幸いコンサートの時のもめ事は兄に知られずに済んだようだと、ほっと胸を撫で下ろした頃のことだった。
「お嬢様。お客様です」
 午前十時を少し回る時間帯、手習いである琴の先生がお帰りになった直後、その人はやって来た。
「どのようなご用件でしょう?」
「お嬢様にお助け頂いたということで、お礼の品をお持ちしたとのことですが」
「助けた?」
 私がそのようなことをしたかしらと首を傾げた時だった。
「レオニード・カルナコフという方だそうです」
 私は思わず使用人の前で息を呑む。
 どうしてカルナコフさんがここにと、信じられない思いで必死に驚きの声をこらえる。
「追い返しましょうか」
「いいえ」
 咄嗟に否定の言葉が出てしまった。それをさらに覆すことも私にはできなかった。
「お会いしましょう。案内してください」
 なんとかそれだけ告げると、私は使用人の後に続いた。
 廊下を渡って母屋の方にある客室に足を踏み入れる。
 カルナコフさんは障子を開いて朝の日差しの中に立っていた。日本家屋の中で銀髪碧眼の彼は明らかに異質で、水晶の細工物のように透明な輝きを放っていた。
「……おはようございます」
 家の中とはいえ私の側には常に人がいる。私の言動一つでもすぐに兄に伝わってしまう。
 ためらいながら私が口を開くと、彼はくすっと笑う。
『秘密の言葉で話そうか?』
 はっとして顔を上げる。カルナコフさんは悪戯っぽく首を傾げて母国語で告げた。
『この家で僕の言葉がわかるのは?』
『私と……兄だけです』
『そう。じゃあ肩の力を抜いて聞いて』
 彼はさらりと言葉を続ける。
『この間は君に助けてもらったからね。お礼に、君のお願いを一つ聞くよ』
『とんでもない。私が勝手にしたことです。それより』
 私は目を伏せて首を横に振る。
『私とは関わり合いにならない方がよろしゅうございます。表からお越しになったなら、私がどういった家の者かはおわかりでしょう?』
『うん。ヤクザ屋さんだね』
 カルナコフさんはあっさりと断定して続ける。
『でもそれは君に会った時からわかってたことだよ。君を監視してるその筋の人を何人も見かけたからね』
『え……』
『住所を調べた時に、君のお兄様がその頭だってことも知った』
 にこっと底の見えないような笑い方をして、彼は目を細める。
『まあそんなことは僕にはどうでもいいことだよ。それで、君は僕に何を望む?』
『望むだなんて、そんな……』
『欲しくないなら何もあげないよ。今度こそさよなら。それでいい?』
 彼の言葉に、私は返す言葉に詰まった。
「お嬢様、何の話をしていらっしゃるのですか?」
 困った様子の私に、控えていた家の者が怪訝そうに近付いてくる。
 私は俯いてから、意を決して顔を上げた。
『……あなたの時間を少し頂けますか。私に、あなたと過ごす時間を』
 カルナコフさんはふっと優雅に笑い返した。
『いいよ。でもそれはここでは自由にできないね』
 カルナコフさんは辺りを見回して、一つ頷く。
『場所を変えよう』
 ふいに離れの方が騒がしくなった。家の者たちがそちらに集まる気配を感じる。
 私はあまりのタイミングの良さに、咄嗟に使用人へ振り向いていた。
「様子を見て来てください」
「いや、しかし」
「行きなさい」
 私が短く命じると控えの者が出て行って、私はカルナコフさんと二人きりになる。
「こっち」
 彼は手招きをして、私を玄関とは逆の方へと導いた。
 巧みに人のいない場所をくぐりぬけて裏口まで来ると、彼は私を連れていとも簡単に家の外に出てしまった。
「あなたは何者なのですか?」
 私の言葉に、彼は舌を出しておどける。
「誘拐犯かな」
 路地にたてかけてあったバイクをけとばしてエンジンをかけると、彼はヘルメットを私に投げてよこす。
「ハルカ、誘拐されてみる?」
 大輪の花のような微笑を刻んで、カルナコフさんは振り向いた。
「……あなたは悪い人なんですね」
 私はそんな彼に見とれた自分に呆れながら、ヘルメットを被った。