随分と図々しい女だ。厄介な女に捕まってしまった。きっと、あの言葉はなにかの聞き間違いだ。まったく驚いて損したと、俺は目を伏せた。
 聞き間違いだと結論付けた瞬間、冷たい風が頬をなめらかに撫でていく。
 
 気が付けば空はすっかり薄暗くなっていた。
 分厚い雲からは、ぽつぽつと雨が降り出してきている。

「うわ、雨だ! ヤバい、洗濯物こむの忘れてた。悪いけど、後片付けはよろしく。じゃあな!」

 俺はベランダに干しっぱなしにしていた洗濯物を思い出し、言い訳するようにわざと口に出した。そして、そのまま逃げるようにして走り出す。
「はあっ!? ちょ、待ってよー! 裏切り者ー!」

 背中に抗議の声を受けながらも、俺はそれに聞こえないふりをして家路を急いだ。


 *** *** ***


 無事洗濯物をこみ、買ってきたビールやら惣菜やらインスタントラーメンやらをあるべき場所へしまうと、ほっと一息ついた。
「クソ。ビールめっちゃぬるくなってるし。……それにしても、あの子はなんだったんだ……」

 青天の|霹靂(へきれき)とは、まさにこのこと。
 彼女に関しては、気になることがたくさんあった。彼女が着ていたあの制服は、記憶の限りでは隣町の高校の制服のもの。学校が終わっている時間とはいえ、隣町からだと軽く一時間以上はかかるあの場所に、なぜ一人でいたのか。
 それだけじゃない。鞄も持っていなかったし、
「あの言葉……」
 彼女がよく言っていた言葉だ。
『運命とは、まるで真昼の雷のように突然で、夢のように儚いものである』

 懐かしさが胸にあふれてくる。

 あの言葉はもしかして、有名なだれかの言葉なのだろうか。
 
 視線を流し、茶の間の棚に置かれた縦長の四角い写真立てを見た。そこに写っているのは、五年前の俺と、当時付き合っていた彼女の結花(ゆいか)。つやのある黒髪と、笑顔がよく似合う柔らかい顔。白く細い華奢な体は、清楚な彼女に良く似合う薄い青色のワンピースに包まれている。
 
 結花とは、大学で出会った。一目惚れだった。気立てが良くて可愛くて、男女問わず人気があった結花。地味で眼鏡で人気もない俺は、なかなか声をかけられずにいた。

 初めて話したのは、ゼミ生同士で飲みに行ったときだった。口下手で飲み会の席にも慣れていない俺は、すぐに酔っ払った。俺はどうやら酔っ払うと長々と話をするタイプらしく、そのとき結花は、そんな面倒な酔い方をした俺の話を律儀に相槌を打ちながら聞いてくれた。翌日、面倒だったけど楽しかったと言われ、恥ずかしいと思う反面、舞い上がったのを覚えている。

 勇気を出して結花をデートに誘って、三度目に食事に行ったときに帰り際に告白して。結花は笑って頷いてくれた。

 結婚するつもりだった。お互いそのつもりで両家との顔合わせも済ませていたし、結婚式もいつにしようかなんて話をしていた。
 幸せだった。なにを疑うこともなく、この世界は素晴らしいと疑わなかった。
 べつに、特別なことを望んでいたわけじゃない。ただ結花がそばにいてくれればなんにもいらなかったのに。

 ――付き合い始めて四年後の夏、結花は突然いなくなった。
 
 もしもこの世に神様がいるのなら、ひとつだけ質問をしたい。俺から結花を奪うのなら、どうしてわざわざ出会わせたりしたんだと。

 俺と結花はまったく別々の個体のはずなのに、あの日から俺は、心がぽっかりと抜け落ちてしまったようだった。

 窓の外を見る。雨の音が激しくなった。
 カーテンの隙間から見える灰色の空。風が窓を叩く。時折、稲光が部屋を不気味に照らした。重いなにかが転がるような音に、眉を寄せる。

 ふと、失ったはずの心臓が脈を打った。俺はそれに気付かぬふりをして、台所に立つ。

 鍋に水を入れ、火にかける。ほどなくしてぶくぶくと泡を立てて沸騰したお湯にインスタントのラーメンをぶっ込む。ぐつぐつと鍋の中で踊る黄色い糸に意識を集中しながらも、雨の音が気になって仕方がない。

「……くそ」

 コンロの火を止めるだけして、鍋はそのまま。菜箸すら突っ込んだまま、俺はタオルと傘を二つ持って家を飛び出した。