そこは優しい悪魔の腕の中

 十九歳の春ほど、私の身の回りがめまぐるしく変わった時はなかった。
 その日、朝からとても自分の機嫌が悪かったのは覚えている。にこやかにふるまってはいたけど、内側に燃える炎のような怒りを抱えていた。
「お嬢様」
 家の人たちは、私の顔を見るなりかしこまって近付いてくる。
「おでかけですか?」
「いえ……ちょっと覗いただけなので。すぐ戻りますから」
 母屋の方に出てきただけで五人以上と似たようなやり取りをした。
 この家はやたらと人が多い。それも私の身の回りの世話をする使用人以外は、ほとんど眼光の鋭い男性ばかりだ。
「ご予定では午後からと伺いましたが、支度をいたしましょうか?」
「まだ結構です。ありがとうございます」
 その苛立ちも、外出の予定を考えると少し気が晴れた。
 いつまでも子どもみたいに不機嫌にしていてはいけない。気持ちを切り替えようと、踵を返した時だった。
遥花(はるか)、ここにいたか」
 廊下の向こうから歩いてくる長身の姿をみとめた瞬間、鎮まりかけていた私の怒りが一気に沸点まで達した。
 私は自分を落ち着かせようと顎を引いて、下から彼を見据える。
「お話があるのですが、私の部屋までお越し願えますか」
「うん? 何だ?」
 彼はとろけるように笑って、先に離れの方に歩き出した。
 彼は私よりゆうに頭二つ分は大きい。それも鍛え上げられたがっしりした体格をしているものだから、後ろから見るとまるで壁のようだ。
「はるか?」
 私の居室に通してすぐ、屈みこんで優しく尋ねる気配を後ろに感じた。
 障子をぱたんと閉じて、沈黙が一瞬。
「……にいさまの馬鹿!」
 振り向き様に顔面めがけて肘鉄を繰り出す。
 直撃したら鼻が折れる一撃を、兄はやんわりと片手で受け止めた。
「遥花が元気なことは嬉しいが、兄は何か遥花の気に障ることをしただろうか」
「私のチューリップ、勝手に植え替えたでしょう!」
 今日の不機嫌の原因、それは毎日絵日記をつけているチューリップが、朝起きたら別のチューリップにすり替わっていたことだった。
 朝真っ先に見に行ったら、昨日まで葉だけだったチューリップが華々しく咲き誇っているのを見て呆然とした。
「遥花……言いにくいが、あのチューリップはもう枯れていたんだよ。兄は綺麗な花にしてやった方が喜ぶかと思って」
「葉っぱだけでもよかったの! 楽しみにしてたのにひどい!」
 涙が溢れて来て、私はぐすぐすと泣きだす。
「ああ、すまない。兄が悪かった。泣かないでくれ」
 兄はうろたえて私の頭を撫でる。
「すぐに葉の状態のチューリップを植えさせる。他にも遥花の好きな花を何でも取り寄せるから」
「そういう意味じゃないの! にいさまは何にもわかってない!」
「悪かった……兄が馬鹿だった。すまない」
 兄はひたすら低姿勢で頭を下げて謝り続ける。
 こんなしおらしい姿を家の者や会社の者が見たら目を疑うに違いない。面子が物を言う世界で、上の立場にある兄が頭など下げたりしない。ましてや自分が馬鹿などと口が裂けても言わない。
「もういい!」
 ぷりぷりと怒りながら兄の手を振り払って、私は涙を拭うために何か探す。
 ちょうど庭いじり用のタオルをみつけてそれを顔に当てようとしたら、ひょいと手が伸びて来て奪われた。
「おい、誰だ。こんな安物を置いたのは」
 兄は私からタオルを取って低い声を出す。
「どうしてこんなものがここにある」
「庭いじり用に借りてきたの。汗をふくためなんだから安物でいいの」
「使うな。遥花はいつも一級品に囲まれていないといけない」
 彼はポケットからハンカチを取り出して私の目元を拭う。
「一回使ったら捨てる。遥花はそれでいい」
 丁寧にアイロンがかけられたそれは、肌触りで絹だとわかった。
「今日は街に出かけるんだってな」
「ええ」
 まだぶすっとしながら頷くと、兄は柔らかく微笑む。
「気に入った店があったら言うんだぞ。店ごと買おう」
 彼は何も冗談を言っているわけではない。
 兄である龍二(りゅうじ)は半年ほど前に、二十七の若さで関東においてもっとも勢力のある暴力団の組長という地位を父から受け継いだ。
 そして二週間後にはその次点を取り仕切る組の婚約者と祝言を挙げる。
「……にいさまは馬鹿だわ」
 私はそう言い捨ててから、ぷいと顔を背けて支度に向かった。
 私が家の外に出るのは、多い時で二週間に一度くらいだ。
 子どもの頃から体が弱くて学校に行けなかっただけでなく、成長してからは兄が心配してめったに私を外に出さなかった。
 長男が絶大な力を持つこの世界では、後妻の生んだ次男である兄の立場は生まれた時から複雑だった。
――龍二は次男の器じゃない。あいつがいつか大人になると思うとぞっとする。
 父にそうぼやかせたほど、兄は恐ろしく優秀な子どもだった。
 単純な学業成績や運動能力だけではなかった。金儲けの才や人を動かす手腕までもがあった。
 そして人目を引いた。美貌というには野生的すぎる容姿と気迫でもって、自分より年上の大人たちを簡単に自分の味方につけた。
 それでも父は長兄を推していたが、長兄がもう五年以上不在であることと、父も高齢になってきたこともあって、やむなく兄に跡を継がせた。
 聞けば、それに異を唱える者は誰ひとりいなかったそうだ。
「お嬢様、お体の具合でも?」
 椅子に座ったまま頭を押さえていると、隣にかけた(みさお)さんがそっと声をかけてきた。
「いいえ。その……」
 私は少し迷って口を開く。
「みなは、兄が恐ろしいのかしら」
「龍二様でございますか」
 彼女はうっとりとしたように頬に手を当てる。
「上に立つ御方は厳しくなければいけません。それに男性は少し怖いくらいが素敵でございますよ」
「怖いかしら……」
 私はぽつりと呟いて口をつぐんだ。
 兄は私には優しいというか、徹底的に甘い。手を上げたことなどないし、そもそも怒ったことすら一度もない。
 だけど、おそらくは怖い人なのだろう。それは幼い頃からたびたび肌で感じてきたことだ。
 開演時間になって、私は顔を上げる。照明の落ちたホールの中、舞台にだけスポットライトが当てられる。
 今日は都内の音大で、今期の卒業生によるコンサートが開かれている。
 プロではないけれど、その道に進む学生も多いからレベルは高い。
 ただ、今回は目的があって来た。たった一人の演奏者の音楽を聴くためだけに足を運んだ。
 最後の演奏者になって、私は瞬きをした。
 舞台に上ったのはまだ少年のような男性だった。大学の卒業生だから確実に二十歳は超えているだろうに、彼は私より年下に見えた。
「あら。綺麗な方ですね」
 操さんが隣で小さく声を上げる。
 彼はセミロングの銀髪に碧の瞳、透けるような白い肌をしていた。
 中性的な容姿だけど、女性に見間違えることはない。ぴんと張られた一本の琴の弦のように、凛とした少年の力強さがあった。
 舞台の中央に立つなり、彼は他の演奏者のように一礼することもなくおもむろにバイオリンを弾き始める。
 その途端に奏でられる冷厳な音楽に、私はため息をついて聴き惚れた。
 数ヶ月前にこの音大のチャペルを見学したら、彼はパイプオルガン奏者に合わせてバイオリンを弾いていた。
 恋というには、きっとまだ淡い感情。
 真冬の冷え切った教会の中で繊細な音をつむぎ出す彼は、本当に天使みたいだと思った。
 話をしてみたい、もっと近付いてみたいと思ったけれど、自分の立場を思うとなかなか決心もつかなかった。
 異性とあらば手習いの先生すら私に近付かせない兄のことだから、私が想いを寄せているなどと気づいたらきっとその人を許しておかないだろう。
 その時のパイプオルガン奏者と話をして、銀髪の彼の名前がレオニード・カルナコフで、今春卒業するということだけは聞くことができた。
「操さん、少しここで待っていてください」
 コンサートが終わると、私は操さんを残して演奏者控室へと足を向けた。
 一度だけと心に決めた。この卒業コンサートで一度直接話をしてみようと。
「演奏者の方に花束を差し上げたいのですが」
「ああ、どうぞ」
 それですべて諦めようという誓いを胸に、私は控室の中に足を踏み入れた。
「あら?」
 中にカルナコフさんの姿はなかった。私は慌てて側の人を呼びとめる。
「カルナコフ……ああ、あいつなら少し呼ばれていきました。花束ならお預かりします」
「直接差し上げたいのです。どちらにおいででしょう」
 私が尋ねると、大学生の方は困ったように眉を寄せた。
「失礼します」
 何となく嫌な予感を抱いて、私は踵を返す。
 初めはおしとやかに歩くつもりだった。けれど段々心が急いて来て、着物の袖を振り乱して駆けだす。
 校舎の角を曲がった時、その声は聞こえた。
「……少し付き合えって言ってるだけだろ?」
 裏に複数人が集まっているのに気づいて、私は足を止める。
「お前は付き合いが悪すぎるんだよ。飲みに来たこともないじゃないか」
 覗き込むと、三人の男に詰め寄られているのは確かにカルナコフさんだった。
 彼はうっとうしそうに顎を上げて言葉を投げる。
「そのごちゃごちゃした言葉で話さないでくれない? 僕は日本語が得意じゃないんだ」
 そっけなく言い捨てて踵を返そうとしたカルナコフさんの腕を、男の一人が掴む。
「そう言うなよ。お前、男が好きなんだろ?」
 にやにや笑う彼らに、カルナコフさんは不愉快そうに眉を上げた。
「隠しているわけじゃないけど、僕が好きなのは綺麗な男の子だよ。君らみたいな下品な野郎なんて見るだけでうんざり」
「こいつ……!」
 彼らは顔色を変えて掴みかかろうとする。
「……お止めなさい!」
 私は声を上げてそれを制止した。
「失礼な方々ですね。お食事に誘うなら紳士的に、礼儀正しく。それも、カルナコフさんのお国の言葉でお誘いするべきでしょう」
「どこのお嬢様か知らないが、他人が口を出すことじゃないだろ」
「おい、ちょっと待て」
 声を荒げた男を止めて、他の二人が私の前まで歩いてくる。
「すげえ……こんな美人初めて見た」
「着物着てるよ。本物のお嬢様みたいだ」
「俺やっぱ女がいい」
 三人に取り囲まれた私は、嫌な空気を肌で感じて緊張をまとった。
「命が惜しいのなら、私に触れてはなりません」
 手が伸びてくる前に、私は短く告げる。
 それでも手が髪に触れたのを感じ取って、私は小さく息をついた。
「ぐっ」
 花束を投げて、私は彼らの懐に飛び込む。
 目の前の男の鳩尾を突いて、慌てた他の二人も同じ場所を刺すように突いた。
「息が出来ませんか? でも次は本当に息の根を止めますよ」
 倒れこむ彼らを見下ろして、私は怒声を響かせる。
「散りなさい!」
 散り散りになって逃げ出す彼らを見送った。
 振り向くと、カルナコフさんは興味なさそうに横を向いていた。
『要らぬことをして申し訳ありません。お詫びいたします』
 私は深く頭を下げて彼の母国語で謝罪する。
 彼がこちらを見た気配がした。少し沈黙があって、彼は私に歩み寄る。
「これ、君の?」
 顔を上げると、カルナコフさんは私の持ってきた花束を拾い上げていた。
 私は首を横に振って言う。
「あなたに差し上げるつもりでしたが……汚れてしまったので、私が持ち帰ります」
「いや」
 彼は花束に顔を埋めて碧の双眸を閉じる。
「なら僕のだ。もらっていくよ」
 ゆっくりと瞳を開いて、彼はじっと私を見下ろす。
「君、名前は?」
「春日遥花です」
「ハルカ」
 彼に名前を呼んでもらえただけで、私は胸がいっぱいになって思わず微笑んでいた。
「じゃあまた」
 その一言だけで幸せな気持ちになる私は、たぶんもう彼に恋をしていた。
「はい。ありがとうございます」
 たぶん二度と会うことはないだろうけれど、私は何年分かの幸せを凝縮したような喜びを感じながら頭を下げた。
 幸いコンサートの時のもめ事は兄に知られずに済んだようだと、ほっと胸を撫で下ろした頃のことだった。
「お嬢様。お客様です」
 午前十時を少し回る時間帯、手習いである琴の先生がお帰りになった直後、その人はやって来た。
「どのようなご用件でしょう?」
「お嬢様にお助け頂いたということで、お礼の品をお持ちしたとのことですが」
「助けた?」
 私がそのようなことをしたかしらと首を傾げた時だった。
「レオニード・カルナコフという方だそうです」
 私は思わず使用人の前で息を呑む。
 どうしてカルナコフさんがここにと、信じられない思いで必死に驚きの声をこらえる。
「追い返しましょうか」
「いいえ」
 咄嗟に否定の言葉が出てしまった。それをさらに覆すことも私にはできなかった。
「お会いしましょう。案内してください」
 なんとかそれだけ告げると、私は使用人の後に続いた。
 廊下を渡って母屋の方にある客室に足を踏み入れる。
 カルナコフさんは障子を開いて朝の日差しの中に立っていた。日本家屋の中で銀髪碧眼の彼は明らかに異質で、水晶の細工物のように透明な輝きを放っていた。
「……おはようございます」
 家の中とはいえ私の側には常に人がいる。私の言動一つでもすぐに兄に伝わってしまう。
 ためらいながら私が口を開くと、彼はくすっと笑う。
『秘密の言葉で話そうか?』
 はっとして顔を上げる。カルナコフさんは悪戯っぽく首を傾げて母国語で告げた。
『この家で僕の言葉がわかるのは?』
『私と……兄だけです』
『そう。じゃあ肩の力を抜いて聞いて』
 彼はさらりと言葉を続ける。
『この間は君に助けてもらったからね。お礼に、君のお願いを一つ聞くよ』
『とんでもない。私が勝手にしたことです。それより』
 私は目を伏せて首を横に振る。
『私とは関わり合いにならない方がよろしゅうございます。表からお越しになったなら、私がどういった家の者かはおわかりでしょう?』
『うん。ヤクザ屋さんだね』
 カルナコフさんはあっさりと断定して続ける。
『でもそれは君に会った時からわかってたことだよ。君を監視してるその筋の人を何人も見かけたからね』
『え……』
『住所を調べた時に、君のお兄様がその頭だってことも知った』
 にこっと底の見えないような笑い方をして、彼は目を細める。
『まあそんなことは僕にはどうでもいいことだよ。それで、君は僕に何を望む?』
『望むだなんて、そんな……』
『欲しくないなら何もあげないよ。今度こそさよなら。それでいい?』
 彼の言葉に、私は返す言葉に詰まった。
「お嬢様、何の話をしていらっしゃるのですか?」
 困った様子の私に、控えていた家の者が怪訝そうに近付いてくる。
 私は俯いてから、意を決して顔を上げた。
『……あなたの時間を少し頂けますか。私に、あなたと過ごす時間を』
 カルナコフさんはふっと優雅に笑い返した。
『いいよ。でもそれはここでは自由にできないね』
 カルナコフさんは辺りを見回して、一つ頷く。
『場所を変えよう』
 ふいに離れの方が騒がしくなった。家の者たちがそちらに集まる気配を感じる。
 私はあまりのタイミングの良さに、咄嗟に使用人へ振り向いていた。
「様子を見て来てください」
「いや、しかし」
「行きなさい」
 私が短く命じると控えの者が出て行って、私はカルナコフさんと二人きりになる。
「こっち」
 彼は手招きをして、私を玄関とは逆の方へと導いた。
 巧みに人のいない場所をくぐりぬけて裏口まで来ると、彼は私を連れていとも簡単に家の外に出てしまった。
「あなたは何者なのですか?」
 私の言葉に、彼は舌を出しておどける。
「誘拐犯かな」
 路地にたてかけてあったバイクをけとばしてエンジンをかけると、彼はヘルメットを私に投げてよこす。
「ハルカ、誘拐されてみる?」
 大輪の花のような微笑を刻んで、カルナコフさんは振り向いた。
「……あなたは悪い人なんですね」
 私はそんな彼に見とれた自分に呆れながら、ヘルメットを被った。
 カルナコフさんは私をバイクの後ろに乗せて、海辺の古い遊園地に連れて行った。
「ハルカ、あれ乗ろうよ、あれ!」
 子どものようにはしゃいで、彼はしきりに絶叫マシンに乗りたがった。
 私は遊園地に来たのは初めてだったし、ジェットコースターに乗ったのも初めてだった。
「うう、酔ったよう……」
「だ、大丈夫ですか?」
 でも初めての感慨に浸っている暇はなかった。降りるなりカルナコフさんは涙目をこすっているので、私は慌てる。
 彼は拗ねたように頬をふくらませて前方を指さす。
「お腹すいた。あれ食べたい」
「あれですか?」
「買ってくる。ちょっと待ってて」
 彼はすたすた歩いて行って、すぐに手に二つパンらしきものを持って戻ってくる。
「はい、ハルカも」
 大きなパンで、真ん中にソーセージらしきものが挟まっている。
 私は湯気をたてるそれを、数秒間まじまじとみつめる。
「難しいですね。ナイフがないと、手では千切れそうにありません……」
「ん?」
 振り向くと、彼はもう半分ほどを食べ終わっていた。
「ナイフがどうかしたの?」
 どうやらそのままかじったらしく、カルナコフさんはもぐもぐと口を動かして不思議そうに私を見ている。
 私はそんな彼と手元のパンを見比べて、はっと気づく。
 意を決して口を直につけて食べる。
 それは今までに食べたことがない、実に大まかでおもいきりのよい味わいがした。
「ごちそうさまでした」
 紙包みを折り畳んで、ふとカルナコフさんを見やる。
「ついてますよ、カルナコフさん」
 彼の口の端にソースがついたままになっていた。私は懐から取り出したハンカチで、そっと彼の口の端を拭う。
「ありがと。でもね、ハルカ」
 カルナコフさんは手を伸ばして、私の口元を指先で拭う。
「これはこうやって拭うのが正式なの」
 拭った指をぺろっとなめて、彼はにっこり笑った。
 私は訳も分からず耳が熱くなるのを感じて立ち竦むと、カルナコフさんは顔を上げて指さす。
「ハルカー。僕、次はあれがいいー」
 懲りずにジェットコースターに乗りたがる彼だった。
「……酔ったよう」
「食後にあんな激しい乗り物に乗るから……」
 またも降りるなりくらくらしているカルナコフさんに、今度は落ち着いて対処する。
「休憩しましょう」
「やだー。もっと乗るー」
「さっきもそれで具合が悪くなったじゃありませんか」
「今度は違うかもしれないじゃない」
 あっけらかんと言いきって、カルナコフさんは周りを見回す。
「僕、あの落っこちるやつに乗りたい」
 やっぱり絶叫マシンを指さしてうきうきしている彼に、私はつい笑っていた。
「カルナコフさんはいつもこうなんですか?」
「こうって?」
「自分の好きなことを好きなだけしていらっしゃる」
「それ以外にどうやって過ごすのさ」
 それこそ一緒にいる私のことさえ考えず、ただ心のおもむくままに動いているように見える。
「僕の人生なんだから僕の好きなようにして当然でしょ。あと、ハルカ」
「はい」
「僕のことはレオでいいよ」
 レオニード……レオと、私は口の中で呟く。
「ん。じゃあ行こう」
 彼は私の手を取って歩き出そうとするので、私はびくりとする。
 男の人が体に触れたことなどほとんどない。私は微かに私より高い体温と固い感触に戸惑いながら、おずおずと顔を上げる。
 レオは私の戸惑いがさっぱり理解できないといったようで、目を丸くして首を傾げている。
「なに?」
「いえ、参りましょう」
「そう? ハルカは不思議な子だね」
 一応私を見下ろしたものの、レオはすぐに絶叫マシンの方に駆けだした。
 一通りジェットコースターの系統を乗り終えたら少し満足したらしく、レオは室内に入る。
「ここは?」
「ゲームセンター。僕こういうの好きー」
 大音響の中大きなテレビ状のものがたくさん置いてある部屋の中を、レオはやはり楽しそうにうろうろする。
「あ、シューティングやろうよ。ほら、ハルカも」
「私は初めてですが、どのようにすればよろしいのでしょう?」
「的を狙ってこのボタンを押すの」
 説明してもらってから、私はレオと一緒にシューティングゲームというものを体験する。
「わっ。ちょっと、ハルカ強くない?」
 初めてのゲームは興味深かった。すぐに終わってしまったのが残念なくらいだった。
「ぶー。これゲームおかしいよ。これじゃ急所外れてて、一発で死なないのに」
 私に負けたのが気に食わないようで、レオはぶすっとしながら機械を置いた。
 それからレオは目に留まったゲームを次々とプレイしていった。
 私は自分も参加しながら、子どものように目を輝かせている彼を横でみつめていた。
 彼は私がここにいてもいなくても楽しそうに遊ぶのだろう。私の願いを聞くと言いながら、彼は私のご機嫌を取ることすらせず自分のことを一番に考えている。
 けれどその姿は限りなく自由で、屈託がなくて、いつまでもみつめていたいと思った。
「あ」
 ふいに私は大きな透明の箱の中に、たくさんの白いクマのぬいぐるみが積まれているのを見た。
「こんなにたくさん……これもゲームなのですか?」
「うん。やってみれば?」
 レオはコインを入れてくれたので、私はクレーンでぬいぐるみを取ろうとする。
 けれど私の拙い操作では、すぐにクレーンからぬいぐるみを取り落としてしまった。
「残念。これは初心者には難しいからね」
 レオは一歩近づいて、私の後ろから屈みこむ。
 真後ろから抱きかかえられるようにされて、私は意外とレオの背が高いことに気付いた。
 幼い言動や中性的な容姿から少年のように思っていたけど、彼は私より頭二つ分くらいは高かった。
 レオはコインを一つ投入口に滑り込ませて言う。
「どれがいいの?」
 耳元で聞くと、声も到底女性には聞き違えることのない低音を帯びていた。
 私は全身が神経になったような心地がしながらも、そっとぬいぐるみの山の中から一つのクマを指さす。
「ピンクのリボンの子ね。了解」
 レオはクレーンを操作するボタンを押す。
 私はぬいぐるみの山にあるクマをみつめながら、幼い頃のことを思い出していた。
――こんなもので遊ぶんじゃない。
 確か私が五歳くらいだっただろうか。
 母が亡くなって父のいる今の本家に引き取られて間もない頃だ。父は、私が何をするにも抱きしめて離さなかったぼろぼろのぬいぐるみを奪って捨てさせた。
 それは何もかも知らない所に連れてこられた私にとって、ほとんど初対面である父より肉親に近かった。だからずいぶん泣いた記憶がある。
 あれは今となっては顔も思い出せないけれど、白くてリボンのついたクマのぬいぐるみだったような気がするのだ。
「はい、あげる」
 ふいに目の前にクマを差し出されて、私は呼吸を止める。
「あれ? これじゃなかった?」
 レオは眉を寄せてそれを引っ込めようとする。
 あの時のぬいぐるみとは違う。けれど私は両手を差しのべてクマを抱きしめていた。
「レオ、ありがとう!」
 私は体の内側から湧きあがってくる感情のまま、小さな子どもの頃のように笑っていた。
 レオはそんな私を見て表情を消す。
 ふっと彼との距離が近くなった。唇に私以外の体温を感じる。
「……おかしいな」
 キスをして顔を上げたレオは、何だかとても難しい顔をしていた。
「僕、女の子には興味ないはずなんだけど。なんで今キスしたんだろ」
 本気で理解しがたいといったように、レオは渋い顔を作る。
「ハルカはきれいだと思うけど、女の子なのに」
 私は口もとに残る優しい感触に身動きも取れなかったけれど、やがて手を伸ばしてレオの頬に触れる。
 息を吸って、心に満ちた感情のままに伝えた。
「レオ。私は、あなたのことが好きです」
 騒々しいほどのゲームセンターで、私は想いを告げる。レオは笑わずに答えた。
「ぬいぐるみとホットドッグしかくれないような男が?」
「はい」
 たぶんレオは私のことを友達くらいにしか思っていないだろう。
 けれど、レオに影響されたのだろうか。自分が好きという気持ちの方が大きくて、レオから想いを返してもらうことなどどうでも良かった。
「好きですから、あなたのことを傷つけたくないんです。たぶん今頃兄が私を探させてるはずです。これ以上私と一緒にいてはいけません」
「僕は君と過ごすのは楽しいよ。君は楽しくないの?」
 私は首を横に振る。
「でもこれで帰ります。ありがとうございました」
「ふうん」
 レオは碧色の目で私を見下ろす。そこにいくつかの感情が混じって、彼を迷わせたようだった。
「わかった。送るよ」
 それから気まぐれな猫のように、ふいと踵を返して先に歩いて行った。
 バイクの後部座席で、私はレオを見上げていた。
 ヘルメットの下で風に銀髪が揺れる。水晶のように無機質な色合いの髪だ。
 けれど腰につかまっていると確かな人間の体温を感じる。服越しに、女の私の体とは違う、張りのある筋肉の感触がある。
 夕暮れの赤い日差しを頬に受けながら、私は目を細めた。
 レオはわがままだし、基本的に自分のことしか考えないみたいだし、私のことが好きなわけでもない。
 でも私にぬいぐるみをくれた。パンを買ってくれた。これだけだとまるで物にひかれたようだけど、私はこんなに嬉しかったのは初めてだ。
 ……だって、好きな人がくれたものなのだから。
 ぎゅっと、落とさないように一生懸命ぬいぐるみを抱きしめる。
 ふいにバイクに並走してきた車の窓が開いた。
「そこのバイク、止まれ!」
 私は周りを見回す。いつの間にか五台ほどの車に囲まれていた。
「帰すところなのにな。せっかちな人たち」
 レオはぼそりと呟いて、カーブを曲がるとブレーキをかけた。
 山間の道で、背後には海が見えた。
 一斉に車から筋の者と思われる人たちが降りて来て取り囲まれる。
「ちょっとがまんしてね、ハルカ」
 ヘルメットを外して投げると、レオは私の腰の後ろから腕を回して立った。
「動かないで。お嬢様の頭が吹き飛ぶよ」
 彼はもう片方の手で私の頭に固い何かを押しつける。
「ハッタリだ! びびるんじゃねぇ!」
 男たちはいきりたって詰め寄ろうとしたが、背後から怒声が響く。
「馬鹿者、動くな!」
 気迫だけで鳥が落ちるような、低音の声には覚えがあった。
 びくりと動きを止めた男たちの中で、車から降りた影があった。
 レオは兄に向かって言葉を放つ。
「君がボスだね? 武器を捨ててこっちまで歩いてきな」
 兄は無言で懐からナイフと拳銃を落とす。
 射るような目でレオをにらみながら、兄はゆっくりと近づいてくる。
「止まって」
 レオの言葉通り私たちから三歩先で止まると、兄は低く問いかけた。
「要求は?」
「僕を安全に逃がしてくれること。そうしたらハルカは帰す」
「わかった」
 レオは私の耳に口を寄せて、私にだけ聞こえる声で告げた。
「ハルカ。一度しか言わないよ」
 彼は声を低めて電話番号らしき数字を告げた。
「今度は君が僕を呼んで。……じゃあね」
 頬に口づけたら、彼は私を解放するなり後ろに跳んだ。
 ガードレールを飛び越す。慌てて私が覗き込むと、彼は道路下の、車の助手席に着地したところだった。
「逃げるぞ、追え!」
 疾走する車を追おうとする家の者たちを見て、私は兄に振り向く。
「にいさま、追わないでください! そういう約束ではありませんか」
 兄は無言で私の手を引いて、黒い車の後ろに乗せる。
「にいさま! 聞いていらっしゃいますか?」
 運転席との仕切りが上がって外部から見えないようになった途端、兄は私を抱きしめた。
「……怪我はないか」
 押し殺した声で言われて、私は思わず言葉につまる。
「はい」
「そうか、ならいい……」
 深いため息をついて、兄は私の髪を撫でる。
 車が発進しても、彼は大切そうに私を抱いたままだった。
 私は彼に心配をかけたことに、ずきりと胸が痛むのを感じた。
「にいさま、私が勝手に抜けだしたの。家の人たちを責めたりしないで」
「遥花が言うなら」
 兄は心配そうに私の顔を覗き込む。
「怖い思いをしただろうな。かわいそうに。もう大丈夫だ」
 そんなことはなかったと、私は首を横に振ろうとした。
 でもその前に、兄の声が低くなる。
「……なんだこれは」
 兄は私が抱いていた白いクマのぬいぐるみに気づいて、それを取り上げる。
「遥花に何てものを。おい、処理してこい」
 助手席の人に声をかけた兄に、私は声を上げる。
「捨てちゃだめ!」
「いけない、遥花。何が入っているかわかったものじゃない」
「にいさまも父様と同じことをするの?」
 兄は私が何を言おうとしているのか察したようだった。
「遥花。兄は父とは違う。ぬいぐるみならいくらでもやろう」 
「これがいいの!」
 私は兄の手からぬいぐるみを奪い返して、守るようにして抱きこむ。
 子どものように意固地になる私を、兄は困ったように見下ろす。
 兄はまたため息をついて、シートに片手をついて言った。
「遥花、今の生活は窮屈か?」
 そっと私の目を覗き込んで、兄は優しく尋ねる。
「落ち着かないなら遥花だけの家を用意する。別荘でも何でも建てよう」
 私をあやすように、頼み込むように兄は言う。
「いい子だから、はるか。これからは勝手に抜け出すようなことは……」
「いやっ。にいさまなんて嫌い!」
 私はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、兄から顔を背けた。
 それから私は兄が何を言っても、口を引き結んで答えを拒絶していた。
 それから二日ほどして、私のところに訪ねてきた女性がいた。
「龍二と口利かないんですって?」
 兄の婚約者で、兄の幼馴染である楓さんは、会うなり苦笑を浮かべて言った。
「一体どうしたの?」
「にいさまがぬいぐるみを取ったの」
「あらあら、困ったわねぇ。どうしたら機嫌を直してくれるのかしら」
 楓さんは兄と同い年である二十七で、世話焼きで優しい人だったから、小さい頃から私のお姉さんのような存在だった。
 今日は本来、十日後に控えた兄と楓さんの祝言の時、私が締める帯を一緒に選んでくれることになっていた。
「帯だってもうとっくに決めてあったのに。にいさまが気に入らないって言うから」
 兄があちこちの店から選ばせた帯を部屋いっぱいに広げながら、私はむっとする。
「遥花には一番いい帯を用意したいのよ、龍二は」
「一番いい帯を身に着けるのは姐さんよ。私じゃないの」
 早くからこの組の姐になることが決まっていた楓さんだったから、私は彼女のことを姐さんと呼んでいた。
「これなんてどうかしら? ちょっとつけてみて、遥花」
 楓さんは自ら私の腰に帯を巻き始める。
「まあ許してあげなさい。龍二は遥花がかわいくて仕方ないの」
 頭を撫でるように、楓さんは優しく言葉を紡ぐ。
「遥花は龍二にとってお姫様だもの。大切に慈しんで守りたいのよ」
 私は目を伏せて黙る。
 大切にされていることはわかっている。それに私も甘えてしまっている。
「どうかした?」
「姐さんは、もっと私を叱るべきだと思うの」
 彼女に叱られたなら、私も兄と距離を置こうとすることができるはずだ。
「姐さんはにいさまと並び立つ人なんだから、いつまでもにいさまの足を引っ張ってる私を怒っていいはずなの」
 楓さんは少し黙って、首を傾ける。
「遥花。どうしてあたしが姐になるかわかる?」
 楓さんは穏やかに告げる。
「あたしの組のため、ここの組のため、他にもいろいろな利害関係があるけれど。一番の理由は龍二とあたしの利害が一致したからよ」
「にいさまと姐さんの利害?」
「そう。あたしは一番いい男と結婚したいという願いで」
 苦笑しながら、彼女は続ける。
「龍二は自分の次点を任せる者が欲しい」
「それはにいさまと姐さんが一緒に組を守っていくということではないの?」
「龍二はね、自分一人で組くらい守れるわ」
 一度言いきって、彼女は静かに言葉を続ける。
「ただ、「姐」が要るのよ。あたしがいれば、敵の矛先は遥花でなくてまずあたしに向かうでしょう?」
「え?」
「そして自分に何かあった時に、あたしが遥花を守れるでしょう」
 私は慌てて振り向く。
「姐さん。にいさまは姐さんを大事に思ってる。私よりも」
 楓さんは首を横に振る。
「龍二が一番大切に思っているのは遥花よ。幼い頃から見てきたのだから、それくらいわかってるわ」
「そんなこと」
「龍二は強い男だけど、遥花をなくしたら倒れる。あなたは龍二の心臓だもの」
 楓さんは手際良く、綺麗に帯を締め終える。
「脅しみたいなことを言ってごめんね。あたし自身もあなたのことを愛してるし、守りたいと思ってるわ」
 私を見上げて、楓さんは真っ直ぐに私をみつめる。
「でもお願い、遥花。龍二は誰よりあなたを大切にするから、彼の側にいてあげてほしいの」
「……姐さん」
「甘い言葉に惑わされないで。龍二以上にあなたのことを想う男は他にいないはずよ」
 楓さんが誰のことを言おうとしているのか、私は訊かなくてもわかった。
 私が黙っていると、廊下の方が騒がしくなる。
「帯選びの最中か。気にいったものはあったか?」
 兄は部屋に入って来て尋ねる。
 ぷいと顔を背ける私に苦笑して、楓さんが帯を示す。
「これなんていいと思うの」
「遥花、どうだ?」
 ここで何も答えないのは、選んでくれた楓さんに悪い。
「……姐さんが選んでくれたものがいい」
 私がようやく口を利いたからか、兄はほっと顔を綻ばせて笑う。
「そうか。よかった」
 兄は優しく頷いて告げる。
「他の帯は操に管理させるからな。思い出したら出させるといい」
「他の帯?」
「この部屋の帯は全部遥花のものよ。龍二が買ってあるの」
 一本数十万は下らないはずだ。なんて無駄遣いと、私は顔をしかめる。
「どうしてそんなことするの」
「遥花に怖い思いをさせた詫びだ。もちろん遥花の成人式には別のもっといい品を用意させる」
 絶句した私に屈みこんで、兄は困ったように首を傾ける。
「だから兄を許してくれないか。遥花に口も利いてもらえないと、兄はどうしていいかわからない」
 私は頷いて、口の端を下げるしかなかった。
「それから遥花をさらった男の身元はわかった。もう来ないはずだ」
 兄の言葉に、私は血の気が引くような思いがした。
「もう来ないって……まさか」
 ひどいことをしたのではないかと私は青ざめる。
「大丈夫よ、遥花。それなりの金品を渡して遠ざけたっていうだけ」
 楓さんが横から言葉を挟むので、私は曖昧に頷く。
 楓さんはおどけて私の頭をなでながら言う。
「かわいい男の子はだめだけど、女の子ならあたしが用意してあげる。遥花の周りをきれいにするわ」
「よして、姐さん」
「あら、どうして?」
 私は俯いてぼそりと言う。
「かわいい子がいっぱいいたら、にいさまが浮気するかもしれない」
「あら、ふふ」
 楓さんは兄と顔を見合わせてくすくすと笑う。
「誤解だ、遥花。兄はそんなことはしない」
 兄も甘やかすように私の頭を撫でて笑っていた。
 二人が去った後、私は部屋を抜け出して離れに置いてある電話の元に向かった。
 人がいないのを見計らって、大急ぎでレオの言った番号に電話をかける。
『Hello?』
「レオ、逃げてくださいっ」
 私はレオの声を耳で聞き取った途端、早口でまくしたてる。
「あなたの素性が兄に知れました。もうそこに留まっていてはいけません!」
 楓さんは遠ざけただけと言っていた。
「兄は必ずあなたに報復します。お願い、逃げて……!」
 けれどそれを本当と信じるほど、私は子どもでも兄の怖さを知らないわけでもない。
『あはっ』
 必死で告げた私に、レオは楽しそうに笑い返した。
『ついにハルカから電話がもらえた。嬉しいや』
「そんな呑気なことを言ってないで……」
『僕の素性、本当にわかったの?』
 レオは電話口で悪戯っぽく笑う。
『わかったなら報復なんてできないはずなのにね。まあいいや』
 私が首を傾げると、レオはそれが見えているように続ける。
『ねえハルカ。僕は考えてみたんだ。君が僕にとって何なのか』
 レオは神妙に言葉を重ねる。
『けど、まだわからない。だから決めた。もう一度君に会いに行く』
「いけません!」
『ハルカは僕のこと好きって言った。それは嘘なの?』
 慌てた私に、レオは無邪気な子どものように問う。
「嘘では、なくて」
『僕も君のこと好きだよ。好き同士が会って悪いことなんかないよね?』
 レオは声を弾ませて言った。
『じゃあまたね。楽しみにしてるよ』
 一方的に電話が切れる。
 私は嵐が通り過ぎたような気分がして立ち竦む。
 けれどおそらく、本物の嵐はこれから来るのだろうと思った。
 兄と楓さんの祝言が一週間後に迫った頃、都内のホテルでパーティが開かれた。
 兄が暴力団の長であることは公然の秘密だが、一応彼は多くの傘下を抱える企業の会長という表の地位も持っている。
 その兄と同じく大企業の社長令嬢である楓さんの結婚は当然のように注目を浴びていて、百人ほどの客が訪れた。
「お嬢様はいつ見ても優雅で、大和撫子そのものでございますね」
「いえ、わたくしはまだ子どもで。いつか奥様のような気品を身につけられたらと思っております」
「あらあら。お嬢様ったら」
 財閥の会長夫妻や俳優、海外の貴族など様々な人が招待されていた。
 物心ついた頃から兄に連れられて上流階級の人たちの相手をすることを覚えたから、今更気疲れすることはない。
 けれどドレスの衣擦れやシャンデリアの眩しさに溢れた馴染んだ空間で、ふっと意識が宙に浮くのを感じる。
 レオの腰にしがみついて、排気ガスにまみれながらバイクで疾走した感覚がふいに蘇る。
 たった半日で、他愛ない話しかしなかった。それなのにあの日の一瞬ごとが夜空に浮かぶ星のように胸の中で瞬く。
「はるか?」
 自分で帰ると決めたはずなのに、一目だけでもレオに会いたいと思ってしまう。
「遥花、顔色が悪い」
 はっとして顔を上げると、兄が心配そうに私を見下ろしていた。
「……なんでもありません」
「無理をするな。今朝もあまり食べていなかったじゃないか」
 兄は招待客に向けていた完璧な微笑を消して、首を横に振る。
「具合が悪いのにこんなところに連れてきた兄が悪かった。誰か、車を……」
「龍二」
 家の者を呼ぼうとした兄を、急ぎ足で近付いてきた楓さんが呼びとめる。
 その声が強張っていたのを兄も気づいたらしい。
「どうした」
 あでやかな真紅のドレスに身を包んだ楓さんは、心なしか青ざめて見えた。
 ……その後ろに、タキシード姿の銀髪の少年が立っていた。
「ご招待ありがとうございます」
 貴族の子弟のように優雅に一礼したのは、まぎれもなくレオだった。
 きらめく碧の目で、レオは私を見て微笑む。私は時を忘れて彼を見返した。
 言葉を挟んだのは兄だった。一歩進み出てレオに問う。
「私の思い違いでなければ、初めてお会いするように思う。どちらからいらっしゃったのだろうか?」
 兄は楓さんと違って顔色を変えなかったが、守るように私を後ろに隠しながら言った。
『カルナコフ家三男、レオニード・カルナコフです。こちらは従兄弟のアレクセイ』
 レオの後ろに影のように立っていた青年も、軽く会釈する。
 兄は顎を引いて、何かに思い当ったように目を上げたようだった。
『今まではあまりお付き合いがありませんでしたが、父はこの期に懇意にさせて頂きたいと言っておりました』
『お父上の噂は伺っている。各国に優秀な一族をお持ちだ』
『ありがとうございます』
 私はレオから目が逸らせなかったけれど、兄の言葉の真意は感じ取れた。
 レオの家も裏の家業を持っているらしい。兄たちと同業者、しかも相当な規模を持つのだと察せられた。
 そして兄はそのファミリーともめることができない。たぶん招待客のリストには載っていなかったはずのレオを追い返す様子もない。
『美しい妹さんですね』
 目を細めてレオが告げると、兄は表面上穏やかに返した。
『私にとっても自慢の妹だ。が、今は少し気分が優れないようだ。失礼する』
『それはいけない』
 レオは掠め取るように私の手を取って引く。
『気分を変えるといいですよ。私と踊りましょう、お嬢さん』
 会場内にかかるピアノの音に合わせて、レオは私を躍らせ始めた。
 ダンスならたしなみとして覚えてはいるけれど、私は心臓が高鳴ってつまずきそうになる。
「びっくりした? ハルカ」
 ふいに耳に口を寄せるようにして、レオは悪戯っぽくささやいた。
「びっくりなんてものでは……ありません」
「ね、僕に会えて嬉しい?」
 顔を離して、レオは花のように笑う。
「……はい」
「嬉しいよ。二人ともそうって、幸せなことだよね」
 他に踊っている人などいないから注目を浴びる。けれどレオは周りなどちっとも気にする様子がない。
 呼吸でもするように軽やかに踊りながらレオは言う。
「実家の名前もたまには役に立つなぁ。まあ、アレクを連れて行くっていう条件はつけられたけど」
「大丈夫なのですか? その……」
「それは誰の心配?」
 レオは首を傾けて言う。
「僕のことだったら、何にも心配要らないよ。僕は昔から好きなように過ごしてきて、それの邪魔をする奴は片っ端から片付けてきたもん。父さんだってもう諦めてるし」
 呆れる私に、彼は悪意を感じられない口調で告げた。
「なんとなく日本の音大に籍を置いたままにしてただけで、そろそろ帰国するつもりだったんだ。でも思いがけず面白い子をみつけた。君だよ」
 レオは笑いながら目は真剣に言う。
「ハルカ。君は僕の特別な子かもしれない」
 私は思わず目を瞬かせる。
「女の子だけど、君とは手もつなげる。キスもできる。それなら、僕らは結婚だってできるんじゃない?」
 突拍子もないことを言われて、私は一瞬息もできなかった。
「あなたは、私のことが面白いと……それでまさか、結婚?」
「うん、そう」
 こくんと頷いて、レオは私を澄んだ碧の目でみつめる。
「そうしたらもっと面白くなるんじゃないかなって」
 楽しい提案をするように言って、レオは私をくるりと回転させる。
「ハルカも面白いと思わない?」
 再び向き合ったレオは、繊細な水晶細工を思わせる顔立ちを際立たせるような、汚れのない微笑を浮かべていた。
 自分が結婚するなど考えたこともない。
 兄が私に家を出ることを許すとは思えなかったから、無意識に考えることを避けていたのかもしれない。
「レオ。いくらなんでも目立ちすぎです。追い出されますよ」
 足音も立てずにレオの従兄弟の青年が近付いてきて、小声で声をかける。
 レオは不機嫌そうに振り向いたけど、ふと私の顔を眺めて言う。
「ハルカ、本当に気分悪いの?」
 何気なくレオは呟いて、辺りを見回す。
「僕だけ楽しくても駄目じゃない。お水持って来てあげる」
 踵を返したレオの背中を、私は惜しむようにみつめた。
 その一瞬の時間を奪うようにして、兄の声が降って来る。
「車を回した。今日はもう帰るんだ、遥花」
 兄は私の肩を掴んでほとんど歩き出そうとしながら促す。
 ……帰りたくない。
 首を横に振ってそう告げようとした私を、兄が眉をひそめて見下ろした時だった。
 視界の隅に鈍く光るものが映った。
 尖った先端が、シャンデリアの光を反射しながら私の胸に向かって突き進む。
 一瞬の内に兄が動いた。
 私を横に突き飛ばして、その前に兄が立ちふさがる。
 ザクッという、嫌な音が耳の奥に響く。
「会長!」
 すぐさま家の者たちが集まって来て兄から男を引きはがし、取り押さえる。
 私は床に手をついたまま、何が起こったのかもわからず呆然とする。
 兄が脇腹から血を流していた。
「にいさま!」
 ……兄が刺されたのだと認識した途端、私は飛び起きて兄に駆け寄る。
「遥花……遥花に怪我は?」
 家の者たちに取り囲まれながら、兄は問いかける。
「私はここよ! どこも怪我してない」
 兄の押さえた手から血が溢れるのが見える。
 兄は私に目を細めてうなずいてみせた。
「そうか。ならいい」
 震えながら隣に膝をついた私の頭を、兄は血に濡れていない方の手でそっと撫でた。
「大丈夫だ、遥花」
 安心させるようにゆっくりと告げて、兄は顔を上げる。
「騒ぐな。大した傷じゃない」
 低い声で制止してから、兄は家の者たちに指示を出し始める。
「誰も外に出すな。共犯者がいないか洗い出せ。ただし客人たちには丁重にな」
 楓さんがやって来て兄の耳元で言う。
「医者の手配と口止めはしたわ。後は私が」
「わかった。お前に任せる」
 多くを語らなくとも意思を察し合える信頼が二人の間にはあった。
 応急処置を終えると、兄は家の者に支えられながらも自分の足で歩いて別室に向かう。
 私は自分にできることはないかと考えてみたけれど、混乱した頭ではまとまらなかった。
 自分のふがいなさに唇を噛んで立ち尽くした私に、場違いなほど明るい声が降りかかる。
『ハルカ。いいこと教えてあげよっか』
 顔を上げるとレオだった。彼は突然の凶事に慌てる客人たちの中でも、そんなことなど関係ないとばかりに涼やかな顔をしていた。
『あれは君を狙ったんじゃなく、最初から君の兄さんを刺すつもりだったね』
 つと私は眉をひそめる。
『もっと言うと、殺すつもりはなかった。そうだよね、アレク?』
 レオが視線を横に向けると、いつ来たのか彼の従兄弟がそこに立っていた。
『やり口がずさんですし、殺意が全く感じられませんでした』
『うん、全然やる気がなかったよね』
『何を言って……』
『本当だよ。SP経験があって軍にもいたアレクが言うんだから』
 レオはくすっと笑って首を傾げる。
『事前に襲撃者を買収しておいて、わざと刺されたんじゃないかな。たとえば敵方の親玉をはめる目的か……それとか』
 思いついたように、レオは指を立てる。
『君を自分の元に留めるため。あはっ、だったらずいぶん姑息な方法を取るよね』
 心臓に火が点いたように、私の体がかっと熱くなる。
「……ふざけないで!」
 ぱんっと、音を立ててレオの頬を平手でたたく。
「よくもにいさまを侮辱したわね。何がいいことよ。姑息な真似をしてるのはあなたでしょう?」
 何が起きたかわからないといったように、レオはきょとんと私をみつめる。
「にいさまはね、ただの厄介者だった私のところに、唯一お見舞いに来てくれた人なのよ!」
 私はほんの数回父に情をかけられた愛人である母から生まれた。母が亡くなって仕方なく本家に引き取られたけれど、父だってほとんど私のことは無視していた。
――俺は遥花のにいさまだよ。俺のことを頼っていいんだ。
 兄は病気で寝ている私の所に毎日お見舞いに来て、励ましてくれた。
 父や長兄、他のどんなものからも庇って守ってくれた。
「愛してるのよ……!」
 兄からの愛情も、私が兄を愛していることにも、疑いを感じたことなど一度もない。
 私の頬につたうものを、レオは硬直しながらみつめていた。
 踵を返して、足早にその場を去る。人前だというのに、私は涙が止まらなかった。
 兄の怪我は幸いにも脇腹を掠めただけだったらしく、二週間もすれば完治すると聞いて胸を撫で下ろした。
 元々鍛え上げられた若い体だ。医師も傷の治り具合に舌を巻いていた。
「遥花と一緒に過ごせるなら怪我をするのもいいな」
 さすがに三日間は家で休んでいた兄だったが、側についている私に笑い返すくらいの余裕があった。
「にいさま、私にできることはないかしら」
 楓さんは兄に代わって昼夜を問わず仕事をこなしている。重要な案件は兄に指示を仰ぐようだが、立派に姐としての役目を果たしている。
「そうだな。兄の代わりに、うちの系列で最近リニューアルした店に行って来てくれるか」
 顔を上げた私に、兄は優しく微笑む。
「遥花の好きなイタリアンだ。遥花はここのところ少し食欲がないだろう? 気分が変わっていいかもしれない」
 結局私のための提案なのだとわかって、私は兄に申し訳なくなる。
「遥花が元気なことが兄には一番の薬なんだ。それにまた怖い思いをさせてしまったからな。くつろいでくるといい」
 パーティの日、涙の跡を消せないままに兄の元に戻った私を、彼は自分の傷のことさえ忘れたように心配してくれた。
 兄がそう言うならと、私はその夜イタリアンレストランに出かけることにした。
 郊外の閑静な住宅街の中にある洒落た洋館は完全予約制で、私が行ったら当然のように貸し切ってあった。
 静かな夜を過ごせるように兄が配慮してくれたのか、一緒にテーブルにつくのは操さん一人で、家の者たちも外に出ていた。
 操さんと言葉を交わしながら、私はゆっくりとしたペースで出される料理を口に運ぶ。
 会話の邪魔にならない程度にバイオリンの生演奏が響いていた。しっとりとした、ロマンチックな音色だった。
 バイオリンで奏でられる民謡やクラシックは美しいなと、私はぼんやりと思う。
「いかがでしたでしょうか、お嬢様」
「大変結構でした。ありがとうございます」
 食べ終わるとシェフが出て来たので、私は礼を述べる。
 料理もおいしかったが、静かにかかるバイオリンの音が心地よかった。兄の怪我で波立っていた心をほっと楽にしてくれた。
「失礼」
 食後のカプチーノを飲み終えたところで、私はお手洗いに立つ。
 廊下を渡って席に戻る途中のことだった。
「……あなたは」
 ベランダから降りてきた金髪の青年は、私の姿をみとめるなり会釈した。
「確か、アレクセイさん? レオの従兄弟の」
「記憶に留めておいて頂いてありがとうございます」
 流暢な日本語で告げて、青年は深く頭を下げる。
「先日は主人が失礼をいたしました。心よりおわび申し上げます」
「あなたが謝ることはありませんよ」
 私が苦い笑みを刻むと、彼はそっと私にカードを差し出す。
「これは主人からです」
 二つ折りになったそれを開くと、そこには拙い日本語で文章がつづられていた。

『ハルカへ
 この間はごめんなさい。ハルカを傷つけるつもりじゃありませんでした。
 僕には泣くほど大切な人も、怒るほど愛している人もいないので、わかりませんでした。
 でもハルカに悪いことをしたということはわかります。ごめんなさい。
 ハルカの好きなものが何か知らないので、僕の好きなものをあげます。
 ハルカが喜んでくれると嬉しいです。 レオニード』

 
 私はメッセージカードに目を通してふと気付く。
「もしかしてこのバイオリン……レオが弾いているのですか?」
 レオのおわびとはこの店に入ってからずっと奏でられている静かな音楽ではないだろうか。
「はい」
 アレクセイさんは頷く。それに、私は心の奥が熱くなる。
「レオはあなたに会って変わったと思います」
 信じられない思いで黙ってしまった私に、アレクセイさんは感慨深げに呟く。
「彼が「僕だけ楽しくても駄目だ」と言うのを聞いて耳を疑いました。昔から、自分が楽しければそれでいいという人だったのに。あなたと会ってから、あなたと一緒に楽しみたいと言うようになりました」
 私は遊園地に行った日のことを思い返す。
――ハルカもやろうよ。
 レオは自分勝手に過ごしているように見えながら、必ず私を振り返った。ジェットコースターもゲームも一緒に楽しんだし、ホットドッグもぬいぐるみも私に買ってくれた。
「時間がありませんので私はこれで失礼します」
「あ、あの」
 何か言おうとした私に、アレクセイさんは穏やかに告げる。
「あなたがまた会いたいと思えば、レオは必ず会いに来ますよ。一緒に楽しめる機会を彼は逃したりしません」
 ではまた、とささやくように言って、アレクセイさんはベランダから夜の闇に消える。
 私は夢の中にいるような心地で、静かに奏でられるバイオリンの音に耳を傾けていた。