そこは優しい悪魔の腕の中

 バイクの後部座席で、私はレオを見上げていた。
 ヘルメットの下で風に銀髪が揺れる。水晶のように無機質な色合いの髪だ。
 けれど腰につかまっていると確かな人間の体温を感じる。服越しに、女の私の体とは違う、張りのある筋肉の感触がある。
 夕暮れの赤い日差しを頬に受けながら、私は目を細めた。
 レオはわがままだし、基本的に自分のことしか考えないみたいだし、私のことが好きなわけでもない。
 でも私にぬいぐるみをくれた。パンを買ってくれた。これだけだとまるで物にひかれたようだけど、私はこんなに嬉しかったのは初めてだ。
 ……だって、好きな人がくれたものなのだから。
 ぎゅっと、落とさないように一生懸命ぬいぐるみを抱きしめる。
 ふいにバイクに並走してきた車の窓が開いた。
「そこのバイク、止まれ!」
 私は周りを見回す。いつの間にか五台ほどの車に囲まれていた。
「帰すところなのにな。せっかちな人たち」
 レオはぼそりと呟いて、カーブを曲がるとブレーキをかけた。
 山間の道で、背後には海が見えた。
 一斉に車から筋の者と思われる人たちが降りて来て取り囲まれる。
「ちょっとがまんしてね、ハルカ」
 ヘルメットを外して投げると、レオは私の腰の後ろから腕を回して立った。
「動かないで。お嬢様の頭が吹き飛ぶよ」
 彼はもう片方の手で私の頭に固い何かを押しつける。
「ハッタリだ! びびるんじゃねぇ!」
 男たちはいきりたって詰め寄ろうとしたが、背後から怒声が響く。
「馬鹿者、動くな!」
 気迫だけで鳥が落ちるような、低音の声には覚えがあった。
 びくりと動きを止めた男たちの中で、車から降りた影があった。
 レオは兄に向かって言葉を放つ。
「君がボスだね? 武器を捨ててこっちまで歩いてきな」
 兄は無言で懐からナイフと拳銃を落とす。
 射るような目でレオをにらみながら、兄はゆっくりと近づいてくる。
「止まって」
 レオの言葉通り私たちから三歩先で止まると、兄は低く問いかけた。
「要求は?」
「僕を安全に逃がしてくれること。そうしたらハルカは帰す」
「わかった」
 レオは私の耳に口を寄せて、私にだけ聞こえる声で告げた。
「ハルカ。一度しか言わないよ」
 彼は声を低めて電話番号らしき数字を告げた。
「今度は君が僕を呼んで。……じゃあね」
 頬に口づけたら、彼は私を解放するなり後ろに跳んだ。
 ガードレールを飛び越す。慌てて私が覗き込むと、彼は道路下の、車の助手席に着地したところだった。
「逃げるぞ、追え!」
 疾走する車を追おうとする家の者たちを見て、私は兄に振り向く。
「にいさま、追わないでください! そういう約束ではありませんか」
 兄は無言で私の手を引いて、黒い車の後ろに乗せる。
「にいさま! 聞いていらっしゃいますか?」
 運転席との仕切りが上がって外部から見えないようになった途端、兄は私を抱きしめた。
「……怪我はないか」
 押し殺した声で言われて、私は思わず言葉につまる。
「はい」
「そうか、ならいい……」
 深いため息をついて、兄は私の髪を撫でる。
 車が発進しても、彼は大切そうに私を抱いたままだった。
 私は彼に心配をかけたことに、ずきりと胸が痛むのを感じた。
「にいさま、私が勝手に抜けだしたの。家の人たちを責めたりしないで」
「遥花が言うなら」
 兄は心配そうに私の顔を覗き込む。
「怖い思いをしただろうな。かわいそうに。もう大丈夫だ」
 そんなことはなかったと、私は首を横に振ろうとした。
 でもその前に、兄の声が低くなる。
「……なんだこれは」
 兄は私が抱いていた白いクマのぬいぐるみに気づいて、それを取り上げる。
「遥花に何てものを。おい、処理してこい」
 助手席の人に声をかけた兄に、私は声を上げる。
「捨てちゃだめ!」
「いけない、遥花。何が入っているかわかったものじゃない」
「にいさまも父様と同じことをするの?」
 兄は私が何を言おうとしているのか察したようだった。
「遥花。兄は父とは違う。ぬいぐるみならいくらでもやろう」 
「これがいいの!」
 私は兄の手からぬいぐるみを奪い返して、守るようにして抱きこむ。
 子どものように意固地になる私を、兄は困ったように見下ろす。
 兄はまたため息をついて、シートに片手をついて言った。
「遥花、今の生活は窮屈か?」
 そっと私の目を覗き込んで、兄は優しく尋ねる。
「落ち着かないなら遥花だけの家を用意する。別荘でも何でも建てよう」
 私をあやすように、頼み込むように兄は言う。
「いい子だから、はるか。これからは勝手に抜け出すようなことは……」
「いやっ。にいさまなんて嫌い!」
 私はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、兄から顔を背けた。
 それから私は兄が何を言っても、口を引き結んで答えを拒絶していた。
 それから二日ほどして、私のところに訪ねてきた女性がいた。
「龍二と口利かないんですって?」
 兄の婚約者で、兄の幼馴染である楓さんは、会うなり苦笑を浮かべて言った。
「一体どうしたの?」
「にいさまがぬいぐるみを取ったの」
「あらあら、困ったわねぇ。どうしたら機嫌を直してくれるのかしら」
 楓さんは兄と同い年である二十七で、世話焼きで優しい人だったから、小さい頃から私のお姉さんのような存在だった。
 今日は本来、十日後に控えた兄と楓さんの祝言の時、私が締める帯を一緒に選んでくれることになっていた。
「帯だってもうとっくに決めてあったのに。にいさまが気に入らないって言うから」
 兄があちこちの店から選ばせた帯を部屋いっぱいに広げながら、私はむっとする。
「遥花には一番いい帯を用意したいのよ、龍二は」
「一番いい帯を身に着けるのは姐さんよ。私じゃないの」
 早くからこの組の姐になることが決まっていた楓さんだったから、私は彼女のことを姐さんと呼んでいた。
「これなんてどうかしら? ちょっとつけてみて、遥花」
 楓さんは自ら私の腰に帯を巻き始める。
「まあ許してあげなさい。龍二は遥花がかわいくて仕方ないの」
 頭を撫でるように、楓さんは優しく言葉を紡ぐ。
「遥花は龍二にとってお姫様だもの。大切に慈しんで守りたいのよ」
 私は目を伏せて黙る。
 大切にされていることはわかっている。それに私も甘えてしまっている。
「どうかした?」
「姐さんは、もっと私を叱るべきだと思うの」
 彼女に叱られたなら、私も兄と距離を置こうとすることができるはずだ。
「姐さんはにいさまと並び立つ人なんだから、いつまでもにいさまの足を引っ張ってる私を怒っていいはずなの」
 楓さんは少し黙って、首を傾ける。
「遥花。どうしてあたしが姐になるかわかる?」
 楓さんは穏やかに告げる。
「あたしの組のため、ここの組のため、他にもいろいろな利害関係があるけれど。一番の理由は龍二とあたしの利害が一致したからよ」
「にいさまと姐さんの利害?」
「そう。あたしは一番いい男と結婚したいという願いで」
 苦笑しながら、彼女は続ける。
「龍二は自分の次点を任せる者が欲しい」
「それはにいさまと姐さんが一緒に組を守っていくということではないの?」
「龍二はね、自分一人で組くらい守れるわ」
 一度言いきって、彼女は静かに言葉を続ける。
「ただ、「姐」が要るのよ。あたしがいれば、敵の矛先は遥花でなくてまずあたしに向かうでしょう?」
「え?」
「そして自分に何かあった時に、あたしが遥花を守れるでしょう」
 私は慌てて振り向く。
「姐さん。にいさまは姐さんを大事に思ってる。私よりも」
 楓さんは首を横に振る。
「龍二が一番大切に思っているのは遥花よ。幼い頃から見てきたのだから、それくらいわかってるわ」
「そんなこと」
「龍二は強い男だけど、遥花をなくしたら倒れる。あなたは龍二の心臓だもの」
 楓さんは手際良く、綺麗に帯を締め終える。
「脅しみたいなことを言ってごめんね。あたし自身もあなたのことを愛してるし、守りたいと思ってるわ」
 私を見上げて、楓さんは真っ直ぐに私をみつめる。
「でもお願い、遥花。龍二は誰よりあなたを大切にするから、彼の側にいてあげてほしいの」
「……姐さん」
「甘い言葉に惑わされないで。龍二以上にあなたのことを想う男は他にいないはずよ」
 楓さんが誰のことを言おうとしているのか、私は訊かなくてもわかった。
 私が黙っていると、廊下の方が騒がしくなる。
「帯選びの最中か。気にいったものはあったか?」
 兄は部屋に入って来て尋ねる。
 ぷいと顔を背ける私に苦笑して、楓さんが帯を示す。
「これなんていいと思うの」
「遥花、どうだ?」
 ここで何も答えないのは、選んでくれた楓さんに悪い。
「……姐さんが選んでくれたものがいい」
 私がようやく口を利いたからか、兄はほっと顔を綻ばせて笑う。
「そうか。よかった」
 兄は優しく頷いて告げる。
「他の帯は操に管理させるからな。思い出したら出させるといい」
「他の帯?」
「この部屋の帯は全部遥花のものよ。龍二が買ってあるの」
 一本数十万は下らないはずだ。なんて無駄遣いと、私は顔をしかめる。
「どうしてそんなことするの」
「遥花に怖い思いをさせた詫びだ。もちろん遥花の成人式には別のもっといい品を用意させる」
 絶句した私に屈みこんで、兄は困ったように首を傾ける。
「だから兄を許してくれないか。遥花に口も利いてもらえないと、兄はどうしていいかわからない」
 私は頷いて、口の端を下げるしかなかった。
「それから遥花をさらった男の身元はわかった。もう来ないはずだ」
 兄の言葉に、私は血の気が引くような思いがした。
「もう来ないって……まさか」
 ひどいことをしたのではないかと私は青ざめる。
「大丈夫よ、遥花。それなりの金品を渡して遠ざけたっていうだけ」
 楓さんが横から言葉を挟むので、私は曖昧に頷く。
 楓さんはおどけて私の頭をなでながら言う。
「かわいい男の子はだめだけど、女の子ならあたしが用意してあげる。遥花の周りをきれいにするわ」
「よして、姐さん」
「あら、どうして?」
 私は俯いてぼそりと言う。
「かわいい子がいっぱいいたら、にいさまが浮気するかもしれない」
「あら、ふふ」
 楓さんは兄と顔を見合わせてくすくすと笑う。
「誤解だ、遥花。兄はそんなことはしない」
 兄も甘やかすように私の頭を撫でて笑っていた。
 二人が去った後、私は部屋を抜け出して離れに置いてある電話の元に向かった。
 人がいないのを見計らって、大急ぎでレオの言った番号に電話をかける。
『Hello?』
「レオ、逃げてくださいっ」
 私はレオの声を耳で聞き取った途端、早口でまくしたてる。
「あなたの素性が兄に知れました。もうそこに留まっていてはいけません!」
 楓さんは遠ざけただけと言っていた。
「兄は必ずあなたに報復します。お願い、逃げて……!」
 けれどそれを本当と信じるほど、私は子どもでも兄の怖さを知らないわけでもない。
『あはっ』
 必死で告げた私に、レオは楽しそうに笑い返した。
『ついにハルカから電話がもらえた。嬉しいや』
「そんな呑気なことを言ってないで……」
『僕の素性、本当にわかったの?』
 レオは電話口で悪戯っぽく笑う。
『わかったなら報復なんてできないはずなのにね。まあいいや』
 私が首を傾げると、レオはそれが見えているように続ける。
『ねえハルカ。僕は考えてみたんだ。君が僕にとって何なのか』
 レオは神妙に言葉を重ねる。
『けど、まだわからない。だから決めた。もう一度君に会いに行く』
「いけません!」
『ハルカは僕のこと好きって言った。それは嘘なの?』
 慌てた私に、レオは無邪気な子どものように問う。
「嘘では、なくて」
『僕も君のこと好きだよ。好き同士が会って悪いことなんかないよね?』
 レオは声を弾ませて言った。
『じゃあまたね。楽しみにしてるよ』
 一方的に電話が切れる。
 私は嵐が通り過ぎたような気分がして立ち竦む。
 けれどおそらく、本物の嵐はこれから来るのだろうと思った。
 兄と楓さんの祝言が一週間後に迫った頃、都内のホテルでパーティが開かれた。
 兄が暴力団の長であることは公然の秘密だが、一応彼は多くの傘下を抱える企業の会長という表の地位も持っている。
 その兄と同じく大企業の社長令嬢である楓さんの結婚は当然のように注目を浴びていて、百人ほどの客が訪れた。
「お嬢様はいつ見ても優雅で、大和撫子そのものでございますね」
「いえ、わたくしはまだ子どもで。いつか奥様のような気品を身につけられたらと思っております」
「あらあら。お嬢様ったら」
 財閥の会長夫妻や俳優、海外の貴族など様々な人が招待されていた。
 物心ついた頃から兄に連れられて上流階級の人たちの相手をすることを覚えたから、今更気疲れすることはない。
 けれどドレスの衣擦れやシャンデリアの眩しさに溢れた馴染んだ空間で、ふっと意識が宙に浮くのを感じる。
 レオの腰にしがみついて、排気ガスにまみれながらバイクで疾走した感覚がふいに蘇る。
 たった半日で、他愛ない話しかしなかった。それなのにあの日の一瞬ごとが夜空に浮かぶ星のように胸の中で瞬く。
「はるか?」
 自分で帰ると決めたはずなのに、一目だけでもレオに会いたいと思ってしまう。
「遥花、顔色が悪い」
 はっとして顔を上げると、兄が心配そうに私を見下ろしていた。
「……なんでもありません」
「無理をするな。今朝もあまり食べていなかったじゃないか」
 兄は招待客に向けていた完璧な微笑を消して、首を横に振る。
「具合が悪いのにこんなところに連れてきた兄が悪かった。誰か、車を……」
「龍二」
 家の者を呼ぼうとした兄を、急ぎ足で近付いてきた楓さんが呼びとめる。
 その声が強張っていたのを兄も気づいたらしい。
「どうした」
 あでやかな真紅のドレスに身を包んだ楓さんは、心なしか青ざめて見えた。
 ……その後ろに、タキシード姿の銀髪の少年が立っていた。
「ご招待ありがとうございます」
 貴族の子弟のように優雅に一礼したのは、まぎれもなくレオだった。
 きらめく碧の目で、レオは私を見て微笑む。私は時を忘れて彼を見返した。
 言葉を挟んだのは兄だった。一歩進み出てレオに問う。
「私の思い違いでなければ、初めてお会いするように思う。どちらからいらっしゃったのだろうか?」
 兄は楓さんと違って顔色を変えなかったが、守るように私を後ろに隠しながら言った。
『カルナコフ家三男、レオニード・カルナコフです。こちらは従兄弟のアレクセイ』
 レオの後ろに影のように立っていた青年も、軽く会釈する。
 兄は顎を引いて、何かに思い当ったように目を上げたようだった。
『今まではあまりお付き合いがありませんでしたが、父はこの期に懇意にさせて頂きたいと言っておりました』
『お父上の噂は伺っている。各国に優秀な一族をお持ちだ』
『ありがとうございます』
 私はレオから目が逸らせなかったけれど、兄の言葉の真意は感じ取れた。
 レオの家も裏の家業を持っているらしい。兄たちと同業者、しかも相当な規模を持つのだと察せられた。
 そして兄はそのファミリーともめることができない。たぶん招待客のリストには載っていなかったはずのレオを追い返す様子もない。
『美しい妹さんですね』
 目を細めてレオが告げると、兄は表面上穏やかに返した。
『私にとっても自慢の妹だ。が、今は少し気分が優れないようだ。失礼する』
『それはいけない』
 レオは掠め取るように私の手を取って引く。
『気分を変えるといいですよ。私と踊りましょう、お嬢さん』
 会場内にかかるピアノの音に合わせて、レオは私を躍らせ始めた。
 ダンスならたしなみとして覚えてはいるけれど、私は心臓が高鳴ってつまずきそうになる。
「びっくりした? ハルカ」
 ふいに耳に口を寄せるようにして、レオは悪戯っぽくささやいた。
「びっくりなんてものでは……ありません」
「ね、僕に会えて嬉しい?」
 顔を離して、レオは花のように笑う。
「……はい」
「嬉しいよ。二人ともそうって、幸せなことだよね」
 他に踊っている人などいないから注目を浴びる。けれどレオは周りなどちっとも気にする様子がない。
 呼吸でもするように軽やかに踊りながらレオは言う。
「実家の名前もたまには役に立つなぁ。まあ、アレクを連れて行くっていう条件はつけられたけど」
「大丈夫なのですか? その……」
「それは誰の心配?」
 レオは首を傾けて言う。
「僕のことだったら、何にも心配要らないよ。僕は昔から好きなように過ごしてきて、それの邪魔をする奴は片っ端から片付けてきたもん。父さんだってもう諦めてるし」
 呆れる私に、彼は悪意を感じられない口調で告げた。
「なんとなく日本の音大に籍を置いたままにしてただけで、そろそろ帰国するつもりだったんだ。でも思いがけず面白い子をみつけた。君だよ」
 レオは笑いながら目は真剣に言う。
「ハルカ。君は僕の特別な子かもしれない」
 私は思わず目を瞬かせる。
「女の子だけど、君とは手もつなげる。キスもできる。それなら、僕らは結婚だってできるんじゃない?」
 突拍子もないことを言われて、私は一瞬息もできなかった。
「あなたは、私のことが面白いと……それでまさか、結婚?」
「うん、そう」
 こくんと頷いて、レオは私を澄んだ碧の目でみつめる。
「そうしたらもっと面白くなるんじゃないかなって」
 楽しい提案をするように言って、レオは私をくるりと回転させる。
「ハルカも面白いと思わない?」
 再び向き合ったレオは、繊細な水晶細工を思わせる顔立ちを際立たせるような、汚れのない微笑を浮かべていた。
 自分が結婚するなど考えたこともない。
 兄が私に家を出ることを許すとは思えなかったから、無意識に考えることを避けていたのかもしれない。
「レオ。いくらなんでも目立ちすぎです。追い出されますよ」
 足音も立てずにレオの従兄弟の青年が近付いてきて、小声で声をかける。
 レオは不機嫌そうに振り向いたけど、ふと私の顔を眺めて言う。
「ハルカ、本当に気分悪いの?」
 何気なくレオは呟いて、辺りを見回す。
「僕だけ楽しくても駄目じゃない。お水持って来てあげる」
 踵を返したレオの背中を、私は惜しむようにみつめた。
 その一瞬の時間を奪うようにして、兄の声が降って来る。
「車を回した。今日はもう帰るんだ、遥花」
 兄は私の肩を掴んでほとんど歩き出そうとしながら促す。
 ……帰りたくない。
 首を横に振ってそう告げようとした私を、兄が眉をひそめて見下ろした時だった。
 視界の隅に鈍く光るものが映った。
 尖った先端が、シャンデリアの光を反射しながら私の胸に向かって突き進む。
 一瞬の内に兄が動いた。
 私を横に突き飛ばして、その前に兄が立ちふさがる。
 ザクッという、嫌な音が耳の奥に響く。
「会長!」
 すぐさま家の者たちが集まって来て兄から男を引きはがし、取り押さえる。
 私は床に手をついたまま、何が起こったのかもわからず呆然とする。
 兄が脇腹から血を流していた。
「にいさま!」
 ……兄が刺されたのだと認識した途端、私は飛び起きて兄に駆け寄る。
「遥花……遥花に怪我は?」
 家の者たちに取り囲まれながら、兄は問いかける。
「私はここよ! どこも怪我してない」
 兄の押さえた手から血が溢れるのが見える。
 兄は私に目を細めてうなずいてみせた。
「そうか。ならいい」
 震えながら隣に膝をついた私の頭を、兄は血に濡れていない方の手でそっと撫でた。
「大丈夫だ、遥花」
 安心させるようにゆっくりと告げて、兄は顔を上げる。
「騒ぐな。大した傷じゃない」
 低い声で制止してから、兄は家の者たちに指示を出し始める。
「誰も外に出すな。共犯者がいないか洗い出せ。ただし客人たちには丁重にな」
 楓さんがやって来て兄の耳元で言う。
「医者の手配と口止めはしたわ。後は私が」
「わかった。お前に任せる」
 多くを語らなくとも意思を察し合える信頼が二人の間にはあった。
 応急処置を終えると、兄は家の者に支えられながらも自分の足で歩いて別室に向かう。
 私は自分にできることはないかと考えてみたけれど、混乱した頭ではまとまらなかった。
 自分のふがいなさに唇を噛んで立ち尽くした私に、場違いなほど明るい声が降りかかる。
『ハルカ。いいこと教えてあげよっか』
 顔を上げるとレオだった。彼は突然の凶事に慌てる客人たちの中でも、そんなことなど関係ないとばかりに涼やかな顔をしていた。
『あれは君を狙ったんじゃなく、最初から君の兄さんを刺すつもりだったね』
 つと私は眉をひそめる。
『もっと言うと、殺すつもりはなかった。そうだよね、アレク?』
 レオが視線を横に向けると、いつ来たのか彼の従兄弟がそこに立っていた。
『やり口がずさんですし、殺意が全く感じられませんでした』
『うん、全然やる気がなかったよね』
『何を言って……』
『本当だよ。SP経験があって軍にもいたアレクが言うんだから』
 レオはくすっと笑って首を傾げる。
『事前に襲撃者を買収しておいて、わざと刺されたんじゃないかな。たとえば敵方の親玉をはめる目的か……それとか』
 思いついたように、レオは指を立てる。
『君を自分の元に留めるため。あはっ、だったらずいぶん姑息な方法を取るよね』
 心臓に火が点いたように、私の体がかっと熱くなる。
「……ふざけないで!」
 ぱんっと、音を立ててレオの頬を平手でたたく。
「よくもにいさまを侮辱したわね。何がいいことよ。姑息な真似をしてるのはあなたでしょう?」
 何が起きたかわからないといったように、レオはきょとんと私をみつめる。
「にいさまはね、ただの厄介者だった私のところに、唯一お見舞いに来てくれた人なのよ!」
 私はほんの数回父に情をかけられた愛人である母から生まれた。母が亡くなって仕方なく本家に引き取られたけれど、父だってほとんど私のことは無視していた。
――俺は遥花のにいさまだよ。俺のことを頼っていいんだ。
 兄は病気で寝ている私の所に毎日お見舞いに来て、励ましてくれた。
 父や長兄、他のどんなものからも庇って守ってくれた。
「愛してるのよ……!」
 兄からの愛情も、私が兄を愛していることにも、疑いを感じたことなど一度もない。
 私の頬につたうものを、レオは硬直しながらみつめていた。
 踵を返して、足早にその場を去る。人前だというのに、私は涙が止まらなかった。
 兄の怪我は幸いにも脇腹を掠めただけだったらしく、二週間もすれば完治すると聞いて胸を撫で下ろした。
 元々鍛え上げられた若い体だ。医師も傷の治り具合に舌を巻いていた。
「遥花と一緒に過ごせるなら怪我をするのもいいな」
 さすがに三日間は家で休んでいた兄だったが、側についている私に笑い返すくらいの余裕があった。
「にいさま、私にできることはないかしら」
 楓さんは兄に代わって昼夜を問わず仕事をこなしている。重要な案件は兄に指示を仰ぐようだが、立派に姐としての役目を果たしている。
「そうだな。兄の代わりに、うちの系列で最近リニューアルした店に行って来てくれるか」
 顔を上げた私に、兄は優しく微笑む。
「遥花の好きなイタリアンだ。遥花はここのところ少し食欲がないだろう? 気分が変わっていいかもしれない」
 結局私のための提案なのだとわかって、私は兄に申し訳なくなる。
「遥花が元気なことが兄には一番の薬なんだ。それにまた怖い思いをさせてしまったからな。くつろいでくるといい」
 パーティの日、涙の跡を消せないままに兄の元に戻った私を、彼は自分の傷のことさえ忘れたように心配してくれた。
 兄がそう言うならと、私はその夜イタリアンレストランに出かけることにした。
 郊外の閑静な住宅街の中にある洒落た洋館は完全予約制で、私が行ったら当然のように貸し切ってあった。
 静かな夜を過ごせるように兄が配慮してくれたのか、一緒にテーブルにつくのは操さん一人で、家の者たちも外に出ていた。
 操さんと言葉を交わしながら、私はゆっくりとしたペースで出される料理を口に運ぶ。
 会話の邪魔にならない程度にバイオリンの生演奏が響いていた。しっとりとした、ロマンチックな音色だった。
 バイオリンで奏でられる民謡やクラシックは美しいなと、私はぼんやりと思う。
「いかがでしたでしょうか、お嬢様」
「大変結構でした。ありがとうございます」
 食べ終わるとシェフが出て来たので、私は礼を述べる。
 料理もおいしかったが、静かにかかるバイオリンの音が心地よかった。兄の怪我で波立っていた心をほっと楽にしてくれた。
「失礼」
 食後のカプチーノを飲み終えたところで、私はお手洗いに立つ。
 廊下を渡って席に戻る途中のことだった。
「……あなたは」
 ベランダから降りてきた金髪の青年は、私の姿をみとめるなり会釈した。
「確か、アレクセイさん? レオの従兄弟の」
「記憶に留めておいて頂いてありがとうございます」
 流暢な日本語で告げて、青年は深く頭を下げる。
「先日は主人が失礼をいたしました。心よりおわび申し上げます」
「あなたが謝ることはありませんよ」
 私が苦い笑みを刻むと、彼はそっと私にカードを差し出す。
「これは主人からです」
 二つ折りになったそれを開くと、そこには拙い日本語で文章がつづられていた。

『ハルカへ
 この間はごめんなさい。ハルカを傷つけるつもりじゃありませんでした。
 僕には泣くほど大切な人も、怒るほど愛している人もいないので、わかりませんでした。
 でもハルカに悪いことをしたということはわかります。ごめんなさい。
 ハルカの好きなものが何か知らないので、僕の好きなものをあげます。
 ハルカが喜んでくれると嬉しいです。 レオニード』

 
 私はメッセージカードに目を通してふと気付く。
「もしかしてこのバイオリン……レオが弾いているのですか?」
 レオのおわびとはこの店に入ってからずっと奏でられている静かな音楽ではないだろうか。
「はい」
 アレクセイさんは頷く。それに、私は心の奥が熱くなる。
「レオはあなたに会って変わったと思います」
 信じられない思いで黙ってしまった私に、アレクセイさんは感慨深げに呟く。
「彼が「僕だけ楽しくても駄目だ」と言うのを聞いて耳を疑いました。昔から、自分が楽しければそれでいいという人だったのに。あなたと会ってから、あなたと一緒に楽しみたいと言うようになりました」
 私は遊園地に行った日のことを思い返す。
――ハルカもやろうよ。
 レオは自分勝手に過ごしているように見えながら、必ず私を振り返った。ジェットコースターもゲームも一緒に楽しんだし、ホットドッグもぬいぐるみも私に買ってくれた。
「時間がありませんので私はこれで失礼します」
「あ、あの」
 何か言おうとした私に、アレクセイさんは穏やかに告げる。
「あなたがまた会いたいと思えば、レオは必ず会いに来ますよ。一緒に楽しめる機会を彼は逃したりしません」
 ではまた、とささやくように言って、アレクセイさんはベランダから夜の闇に消える。
 私は夢の中にいるような心地で、静かに奏でられるバイオリンの音に耳を傾けていた。
 兄たちの祝言が三日後に迫り、毎日が早回しで進んでいくようだった。
 兄が怪我をしてまだ一週間も経っていない。せめて祝言を延期することを勧めたかったけれど、様々な組の幹部や会社の者たちが集まる中でそれは難しいようだった。
 私は祝言の準備や兄の看病をして過ごした。そうは言っても、組関係も会社関係も私はほとんど部外者だったから、悲しいけどできることは少なかった。
 そんな折、真夜中にふと目を覚ました。そうしたら寝付けなくなって、私は数度寝返りを打ってから起き上がる。
 障子を開けると窓越しに月が浮いているのが見えた。冴え冴えとした月明かりが部屋に入り込んでくる。
 肩に羽織をかけて縁側に出る。少しの間、丸い月を仰いでいた。
 幼い頃の私は、夜中に目を覚ますと決まって兄の部屋を覗いた。
 兄はたいてい起きていて、勉強や時には仕事をしていた。
――はるか。
 けれどいつも鍵は開けておいてくれて、私がそうっと扉を開くと彼は微笑んで振り返った。
 それでぐずる私を自分の布団に寝かせて、眠るまで話を聞かせてくれたり静かな音楽をかけてくれたりした。
 そしてそんな子どもっぽいことをした私が父に叱られないように、私が眠りにつくと起こさないようにそっと私を自室の布団に戻しておいてくれた。
 だから私は真夜中に目を覚ますと、自然と兄の優しい話し声と綺麗な旋律の音楽を思い出す。
 そういえばレオを最初に好きになったのも音楽だった。彼はその身にいつも水晶細工のように繊細なメロディをまとっている気がする。
 目を伏せて私は思う。
 兄の声とレオの音楽、二つは共存できないものなのだろうか?
 兄が望むなら、私は一生結婚もせずこの家で命を終えてもいい。
 けれど、私はレオのことが好きで、一緒にいると幸せな気持ちになれる。そのことを正直に兄に話して、理解してもらうことはできないだろうか。
 ……他の誰にわかってもらえなくともいい。大切な兄にだけは知っていてもらいたかった。
 私は廊下を歩いて母屋の方に来る。兄の部屋の明かりはまだついていた。
「少しだけ」
 見張りの家の者にそっと告げると、彼は一瞬迷いながらも道を空けてくれた。
 祝言が間近に迫っていて私のことなど構っている時ではないだろうけど、このことだけは伝えておきたかった。
 襖に手をかけて、私は手を止める。
「いっそ殺してほしいと言っていますが、どうしますか」
「そう簡単に楽にしてやるか。そこまで甘く見られているとは心外だ」
 側近と小声で会話している低い声は兄のものだった。
「酒は一滴も飲ますなよ。肝臓が売れなくなる」
「しかしあんなヤク漬けの体が売れますかね」
「遥花の草履代の足しくらいにはなるだろう」
 兄と側近は愉快そうに小さく笑った。
「あれの姿を一目見たなら、親父殿もあいつを今更後継者になど考えんだろうに」
「本当に何を血迷ったんでしょうかね。龍二様も刺されてやることはありませんでしたのに」
「親父殿を完全に隠居させる口実が必要だったのさ。古参の奴らの手前、親父殿をあいつと同じに扱うことはさすがに出来んからな」
 私は凍りついたように立ち竦む。
 兄を狙ったのは父だったと、彼らは言っている。そしてあいつとは……と、私は息を呑む。
「五年か。まだ足らないな」
 兄は暗い笑い声を漏らす。
「遥花を娼婦の子と嗤った身の程知らずが。この世の地獄に沈むがいい」
 私は思わず襖を開いていた。
「……お嬢様」
 控えていた側近の者たちに動揺が走る。
 しかし兄は私に向けるいつも通りの優しい微笑みを浮かべて問いかけた。
「どうした、遥花。眠れないのか?」
 兄は軽く側近たちを手で追いやる。
「お前たち、今日はもういい。下がれ」
 彼らは慌てて礼を取って退出していった。
 二人だけになった部屋で、私は喉を詰まらせながら言う。
「にいさま……龍一兄様にひどいことをしたの?」
 兄は穏やかに私を見やっただけで答えなかった。
 けれど答えなくても、兄たちが話していたのは間違いなく長兄のことだとわかってしまった。
「私が娼婦の子なのは本当よ。お母様は体を売って生活していらっしゃったわ」
「遥花は高貴の子だ。龍一より父より、もちろん兄より尊い」
 兄は立ち上がって歩み寄ると、私の頬に手を触れる。
「何者も遥花を嗤うことは許されないんだ。罰を受けなければならない」
「龍一兄様を助けて、にいさま」
 私は兄の袖を掴んで顔を上げる。
「あの方だって私たちと血のつながった兄様よ。お願い……!」
 長兄は兄と違って私を軽蔑の目で見る以外のことをしなかった。けれど憎んでいるわけではない。
 足から力が抜けてその場に座り込む。膝の上に涙が落ちた。
「遥花。泣かないでくれ」
 兄は膝をついて私の前に屈みこむ。
「元の生活に戻して差し上げて……」
「遥花が泣きやんでくれるならそうしてやりたい。だがおそらく無理だ」
 薬とか臓器とかの話が耳に入ってきた。もう元の生活に戻れる体と精神状態ではないのかもしれない。
「だったらせめて……楽に……」
 胸がつぶれるような思いで呟いた私の口を、兄は手で覆った。
「それを言うと遥花が苦しむ。言わない方がいい」
 兄は私の頭を撫でて、ひょいと抱き上げる。
「大丈夫。悪いようにはしない」
 隣室に敷いてあった自分の布団に寝かせて、兄は掛け布団を肩まで引き上げる。
「いい子だから今日はもうお休み。遥花」
 兄は私には惜しげもなく優しさをくれるのに、その優しさの半分も長兄には向けられないものなのだろうか。
 私の目から雫がつたって、兄はそっとそれを拭った。
 翌朝目覚めると、既に兄は家にいなかった。
「九州で会議があるそうなんですよ。それだけはどうしても外せないみたいで。明日の昼にお戻りになるみたいです」
 朝食の席で給仕をする家の者に話を聞いた。
「……すみません。下げてください」
 家の者に心配をかけたくないとは思いながらも、気分が悪くてほとんど食べられなかった。
「お嬢様!」
 席を立って戸口に向かおうとしたところで、視界が真っ暗になった。
 私はどうやら倒れたらしく、次に目を開くと隣室の布団に寝かされていた。
 すぐに医師が呼ばれて診察を受ける。ここのところあまり食べていなかったことと前日のショックで貧血になったようだった。
「落ち着いて。大したことはありません」
 私は点滴を受けながら、慌ただしく出入りする家の者たちをどうしようかと考えていた。
 けれど体が酷く重くて制止の声にも力が入らなかった。
 熱も上がってきたようだった。意識が朦朧として、どうにも収拾がつかない心地になる。
 幼い頃からよく高熱を出した。そのたびに兄がお見舞いに来てくれた。
 でも今日は来られないとわかっている。怪我をおしてまでの会議なのだから。
 何度も上がっては落ちる意識の中で、私は夢を見ていた。
 ぼろぼろのぬいぐるみを抱きしめて、私はどこかの座敷に座っていた。白く横長の台が目の前に置いてあって、その上には小さな袋が乗っていた。
 幾人もの人が部屋を出入りする気配を感じる。けれど私は睨むように小さな袋をみつめたまま動かなかった。
 まるで目を逸らしたらそれが消えてしまうかのように、ただその袋を見続けていた。
 ふいに視界に入って来た人たちがいた。五十台くらいの大柄な男の人と、十代前半の少年だった。
――君が遥花?
 少年に声をかけられたけど、私は黙っていた。少年の父親らしい男の人は、周りの人たちと何か話していた。
 ふいに男の人が小さな袋に手を伸ばす。
 その瞬間、私はきっと目を尖らせて立ち上がっていた。
「おかあさん」
 熱に浮かされて呟いた私は、傍らに誰かが座っていることに気付く。
「かわいそうに、遥花」
 額に触れる大きな手と馴染んだ声に、私は目を開く。
「……にいさま?」
 枕元に座って、眉を寄せながら私を見下ろしていたのは兄だった。
「どうしてここに。今日は外せない会議だって……」
「遥花より大事な会議なんてない」
 まだ朝の光が残る時間だ。途中で引き返してきたのだろうかと、私は言葉を失う。
「起こしてしまったか? すまない」
 兄は布を桶の水に浸して絞り、私の額にそれを乗せる。
「にいさま、私のことはいいの。お仕事に行って」
「代理をやっておいた。遥花こそ、兄の心配は要らない」
 私がどれだけ勧めても、兄は腰を上げる気配がなかった。
 兄は私に熱さましを飲ませたり、手ずから果物をむいてくれたりした。
 幼い頃からのいつもの風景に、私は会社の者たちに申し訳ないと思いながらも心を和ませる。
 薬が効いて少し落ち着いて来た頃、兄は言葉を落とした。
「遥花。初めて会った時を覚えているか?」
「ええ」
 兄と初めて会ったのは、母の葬儀の式場でのことだった。
 母の親族がどういうつてを使ってか父を呼んで、兄はそれについて来ていたのだ。
「遥花は親父の手を叩いて怒ったな。「触るな」と」
 母の遺骨に触れようとした父に飛びついて、私は叫んだ。
「「小さくなってもはるかのお母さんだ。汚い手で触るな」と親父に怒鳴った」
 今思えばずいぶん無謀なことをしたものだ。裏社会の長だった父にそんなことをすれば、どんな目に遭ってもおかしくなかった。
「にいさまが庇ってくれなかったら、どうなっていたかわからないわ」
 五歳の子どもの言葉とはいえ、父はさすがに青筋を立てた。だけどその間に兄が割って入って父を宥めてくれた。
 兄は首を横に振って、思い出すように告げる。
「兄は遥花を、本物のお姫様なのだと思った」
 私が目を上げると、兄は眩しいものを見る目で私をみつめていた。
「親父は汚いことや酷いこともした。それを遥花は感じ取って拒絶したんだろう。兄はこの子と半分でも血がつながっていると知って、舞い上がるくらいに嬉しかった」
 兄は首を傾けて苦笑する。
「親父と同じで、兄も汚いことや酷いことをする。遥花に嫌われても仕方がないとわかっている」
 兄はそっと屈みこんで、額の布ごしに私に口づけた。
「だが遥花を愛しているんだ。……それは、わかってくれ」
 私は兄を見上げて口元を歪める。
 兄はしばらく私の髪を撫でていた。何か言い淀んでいる気配がした。
「遥花、兄に何か話したいことがあるんじゃないか?」
 手を止めずに、彼は穏やかに私を見下ろす。
「それを言ったら兄が怒ると思っているかもしれないが……兄は遥花に怒ったりなんてしない。遥花が望むなら何でも受け入れよう」
 きっと兄は、私がレオを好きなことをとっくに気づいている。
「兄に言ってくれ、遥花」
 ……言うな、遥花。
 兄の苦しそうな黒い瞳は、口に出したこととは正反対の言葉を告げている気がした。
 私は胸がいっぱいになる。
 結局私はただ喉を詰まらせて、何も言葉にすることができなかった。
 四月の始め、兄と楓さんの祝言が盛大に開かれた。
 私が熱を出したばかりであるのを心配して、兄は式に出なくていいとまで言ってくれた。けれど帯や着物や他の様々なものをこの日のために仕立ててくれた兄や家の者のことを思うと、出席しないわけにはいかなかった。
 兄は怪我のことを少しも感じさせない、堂々とした風格を漂わせて笑っていた。側に寄りそう楓さんもまた美しい白無垢姿で、どこから見ても似合いの夫婦だった。
 兄たちが幸せそうで私も嬉しい。遠目に見守ることが私のできる精一杯の祝福の形だと、私は静かに二人をみつめていた。
 食べ物はあまり喉を通らなかったけれど、何とか昼の食事会は座っていることができた。
 ただ熱っぽさがまだ残っていて、時折頭がくらりとする。
 めでたい席上で倒れては申し訳ないと、私は休憩時間にそっと席を立った。
 庭に下りて風に当たる。それでも気分は優れなかった。
「お嬢様、ご気分がお悪いのですか?」
 ふと私を呼びに来たらしい家の者に声をかけられる。
「大丈夫です。少ししたら戻りますから」
 そう返したけれど、家の者はそこに留まって問いかける。
「お嬢様は、今楽しいですか?」
「え?」
 何を言い出すのかと振り向く。
 見覚えのない男性だった。家の者にこのような者がいたかしらと私はふと疑問を抱く。
「楽しい気分が足りないのであれば、離れの方へどうぞ。花が綺麗ですよ」
「そう」
 私はまた兄が花を植えかえたのかと思って、離れの方へと足を向ける。
 家の者たちは皆祝言会場に集められているから、すれ違う者はいなかった。
 ひらりと花びらが廊下にまで届く。
 しばらく伏せってばかりいたから気付かなかった。離れの桜は、いつの間にか満開に咲き誇っていた。
「ハルカ」
 だけど独特の声が耳を掠めて、私は息を止める。
 ……塀の上に座っていた銀髪の少年が、ひらりと庭に降り立つ。
「レオ、あなたどうやって……!」
 いくらレオが名のある家の者でも、まさか祝言の今日に、兄が彼を家に入れるはずがない。
「ハルカ、今楽しい?」
 先ほどの家の者と同じ質問をして、レオは首を傾げる。
「なんて訊くまでもないのかな。全然楽しそうな顔してないもんね」
 私の目の前まで歩いて来て、レオはじっと私の顔を覗き込む。
「どうしてそんな顔してるの? 遊園地ではもっとずっと楽しそうだったじゃない」
「そんなこと……ないわ」
「じゃあ君、前に思いきり笑ったのはいつ?」
 それは遊園地でレオにぬいぐるみをもらった時だったと気づいていながら、私は言葉に詰まる。
 レオはそんな私の心の内を見透かしたように目を細める。
「ねえハルカ。君は兄のために怒って、泣けるね。それはすごいことだと思う」
 彼は笑みを消して告げる。
「でも、君はどう? 君は君なんだから、自分のために怒って、泣いてもいいんじゃない?」
 神秘的な碧の目で、私の内側から溶かすようにみつめてくる。
「自分にとって一番楽しいことをして何がいけないの。君はこんなに若くてきれいなのに、花も咲かせずに人生を終える気なの」
「……でも」
「手を伸ばしてよ、ハルカ」
 立ち尽くす私に、レオはどこか必死な口調で続ける。
「君が一番好きなものを望んでよ。そうしたら僕も望む通りにできる」
「貴様!」
 ふいに部屋の方から低い怒声が響く。
「何をしている。遥花から離れろ!」
 私の様子を見に来たのか、兄がそこに立っていた。
 しかし兄はそれ以上私に近付くことがなかった。物陰から現れた影が、兄を掴んで床に伏せた。
 いつかのレオの従兄弟の青年だった。彼は自分より遥かに体格が優れて武術にも心得がある兄を、腕を後ろで掴んで膝で押さえ、口を塞いだ。何一つ無駄のない動作だった。
「にいさま……!」
 レオは兄の方に駆け寄ろうとした私の肩をつかむ。
「ハルカ、君は僕が好き?」
 私は兄を愛している。けれど私を見下ろす銀の髪の青年から目が逸らせなかった。
 頷いた私に、レオはもう一つ問いかける。
「一番好き?」
 レオは数度しか顔を合わせたことがない。出会って二週間も経っていない。何もかも彼のことを知らない。
 だけど私の胸に鮮烈に焼き付いて、どこにいても心から離れてくれない。
 ……私は、もう一つ頷いていた。
「じゃあ答えは出てる。簡単なことだよ」
 レオはどんな花にも負けない、鮮やかな笑顔で言った。
「一番好きな人と一緒にいることが一番いいことに決まってる。……君は僕と一緒にいるのが一番幸せなんだよ、ハルカ」
 彼は私の肩から手を離して、手を差し伸べる。
「おいで。僕が君を笑顔にしてあげる」
 なんて傲慢で美しい天使なんだろうと、私は思った。
 私はすっと息を吸って兄を振り向く。
 この言葉を口にする日が来るとは、ずっと思っていなかった。
「にいさま、私はここを出て行きます」
 私は今日兄との関係を絶ち、兄と違う世界に旅に出る。
 兄は口を塞がれたまま射抜くように私をみつめて、視線で私に問う。
 はるかは俺といた方が幸せだ。ずっとそうして暮らしてきた。なぜ俺の想いと違うことを言う?
 兄の目は言葉以上に私に語り掛ける。私はそれを受け止めて返す。
「にいさまにたくさん愛されたから、私もめいっぱいレオを愛したいの」
 きっと私はとても悪いことをしようとしている。でもそれが、私が心から望む未来のかたち。
「さよなら、にいさま」
 精一杯の想いをこめて告げると、私は兄に背を向けた。


 



 レオとの生活は何もかもが大変だったけど、後悔はしていない。
 レオの家の人たちは見知らぬ土地から来た私に親切にしてくれた。裏の家業があるとは思えないほど、温かなファミリーだった。
 毎日怒ったり、泣いたり、笑ったりして、それが幸せだと思える日々だ。
 三年が過ぎて、ファミリーの屋敷の庭でパーティが開かれたとき、私は兄と再会した。
 兄は仕事で来たようだった。レオの父とあいさつをしているところを、私は予期せず居合わせた。
 レオの父は私をみとめると早々に話を切り上げて、私にうなずいてその場を去った。私はその優しさをありがたく思いながら、兄と向き合った。
 兄は落ち着いたダークグレーのスーツに身を包み、大きな手でグラスを持って立っていた。彼はひととき言葉を失ったように私をみつめて、様々な思いをその瞳に映していた。
「……よかった。元気そうで」
 やがて兄はぎこちなく笑って、聞きなれた甘い声に少しだけ寂しさを混ぜた声で告げた。
 兄と再会したら、責められるかもしれないと思っていた。でもいつだって優しかった兄は、彼にさよならを告げた私にさえ怒りを向けることはなかった。
 私はまだ言葉に迷いながらうなずいた。兄と私の間に、長い沈黙が流れた。
「幸せか?」
 兄の問いかけに、私は胸に満ちた感情のままに答える。
「うん」
 兄は私の答えに安心したように笑ってグラスを置くと、両手を差し伸べた。
「抱かせてくれるか」
 私は腕に抱いた赤ちゃんを、そっと兄に手渡した。
 兄は私とレオの間に生まれた娘を抱き上げてあやした。その仕草が慣れていて私が少し不思議そうな顔をすると、兄はいたずらっぽく笑う。
「俺にも息子が生まれたんだ。いつまでもはるかだけの兄じゃないぞ」
 私がはっと顔を上げてみつめると、兄は腕の中の姪に話しかける。
「初めまして。悪いおじさんだが、お前を愛しているよ」
 また春風が巡る季節になった。月日は流れ、これからも何度も巡るのだろう。
 けれど兄に愛された記憶は、私の中で永遠の宝物。
 私の愛しい宝物も優しい悪魔の腕の中で、幸せそうに寝息を立てていた。

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